アテルイは胡勒武装の神々の末裔では~奥州街道(4-200) [奥州街道日記]

TS393422.jpgTS393422まだ緩やかに上っている
TS393423.jpgTS393423再び古道に入りる
TS393424.jpgTS393424旧奥州街道に戻る

「鬼死骸村」について考えている。
私を寄せ付けなかった第二有壁を北へ越えたところにある。
ここは金成村の中か隣である。
おそらく行政範囲があいまいだった奈良時代、騎馬で移動するアイヌ族にとっては金成一帯の北端になるだろう。

鬼死骸村の北に一関宿がある。
あと5km先である。

一関村は大きな生活圏だっただろう。

南から大和族の征夷大将軍が「蝦夷(えみし)を征伐」に北上してくる。
この付近の険しい地形からみて、敵の大和族は第二有壁を越えてくるに違いない。
アイヌの酋長は兵隊を率いて鬼死骸村を軍事拠点として峠で迎え撃つことにしたのであろう。

峠を破られ、北へ後退してこの「鬼死骸村」で果てたのである。

地名は大和族によって変えられた。
元の名はアイヌの美しい名前だったはずだ。

森や岩や川などのアイヌ語が並ぶ美しい名であっただろう。

退治した蝦夷の族長の首を取った大和族のリーダーが「鬼死骸」を見てから名づけたものだろう。
敵に恐れられるほど、この地のアイヌ族の戦闘能力は高かったのである。

私はこの村で撃ち取られた酋長がアザマロやアテルイではないかと思っている。

大和族によって植民地化されても、この地方の騎馬戦術が消えたわけではない。
奥州に脈々と受け継がれてきた戦術は、一関の先にある平泉の藤原氏の軍事力を支えたはずである。

京都から逃れてきた少年源義経は、アイヌ族直伝の騎馬戦術を身に付けたのだ。

『この騎馬戦術は昔から大和族を散々懲らしめたものである。
義経殿もこれを習得して、平家を打倒しお父上の無念を晴らすがいい。」

十歳代の青年義経は、この鬼死骸村まで遠乗りしてきたはずだ。

世界史の中で集団騎馬戦を戦争で用いたのは義経が最古である。
おそらく坂上田村麻呂が散々苦しめられたアテルイの戦術もそうだっただろう。

人数に圧倒的に勝る大和族が、あわてて後退させられることなどが記録に載っているが、徒歩と騎馬の力の違いがあったのだろう。

しかし、征伐したあとに敵の戦術をほめることなど大和族の歴史書には残せない。
人々の記憶が薄れるとともに忘れさられていったことだろう。

しかし平泉で育った義経が世界史に残る戦記を残してくれたことにより、義経を軍事指導したのがこの地のアイヌ人の末裔であることが証明された。

奥州街道第3幕の記事「タワラトーダ~奥州街道(3-275)」のところで俵藤太は製鉄技術を持って帰化してきたトルコ系騎馬民族だったのではないかという仮説を述べた。
http://blogs.yahoo.co.jp/realhear2000/59257848.html

福島学院大学のテニスコートを抜け、鎌田下釜の交差点に至ったときに、その地名から「鉄の製造場所」を連想したからだ。
地名は「福島県福島市鎌田下釜」で、JR東北本線東福島駅の東700mの地点だった。

その近くの川岸で私は休憩したが、八反田という地名や川の名も、製鉄所にゆかりがあるものだった。

たたら製鉄で名高い島根県松江市や南津軽に同じ地名がある。
松江市では江戸時代に八反田川で砂鉄事業者と農民が水源汚染について衝突している。

俵藤太や金売り吉次が伝説のような炭焼きではなく、薪を燃やしてたたらを吹いて鉄を作る技術を持つ渡来人であるという私自身が立てた仮説である。

ならば騎馬戦術が得意だったということも納得がいく。
ユーラシア大陸で戦いながら日本列島までやってきたのだから、強いはずだ。

「神功皇后に従った胡勒武装の神々」という表現があるそうだが、「胡勒武装の神々」とは「胡勒=トルコ人の武装をした渡来人」という意味である。

朝鮮海峡を渡った神功皇后の傭兵であろう。

北九州と朝鮮半島の間をうろうろしているうちに、騎馬民族ゆえに農耕民族の大和族よりも一足早く奥州まで到達したのではないか。

奥州にたどり着いてみると、なんと実りの多い国なのかと気づき、馬から下りて定住することになったのであろう。

奈良、京都で大和族がひと息ついている間に、奥州に行った元傭兵の胡勒武装の神々が大変強い財力と軍事力を持ち始めていることに気づいた。
最初に気づいた人は恒武天皇である。

