奥州街道日記 ブログトップ
前の10件 | 次の10件

第二有壁の様子~奥州街道(4-203) [奥州街道日記]

TS393433.jpgTS393433 遠くに市街地が見えてきた
TS393434.jpgTS393434 左手丘の上にお寺の門
TS393435.jpgTS393435 古道から旧道へ

鬼死骸村の鬼は「オカツの大武丸」だった

この地のアイヌ族首領「大武丸」の死骸をここに埋めたということで、「鬼の死骸村」と名づけたのだ。
街道を歩きながら推測していた通りだった。
大武丸は、「だいぶまる」と読むのだろうか。

大和族は死者におくった名だから、「武威が大変大きかったアイヌの首領」という意味だろう。
「おおたけまる」と読むこともできる。

大武丸の上に鬼石を載せたときに飛び散った死骸の一部を、鬼石やあばら石などと名づけたようだ。
他にも飛び散ったものが沢山あって地名や石の名になった。

どれほど大きな石を大武丸に抱かせたのか。

大武丸には人首丸(ひとかべまる)という子がいた。
人首丸はなぜか奥州市江刺区に追われて討たれたという。

血統を残そうと部下たちが嫡男を抱えて逃げたのかも知れない。
逃げ切れずに殺されたのであろう。

「人首村と称し、現在も人首の地名が残っている」というから、そこが子供が亡くなった場所かも知れない。

人首丸を「ひとかべまる」と読むことにふと思いついた。
「ひとかべ」が「人首」ならば、「ありかべ」は「有首」だったのではないか!?

「有首(ありかべ)」という峠名は、さすがに暗い森の中では嫌だったのではないだろうか。
だからおなじ音の「有壁」を当てたのだろう。

第二有壁(首)があるなら、他に第一有壁(首)があってもよさそうである。
ガイドブックにはその名はない。
有壁宿のなぞの一つである。

有壁宿そのものを第一有壁と呼ぶのであれば、第一有首となり、首領である大武丸の首が有壁宿の寺に埋めてある可能性がある。

すると第二有首とは、その子の首になるだろう。

そうではなしに、第二有壁に「大武丸」自身の首を埋めた可能性もあるだろう。
本陣の傍にかつての酋長の首が座っていては、名主、国人も落ち着いて眠れないはずだ。

大和族は怨霊の祟りを恐れるからである。

いずれにせよ、「ありかべ」がアイヌ族と大和族を隔てる峠だったことは間違いない。

どうしてもその第二有壁のことを知りたくてネットで調べてみた。
街道歩きの方のブログがあった。( )部は筆者の挿入コメントである。

『13時27分、有壁宿本陣跡を通る。
金成から3時間15分、11770歩, 9.2km。

有壁本陣前から山の中へ入っていく。(私の場合はここからが問題だった。)

ここの旧道は前半戦の一つのヤマ場と思っていた。(やはりね)

旧道の様子が良く分からず、歩く人が少ないようで情報が少ないのだ。(そうそう、道路標識もあまりない。)

二人で「さて、行くぞ!」と気合を入れて進んでいく。(二人連れなら心強いですね)
山の中に入って二ヶ所分かれ道があり、そのいずれも左側を進めばいいと聞いていたので注意をしながら進む。
(なるほど、いずれも左へ行くのか、私は2つ目を右へ行ってしまった。)

肘曲がり坂のところで早くも道が二手に分かれている。

三好さんは昨年栗原での街道会議に出席された際、ここを歩かれたそうだが、もう一つ記憶が定かではないという。
(へー、街道会議というものがあるのですか)

そのため昨日お会いした渡部さんに電話を入れて確認していただく。

私の電話はバッテリーが残り少なくなってきており、電池切れの心配があるのでこれ以降ホテルまで使わないことにした。
(電池は困ります。それで私はsharpのソーラー携帯に変えたのですが、効果はなし)

結局これまで歩いてきた砂利道は明治の旧道で、左に上っていく道は江戸時代の道。
いずれにしても少し先で合流しているということが分かったので、江戸時代の道を歩くことにする。
(やはり二つ目を左なんですね)

途中でもう一ヶ所T字路があったがここも左折して進むと一旦開けた場所に出た。

三好さんが参加された昨年の会議では、ここから左折して国道のほうへ出たということだったが、前を見ると直進する道が見えるので、これを進んでみることにする。
(国道とは私が止む無く歩いていった国道4号線のことですね)

松の葉が落ち積もった道は下がゆるい。
ここを雨の日に歩くとかなりぬかるんだ道になるだろうなと思った。
(長い年月の間に枯葉が重なって、腐葉土が深いのでしょう)

実は今日の予報は雨だったのだが、幸いここまでは降らずに来ることができたのだ。
やがて14時頃になってポツポツと雨が落ちてきたが、降りはあまり強くなく歩く上で支障にはならなかった。

この間、道はきれいに整備されており歩く上で何ら支障はなかった。
もっともこの時期だから下草がなくて歩きやすかったのか、いつでもこの状況なのかはわからなかった。

いずれにしても前半戦の大きなヤマ場と思った場所は意外に簡単に歩き終えることができた。
(そうなんですか)

やがて道は下り始め坂上田村麻呂が、この地で鬼を退治し死骸を埋めたということからついた地名という鬼死骸に出た。』
(「宮野~沢辺~金成~有壁~一関」より抜粋、( )部は筆者挿入文)
http://www.jinriki.info/blog/kacchan/141.html

意外と楽に峠を越えた様子が見える。
おそらく山の尾根のようなところを通って緩やかに北上していったのだろう。

私が歩いたルートは、彼らが歩いた江戸時代の古道から見れば、右手に大きく旋回しながら、南の有壁宿へと戻ったことになる。

この記事のおかげで、なんとかまだ見ぬ第二有壁の雰囲気を知ることができた。

さあ、これからはまたリアルな奥州街道歩きである。
雨は完全にあがった。

新幹線の高架橋に沿って旧道を歩いていると、遠くに市街地が見えてきた。
あれが一関市の町並みなのだろう。

街道の左手やや上の丘にお寺らしき山門が見える。

街道歩き4日目の足では坂道は登れない。
登れないことはないのだが、そういう無理をすると残りの数日間を歩き続けることができなくなる。

少し先に「大慈山祥雲寺」の駐車場がある。
先ほどの寺の名前だろう。

鬼は「オカツの大武丸」だった~奥州街道(4-202) [奥州街道日記]

TS393430.jpgTS393430 街道に墓?
TS393429.jpgTS393429 野の花
TS393432.jpg「豊吉の墓」(市指定文化財)

あと5キロメートルで一関宿である。

途中で雨が降って来た。
新幹線の架橋下で雨宿りをする。

4日目の昼過ぎの足をいたわり30分ほどゆっくり休んだ。
やがて雨がやんだ。

15時15分に高架橋下を出発する。

街道左手の土手に墓らしきものがある。
「豊吉の墓」(市指定文化財)と書いた白い標識柱が立っている。

鬼死骸伝説とともに豊吉の墓を紹介した記事がある。
地元の方が書いたものだろう。

『当地には鬼の死骸に関する伝説があります

安永風土記(江戸時代の記録。抜粋)

