いざ萩へ! ~萩の吉田松陰(1) [萩の吉田松陰]

(お知らせ)当方の事情からこの続き、北上、盛岡方面への街道歩き日記は1月下旬から再掲載することに致します。よろしくご了解ください。
その間、山口県萩市で見聞してきた吉田松陰に関する記事などを掲載していきます。奥州街道は必ず津軽三厩宿まで歩き通しますので、再開をお待ち下さい。

SH3B0001.jpgSH3B0001山口県防府市の山陽道インターチェンジ出口
SH3B0003.jpgSH3B0003羊の群れのような石灰岩
SH3B0004.jpgSH3B0004この先の信号を右折して山口へ向かう

この街道歩きは、途中から、つまり東京世田谷の松陰神社を訪ねたときから、シュロの木を探す旅へと変化していった。

それは吉田松陰の死の謎を考えていくうちに、山鹿素行の墓へ至りそこで3本の背の高いシュロの木を見たことから始まった。

なぜ長州の青年が江戸で斬首されなければならなかったのか、松陰も歩いたという東北の街道を歩きながら考えてみたいと思うようになった。

安政の大獄で開国を急ぐ井伊直弼の裁定により攘夷派志士として小伝馬町牢屋で斬首された。
そういうことを知りたいのではない。
それは表向きの理由である。

松陰が長州に生まれ、松下村塾が出来、その弟子や教え子たちが日本革命を実践したのである。
道半ばにして松陰が斬首されたことは、革命の導火線に火を点じたことに等しい。

革命を実現するために敢えて松陰が斬首される方向へと誘導したものがいるのではないか?
松陰神社横にある長州の青年の墓の前に立ち、私はそういう予感を覚えた。

真夏に所用があり、私は山口県へいくことになった。

2010年8月中旬の金曜日の夜、会社から帰宅した私はすぐさま支度して東京を出発し、山口県へと向かった。
高速道路料金が安い土日を利用しての移動である。

次の帰京は1週間後の日曜日の予定で、山口での用事は最後の4日間のみである。
つまり、山口県内で4日間ほど自由な時間が作れたので、吉田松陰の出生地であり生育地でもある山口県萩市を訪問することにした。

ただ、吉田松陰にゆかりの地をブラブラと夏の盛りに歩いてみようと思った。

彼の出生地、生家の所在地だけは事前に調べておいたが、それ以外は現地の観光マップを眺めながら適当に決めていくことにしよう。

宿泊はすべて車中泊である。
街道歩きで使用しているテント、シュラフ、自炊道具も車に積み込んだ。
ただ寝るのはシートを倒せば完全フラットになる自分のコンパクトカーの中である。

翌朝、東京を出てから13.5時間後に山口県に入った。
防府インターで一般道に下りて、山口市を経由して萩市へ向かう。

防府から見れば、瀬戸内海から日本海へ、ただ北へ北へと日本列島を横断する旅である。
山口県山口市付近に着いたという実感は、防府市の山口方面の特徴的な模様を見たとき感じられる。

緑の山肌のところどころに羊の群れが歩いているかのように見える白い斑点が散在しているのである。

ああ、長州へ帰ってきた。

松陰も晋作も、皆一様にそういう感慨を持って郷里に入り、或いは郷里を去っていっただろう。
山の肌合いは、幕末の景色とさほど変わっていないはずである。

高架下で信号待ちしている間も、高架の下の空間からその『羊の群れ』を眺める私だった。
この信号を右折すれば、あとは山口市まで直進である。
山口市からは山越えして萩市へ向かう。

山口市と萩市の間の古道を萩往還というが、それは車道ではない。
車は国道を走っていく。

散策できるような旧道の「萩往還」は、観光のために一部保存されているらしい。

歩行禁止!?~奥州街道(4-218) [奥州街道日記]

TS393521.jpgTS393521東北自動車道の左傍を通る旧街道
TS393522.jpgTS393522どんどん下がっていく
TS393523.jpgTS393523ついには東北自動車道の下をくぐる

