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被爆直後のヒバクシャたち [奥州街道日記]

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E7%88%86%E8%80%85
ここにヒバクシャの写真が掲載しているが、これはプロパガンダであると思うべきだろう。
この程度で被爆の被害が済んだという誤解を与える写真である。

見るに耐えないのが実際のヒバクシャの姿なのである。

私はこの時期になると、父から聞いた被爆一週間後の広島の話を記事に書いている。

8月8日(日)の24時からNHK総合テレビで放映された「ヒバクシャからの手紙」という番組を見た。

ヒバクシャが語る言葉は重い。

被爆直後、二時間後に広島市内に入った人の話があった。

全身火傷のヒバクシャたちは私が表現しているように両手を前に伸ばし、手の甲を上にして、指先を下に向けていた。
その光景を描いた絵が紹介されていたからわかった。

父が見たのは一週間後、この方が見たのは二時間後なのである。

父の見た光景と大きく違うことが書かれていた。

被爆直後の人々は衣服も肌も焼かれているが、腕の皮が焼け爛れて殆ど剥がれ落ちており、それを引きずって歩いていたという。
腕に流れる血は赤く描かれている。

この残酷さを世界の人々はまだ知らない。
日本人の私ですらこの番組を見るまでは知らなかった。
原爆資料館をじっくり見ても、ここまでリアルな残酷さを知ることはできない。

5万人が直撃を受けたのである。

ヒバクシャたちは大勢並んで川へ、本川といったように記憶しているが、川へ向かって歩いていったという。
それぞれはどこに向かうのかわかっていないで、前の人についてぞろぞろ歩いているだけである。