鬼死骸村
一 村名に付き由来 往古吾勝郷と申唱候処田村将軍夷賊御退治賊主大武丸死骸此所に相埋候以来村名に罷成候由申伝候事

※現代語簡訳 昔は吾勝郷(あかつごう)という所でしたが、田村将軍が蝦夷(えぞ)退治にお出でになった折り、退治した「大武丸」という首領の死骸をここに埋めたので、それ以来、村名となったと伝えられている

鬼死骸村には、鬼にまつわる名所等が残されています

所在については鬼死骸八幡神社及び鹿島神社の交通案内図を参照して下さい

鬼石
田村将軍が大武丸の一党をここに追い詰めて成敗した時に、その死骸を埋めた上に置いたと伝えられる巨石

左手上方に鹿島神社の赤い鳥居の柱が見えています

土手と電線はJR東北本線

所在は、鹿島神社手前の的場踏切の真南、田の中

石の窪みは、田村将軍の乗馬の蹄の痕とも、鉄棒の痕ともいう

すぐ近くには、まだ数個の大石が転がっている

鬼石を載せたときに飛び散った死骸の一部とも、死んだ鬼の化したものともいう。

周辺には同様の石が多かったと伝わるが、名石の鬼石とあばら石の二つを残して多くは石材として利用されてしまったという


あばら石
ここには4つの大石があり、兜石(かぶといし。男・女の2つ)、肋岩(あばらいし)、背骨石といわれている

近年まで名称看板があったが、朽ちて草むらに沈んでいます

所在は、鬼石から約150m県道を国道4号方向に南下し、東南方向の枝道に入り約80mの路傍


鬼石井
死骸に載せるために鬼石を取ったときに、そこから湧いたという清水。干魃の時でも水が絶えず、希代の冷水といわれた。
的場(まとば。地名)清水ともいう

現代では利用されることも少なく荒れてしまっているのが残念です

すぐそばには、明治9年と同14年の奥羽御巡幸の際にこの場所で御小休みされたことを示す『明治天皇小次遺跡』碑が建立されています

所在は、前掲的場踏切を渡り北上約50m。『明治天皇小次遺跡』碑が目印

鬼石井(的場清水)のすぐ下流は、近年の道路改良工事で道路下に埋没してしまいました

これを惜しみ南側隣家では井戸を整備しました。写真奥の屋根の掛かっているのが的場清水の水脈の井戸です

写真手前の池の噴水は、同様に名水と伝わる金魚清水を引いてきたものです

鬼牙石
鹿島神社に奉納されていたが、中世末期に城主小岩伊賀守が所持、城主没落後は子孫絶え、大正5年に三上氏(鬼死骸八幡神社別当)が引き受ける

通称「天狗の爪」ともいう

鬼手
鬼の手が跳んで落ちた所。手骸(てがら)が何時しか手柄となったという。宮城県片馬合手柄沢

鬼首
鬼の首が跳んで落ちた所に温泉が湧いたという。宮城県鳴子町の鬼首(おにこうべ)温泉

人首
大武丸の子の人首丸(ひとかべまる)は奥州市江刺区に追われて討たれた。この地は人首村と称し、現在も人首の地名が残っている

豊吉の墓
以上が古代の鬼とすれば、こちらは近世の鬼かもしれません
蘭医学が興隆し始めた頃、東北地方で最初の腑分け(ふわけ。人体解剖)が行われました
罪人として処刑された豊吉の死骸が提供され、その後ここに埋葬されました

墓のそばの看板には一関市指定有形文化財であることと、その意義について解説されています
墓のすぐ前は国道でたくさんの車が通過しています

所在は、国道342号から鬼死骸八幡神社に至る別れ道の交差点正面』(「鬼死骸伝説」より抜粋)
http://www.nishi-iwai.org/ubusuna/n/onishigai.htm

墓の前に案内板がある。
「とよきちのはか」と読む。

『天明5年(1785)11月13日、一関の医師16名が、処刑された豊吉の死体を貰い受け解剖しました。
医師たちはこれにより長年抱いてきた疑問を解読することができたので、豊吉を丁重に葬り、この墓を建てました。

元々は旧一関藩橋田原刑場跡にあったものです。

古くから、解剖は死者を冒涜(ぼうとく)すること、許されないことと考えられていました。
しかし、江戸時代の中頃になると、宝暦4年(1754)京都で日本初の官許を得た人体解剖が実施され、寛永3年(1774)杉田玄白らがオランダの医学書を翻訳し「解体新書」を出版するなど、漢方医学とオランダ医学の両方から実証を重視しようという精神が芽生え、各地で解剖が行われるようになりました。

豊吉の解剖は、このような中でも東北地方としては早い時期に行われたものです。

この頃一関では、二代建部清庵や大槻玄沢など、オランダ医学を研究する人が出ています。
彼らの影響は甚大であったと思われます。

一関博物館で関連事項を紹介しています。

平成13年3月   一関市教育委員会』(案内板より抜粋)

鬼死骸村の昔の地名は、吾勝郷(あかつごう)だと書いてある。
アイヌ語の「アカツ」とはどう意味だろうか。

北海道常呂郡置戸町の地名について、こういう記事がある。

『命名の由来置戸町の町名から引用した「オケトウンナイ」はアイヌ語では、鹿の皮を乾かすところの意味である』
(「HAPPY-FARM LINK」より)
http://www.happy-farm.gr.jp/link/linkvp.html

「鹿の皮を乾かすところ」というアイヌ語の「オケトウンナイ」が「置戸(おきと)町」になっているから、吾勝(郷)という旧地名も「アカツ」という音(おん)に似たアイヌ語に由来するはずだ。

「古代の山北地方地名について」という資料に「アカツ」の語源らしきアイヌ語が登場していた。

『地形と地名を関連させた一説を紹介したい。
それは、駒形村郷土誌という筆書きの古い一書に載っていることである。

万葉集に
「なせの子や、とりの乎加恥志なかたおれ(実際は耳へんに止と書いて「ち」と読ませている)、
あをねしなくよ息つくまでに」

という歌がある。
この場合の乎加恥(オカチ)というのは岡の道という意味である。

だから雄勝(乎加知)村は東鳥海山麓の岡道、即ち今の湯沢市相川の付近であろうという説である。
なお更に、北秋田郡比内の庄に雄勝田村(現在は鷹巣町小ヶ田)があり、また仙北郡の雄勝田(現角館町小勝田)も共に山村で高所にあるとも述べている。

ところで、菅江真澄は東鳥海山のことについて
「この山にしずまり給ふ御神は恐くも雄勝の尊にて、吾勝(アカツ)の尊は陸奥国を守護、雄勝の尊は出羽国を守らせ給ふこと古き駒形の神の縁起に見えたり」
と書いている。