旧街道を歩いていくと、通行止めの看板に出くわした。

「東北自動車道
これより先は、高速自動車国道のため、歩行者・自転車・125cc以下のバイク等は通行できません。」と書いてある。

私はリュックを背負った二本の脛をパタリと止めた。

よく見ると、私が歩いている旧道のことではなく、その右上を走っている自動車道に関する警告板だった。

ほっとして再び歩き始める。
旧道は緩やかに坂を下って自動車道の下側へと潜り込むようである。

とうとう自動車道の真下を横切る隋道に導かれてしまった。

ちょうど東北自動車道の真下を直角に横切ることになる。

暗いトンネルの中へ入る。

(お知らせ)当方の事情からこの続き、北上、盛岡方面への街道歩き日記は1月下旬から再掲載することに致します。よろしくご了解ください。

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見なかった温泉郷~奥州街道(4-217) [奥州街道日記]

TS393518.jpgTS393518「またのお越しをお待ちしています。一関温泉郷」
TS393519.jpgTS393519分岐を左へ歩く
TS393520.jpgTS393520旧街道の雰囲気が出てきた

「またのお越しをお待ちしています。一関温泉郷」と書いた看板を見たが、温泉らしきものには出会っていない。
街道筋から少し奥に入るのだろう。

温泉街があればすぐにでも飛び込みたいところであるが、知らないままに一関から遠ざかることになる。

歩行者にわかり易い温泉郷への案内板は私が歩いた街道にはなかったようだ。
平泉中尊寺方面へ街道を逸れたことが災いしたのかも知れない。

衣川と安倍氏~奥州街道(4-216) [奥州街道日記]

TS393514.jpgTS393514右は白鳥村遺跡と読める(国道とクロスする)
TS393516.jpgTS393516防風林と家屋
TS393517.jpgTS393517右に行けば「けいび渓、幽玄洞、束稲山」

安倍貞任(あべさだとう)は衣川で源氏に敗れた。
蝦夷のリーダ格であったようだ。

『永承6年(1051年)に、安倍氏と京都の朝廷から派遣されていた陸奥守藤原登任との争いに端を発して、以降12年間にわたって続いた前九年の役において、東北各地に善戦する。

登任の後任として源頼義が翌永承7年(1052年)に赴任すると、後冷泉天皇祖母・上東門院(藤原彰子)の病気快癒祈願のために大赦が行われ、安倍氏も朝廷に逆らった罪を赦されることとなったが、天喜4年(1056年)に、阿久利川において藤原光貞の営舎が襲撃される阿久利川事件が起こると、頼義は事件の張本人と断定された貞任の身柄を要求し、父の頼時がこれを拒絶して再び開戦となる。

天喜5年(1057年)に父の頼時が戦死すると、その跡を継ぎ、11月には河崎柵に拠って黄海の戦いで頼義勢に大勝している。
以後、衣川以南にも進出して、勢威を振るったが、康平5年(1062年)、国府側が清原氏と結ぶと劣勢となり、9月には厨川柵の戦いで敗れて討たれた。

深手を負って捕らえられた貞任は、巨体を楯に乗せられ頼義の面前に引き出されたが、頼義を一瞥しただけで息を引き取ったという。

その首は丸太に釘で打ち付けられ、朝廷に送られた(この故事に倣い、後年源頼朝によって藤原泰衡の首も同様の措置がされた。平泉の中尊寺に現存する泰衡の首には、釘の跡が残っている)。

背丈は六尺を越え、胸囲は七尺四寸という容貌魁偉な色白の風体であった(『陸奥話記』による記述)。
衣川柵の戦いにおいては、源義家と和歌の問答歌をしたとされる逸話も知られる。

津軽地方の豪族・安東氏(のち秋田氏)は貞任の子、高星の後裔を称した。』
(安倍貞任(Wikipedia)より)