河川敷の階段を下りて次々と川の中へ入っていく。

その光景を描いた絵がある。

ちょうど私たちが地下鉄で通勤するとき、階段の下から階段を下りてくる群集を見上げるようなシーンである。

頭が沢山すし詰め状態になって階段を下りてくる。

先頭は次々と水の中に入っていき、そして沈んでいく。

それを見たその人は「そっちへいっちゃあいけない。死んでいまう!」と声をかけたという。

それでも人々は川へ入っていったという。

被爆して二時間後のこの悲惨さを世界中の人々は知らなければならない。


疎開していた女学生が被爆を聞いて五時間後に広島にいるお父さんを発見した。
全身火傷をして触ってあげることもできない。
指先さえ火傷で膨れている。

頭にはボールの大きさの穴が開いていたという。

お母さんは亡くなっているようだ。

一人でお父さんを看病したが、数日も経たないうちに手先や足先に膿ができて蛆虫(うじむし)が団子状に集まっている。

娘さんは割り箸で蛆虫を取ってあげることぐらいしかできなかった。

原爆を正当化するアメリカ人は、まずこういう事実を知ってもらいたい。
その上で正当化するならば、それは人間ではない。

二日目に広島市内に入った兵隊が川を流れる死体や重傷者を見た。
生きている一人の女性が助けてと小さく声を上げたので、兵隊は彼女の片腕をつかんで引き上げようとした。

すると腕の肉がずるりと抜けて白い骨がむき出しになった。

女性はその兵隊を見つめたまま川の水の中へと消えていったという。

最初に紹介した娘さんのお父さんは1ヵ月後に亡くなった。
ときには錯乱して「敵機来週だ」などと叫ぶこともあったという。

亡くなるちょっと前にお父さんが正気になったそうだ。

寂しいから手を握って欲しいと娘さんにお願いした。
娘さんは火傷の上からそっとお父さんの手を握り締めた。

お父さんは「ああこれで寂しくなくなった。」と笑顔を見せたそうだ。

まもなく息を引き取った。

全身火傷の体に誰も触れずに一月寝て過ごしたのだろう。
娘さんの蛆虫取りの割り箸の感触しか受けていなかったのである。

表皮は焼けてはがれているような火傷の肌に人の手が触れれば痛いはずだ。
しかし、お父さんは痛さよりも娘さんと触れ合うことによる慰みの方を大きく感じたのである。

NHK総合テレビのこの企画は素晴らしいと思った。
ヒバクシャは高齢化しており、彼らの生の声を形にして世界に知らせることが大事である。

私たちがヒバクシャからの手紙を読み胸に響くものは大きい。
しかし、私たちが原爆を所有しているのではない。

原爆を所有している国の国民は広島・長崎のヒバクシャの声を知らない。

英仏独露中の各国語に翻訳して国連を通じて世界へ配布すべきであると思った。

私は数年前、自国の安全保障のためには日本も核武装すべしと思ったことがあった。
しかし、被爆直後のヒバクシャの声を聞いてからそれが愚かな考えだと気づいた。

世界の人々にできるだけ早く被爆直後の姿を伝える必要がある。

縄の工場~奥州街道(4-194) [奥州街道日記]

TS393399.jpgTS393399再び有壁宿を逆走する
TS393400.jpgTS393400水路
TS393402.jpgTS393402水路の紅葉
TS393401.jpgTS393401縄の製造所

悔しい思いをしながら有壁宿へと戻る。
どうせ国道に戻るなら別の道を歩こうと思い水路に沿って歩いた。

水際に赤く色づいたきれいな紅葉が並んでいた。

そのすぐそばで機械の音が聞こえる。

カチャンカチャンと規則的な音がする。

屋内を覗くと、縄を巻いた製品が並んでいた。

縄を編む工場だった。
生まれて初めて見た縄の製造所だった。

同じ道を歩けば同じ光景しか見えないが、一本北側の路地を歩くことで新しい発見がある。

転んでもただでは起きないとはこういうことだろう。

紅葉見物で目の保養をし、縄の工場で社会見学をした。

山中の双六(すごろく)~奥州街道(4-194) [奥州街道日記]

TS393395.jpgTS393395マイクロウエーブの塔
TS393396.jpgTS393396林道は下り始める
TS393398.jpgTS393398どこかで見た光景??(古道の入口)

林道の坂を上っていくと、やがてマイクロウエーブの塔が立つ峠らしき場所へ着いた。
そこから右へ旋回しながら、林道は下り坂になっていく。

あまりに道路の旋回が大きいなと思いつつも、坂を下っていった。

しばらく降りてくると、右手に見たことのある光景が広がった。

「奥州街道 有壁方面」と赤い文字が見える。
その奥には先ほど読んだ案内板があった。

「奥州街道 肘(ひじ)曲がり坂」と書いてある。

やってしまった!

完全に道を間違えた。
それも一旦登っていった坂道を、下りには迂回しながら元の古道出発点の位置まで戻ってきたのである。

第二有壁には行けなかったのだ。

林道を巡るうちにいつのまにか有壁宿の北の外れへ戻されたことになる。

無駄に約2キロメートルを歩いたことになる。

暑さのために汗をかいているが、その上に冷や汗もかきはじめたようだ。

これを無念といわずになんと言おうか。

あきらめるしかない。

私の使っているガイドブックの地図の不正確さも手伝っているが、途中途中でコンパスで方向を確認することを怠った私の責任でもある。
奥州街道は北へ北へと延びているから、東や南を向いたら間違いであると気づくべきだった。

奥州街道の第4幕は今日で4日目である。
4日目の足はつま先が痺(しび)れ始める。

以前はここで豆ができて歩けなくなっていたが、四街道を歩くうちに豆はできない体質に変わった。
しかし、疲労が足先に出てくるのは変わらない。

その足で第二有壁へと挑んだのだったが、元に返されてしまった。

街道歩きにはつき物の道迷いであるが、今回はほとほと精神的ダメージを受けた。

もう一度古道を通って険しいといわれる第二有壁に挑戦するだけの体力もないし、これからでは山中で日が暮れ始めるから危険である。
有壁宿をもう一度通過して、来た道を戻り国道4号線を歩くしか他に手はない。
今朝歩いてきた道を戻って、国道4号線に戻った。