駒形の神とは今の栗駒山のことであるが、
「駒形の縁起は古来陸奥風土記の抜書きせしものの残りならんといへり。」
とも真澄はいっているので、もしほんとうに陸奥風土記の一部だとすればこの縁起はすい分ふるいことになる。

吾勝の尊という神は、古事記の上では正勝吾勝勝速日天忍穂耳命で、宮城県栗駒町の駒形神社や岩手県一関市市野々の吾勝神社の祭神である。
そして、この辺を昔は吾勝郷とも呼んでいたという。

一方、雄勝の尊については、東鳥海山の神社が今も雄勝の宮と称されてはいるけれども、どんな素性の神なのかはよくわからないのが残念である。』(「古代の山北地方地名について」より)
http://www.geocities.jp/pppppppihyghhg/Web-Ani/akita-chimei/nenpoxx/nenpo03/871823.pdf

群馬県に両毛線の駒形駅がある。
前橋駅から東南へ6kmほど行ったところである。

「吾勝(アカツ)の尊」という神が、岩手県一関市市野々の吾勝神社の祭神であることがわかる。
古代の人々はその周辺を「吾勝(アカツ)郷」と呼んでいたという。

おそらく「吾勝(アカツ)の尊」とは「岡の道」(アイヌ語では「オカツ」)を支配していたアイヌの酋長のことだろう。

「岡の道」つまり「オカツ」とは、第二有壁の峠なのである。

古代のアイヌと大和を分ける「白河の関」のような峠だったのであろう。

南からこの「オカツ」を越えてやってきた大和族は、峠の北の村を鬼死骸村と名づけ、その北にある宿場を「一関」(いちのせき)と名づけた。

大和族から見て「最初の関」なのである。

鬼死骸村に埋葬されたアイヌの酋長は「大武丸」であった。

「武力が強く体の大きい快男子」というオクリナなのだろう。
これも大和族のつけた名である。
本名がアイヌ語であったはずだが、それは伝わっていないだろう。

大和族は怨霊信仰に染まっている。
死者の霊が怨念を抱いて再び自分を襲ってこないように、立派な名前を贈るのである。

死者はその立派さに喜び鎮まると信じているからだ。

家族皆殺しなどという非業の死を遂げたものほど、立派な名前を贈るのである。

神々の住んでいた「八幡」~奥州街道(4-201) [奥州街道日記]

TS393425.jpgTS393425ホテル「芭蕉」の看板
TS393426.jpgTS393426東北新幹線の高架に沿う
TS393427.jpgTS393427岩手県交通「八幡」バス停

ホテル「芭蕉」の看板を通過したころ、ポツポツと雨粒が散発的に落ちてきた。
東北新幹線の高架に沿って旧街道を歩く。

岩手県交通「八幡」バス停を通過する。
「はちまん」と読むのか「やはた」と読むのかわからない。

福島県福島市鎌田下釜」の先には「廣幡八幡神社」があったが、ここは「ひろはたやはた」と読むはずだ。

新日鉄の製鉄所の昔の拠点は、八幡系が北九州の「八幡(やはた)製鉄所」で、富士系が姫路市の「広畑製鉄所」であった。

『古来たたら製鉄が栄えた西播磨の地を仰ぎ、大洋へ、世界へと誘う瀬戸内播磨灘を望み、1939年以来、鉄をつくり続けてきた広畑製鉄所。』(新日鉄のホームページより抜粋)

この流れから行けばバス停は「やはた」と読むべきだが、八幡神社傍だとすれば「はちまん」と読むはずだ。

拙著ブログ「廣幡八幡神社~奥州街道(3-280)」には、神功皇后の傭兵として胡勒(トルコ系)武士を紹介した。
http://blogs.yahoo.co.jp/realhear2000/59266544.html

『「八幡は対馬から」という以下の記事に、「神功皇后に従った胡勒武装の神々」が登場している。

胡勒(ころく)とは、「胡(えびす)」は「外国人」で、「勒(ろく)」は既に述べたように馬具である。

胡がトルコ人であれば、ひょっとして馬は「鉄勒」を頭に嵌めていたのではないだろうか。

トルコ系騎馬民族を味方につけ、神功皇后が船団を率いて百済救出へ向かう様子が見えるようである。』

北九州から出発した船にトルコ系騎馬民族集団が乗っていたのである。
これは、神功皇后の時代にトルコ系騎馬民族が北九州付近に住んでいたことを物語っている。

『廣旗八幡神社境内に、古代から生き続けてきた若いシュロたちがいた。

神功皇后の三韓征伐に同行したという胡勒(ころく)の神々が文字通り胡(=外国)の勒(=くつわなどの皮製の馬具)を装備したトルコ系騎馬民族であったならば、ゾロアスター教かマニ教の信者であったはずだ。

奥羽へやってきた胡は製鉄技術を有していたから、胡勒(ころく)の神々が使用した馬具は鉄勒(てつろく)だったかも知れない。

中国では鉄勒(てつろく)とは「テュルク(トルコ)」の音(おん)への当て字で、トルコ系騎馬民族を指す。後の匈奴である。

いずれも後のユダヤ教と関連がある宗教である。
シュロで神を祝う習慣を持っていたのかも知れない。

現代の「わ」人の末裔たちは、なぜここにシュロの木が植えられているか知らないのだろう。
木が若いことが普段切り取られていることを物語っている。

いつの時代からか、モーセの教えを秘匿する必要がこの国で生じたのであろう。

枝を切られた一本の若いシュロの木に向けて、一筋の光が射していた。
これが「光を好む神が慶ぶ」というシーンなのだろうか。』
(拙著「神の光~奥州街道(3-282)」より抜粋)
http://blogs.yahoo.co.jp/realhear2000/59272533.html

アテルイは胡勒武装の神々の末裔では~奥州街道(4-200) [奥州街道日記]

TS393422.jpgTS393422まだ緩やかに上っている
TS393423.jpgTS393423再び古道に入りる
TS393424.jpgTS393424旧奥州街道に戻る

「鬼死骸村」について考えている。
私を寄せ付けなかった第二有壁を北へ越えたところにある。
ここは金成村の中か隣である。
おそらく行政範囲があいまいだった奈良時代、騎馬で移動するアイヌ族にとっては金成一帯の北端になるだろう。

鬼死骸村の北に一関宿がある。
あと5km先である。

一関村は大きな生活圏だっただろう。

南から大和族の征夷大将軍が「蝦夷(えみし)を征伐」に北上してくる。
この付近の険しい地形からみて、敵の大和族は第二有壁を越えてくるに違いない。
アイヌの酋長は兵隊を率いて鬼死骸村を軍事拠点として峠で迎え撃つことにしたのであろう。

