鬼は「オカツの大武丸」だった~奥州街道(4-202) [奥州街道日記]



あと5キロメートルで一関宿である。
途中で雨が降って来た。
新幹線の架橋下で雨宿りをする。
4日目の昼過ぎの足をいたわり30分ほどゆっくり休んだ。
やがて雨がやんだ。
15時15分に高架橋下を出発する。
街道左手の土手に墓らしきものがある。
「豊吉の墓」(市指定文化財)と書いた白い標識柱が立っている。
鬼死骸伝説とともに豊吉の墓を紹介した記事がある。
地元の方が書いたものだろう。
『当地には鬼の死骸に関する伝説があります
安永風土記(江戸時代の記録。抜粋)
鬼死骸村
一 村名に付き由来 往古吾勝郷と申唱候処田村将軍夷賊御退治賊主大武丸死骸此所に相埋候以来村名に罷成候由申伝候事
※現代語簡訳 昔は吾勝郷(あかつごう)という所でしたが、田村将軍が蝦夷(えぞ)退治にお出でになった折り、退治した「大武丸」という首領の死骸をここに埋めたので、それ以来、村名となったと伝えられている
鬼死骸村には、鬼にまつわる名所等が残されています
所在については鬼死骸八幡神社及び鹿島神社の交通案内図を参照して下さい
鬼石
田村将軍が大武丸の一党をここに追い詰めて成敗した時に、その死骸を埋めた上に置いたと伝えられる巨石
左手上方に鹿島神社の赤い鳥居の柱が見えています
土手と電線はJR東北本線
所在は、鹿島神社手前の的場踏切の真南、田の中
石の窪みは、田村将軍の乗馬の蹄の痕とも、鉄棒の痕ともいう
すぐ近くには、まだ数個の大石が転がっている
鬼石を載せたときに飛び散った死骸の一部とも、死んだ鬼の化したものともいう。
周辺には同様の石が多かったと伝わるが、名石の鬼石とあばら石の二つを残して多くは石材として利用されてしまったという
あばら石
ここには4つの大石があり、兜石(かぶといし。男・女の2つ)、肋岩(あばらいし)、背骨石といわれている
近年まで名称看板があったが、朽ちて草むらに沈んでいます
所在は、鬼石から約150m県道を国道4号方向に南下し、東南方向の枝道に入り約80mの路傍
鬼石井
死骸に載せるために鬼石を取ったときに、そこから湧いたという清水。干魃の時でも水が絶えず、希代の冷水といわれた。
的場(まとば。地名)清水ともいう
現代では利用されることも少なく荒れてしまっているのが残念です
すぐそばには、明治9年と同14年の奥羽御巡幸の際にこの場所で御小休みされたことを示す『明治天皇小次遺跡』碑が建立されています
所在は、前掲的場踏切を渡り北上約50m。『明治天皇小次遺跡』碑が目印
鬼石井(的場清水)のすぐ下流は、近年の道路改良工事で道路下に埋没してしまいました
これを惜しみ南側隣家では井戸を整備しました。写真奥の屋根の掛かっているのが的場清水の水脈の井戸です
写真手前の池の噴水は、同様に名水と伝わる金魚清水を引いてきたものです
鬼牙石
鹿島神社に奉納されていたが、中世末期に城主小岩伊賀守が所持、城主没落後は子孫絶え、大正5年に三上氏(鬼死骸八幡神社別当)が引き受ける
通称「天狗の爪」ともいう
鬼手
鬼の手が跳んで落ちた所。手骸(てがら)が何時しか手柄となったという。宮城県片馬合手柄沢
鬼首
鬼の首が跳んで落ちた所に温泉が湧いたという。宮城県鳴子町の鬼首(おにこうべ)温泉
人首
大武丸の子の人首丸(ひとかべまる)は奥州市江刺区に追われて討たれた。この地は人首村と称し、現在も人首の地名が残っている
豊吉の墓
以上が古代の鬼とすれば、こちらは近世の鬼かもしれません
蘭医学が興隆し始めた頃、東北地方で最初の腑分け(ふわけ。人体解剖)が行われました
罪人として処刑された豊吉の死骸が提供され、その後ここに埋葬されました
墓のそばの看板には一関市指定有形文化財であることと、その意義について解説されています
墓のすぐ前は国道でたくさんの車が通過しています
所在は、国道342号から鬼死骸八幡神社に至る別れ道の交差点正面』(「鬼死骸伝説」より抜粋)
http://www.nishi-iwai.org/ubusuna/n/onishigai.htm
墓の前に案内板がある。
「とよきちのはか」と読む。
『天明5年(1785)11月13日、一関の医師16名が、処刑された豊吉の死体を貰い受け解剖しました。
医師たちはこれにより長年抱いてきた疑問を解読することができたので、豊吉を丁重に葬り、この墓を建てました。
元々は旧一関藩橋田原刑場跡にあったものです。
古くから、解剖は死者を冒涜(ぼうとく)すること、許されないことと考えられていました。