国道を歩けば間違いなく一関宿へと着く。

江戸時代には国道はないから、道を間違ったなら何度もそのルートを探して挑戦したことだろう。

そういう苦労を含めて昔の街道歩きというのはすごいものだと関心する。

現代の私たちは、国道という逃げ道が税金でちゃんと整備されている。

再び林道~奥州街道(4-194) [奥州街道日記]

TS393392.jpgTS393392赤い実の群れ
TS393393.jpgTS393393赤い実
TS393394.jpgTS393394あれ!林道だ

赤い実が目立つ。
きれいな朱色の丸い実が可憐である。

森の中へ再び入っていく。

しばらくすると、車の轍(わだち)のある林道に出た。

第二有壁は第一有壁よりも険しいと書いてあったが、林道とはちょっと解せない。

引き返すつもりもないので、ずんずんと前へ歩いていく。

赤い実~奥州街道(4-193) [奥州街道日記]

TS393388.jpgTS393388あぜ道と森
TS393389.jpgTS393389田んぼが消えた
TS393390.jpgTS393390赤い実
TS393391.jpgTS393391再び森の中へ

森を左手に見ながら、田んぼのあぜ道を登っていく。
静かな空間に熊よけの鈴だけが鳴り響く。

あぜ道に赤い実がなっていた。

いよいよ眼前の森へと入っていく。


タグ:赤い実

生き生き~奥州街道(4-192) [奥州街道日記]

TS393384.jpgTS393384生い茂る露草
TS393386.jpgTS393386露草
TS393385.jpgTS393385ミツバチハッチ

説明は要らないだろう。
廃道に咲く江戸時代と同じ草花である。

これほど生き生きとした植物はない。

人間がいないということは自然界にとっては幸福なことなのだ。

杖~奥州街道(4-191) [奥州街道日記]

TS393376.jpgTS393376左折すればこの方向
TS393379.jpgTS393379右折すればこの方向(こちらへ進む)
TS393381.jpgTS393381LEKIのステッキ

山を抜けて稲田の畔道を歩く。
分岐では右折を選んだ。
右手が森に深くなると読んだ。

第二有壁とやらに向かう。

熊よけのつもりで、リュックからLEKIの杖一本を取り出す。
私は二本ステッキではない。
一本だけで歩く。

獣と対峙したときに、この杖が一本あれば距離を稼ぎナイフを取り出す時間が稼げるだろう。
しかも使わないときは、一本だけリュックに収納すれば済む。

迷い道~奥州街道(4-190) [奥州街道日記]

TS393373.jpgTS393373森の出口は田んぼのあぜ道
TS393374.jpgTS393374「有壁方面奥州街道」の標識
TS393377.jpgTS393377昼食はみたらしダンゴ

森の木が少なくなり、空が広く明るく見えてきた。
坂を下ると田んぼの稲穂が見えた。

これが街道?
どう見ても田んぼのあぜ道に出てきた。
一本道だったから間違えたはずはない。

そのあぜみちの右下側に、地面すれすれの小さい標識があった。

「有壁方面奥州街道」と書いてある。

やはりこれが江戸時代からの奥州街道だったのだ。

この標識をおいてくれた親切な人に感謝した。
安心したので、その草むらにリュックを降ろし、途中で買った「みたらしだんご」で昼食とした。

ダンゴを頬張っていると、左手の山際から自動車の音が聞こえてきた。
遠くの山すそを国道4号線がよぎっているのがちらりと見えた。
ときどき自動車が左右に走る姿が遠くに見える。