峠を破られ、北へ後退してこの「鬼死骸村」で果てたのである。

地名は大和族によって変えられた。
元の名はアイヌの美しい名前だったはずだ。

森や岩や川などのアイヌ語が並ぶ美しい名であっただろう。

退治した蝦夷の族長の首を取った大和族のリーダーが「鬼死骸」を見てから名づけたものだろう。
敵に恐れられるほど、この地のアイヌ族の戦闘能力は高かったのである。

私はこの村で撃ち取られた酋長がアザマロやアテルイではないかと思っている。

大和族によって植民地化されても、この地方の騎馬戦術が消えたわけではない。
奥州に脈々と受け継がれてきた戦術は、一関の先にある平泉の藤原氏の軍事力を支えたはずである。

京都から逃れてきた少年源義経は、アイヌ族直伝の騎馬戦術を身に付けたのだ。

『この騎馬戦術は昔から大和族を散々懲らしめたものである。
義経殿もこれを習得して、平家を打倒しお父上の無念を晴らすがいい。」

十歳代の青年義経は、この鬼死骸村まで遠乗りしてきたはずだ。

世界史の中で集団騎馬戦を戦争で用いたのは義経が最古である。
おそらく坂上田村麻呂が散々苦しめられたアテルイの戦術もそうだっただろう。

人数に圧倒的に勝る大和族が、あわてて後退させられることなどが記録に載っているが、徒歩と騎馬の力の違いがあったのだろう。

しかし、征伐したあとに敵の戦術をほめることなど大和族の歴史書には残せない。
人々の記憶が薄れるとともに忘れさられていったことだろう。

しかし平泉で育った義経が世界史に残る戦記を残してくれたことにより、義経を軍事指導したのがこの地のアイヌ人の末裔であることが証明された。

奥州街道第3幕の記事「タワラトーダ~奥州街道(3-275)」のところで俵藤太は製鉄技術を持って帰化してきたトルコ系騎馬民族だったのではないかという仮説を述べた。
http://blogs.yahoo.co.jp/realhear2000/59257848.html

福島学院大学のテニスコートを抜け、鎌田下釜の交差点に至ったときに、その地名から「鉄の製造場所」を連想したからだ。
地名は「福島県福島市鎌田下釜」で、JR東北本線東福島駅の東700mの地点だった。

その近くの川岸で私は休憩したが、八反田という地名や川の名も、製鉄所にゆかりがあるものだった。

たたら製鉄で名高い島根県松江市や南津軽に同じ地名がある。
松江市では江戸時代に八反田川で砂鉄事業者と農民が水源汚染について衝突している。

俵藤太や金売り吉次が伝説のような炭焼きではなく、薪を燃やしてたたらを吹いて鉄を作る技術を持つ渡来人であるという私自身が立てた仮説である。

ならば騎馬戦術が得意だったということも納得がいく。
ユーラシア大陸で戦いながら日本列島までやってきたのだから、強いはずだ。

「神功皇后に従った胡勒武装の神々」という表現があるそうだが、「胡勒武装の神々」とは「胡勒=トルコ人の武装をした渡来人」という意味である。

朝鮮海峡を渡った神功皇后の傭兵であろう。

北九州と朝鮮半島の間をうろうろしているうちに、騎馬民族ゆえに農耕民族の大和族よりも一足早く奥州まで到達したのではないか。

奥州にたどり着いてみると、なんと実りの多い国なのかと気づき、馬から下りて定住することになったのであろう。

奈良、京都で大和族がひと息ついている間に、奥州に行った元傭兵の胡勒武装の神々が大変強い財力と軍事力を持ち始めていることに気づいた。
最初に気づいた人は恒武天皇である。

負け戦続きでぐずぐずしている征夷大将軍を叱責し、坂上田村麻呂(この人も坂の上に住んでいた帰化人)に命じた。

神代の時代のことは再びあとで触れる。

奥州仕込みの「義経の騎馬戦術」のことは既に書いた。
拙著ブログ記事「義経の集団騎馬戦~奥州街道(3-283) 」より抜粋する。
http://blogs.yahoo.co.jp/realhear2000/59272736.html

『写真の鵯越駅は、兵庫県神戸市兵庫区里山町にある。
神戸電鉄有馬線の駅で、標高134mである。

源義経が世界で初めて集団騎馬戦を行った地域にある。

義経の騎馬戦術の秀逸さから考えて、平泉の藤原氏がトルコ系騎馬民族の末裔ではないかと推理した。
そのことについて、ここで詳しく紹介したい。

騎馬砲兵を本格的に導入したのはフリードリヒ大王が最初であると云われる。
しかし、それは1730年代のことである。

一方、義経が集団騎馬戦を実践したのは、寿永3年(1184年)のことであり、これが世界で初めて集団騎馬戦術を戦闘に用いた始まりである。

平安末期にあって、その戦術がどれほどセンセーショナルに京都で喧伝されただろうか。

『2月7日、一ノ谷の戦いで義経は精兵70騎を率いて、鵯越の峻険な崖から逆落としをしかけて平氏本陣を奇襲する。
平氏軍は大混乱に陥り、鎌倉軍の大勝となった。

上洛の際、名前も知られていなかった義経は、義仲追討・一ノ谷の戦いの活躍によって歴史上の表舞台に登場する事となる。』(源義経(Wikipedia)より)

奥羽では佐藤兄弟と当たり前にやっていた複数騎馬による奇襲合戦が、大和国では驚くべき出来事であった。
トルコ系騎馬民族の末裔たちの面目躍如といった感がある。

義経の軍事戦術の特徴を詳しく解説した記事を抜粋する。

『この奇襲攻撃を最大限有効に使えば寡兵をもって大軍を打ち破る事も可能であり、これこそが近代騎兵最高の戦術とされました。

ところが騎兵戦術の難しさは奇襲であるというところにつきます。
敵の裏をかいて密かに騎兵部隊を正面の敵陣から大きく迂回させて進めたり、戦場でもっとも敵が弱点とするポイントを見抜いて騎兵襲撃をかけるには、そこに天才戦術家を必要とします。

それほどの天才戦術家は世の中にゴロゴロいるわけではなく、ものの本によると騎兵戦法で成功を収めたのは、モンゴルのジンギスカン、プロシャのフリードリッヒ大王、フランスの皇帝ナポレオン、ドイツの参謀総長モルトケしかいないとも言われるほどです。

義経は騎兵戦術を編み出しただけで天才戦術家と呼ばれるのに十分であり、その騎兵部隊で歴史的な勝利をもたらした用兵で、さらにその上に「卓越した」がつけられるといえます。

しかしこの戦術は義経なきあと速やかに滅び、忘れ去られ、わずかに信長が桶狭間で類似の事をやったぐらいに留まります。
それほど騎兵戦術とは天才性を必要とするものなのです。
中略。

一分の隙も無いと思われた平家の大戦略でしたが、これを打ち破る糸のような細い活路を義経は見出します。
おそらくこれが見えたのは義経ただひとりでしょうし、他の人間では思いつきもしないでしょうし、説明をされても理解できない戦術であったと思われます。

