テントを張れる心~奥州街道(4-205) [奥州街道日記]

TS393480.jpg旧街道筋
TS393481.jpgシュロの木がある家
TS393482.jpg「俳聖~の道」碑

江戸時代以前の奥州街道には磐井橋は無かったようで、木製の仮橋が架けられたのは明治3年だという。
それ以前は流れの浅いところに渡し場があったのだろう。

磐井橋を渡り、岩手県の南玄関一関市を出て、盛岡市方面へと歩いていく。
既にあたりは暗くなってきた。
まだテントをどこに張るのか決めていないが、最初の頃の不安な気持ちはもうなくなり、今ではあたりが暗くなっても平気で歩き続けている。

歩けなくなったところでテントを適当に張ればよいと腹をくくっているからである。

この腹をくくるという態度がなかなかできない。
できない間は夕暮れとともにあせりが生じる。
まともな宿を確保できずに日暮れに突入する自分に侘しさを感じてしまうのである。

100回も街道筋でテントを張ってきた私であるが、最近はテントを張れない場所を探すことの方が困難である。

いまなら、東京のど真ん中でもテント泊できる自信ができている。
でも、最初の頃はそうではなかった。

恥を知る心があった。
人の目を気にする心があった。
プライドを護ろうとする心があった。

そういう余計なものを持っていると、人気のある場所ではなかなかテントを張る勇気が湧いてこないものだった。
そうは言っても、人っ子一人いない山中で平気でテントを張れるかというと、それはそれで真っ暗な山中ではとても怖いからなかなか張れないのである。

つまり、都会でも山中でもテントを張れないサラリーマンの私がいたのだった。

100泊の体験は言葉では説明できないが、どこでもテントを張れる人間を育ててきたことは事実である。

シュロの木がある家を見ながら歩く。

その先に「俳聖~の道」と書いた碑がある。
「~」の部分は消した跡があり、読めない。

松尾芭蕉の事跡にちなんだ言葉なのだろうが、そこを敢えて消そうとした人物がいたことの方に興味が湧く。

今夜のテントをどこで張ろうか?
そろそろ私の脳はそれを考えながら歩いている。

磐井橋~奥州街道(4-204) [奥州街道日記]

TS393473.JPGTS393473 夕暮れの奥州街道
TS393474.JPGTS393474 磐井橋を渡りきった
TS393478.JPGTS393478 芭蕉も眺めただろう風景(北岸から)

夕暮れの中を磐井橋を渡る。
川の流れは意外と速いが、この写真には写っていないがよく見ると手前側に治水によって幾本かの流れの速い用水路が形成されており、高度地区へも水を供給している様子が認められる。

ふと二宮金次郎の存在が脳裏に浮かんできた。

実際にこの磐井川の治水工事を行ったのは別の日本人なのだろうが、「水を農業生活に活かす知恵」という風に見たときに、自然と二宮金次郎の薪を背負った姿が浮かぶのである。

偉人とはそういう人物のことをいうのであろう。

歴史が高々200年と浅いアメリカ合衆国ではその種の人物をパイオニアと呼ぶが、2000年を超えるわが国ではやはり「偉人の仕業」と呼ぶべきであろう。

磐井橋を渡り切るころには、既に西の山際に日が沈みかけていた。
川原はまだ残照で明るいのだが、たちまち暗くなることは目に見えていた。

私はこの広く整備された芝生の川原にテントを張りたいという衝動に駆られた。

芭蕉もこの川原で数日間を過ごしたいと感じて、南岸にある橋の袂の宿を取ったのに違いない。
私が惹かれるのも仕方がないことである。

しかし、ここで安易な生活に溺れている暇はない。
サラリーマンの街道歩きは、時間が限られているし、予算も限られている。

安逸を脱して、重い腰を上げねばならないのである。
そこが芭蕉とは大きく異なるのである。

暗くなっても本日のノルマである歩行距離20kmをきちんと越えて行かねばならないのだ。

それでもあと10分ほどはこの川原を眺めていることにしよう。
それからまた歩き始めよう。

犬を連れた人が私が座っている石段の傍を通り川原へ降りていった。

千切れるばかりに左右に振っている白い子犬の尻尾に、犬の生きている喜びが溢れていた。

奥州街道記事再開です。 [奥州街道日記]

昨年9月末で38年間勤めた会社を年満退職しました。
約束どおりならこれかららくらくの年金生活でしたが、そうはいかないとのことで、65歳まで働く必要があることを知りました。(一定期間の法的処置として、個人が申請すれば特別支給の老齢厚生年金が支給されるとのこと、年金事務所の無料相談で教えてもらい、早速申請しましたが、実際支給までは数ヶ月かかるようでした。その間の生活は工夫することが必要になります。そのお陰様でタバコは辞めることができました。怪我の功名です。)

しかし「継続雇用社員とするかどうか」は会社が決めることといい、私は継続雇用されないグループに入ったようでして、それでも子会社の嘱託雇用というスタイルで何とか働き続ける環境は不十分ながら確保されました。

しかし、年満退職だということで今住んでいる前の会社の社宅は3ヶ月以内に退去せよとの仰せであり、街道歩きで慣れ親しんだテント生活を家族に強要することもできませんので、転居先住居を探す毎日となりました。

首都圏内に還暦過ぎて住むことを考える場合、賃貸か分譲か、分譲でも中古か新築か、迷うことばかりでした。

20年前に聞いたある東京のマンションデベロッパー管理職であった知人の言葉を思い出し、必死に住まい探しに奔走しました。その間、この奥州街道日記は休止することとなりました。

その言葉とは、
「マンションは車の購入とは訳が違う。一生に一度しかない大きな買い物だから、購入決定までに少なくとも30箇所のモデルルームを見ておくべきですよ。その間に品物を見る目が養われます。」

彼は、この国でもっとも優れたブランドと言われる不動産会社の課長でした。

30箇所も見て回れば、怪しい物件や、いい加減な物件を見抜く目が養われ、やがてきちんと設計施工した自社物件に顧客は舞い戻ってくるはずだという彼なりの自信と信念があったのでしょう。

中古物件と新築モデルルームをあわせて、合計29件の見学を行いました。

あの課長のアドバイスに1件足りない段階で、私の意志は決定しました。
結果的に購入したのは、あの課長の不動産会社が鉄道会社とジョイントベンチャー(共同事業)で作った新築マンションでした。
知人はもう2年前に年満退職し子会社の社長をしていますので、彼の企画設計物件ではありえません。

その結果がよかったか悪かったかは、意見の分かれるところでしょうが、2ヶ月間に29件も足を使って見歩き、その上て決定した「一生のお買い物」ですから、私自身の内面ではいささかも悔いがありませんし、今後もないことでしょう。

「自ら納得する選択をする。」

それがあの課長が教えてくれた「大事なこと」だったのではないかと思っています。

私は田舎に小さな持ち家を持っていて、会社命令の転勤ゆえに…という「特例貸与」とはいえ、60歳まで会社の社宅を貸していただいたことに厚く感謝をしています。

「何よりも従業員の福利厚生を大事に考える。」

いまどきそんな悠長な考え方の企業は少ないと思います。

稀有な会社に長く勤められたことに幸福を感じつつ、引越し準備のダンボールが積み上げられた和室の中で再び奥州街道歩きの記事を執筆いたします。

ゴールの三厩(みんまや、みまや)宿へたどり着くまで……!


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