第二有壁の様子~奥州街道(4-203) [奥州街道日記]

TS393433.jpgTS393433 遠くに市街地が見えてきた
TS393434.jpgTS393434 左手丘の上にお寺の門
TS393435.jpgTS393435 古道から旧道へ

鬼死骸村の鬼は「オカツの大武丸」だった

この地のアイヌ族首領「大武丸」の死骸をここに埋めたということで、「鬼の死骸村」と名づけたのだ。
街道を歩きながら推測していた通りだった。
大武丸は、「だいぶまる」と読むのだろうか。

大和族は死者におくった名だから、「武威が大変大きかったアイヌの首領」という意味だろう。
「おおたけまる」と読むこともできる。

大武丸の上に鬼石を載せたときに飛び散った死骸の一部を、鬼石やあばら石などと名づけたようだ。
他にも飛び散ったものが沢山あって地名や石の名になった。

どれほど大きな石を大武丸に抱かせたのか。

大武丸には人首丸(ひとかべまる)という子がいた。
人首丸はなぜか奥州市江刺区に追われて討たれたという。

血統を残そうと部下たちが嫡男を抱えて逃げたのかも知れない。
逃げ切れずに殺されたのであろう。

「人首村と称し、現在も人首の地名が残っている」というから、そこが子供が亡くなった場所かも知れない。

人首丸を「ひとかべまる」と読むことにふと思いついた。
「ひとかべ」が「人首」ならば、「ありかべ」は「有首」だったのではないか!?

「有首(ありかべ)」という峠名は、さすがに暗い森の中では嫌だったのではないだろうか。
だからおなじ音の「有壁」を当てたのだろう。

第二有壁(首)があるなら、他に第一有壁(首)があってもよさそうである。
ガイドブックにはその名はない。
有壁宿のなぞの一つである。

有壁宿そのものを第一有壁と呼ぶのであれば、第一有首となり、首領である大武丸の首が有壁宿の寺に埋めてある可能性がある。

すると第二有首とは、その子の首になるだろう。

そうではなしに、第二有壁に「大武丸」自身の首を埋めた可能性もあるだろう。
本陣の傍にかつての酋長の首が座っていては、名主、国人も落ち着いて眠れないはずだ。

大和族は怨霊の祟りを恐れるからである。

いずれにせよ、「ありかべ」がアイヌ族と大和族を隔てる峠だったことは間違いない。

どうしてもその第二有壁のことを知りたくてネットで調べてみた。
街道歩きの方のブログがあった。( )部は筆者の挿入コメントである。

『13時27分、有壁宿本陣跡を通る。
金成から3時間15分、11770歩, 9.2km。

有壁本陣前から山の中へ入っていく。(私の場合はここからが問題だった。)

ここの旧道は前半戦の一つのヤマ場と思っていた。(やはりね)

旧道の様子が良く分からず、歩く人が少ないようで情報が少ないのだ。(そうそう、道路標識もあまりない。)

二人で「さて、行くぞ!」と気合を入れて進んでいく。(二人連れなら心強いですね)
山の中に入って二ヶ所分かれ道があり、そのいずれも左側を進めばいいと聞いていたので注意をしながら進む。
(なるほど、いずれも左へ行くのか、私は2つ目を右へ行ってしまった。)

肘曲がり坂のところで早くも道が二手に分かれている。

三好さんは昨年栗原での街道会議に出席された際、ここを歩かれたそうだが、もう一つ記憶が定かではないという。
(へー、街道会議というものがあるのですか)

そのため昨日お会いした渡部さんに電話を入れて確認していただく。

私の電話はバッテリーが残り少なくなってきており、電池切れの心配があるのでこれ以降ホテルまで使わないことにした。
(電池は困ります。それで私はsharpのソーラー携帯に変えたのですが、効果はなし)

結局これまで歩いてきた砂利道は明治の旧道で、左に上っていく道は江戸時代の道。
いずれにしても少し先で合流しているということが分かったので、江戸時代の道を歩くことにする。
(やはり二つ目を左なんですね)

途中でもう一ヶ所T字路があったがここも左折して進むと一旦開けた場所に出た。

三好さんが参加された昨年の会議では、ここから左折して国道のほうへ出たということだったが、前を見ると直進する道が見えるので、これを進んでみることにする。
(国道とは私が止む無く歩いていった国道4号線のことですね)

松の葉が落ち積もった道は下がゆるい。
ここを雨の日に歩くとかなりぬかるんだ道になるだろうなと思った。
(長い年月の間に枯葉が重なって、腐葉土が深いのでしょう)

実は今日の予報は雨だったのだが、幸いここまでは降らずに来ることができたのだ。
やがて14時頃になってポツポツと雨が落ちてきたが、降りはあまり強くなく歩く上で支障にはならなかった。

この間、道はきれいに整備されており歩く上で何ら支障はなかった。
もっともこの時期だから下草がなくて歩きやすかったのか、いつでもこの状況なのかはわからなかった。

いずれにしても前半戦の大きなヤマ場と思った場所は意外に簡単に歩き終えることができた。
(そうなんですか)

やがて道は下り始め坂上田村麻呂が、この地で鬼を退治し死骸を埋めたということからついた地名という鬼死骸に出た。』
(「宮野~沢辺~金成~有壁~一関」より抜粋、( )部は筆者挿入文)
http://www.jinriki.info/blog/kacchan/141.html

意外と楽に峠を越えた様子が見える。
おそらく山の尾根のようなところを通って緩やかに北上していったのだろう。

私が歩いたルートは、彼らが歩いた江戸時代の古道から見れば、右手に大きく旋回しながら、南の有壁宿へと戻ったことになる。

この記事のおかげで、なんとかまだ見ぬ第二有壁の雰囲気を知ることができた。

さあ、これからはまたリアルな奥州街道歩きである。
雨は完全にあがった。

新幹線の高架橋に沿って旧道を歩いていると、遠くに市街地が見えてきた。
あれが一関市の町並みなのだろう。

街道の左手やや上の丘にお寺らしき山門が見える。

街道歩き4日目の足では坂道は登れない。
登れないことはないのだが、そういう無理をすると残りの数日間を歩き続けることができなくなる。

少し先に「大慈山祥雲寺」の駐車場がある。
先ほどの寺の名前だろう。
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