源氏の主力は範頼に率いられて京都から大阪に下り、海岸線沿いに平家陣地の真正面から正攻法で挑みます。
義経は大胆にもこれを巨大な囮と見なして、少数の騎兵集団を率い、京都から丹波を抜け、途中三草山の平家陣地を奇襲で抜き、後は隠密裏に六甲山の裏側に進みます。

義経の進撃路と伝えられる山道は現在でもかなりけわしいところが多く、伝承があるにしろこんなところを通ったとは信じがたい箇所も少なくありませんが、源氏の主力軍が正攻法で力攻めしている真っ最中に平家陣地の裏手になる鵯越(ひよどりごえ)に現れた事は間違いない事実です。

義経軍が駆け下ったと伝えられる鵯越も実は諸説があり、実際の現場は特定されていないのですが、幾つかある候補地はすべて急峻な崖であり、守る平家側にしてもまさかこんなところを鎧武者が攻めてくるとは予想すらしていなかったのは間違いありません。

まさに騎兵戦術の要諦である奇襲を教科書にしたような攻撃です。
鵯越を駆け下りて一の谷に攻め込んだ人数も諸説ありますが、義経の進撃コースを考えると100人は超えないと考えます。

おそらく50人以下、ある説によると20人程度であるともありますが、おそらくそれぐらいではないかと考えます。

たった数十人が大軍の平家陣地に流れ込んでも大勢に影響はなさそうなものですが、この辺は戦場心理が微妙に働いたと考えます。
平家にすれば南、西、北は敵襲のないところと信じきっていました。また唯一の攻め口の東側には源氏の主力が朝から攻撃を続けており、平家にすれば後方に予備として控えさせていた軍勢も東側の防戦に動員していたと考えます。

手薄になりきったところに源氏側の騎兵襲撃が行なわれます。
意表をつかれて狼狽した鵯越方面の平家勢はすぐさま「応援頼む」の伝令を出します。
この伝令の内容が、「源氏武者少数の来襲」→「源氏武者の来襲」→「源氏の大軍が攻め込んできた」に伝言ゲームのように広がり、一挙に浮き足立ち壊走したことは史実の通りです。

まさに磐石と思われた平家陣地の唯一の弱点をピンポイントのように絶妙のタイミングで叩いた義経の天才性がもっとも如実に現れた一戦となりました。』(抜粋終わり)
(「天才武将義経」より)
http://www.kcc.zaq.ne.jp/kids_clinic/Cafe/yoshitune/yoshitune01.html

その義経が幼い頃に、京都から奥州平泉へと連れ出したものがいる。

平清盛の命令で密かに鞍馬寺に出家していた源家の御曹司牛若丸の存在を突き止め、かつその将来利用価値を見抜いた商人がいたのである。

『奥州と京都を往復する商人ですから、半端な事では出来ません。

金売りと言うからには奥州の砂金を売りに来たのでしょうが、道中は山賊や盗賊が跳梁跋扈しているだけではなく、土地土地の有力者たちもいつ刃を向けてくるかわかりません。それから身を守るために自衛軍を率い、有力者に渡りをつけ、何度も往復するには相当の人物でないと出来るはずはありません。

その吉次から見て義経は相当の価値があると見込まれたようです。
また吉次なら秀衡の事も良く知っているはずですから、連れて行けば喜ぶはずだと判断したはずです。この辺は義経の幸福であったと考えますし、この時代が義経をどうしても必要としたからだとも言えます。

藤原秀衡
動かなかった北の覇王。
一説によれば彼の存在が頼朝を鎌倉に縛りつけたとも言われる。
奥州藤原氏の力は強大です。
武力は十八万騎と畏怖され、富は奥州の優駿と豊富に取れた砂金をバックに華麗な北の都平泉を築き上げています。
相次ぐ戦乱でその遺跡のほとんどは焼失していますが、わずかに残る毛越寺の庭園や中尊寺の金色堂にその栄華は十分に偲べます。』(同上より抜粋)

「また吉次なら秀衡の事も良く知っているはずですから」と書いていたが、このブログを読んでいる方にはおわかりであろう。

金売り吉次の父が俵藤太であり、それが藤原秀郷その人だった。
中尊寺金色堂も藤太や吉次が作った金(gold)で作ったのである。

金装飾加工が上手な中近東の騎馬民族はスキタイ人であったことを思い出す。

騎馬軍団十八万騎を抱え、金装飾に囲まれていた俵藤太(=藤原秀郷)は、どうみても立派な騎馬民族の酋長である。』(拙著ブログから抜粋)

誇るべき「鬼死骸村」の名前~奥州街道(4-199) [奥州街道日記]

TS393417.jpgTS393417左へ一関への旧街道
TS393420.jpgTS393420イチジクの実
TS393421.jpgTS393421一関平泉線(県道260号線)「一関市鬼死骸」

国道4号線から左へそれると、旧奥州街道である。
交通標識によれば、それは「一関平泉線(県道260号線)」であり、「一関市鬼死骸」「一関まで5km」と読める。

あと1時間少々で一関宿へ着けると思うと少しほっとする。
有壁の山中で散々迷ったあとなので、喜びも一塩である。

「鬼死骸村」というのは第二有壁を越したこの辺りをいうのであった。

ひどい名前だ。
しかし、地元の人は誇りを持っていい名前だ。

この国を2000年にわたって支配し続けている大和族が付けた名前だからだ。
もともとはアイヌ語のちゃんとした地名があったはずだ。

侵略して植民地化に成功したあとに、入植してきた大和族が新しく村の名前をつけたのである。

大和族から見て「鬼のように怖い」アイヌ族の酋長が住んでいた村なのである。

なかなか征服できずに、てこずったということが名前に現れている。

つまり、この地域の人々は、かつて大和族と対等に戦い、幾度か大和族を打ち負かしたこともある「勇気あるアイヌ族の末裔」なのである。

関東以西の倭人は、あっけなくおそらく朝鮮半島から移住してきた大和族にやすやすと征服されてしまった。

倭人というのはそういう民族だったのだ。
戦いを好まず話し合いで何事も解決する性格なのである。

この国の支配権が移動するに際して、出雲の神は話し合いによって「国譲り」を行った。
ただで国をアマテラスにあげたのである。
その代わりといっちゃあなんだが、年に一度だけ一ヶ月間八百万の神々を出雲へ里帰りさせて欲しいと願い出て認められた。

大和方から見れば全部の神々が出雲へ里帰りするから、その月は「神無月(かんなづき)」と呼ぶ。
一方の出雲方では、その月を「神在月(かみありづき)」と呼ぶ。

あと5kmで一関宿である。

入市被爆人体実験の疑い2例 [奥州街道日記]

8月9日は長崎の原爆慰霊祭だった。
広島の三菱重工が三日前に原爆(当時は新型爆弾と言った)にやられたのだから、軍部や財閥は長崎の三菱重工が次に狙われていることを予感していたはずだ。