負け戦続きでぐずぐずしている征夷大将軍を叱責し、坂上田村麻呂(この人も坂の上に住んでいた帰化人)に命じた。

神代の時代のことは再びあとで触れる。

奥州仕込みの「義経の騎馬戦術」のことは既に書いた。
拙著ブログ記事「義経の集団騎馬戦~奥州街道(3-283) 」より抜粋する。
http://blogs.yahoo.co.jp/realhear2000/59272736.html

『写真の鵯越駅は、兵庫県神戸市兵庫区里山町にある。
神戸電鉄有馬線の駅で、標高134mである。

源義経が世界で初めて集団騎馬戦を行った地域にある。

義経の騎馬戦術の秀逸さから考えて、平泉の藤原氏がトルコ系騎馬民族の末裔ではないかと推理した。
そのことについて、ここで詳しく紹介したい。

騎馬砲兵を本格的に導入したのはフリードリヒ大王が最初であると云われる。
しかし、それは1730年代のことである。

一方、義経が集団騎馬戦を実践したのは、寿永3年(1184年)のことであり、これが世界で初めて集団騎馬戦術を戦闘に用いた始まりである。

平安末期にあって、その戦術がどれほどセンセーショナルに京都で喧伝されただろうか。

『2月7日、一ノ谷の戦いで義経は精兵70騎を率いて、鵯越の峻険な崖から逆落としをしかけて平氏本陣を奇襲する。
平氏軍は大混乱に陥り、鎌倉軍の大勝となった。

上洛の際、名前も知られていなかった義経は、義仲追討・一ノ谷の戦いの活躍によって歴史上の表舞台に登場する事となる。』(源義経(Wikipedia)より)

奥羽では佐藤兄弟と当たり前にやっていた複数騎馬による奇襲合戦が、大和国では驚くべき出来事であった。
トルコ系騎馬民族の末裔たちの面目躍如といった感がある。

義経の軍事戦術の特徴を詳しく解説した記事を抜粋する。

『この奇襲攻撃を最大限有効に使えば寡兵をもって大軍を打ち破る事も可能であり、これこそが近代騎兵最高の戦術とされました。

ところが騎兵戦術の難しさは奇襲であるというところにつきます。
敵の裏をかいて密かに騎兵部隊を正面の敵陣から大きく迂回させて進めたり、戦場でもっとも敵が弱点とするポイントを見抜いて騎兵襲撃をかけるには、そこに天才戦術家を必要とします。

それほどの天才戦術家は世の中にゴロゴロいるわけではなく、ものの本によると騎兵戦法で成功を収めたのは、モンゴルのジンギスカン、プロシャのフリードリッヒ大王、フランスの皇帝ナポレオン、ドイツの参謀総長モルトケしかいないとも言われるほどです。

義経は騎兵戦術を編み出しただけで天才戦術家と呼ばれるのに十分であり、その騎兵部隊で歴史的な勝利をもたらした用兵で、さらにその上に「卓越した」がつけられるといえます。

しかしこの戦術は義経なきあと速やかに滅び、忘れ去られ、わずかに信長が桶狭間で類似の事をやったぐらいに留まります。
それほど騎兵戦術とは天才性を必要とするものなのです。
中略。

一分の隙も無いと思われた平家の大戦略でしたが、これを打ち破る糸のような細い活路を義経は見出します。
おそらくこれが見えたのは義経ただひとりでしょうし、他の人間では思いつきもしないでしょうし、説明をされても理解できない戦術であったと思われます。

源氏の主力は範頼に率いられて京都から大阪に下り、海岸線沿いに平家陣地の真正面から正攻法で挑みます。
義経は大胆にもこれを巨大な囮と見なして、少数の騎兵集団を率い、京都から丹波を抜け、途中三草山の平家陣地を奇襲で抜き、後は隠密裏に六甲山の裏側に進みます。