しかし、江戸時代の中頃になると、宝暦4年(1754)京都で日本初の官許を得た人体解剖が実施され、寛永3年(1774)杉田玄白らがオランダの医学書を翻訳し「解体新書」を出版するなど、漢方医学とオランダ医学の両方から実証を重視しようという精神が芽生え、各地で解剖が行われるようになりました。
豊吉の解剖は、このような中でも東北地方としては早い時期に行われたものです。
この頃一関では、二代建部清庵や大槻玄沢など、オランダ医学を研究する人が出ています。
彼らの影響は甚大であったと思われます。
一関博物館で関連事項を紹介しています。
平成13年3月 一関市教育委員会』(案内板より抜粋)
鬼死骸村の昔の地名は、吾勝郷(あかつごう)だと書いてある。
アイヌ語の「アカツ」とはどう意味だろうか。
北海道常呂郡置戸町の地名について、こういう記事がある。
『命名の由来置戸町の町名から引用した「オケトウンナイ」はアイヌ語では、鹿の皮を乾かすところの意味である』
(「HAPPY-FARM LINK」より)
http://www.happy-farm.gr.jp/link/linkvp.html
「鹿の皮を乾かすところ」というアイヌ語の「オケトウンナイ」が「置戸(おきと)町」になっているから、吾勝(郷)という旧地名も「アカツ」という音(おん)に似たアイヌ語に由来するはずだ。
「古代の山北地方地名について」という資料に「アカツ」の語源らしきアイヌ語が登場していた。
『地形と地名を関連させた一説を紹介したい。
それは、駒形村郷土誌という筆書きの古い一書に載っていることである。
万葉集に
「なせの子や、とりの乎加恥志なかたおれ(実際は耳へんに止と書いて「ち」と読ませている)、
あをねしなくよ息つくまでに」
という歌がある。
この場合の乎加恥(オカチ)というのは岡の道という意味である。
だから雄勝(乎加知)村は東鳥海山麓の岡道、即ち今の湯沢市相川の付近であろうという説である。
なお更に、北秋田郡比内の庄に雄勝田村(現在は鷹巣町小ヶ田)があり、また仙北郡の雄勝田(現角館町小勝田)も共に山村で高所にあるとも述べている。
ところで、菅江真澄は東鳥海山のことについて
「この山にしずまり給ふ御神は恐くも雄勝の尊にて、吾勝(アカツ)の尊は陸奥国を守護、雄勝の尊は出羽国を守らせ給ふこと古き駒形の神の縁起に見えたり」
と書いている。
駒形の神とは今の栗駒山のことであるが、
「駒形の縁起は古来陸奥風土記の抜書きせしものの残りならんといへり。」
とも真澄はいっているので、もしほんとうに陸奥風土記の一部だとすればこの縁起はすい分ふるいことになる。
吾勝の尊という神は、古事記の上では正勝吾勝勝速日天忍穂耳命で、宮城県栗駒町の駒形神社や岩手県一関市市野々の吾勝神社の祭神である。
そして、この辺を昔は吾勝郷とも呼んでいたという。
一方、雄勝の尊については、東鳥海山の神社が今も雄勝の宮と称されてはいるけれども、どんな素性の神なのかはよくわからないのが残念である。』(「古代の山北地方地名について」より)
http://www.geocities.jp/pppppppihyghhg/Web-Ani/akita-chimei/nenpoxx/nenpo03/871823.pdf
群馬県に両毛線の駒形駅がある。
前橋駅から東南へ6kmほど行ったところである。
「吾勝(アカツ)の尊」という神が、岩手県一関市市野々の吾勝神社の祭神であることがわかる。
古代の人々はその周辺を「吾勝(アカツ)郷」と呼んでいたという。
おそらく「吾勝(アカツ)の尊」とは「岡の道」(アイヌ語では「オカツ」)を支配していたアイヌの酋長のことだろう。
「岡の道」つまり「オカツ」とは、第二有壁の峠なのである。
古代のアイヌと大和を分ける「白河の関」のような峠だったのであろう。
南からこの「オカツ」を越えてやってきた大和族は、峠の北の村を鬼死骸村と名づけ、その北にある宿場を「一関」(いちのせき)と名づけた。
大和族から見て「最初の関」なのである。
鬼死骸村に埋葬されたアイヌの酋長は「大武丸」であった。
「武力が強く体の大きい快男子」というオクリナなのだろう。
これも大和族のつけた名である。
本名がアイヌ語であったはずだが、それは伝わっていないだろう。
大和族は怨霊信仰に染まっている。
死者の霊が怨念を抱いて再び自分を襲ってこないように、立派な名前を贈るのである。
死者はその立派さに喜び鎮まると信じているからだ。
家族皆殺しなどという非業の死を遂げたものほど、立派な名前を贈るのである。
2010-08-14 15:33
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