長崎が被爆する前で、かつ広島被爆後に長崎から脱出した要人をリストアップしてみれば事前に危険を察知できていた人物が浮かびあがるだろう。

広島では原爆投下の前夜、急遽ある将校が広島から岩国へ移動している。
当然翌日彼は被爆を免れている。

その将校とは真珠湾攻撃における空襲部隊の総指揮官、淵田美津雄である。
日本の英雄中の英雄である。

日本の宣戦布告の通達遅延というお粗末な出来事により真珠湾攻撃は宣戦布告前に行われるはめに陥っていた。
これによりアメリカの世論は一斉に戦争突入で固まったのである。

その意味において、アメリカに戦勝をもたらした英雄の一人でもある。
宣戦布告の遅延はアメリカ情報部の作戦がちだった。
日本ははめられたのである。
その英雄は広島原爆の前日に広島を離れている。

『昭和20年(1945年)8月5日、会議で訪れていた広島を離れ、広島市への原子爆弾投下から間一髪で逃れた。
広島が核攻撃された翌日には海軍調査団として入市、残留放射能により二次被爆するが奇跡的に放射線障害の症状は出なかったという。
終戦時は海軍大佐。

敗戦後は第二復員省(元・海軍省)史実調査部、GHQ歴史科嘱託として戦中資料の整理研究を行った。
淵田の南雲忠一、山本五十六への評価は辛辣である。

昭和24年(1949年)、キリスト教に入信し,日本基督教団堺教会で受洗。

1953年12月に『真珠湾からゴルゴダへ、わたしはこうしてキリスト者になった』を出版し、「祖国日本の救われんためにわれら何をなすべきか? 汝、イエス・キリストを信ぜよ!」と訴える。

以降昭和41年(1966年)に引退するまで日米各地で伝道活動に従事した。
戦後8年目に米国に渡り、滞米10か月、旅程4マイル、200回の伝道講演。
アメリカでは「真珠湾攻撃の英雄」として迎えられることが多かったという。昭和42年(1967年)、郷里に隠棲。』

戦後にアメリカで「真珠湾攻撃の英雄」になった人物は広島から間一髪逃れている。
入市被爆はしていたようだ。

広島被爆から長崎被爆までの間に、長崎市を脱出した要人をリストアップしてもらいたいと思っている。

彼等の肩書を並べてみれば「何か」がわかるはずだ。
いずれもアメリカにとって大事な人物たちである可能性が高いだろう。

終戦前から陸軍情報部は、降伏後にアメリカに渡す目的で被爆直後の被爆者の診察データを整理し報告書を作成していたという。
昨日8月10日ののNHK総合の番組(長崎ヒバクシャに関するもの)をみてそれを知り、私は大変驚いた。
降伏受諾をする前のことである。
戦争中にすでに保身のためにヒバクシャの体を利用しているのである。

被爆者の苦痛ことなどまったく眼中にない人間の姿である。

番組で、 90歳代と思われる老いたの証言者(元将校)は、「石井731部隊のことなどもあったから」と述べていた。

石井731部隊のことは以前述べた。
中国大陸(満州国)で生きた中国人を大量に使って毒ガス殺人実験をした薬学研究部隊である。

彼等は戦争中なのに、降伏後にアメリカに渡すための原爆被害調査資料を作っていたのだ。
「石井731部隊のことなどもあったから」と言う証言はそのことを指している。
大量毒殺実験による銃殺刑は明らかであった。
それから逃げるためにアメリカが喜ぶ資料を戦争中にもかかわらずせっせと作っている。

中国では健康な中国人の体と命を利用した。
今度は苦しむ被爆者の体を使う。

重要なプレゼントがなければ石井731部隊の幹部は人道に反する行為により銃殺刑になることは確実である。

NHKのナレーターは「毒殺や被爆者データをアメリカに渡したのは国益に叶うから」と言ったが、冗談じゃあない、
正気の発言ではない。
現代でさえNHKが権威に阿(おもね)る姿勢を見せるのはいただけない。

アメリカはヒバクシャデータを入手して国益が潤ったのは事実だ。

しかし、なくなった中国人や広島・長崎のヒバクシャたちのためにはなんら役立てていない。
日本人もヒバクシャ調査データを何も利用できていない。

ただ石井731部隊の面々の命が救われ、戦後の薬剤製造ビジネスで彼らが資産を築けただけである。

アメリカは国益だが、日本は私的利益に貢献しただけである。
本来国益を論ずるならば、中国人毒殺データやヒバクシャ調査データは世界中の人々に公開し、利益は遺族や被害者に配布されるべきである。

特攻隊の若者たちに向けて熱く語った日本人将校たちの正義の言葉は、一体自分自身に向けては封印したのか。

人間がこうもいぎたなくなれるのか?

或はそれは日本人だけに備わる悪魔の性質なのか?

毒ガスデータは国際法違反だから、当然日本の財産にはできない。
ならば世界に公開すべきだった。

それでは戦争裁判の主導者アメリカの心証がよくならない。こっそりアメリカだけに無料で提供し、銃殺刑を免れている。しかも生き延びて厚生省や薬メーカーの重役に収まっている。いまは子供や孫たちが立派な家に住み、石井731部隊の利権を承継しているはずだ。

日本人の銃殺刑受刑者を救命し、私服を肥やすために資料は売られたのである。

「日米双方の国益に叶う」などという世迷言を公共放送を使って言うとは、世の中が少しおかしい方向に動きつつあるのではないか。

エイズ事件を起こし、それをひた隠し、そしてアメリカの薬剤メーカーをかばい、被害者は無視する。

あれはエイズ問題だけに関する体質ではない。
戦後の薬事行政全体に染み付いたものだ。

苦しむ被爆者に対して人体実験をし、そのデータをアメリカに渡した。
被爆者自身も他の日本人もそのデータの存在すら半世紀にわたって知らなかった。
被爆者にデータの利用目的も教えずに、無断で体にアドレナリンを注射し、その反応を観察したという。

これは、人間のすることではない。

「原爆投下後に兵士にアドレナリンを打てば、被爆していても奮い立って戦うか?」とい質問への回答になったのである。
被爆者は興奮状態には戻らなかった。

アドレナリンで高ぶらないということは、交感神経に異常をきたしているということだ。
人間の内臓は交感神経と副交換神経のバランスで安定を保っている。

アドレナリンに反応をしないということは、内蔵がいたるところで不調を起こしていることの証明になる。

現在の日本の薬事行政と薬剤メーカが石井731部隊の生き残りによって支配されてきたということを考えておくべきだ。
敗戦によって少しも変更をされていない領域なのである。

