二夜庵跡~奥州街道(4-203) [奥州街道日記]
TS393460夕暮れの」一関宿
TS393461この先が武家住宅のようだ
TS393465松尾芭蕉「二夜庵跡」
夕暮れの一関宿の写真には案内標識が写っている。
「旧沼田家武家住宅」は左方向だと示している。
中街通りも左にある。
一関わが街ガイドに「旧沼田家武家住宅」の説明があったので抜粋する。
『江戸時代後期に一関藩家老職を勤めた沼田家の住宅です。
創建は18世紀の初頭から中頃と推定され、約三百年の歴史を有していて、付近を流れる磐井川のたび重なる水害にも倒壊することなく今日に至りました。
一関市教育委員会文化振興課
休館日 毎週月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日)、年末年始
公開時間
9:00~16:00(4月~10月)
10:00~15:00(11月~3月)
入館料 無料
住所 一関市田村町2-18
交通 JR一ノ関駅より徒歩5分 』
(「旧沼田家武家住宅」より)
http://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/6,4321,111,77,html
沼田家は、一関城主田村氏の家老だった。
『沼田家は一関藩家老を勤めた家柄です。
城主である田村家の陣屋に程近く、外堀内部に配置されている事から「内家中」と呼ばれ、一般の足軽や商人達と区別されていました。
外掘にあたる磐井川は度々叛乱し、特に昭和21・22年に襲ったカザリン・アイオン台風は城下町の風情が残る町並みを一掃し、一関が近代的な町になるある意味で起点となりました。
その中で、旧沼田家住宅は幕末に建てられた当時の原型を留めていて、当時の一関藩上級武士の生活を知る上で貴重な存在となっています。
一関藩は三万石と言われていますが実石では二万三千石程度だったと言われ、財政面では常に逼迫した状態にあり、家老職を務めた住宅であっても破風付な玄関など華美な装飾がなく極めて質素な形態を取っています。
又、間取り的には同じ岩手県で伊達領の要害が置かれた金ケ崎の武家屋敷で見られるような座敷が道路側でなく奥に配置されているのが特徴的です。
道路側に座敷を配置するといのは、藩主(城主)が道路を通った時逸早く出る事が出来る事や、外部の侵入者に対して有利とも言われていますが、逆に土間や玄関が手前にある事は利便性に長け実用的だったとも考えられます。
一関藩では学力に力を入れ、多くの学者を輩出していますので、より合理的に考える藩風があったのかも知れません。』
「一関市・観光・歴史・名所 」より)
http://www.iwatabi.net/morioka/itinoseki/buke.html
武家住宅への路地をのぞいてみるだけに留め、私は街道を先へ進むことにする。
もう日が暮れかけているから、今夜のテント宿泊地を探さねばならない。
街道に古風であるが新しい木造住宅があった。
家の前に墨絵を書いた石の板が置いてある。
普通の住宅ではないなと感じたので、10mほど後戻ってみると、そこには「漂白の詩人 松尾芭蕉「二夜庵跡」」と書いてあった。
ここに芭蕉が宿泊したのである。
TS393461この先が武家住宅のようだ
TS393465松尾芭蕉「二夜庵跡」
夕暮れの一関宿の写真には案内標識が写っている。
「旧沼田家武家住宅」は左方向だと示している。
中街通りも左にある。
一関わが街ガイドに「旧沼田家武家住宅」の説明があったので抜粋する。
『江戸時代後期に一関藩家老職を勤めた沼田家の住宅です。
創建は18世紀の初頭から中頃と推定され、約三百年の歴史を有していて、付近を流れる磐井川のたび重なる水害にも倒壊することなく今日に至りました。
一関市教育委員会文化振興課
休館日 毎週月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日)、年末年始
公開時間
9:00~16:00(4月~10月)
10:00~15:00(11月~3月)
入館料 無料
住所 一関市田村町2-18
交通 JR一ノ関駅より徒歩5分 』
(「旧沼田家武家住宅」より)
http://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/6,4321,111,77,html
沼田家は、一関城主田村氏の家老だった。
『沼田家は一関藩家老を勤めた家柄です。
城主である田村家の陣屋に程近く、外堀内部に配置されている事から「内家中」と呼ばれ、一般の足軽や商人達と区別されていました。
外掘にあたる磐井川は度々叛乱し、特に昭和21・22年に襲ったカザリン・アイオン台風は城下町の風情が残る町並みを一掃し、一関が近代的な町になるある意味で起点となりました。
その中で、旧沼田家住宅は幕末に建てられた当時の原型を留めていて、当時の一関藩上級武士の生活を知る上で貴重な存在となっています。
一関藩は三万石と言われていますが実石では二万三千石程度だったと言われ、財政面では常に逼迫した状態にあり、家老職を務めた住宅であっても破風付な玄関など華美な装飾がなく極めて質素な形態を取っています。
又、間取り的には同じ岩手県で伊達領の要害が置かれた金ケ崎の武家屋敷で見られるような座敷が道路側でなく奥に配置されているのが特徴的です。
道路側に座敷を配置するといのは、藩主(城主)が道路を通った時逸早く出る事が出来る事や、外部の侵入者に対して有利とも言われていますが、逆に土間や玄関が手前にある事は利便性に長け実用的だったとも考えられます。
一関藩では学力に力を入れ、多くの学者を輩出していますので、より合理的に考える藩風があったのかも知れません。』
「一関市・観光・歴史・名所 」より)
http://www.iwatabi.net/morioka/itinoseki/buke.html
武家住宅への路地をのぞいてみるだけに留め、私は街道を先へ進むことにする。
もう日が暮れかけているから、今夜のテント宿泊地を探さねばならない。
街道に古風であるが新しい木造住宅があった。
家の前に墨絵を書いた石の板が置いてある。
普通の住宅ではないなと感じたので、10mほど後戻ってみると、そこには「漂白の詩人 松尾芭蕉「二夜庵跡」」と書いてあった。
ここに芭蕉が宿泊したのである。
2010-08-18 19:57
nice!(0)
コメント(0)
トラックバック(0)
コメント 0