最近誕生し、すぐに去っていった安倍元総理大臣はその末裔だと何かの記事で読んだことがある。

「背丈は六尺を越え、胸囲は七尺四寸という容貌魁偉な色白の風体」は元総理代人の形容にも通じよう。
その表現は、ウクライナ付近のロシア人の形容にも似ていると思う。

探してみると似たような記述が見つかった。

『◆ 安倍晋三官房長官の父・晋太郎と話をしたことがある。
私が岩手県の出身だといったら「安倍家のルーツも岩手県」と応じてきた。
山口県と岩手県が、どう結びつくのか、
晋太郎は「安倍宗任の末裔なんだよ」と言っていた。

◆ それは、そのまま忘れていたが、宮守村の村会議長だった阿部文右衛門さんと四方山話をしていたら「安倍晋太郎は東北の王者だった安倍一族の末裔だ」という。そして、ほどなくして裏付けとなる資料を送っていただいた。石至下史談会の「原姓安倍氏 豊間根家の栞」がそれだ。

◆ そこには「前九年役の敗北」の項に次の記述がある。
安倍宗任、正任は朝廷軍に降り、肥前国松浦(まつら)また伊予国桑村に流罪、宗任は後、宗像郡大島で生涯を閉じ、地元安昌院に眠る。(天仁元年 1108)。七十七歳であったという。
宗任の末裔は今は亡き自由民主党幹事長の要職にあった安倍晋太郎氏で又、子息の晋三氏は父の跡を継ぎて、衆院議員の要職に奔走されている、とあった。平成十一年の記述である。

◆ 裏付けをとるために「姓氏家系大辞典」三巻で陸奥の安倍氏を調べてみた。そこには「肥筑の安倍氏」の項目に、鎮西要略に「奥州夷安倍貞任の弟宗任、則任俘となり、宗任は松浦に配され、則任は筑後に配せらる。宗任の子孫松浦党を称す」と載せたり。宗任の配所は小鹿嶋なりと伝ふるも詳かならず、とあった。

◆ さらに「筑前の安倍氏」の項目には、筑前国宗像郡大嶋に安倍宗任の墓と称
るものあり。伝えて云う。「宗任伊予国に配流せられ、後本嶋に流され、終に此の地にて死せり。その子三人、長子は松浦に行き、松浦党の祖となり、次男は薩摩に行き、三男此の嶋に留り嶋三郎季任と云い、その子孫今に此の嶋に残れり」旧志略に見ゆ、とあった。旧志略の方が鎮西要略よりも詳しい。しかしいずれも配流された蝦夷の頭目という扱いになっている。』
(「安倍宗任と安倍晋三(古沢 襄)」より抜粋)
http://www.kajika.net/furusawa/20060709-2.htm

この記事を詳細に読んで行くと、九州の水軍松浦党とも関係してくるから相当面白い世界が広がってくる。

安倍晋三氏は現在の山口県選出衆議院議員であるから、山口と奥州との間に歴史の上での深い縁を感じてしまう。

奥州と長州のご縁といえば、明治維新政府が編成した奥州討伐軍の、とりわけ長州藩出身の「奥羽鎮撫総督府下参謀」選出の「謎」を思い出す。

『その後(世良修蔵)は薩摩の黒田清隆、長州の品川弥二郎に代えて(彼らは就任を固辞した)、薩摩の大山格之助と共に新政府の奥羽鎮撫総督府下参謀となり、戊辰戦争においては同年3月会津藩征伐の為に総督九条道孝以下570名と共に派遣された。

仙台藩・米沢藩らによる会津救済嘆願があったが、あくまで武力討伐せよという強硬姿勢を貫いたことから、次第に仙台藩士らから穏便な会津処置の障害と見られるようになった。