だから抗がん剤の治験には国民は用心すべきだ。

アメリカ開発の新薬を患者にうち、効くか効かないかを試してアメリカに報告する習慣が、今も持続している可能性があるからだ。

薬剤システムは戦後一度も反省したり修正されたりしていないのである。

苦しむ被爆者にアドレナリンを注射することも平気な連中であった。

今はその利権を継いでいる子や孫たちがやっているが、基本的思想張なんら変更されていない。
変更するきっかけも綺麗に消滅させてしまっている。

中国人が毒ガスでのたうちまわろうが、がん患者が抗がん剤でのたうちまわろうが、アメリカへの報告にこそ貨幣価値があると過去の成功体験に従って考えるはずだ。
アメリカ人は合理的な考え方だから、効果がある限り彼らを利用するだろう。

石井731部隊は、その意味でまだ現在も生きている。

原爆投下後に広島や長崎に入って残留放射能を浴びた人を入市被爆者と言う。
私は事後被爆者と言っていた。

番組の中では山口医専の若い研究者も原爆投下直後に広島に入いり入市被爆者になっていたことを紹介していた。

原爆の直撃を受けた被爆者に関する新聞記事をその医学生は山口に帰ってから読み、自分の体にも彼らと同じ出血斑が出てきたことなど、自分が放射能被爆を受けていることに気付く。当時の放射線医学の大家である都築教授が、山口の入市被爆した医学生を訪ねてきて、これから日記を書くように指示している。
なぜ都築教授は医学生の入市被爆の事実を知ったのかは番組の説明からは不明であった。

その医学生は日本語で毎日の自分の症状を記録し、まとまったものを都築教授に渡している。

そしてそれは英訳されてアメリカに渡されていたのだった。

アメリカ公文書が50年を経過して、極秘資料も公開されたことで入市被爆医学生の日記の存在がはじめて日本人にわかった。
都築教授以外の日本人にわかったというべきか。

NHKの番組では、高齢になっているが今も生存しているその元医学生を訪ねている。
そして英訳された日記を元医学生に見せた。

すでに病気を患っていてベッドに寝たきりの元医学生は、老眼鏡を額に掛けて寝たまま英訳日記を懐かしくみていた。
しかし、彼自身も日記が英訳されてアメリカに渡っていたことは知らなかった。

若き医学生は、「入市被爆の人体実験」のために被爆地広島に送り込まれた疑いさえ残る。
番組ではそこまで疑いを見せていなかった。

石井731部隊の戦中、戦後の思考方法を援用すれば、十分考えられることである。

戦争中でさえ広島被爆者の被害状況をアメリカに渡す目的で作成していた連中である。
その目的は戦犯訴追を逃れ自分が生き延びるためだ。
彼等は完璧なエゴイズムの固まりである。

日本人を使った人体実験を躊躇するような人たちではないから、入市被爆実験の疑いは色濃く残る。

入市被爆の詳細な医学データを採取するには、医学知識のある人間を入市被爆させるのがベストである。

米国の軍事研究者にとっては、原爆を使用した場合のソ連侵略などにおいては自国軍兵士の運用作戦などに大変重要なデータとなる。
当然、日本人の軍事医学研究者は彼らのニーズを十分容易に理解できる。

自国の兵士を原爆投下後に被爆地に投入したらどうなるか?
喉から手が出るほどアメリカの軍事医学研究者が欲しかったデータだ。

しかし医学生自身も、その他の日本人も、その英訳された日記の存在や活用方法を半世紀に渡って知らなかった。

一方で、石井731部隊は助命され、戦後に幸せな生活を堪能しているはずだ。
彼らが戦後どこにいて何をしていたのか、国は調査して国民に知らしめる義務がある。

彼らが活躍している現場は、国民にとってきわめて危険な世界である可能性があるからだ。

陸軍二等兵だった二十歳の私の父は、原爆投下の一週間後に広島に入市被爆していた。
今気づいたことだが、これも人体実験だった可能性が高い。

兵士たちは国民の救助は禁止されていた。
兵士の遺体収容だけが目的だったと父は言っていた。

だから水を欲しがる被爆者たちに何もできなかった自分を父は生涯責めつづけた。

兵士の遺体回収作業が原爆投下の一週間後というのはやはりおかしい。
真夏に一週間も放置すれば腐敗してしまう。
ウジムシだらけになる。

父がいたのは海田の海軍基地だ。
私は広島市に4年間住んでいたが、海田から広島市内までは車で一時間もかからない。
すぐに被爆した兵隊を救助に行けた場所に父はいたのである。

1週間も待機させた理由は何だったのか。
腐乱しきった遺体を、まるで廃棄物回収のようにスコップですくってトラックに泥まみれに積み上げて持ち帰ることに何の意味があるのだろうか。

兵士たちが上半身裸になって、汗まみれになって残留放射能を浴びながら1日中働くことに「意味」があったのではないか!

父は回天魚雷の特攻隊員の予備駒だった。
魚雷は海軍所属だが中身の人間は陸軍提供なのだ。

陸軍は農家の次男坊以下が多かったから、いくらでも補充できる。
これに対して海軍は資産家の出身が多かった。

人間が人間として扱われないのが戦争である。

75歳の父が執刀ミスで九州の国立がんセンターで死んだとき、執刀医が執拗に父の肝臓がんの臓器提供を願った。
肝臓の八割ががん化しており、こげ茶色に硬化していた。

母は内臓の医学研究に提供してもよいと医師に言わされたが、側にいた私(長男)が提供を拒絶した。

もうこれ以上父を痛め付けたくなかったからだ。

「葬儀屋に遺体を渡す前に処置がある。30分ほどしてから渡す。」といいながら、医師は悔しそうな顔で私たち遺族の前から消えた。
父の体を洗い、体の穴に綿でも詰めるのだろうとそのときは思った。

しかし一時間しても遺体が帰って来ない。

「おかしい」と感じた私は父の遺体がある病室のドアを開けた。

「あのう、処置はまだでしょうか?」

部屋には入口に白いカーテンが引かれ、部屋の中の三分の一ほどが見えた。

看護婦の白い服の背中の向こうに父の2本の毛脛と足だけが見えた。
そこで医師が何をしているかは私には見えない。

「入るんじゃあないっ!」

いきなり執刀医の鋭い怒鳴り声が私に飛びついて来た。

叱られるようなことをした覚えは、私の側にはない。

あるとすれば、執刀医の方に私を叱る理由があったはずだ。

徹夜して疲れていた私はそれ以上抗(あらが)う気力もなく、その場を離れた。

血管縫合ミスにより脳血栓を誘発し父を死なせた執刀医だったが、その元気過ぎる叱声だけが記憶に残った。

あのとき「何をしていやがるんだ!」と言って病室に踏み込めばよかった。

おそらく父の肝臓は遺族に無断で取り出されホルマリンに浸けてアメリカの軍事医学研究所に運ばれたのだろう。

石井731部隊の精神はいまもなお医学界に引き継がれているようだ。

自宅に帰った父の遺体の死装束を脱がしてそれを確かめるだけの勇気と気力は私には残っていなかった。
父の遺体を自宅の座敷で眺めつつ、浴衣の下の、胸骨のその下には丸めた大きな綿の固まりが入れてあるのだろうと想像した。