義経の進撃路と伝えられる山道は現在でもかなりけわしいところが多く、伝承があるにしろこんなところを通ったとは信じがたい箇所も少なくありませんが、源氏の主力軍が正攻法で力攻めしている真っ最中に平家陣地の裏手になる鵯越(ひよどりごえ)に現れた事は間違いない事実です。

義経軍が駆け下ったと伝えられる鵯越も実は諸説があり、実際の現場は特定されていないのですが、幾つかある候補地はすべて急峻な崖であり、守る平家側にしてもまさかこんなところを鎧武者が攻めてくるとは予想すらしていなかったのは間違いありません。

まさに騎兵戦術の要諦である奇襲を教科書にしたような攻撃です。
鵯越を駆け下りて一の谷に攻め込んだ人数も諸説ありますが、義経の進撃コースを考えると100人は超えないと考えます。

おそらく50人以下、ある説によると20人程度であるともありますが、おそらくそれぐらいではないかと考えます。

たった数十人が大軍の平家陣地に流れ込んでも大勢に影響はなさそうなものですが、この辺は戦場心理が微妙に働いたと考えます。
平家にすれば南、西、北は敵襲のないところと信じきっていました。また唯一の攻め口の東側には源氏の主力が朝から攻撃を続けており、平家にすれば後方に予備として控えさせていた軍勢も東側の防戦に動員していたと考えます。

手薄になりきったところに源氏側の騎兵襲撃が行なわれます。
意表をつかれて狼狽した鵯越方面の平家勢はすぐさま「応援頼む」の伝令を出します。
この伝令の内容が、「源氏武者少数の来襲」→「源氏武者の来襲」→「源氏の大軍が攻め込んできた」に伝言ゲームのように広がり、一挙に浮き足立ち壊走したことは史実の通りです。

まさに磐石と思われた平家陣地の唯一の弱点をピンポイントのように絶妙のタイミングで叩いた義経の天才性がもっとも如実に現れた一戦となりました。』(抜粋終わり)
(「天才武将義経」より)
http://www.kcc.zaq.ne.jp/kids_clinic/Cafe/yoshitune/yoshitune01.html

その義経が幼い頃に、京都から奥州平泉へと連れ出したものがいる。

平清盛の命令で密かに鞍馬寺に出家していた源家の御曹司牛若丸の存在を突き止め、かつその将来利用価値を見抜いた商人がいたのである。

『奥州と京都を往復する商人ですから、半端な事では出来ません。

金売りと言うからには奥州の砂金を売りに来たのでしょうが、道中は山賊や盗賊が跳梁跋扈しているだけではなく、土地土地の有力者たちもいつ刃を向けてくるかわかりません。それから身を守るために自衛軍を率い、有力者に渡りをつけ、何度も往復するには相当の人物でないと出来るはずはありません。

その吉次から見て義経は相当の価値があると見込まれたようです。
また吉次なら秀衡の事も良く知っているはずですから、連れて行けば喜ぶはずだと判断したはずです。この辺は義経の幸福であったと考えますし、この時代が義経をどうしても必要としたからだとも言えます。

藤原秀衡
動かなかった北の覇王。
一説によれば彼の存在が頼朝を鎌倉に縛りつけたとも言われる。
奥州藤原氏の力は強大です。
武力は十八万騎と畏怖され、富は奥州の優駿と豊富に取れた砂金をバックに華麗な北の都平泉を築き上げています。
相次ぐ戦乱でその遺跡のほとんどは焼失していますが、わずかに残る毛越寺の庭園や中尊寺の金色堂にその栄華は十分に偲べます。』(同上より抜粋)

「また吉次なら秀衡の事も良く知っているはずですから」と書いていたが、このブログを読んでいる方にはおわかりであろう。

金売り吉次の父が俵藤太であり、それが藤原秀郷その人だった。
中尊寺金色堂も藤太や吉次が作った金(gold)で作ったのである。

金装飾加工が上手な中近東の騎馬民族はスキタイ人であったことを思い出す。

騎馬軍団十八万騎を抱え、金装飾に囲まれていた俵藤太(=藤原秀郷)は、どうみても立派な騎馬民族の酋長である。』(拙著ブログから抜粋)
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