よく見ていないと国道を見落とすくらい遠い。

あれが現在の自動車でいく奥州街道なのだ。
旧街道はこのあぜ道である。

13時に草むらを出発した。

上の写真にあるように、あぜ道は正面の森に突き当たり左右に分かれる。
奥州街道に行くにはどちらをいけばいいか、探すが標識はない。

左手に国道4号線が見えたので、左へ曲がれば国道に戻ってしまうだろう。
右手に曲がれば、さらに深い森へと入っていくだろう。

ガイドブックの地図には、これから第二有壁で険しくなると説明がある。
ならば右の森のほうへ再び向かうべきだろう。

自信はなかったが、「勘」に従い右折した。

もし「有壁方面奥州街道」の標識がなかったならば、道に迷ったかも知れないという不安が増加しているときだったので、国道に近づく方向に、つまり左へ曲がっていただろう。

腹ごしらえもして、落ち着いて考えた末、右へと曲がったのである。

野アザミ~奥州街道(4-189) [奥州街道日記]

TS393370big.jpgTS393370b道に咲く野アザミの花
TS393371.jpgTS393371平たい草の道
TS393372.jpgTS393372北側が開けてきた

野アザミの花を踏みつけないように跨いで坂を上りきると、そこに平たい草の道が広がっている。
それが正式な花の名前かどうかは私は知らない。

私が幼いころに山歩きをして感じたままに花の名を付けて呼ぶ。

「肘(ひじ)曲がり坂」は長さ約50mと案内板に書かれていた。

これまで上ってきた坂がそれなのだろう。
次にどちらにいけばよいか標識はなかった。

「肘曲がり坂」は廃道になっているそうだから、文句も言えない。
そこへ入っていく私のほうが普通ではないのだ。

小型のコンパスで方向を確かめる。
動物的感に従い、奥州街道が向かっている北の方向へと進むことにする。

辺りの暗さに目が慣れてきたころに、前方に明るい空が開けてきた。

熊に出会うことなく森を抜け出ることができたのだ。

薄暗い森の中で見る空の明るさは、私に生きる希望を与えてくれる。
しかし、あの野アザミにとってはこの暗さと湿気が生きやすいのであろう。

これで森歩きは終わるのではないかと甘い期待を持ちつつ、明るい方向へと急いでいった。

肘(ひじ)曲がり坂~奥州街道(4-188) [奥州街道日記]

TS393364.jpgTS393364これが奥州街道の古道
TS393367.jpgTS393367草に埋もれてしまった地面
TS393369.jpgTS393369雑草の繁栄

意を決して、「奥州街道 肘(ひじ)曲がり坂」の案内板のところから左に折れ、林道から外れた。

道が殆どないような草の土手へと這い上がり更に深い森の中へ入る。
旧街道はあたかも熊笹の中を分け入るが如しである。

案内板には「磐井郡鬼死骸村を通り田村氏の城下町一関に至る」と書いてあった。
鬼の死骸に満ちているような名前の村を通るようだ。

命名したのは、この地域を侵略し植民地化に成功した大和族である。
恐ろしい名前をつけるのは、この地域の蝦夷(えみし)と呼ばれたアイヌ人部族が武力にとても優れていた証(あかし)である。

倭人には「言霊(ことだま)信仰」があるという。
井沢元彦著「逆説の日本史」で知った。

「もし核戦争が起ったらどう防衛するか?」という議論を国会で行うことを日本人は嫌う。
「もし甲子園大会で1回戦で負けたときは、どうするのですか?」

不幸な出来事を「言葉」にして口に出すと、その言葉自体霊力を持ってしまいそれが実現してしまうという信仰である。

「おばけ村」と名づければ、そこにはお化けがいるということになる。
「鬼死骸村」と名づければ、そこには鬼、つまり蝦夷の死骸があることになる。

おそらく侵略者たちはアイヌ一族を皆殺しにしてその村に埋めたのであろう。
恐ろしい名の村には倭人たちは近づかない。
よって、再び有壁の地がアイヌ族の酋長が栄える村にはならないという祈りが込められているのだろう。

杉林の中をとおり、そこを抜けると道路は草に埋もれていた。
地面がむき出しになっていないのは、人間が歩かないからである。
お陰で道路の雑草は目一杯繁栄している。
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