母も妹もこのことは知らない。
私だけが見た石井731部隊が現在に残した「陰影」である。

石井731部隊の生き残りは、多くは厚生省官僚や薬剤メーカーの重役になっていると言う。
今は彼等の子や孫が利権や資産を継いでいるはずだ。

薬害エイズ事件に彼等や子孫が多く絡んでいることは想像に難くない。
そんなことにはへっちゃらな人々である。

想像するにも恐ろしいことだが、父の手術ミスさえ意図的なものだった可能性があると思うようになった。

「私が血管縫合をミスしました」と堂々と言ってわるびれるでもなく、自信タップリに見せてくれた父の血管のX線写真は、縫合部が瓢箪のようにくびれていた。

手術前に父から電話で聞いていた執刀医は、父の友人の息子の外科医だということだった。

しかし父が脳死になってから、帰京して私が母に聞くと、執刀医は我々の別の知らない名前の医師だった。

父は知り合いの息子が外科医長だったから、てっきり彼が執刀するものと安心し切っていた。
私にも事前の電話で嬉しそうにそういっていた。

蓋を開けてみると、知らない医師が下手くそな血管縫合で殺していたことになる。

父自身は全身麻酔されていて医師が違うことは知らないままだ。

家族もてっきり父の友人の子の外科医がミスしたものと思っていたが、後手術ミスの説明を聞いた相手は別人だった。

素人の私でも、あれほどくびれた血管縫合はしないと思うほど細く血管を糸で絞っていたのだ。

執刀医は、40歳代後半にも見える働き盛りの外科医だった。
インターンのような未熟さはまったく感じられない外科医だった。

私の医師不振はますます高まっていくばかりである。

一関へ~奥州街道(4-198) [奥州街道日記]

TS393413.jpgTS393413峠(第二有壁)を越えた
TS393415.jpgTS393415右手後ろの山から国道へ下りてくる山道
TS393416.jpgTS393416一関への旧街道は左へ(県道260号線)

ようやく峠(第二有壁)を越えたようだ。
ここからは緩やかな下り坂になる。

私の右手後方の山から国道へと下りてくる山道がある。
ひょっとしたら私が第二有壁を越えてここへ出てくるはずだったのではないだろうか。

一関への旧街道は国道4号線から分かれて左へ逸れる。
県道260号線である。

昨夜の昼間に追い越していったお兄さんは昨日のうちに一関へ行くと言っていた。
夕暮れの中を第二有壁を越えたのだろうか。
それとも最初から国道4号線を歩いていったのだろうか。

人様のことながら、1日30KMもあるく人の安否が気になった。
私はせいぜい1日20KMか24KMである。

第二有壁の横~奥州街道(4-197) [奥州街道日記]

TS393410.jpgTS393410奥州一関の標識が出てきた
TS393411.jpgTS393411右手が第二有壁方面
TS393412.jpgTS393412市民バスグリーン観光「大沢田」バス停

国道4号線に「奥州一関」の標識が出てきた。
昼前から有壁宿の北側の山をうろうろと歩き、結局元に戻ってきた。
ようやく次の宿場を約束してくれる案内に出会った幸福感は歩いている私にしかわからないだろう。

国道の緩やかな坂を上っている。
自動車用に設計されているので、おかげで峠も緩やかに越えることができる。
歩道の両側に切り立った山が見える。
右手の鬱蒼とした森の中に「第二有壁」があるのだろう。

本来なら今頃岩壁をよじ登っていたはずなのだが、あきらめるしかない。

市民バスグリーン観光「大沢田」バス停を通過した。

あれが第二有壁の入口か~奥州街道(4-196) [奥州街道日記]

TS393407.jpgTS393407ようやく国道4号線に合流
TS393408.jpgTS393408稲田が尽きる前方の突当りが昼食休憩した場所
TS393409.jpgTS393409この道が双六分岐で左折したときの道

ようやく国道4号線に合流した。
車が沢山走っている。
人間が行き先を信じて行きかう場所に出会うと、現在でさえほっとする。
群れに戻ったという安心感がある。

歩道を歩いている人間は私ひとりだけではあるが、それでも進む方向をともにしているという安心感が湧く。

高架の国道を歩いていると、右手に稲田が見えてきた。
一度見たような光景であるが、この光景を先ほど反対側から眺めていたのだ。

稲田が尽きる前方の突当りが、先ほどみたらしダンゴを食べて昼食休憩した場所だった。

「山中の双六(すごろく)~奥州街道(4-194)」のところで「奥州街道 有壁方面」と書いた「赤い文字標識」のことを述べた。
そこを右へ曲がったために、私は双六(すごろく)ゲームのごとく「元の有壁宿」へと戻ってしまった。

あそこで左折していれば、この国道4号線にやってきたのである。

この車のわだちがついた小道が、先ほどの双六分岐で左折した場合の道である。

おそらくこの道の途中に「第二有壁」へと向かう旧街道が北へ分かれているのだろう。

歩道を歩く私の右手前方、下の写真で言えば左端の森影が第二有壁の始まりなのだろう。

確かに「有壁」の名前にふさわしい深い森である。
越えることが困難に思われるような山の壁が立ちはだかっていることだろう。

おそらく生涯二度と「第二有壁」を歩いて登ることはないだろう。
完全な自由を手にしたならば、ひょっとして第二有壁に挑戦するかもしれないが、そのときに私に壁を越えるだけの体力が残っているかどうかわからない。

元気なときでしか街道歩きに挑戦はできない。


TS393395マイクロウエーブの塔
TS393396林道は下り始める
TS393398どこかで見た光景??(古道の入口)

林道の坂を上っていくと、やがてマイクロウエーブの塔が立つ峠らしき場所へ着いた。
そこから右へ旋回しながら、林道は下り坂になっていく。

あまりに道路の旋回が大きいなと思いつつも、坂を下っていった。

しばらく降りてくると、右手に見たことのある光景が広がった。

国道へ~奥州街道(4-195) [奥州街道日記]

TS393404.jpgTS393404(金成?)市立萩野小学校
TS393405.jpgTS393405あの橋を左折すればJR有壁駅
TS393406.jpgTS393406高架橋が国道4号線

第二有壁へ行く途中で林道に迷い込み、再び有壁宿へと戻されてしまった。
体力的に再挑戦は無理と判断し、やむなく国道4号線へと向かっている。

萩野小学校前を通過して、有壁駅前に出る。

その先に見える高架橋が国道4号線である。
国道に合流すれば、間違いなく一関宿へ連れて行ってくれるはずだ。

旧街道ではこのように道に迷うことはよくある。
常に国道が自分のどちら側をどのくらいの距離に走っているかを認識している必要がある。

最後は国道の歩道を歩くことで街道歩きを次の宿場へと繋ぐことが可能となる。

旧道で道に迷って国道へ出る道もわからない場合は、そこで街道歩きは途絶えてしまうだろう。

前の10件 | 次の10件 奥州街道日記 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。