さらに福島城下の金沢屋に宿泊した世良が当時新庄にいた下参謀・大山宛てに閏4月19日に記した密書(「奥羽を皆敵と見て、武力をもって一挙に討伐する」と書かれていた)を、送付の依頼を受けた福島藩士を通じて入手した仙台藩士は世良の暗殺実行を決意(閏4月14日には仙台藩家老但木土佐らの承認を受けていた)。

閏4月20日未明、仙台藩士瀬上主膳・姉歯武之進、福島藩士鈴木六太郎、目明かし浅草屋宇一郎ら十余名に襲われる。

2階から飛び降りた際に瀕死の重傷を負った上で捕縛された世良は、同日阿武隈川河原で斬首された。

世良の死をきっかけとして、新政府軍と奥羽越列藩同盟軍との戦争が始まる事になる。』(世良修蔵(Wikipedia)より)

長州の品川弥二郎は足軽出身であるが、しかし奥州征伐直前のこの当時では既に大物政治家となっていたはずだ。
その大物品川が固辞するだけの理由があった役職なのである。

その奥羽鎮撫総督府下参謀の重職に、鳥羽・伏見の戦いで長州庶民軍である第二中隊(第二奇兵隊)や第六中隊(遊撃隊)の指揮車程度の人物だった世良を推挙し就任させたのである。

それは木戸の仕掛けのようである。

木戸も品川も松下村塾の生徒で、吉田松陰の薫陶を受けた人物である。

『天保14年(1843年)、長州藩の足軽・品川弥市右衛門の長男として生まれた。

安政5年(1857年)、松下村塾に入門して吉田松陰から教えを受けるが、安政7年(1859年)に安政の大獄で松陰が刑死すると、高杉晋作らと行動を共にして尊王攘夷運動に奔走し、イギリス公使館焼き討ちなどを実行している。

元治元年(1864年)の禁門の変では八幡隊長として参戦し、のちに太田市之進、山田顕義らと御楯隊を組織した。

慶応元年(1865年)、木戸孝允と共に上京して情報収集と連絡係として薩長同盟の成立に尽力した。

戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀として活躍する。』
(品川弥二郎(Wikipedia)より)

品川が奥羽鎮撫総督府下参謀役を辞去し、木戸の推挙で世良が就任し、その世良は奥州で惨殺され、その結果奥州同盟は混乱を来していく。

木戸の世良推挙が、奥州で敢えて戦争が起きるように仕組んだ「罠」のように私には見える。

世良修蔵は悲劇の死を遂げたが、木戸孝允による世良選定ロジックは大いなる歴史の謎である。

暗殺劇の発生を予見しながら、敢えてそうなるべき人物を奥州へと派遣した。
私にはそのように映る。

その後の奥州の大混乱は、会津藩壊滅という悲劇をラストシーンに迎えることになってしまう。

会津藩を完全破壊するために、木戸は世良を送り込んだのであろうか。
世良は捨て石に過ぎなかったのではないか。

明治になってしばらく年が経過したあと、木戸は世良の首と胴が埋められている場所を訪ね慰霊し、新たに墓を設けている。

そこでの木戸は、暗殺された世良に謝罪するような様子を見せていたことが、地元の関係者の証言などからうかがえる。

あるとき司馬遼太郎氏が山口県で講演を行ったことを書いた記事を読んだ。

世良修蔵が如何にできの悪い人物だったか、司馬遼太郎の歴史小説ではそう表現していたようだし、講演でもその筋書きには触れざるを得なかったのだろう。

その座談会の場に、実は世良修蔵の親族が参加していた。

主催者が司馬遼太郎氏にその旨紹介すると、司馬遼太郎氏は気まずそうな笑いを浮かべたという。

司馬遼太郎氏の「歴史小説」、つまり「創作された嘘の歴史物語」に登場する世良修蔵の姿は、実際の世良その人とはかなり掛け離れた虚像であったのではないか。

事実を踏まえた著作であるなら、世良の親族と邂逅したとしても、バツの悪い笑顔を見せる必要などさらさらないはずである。

事実と大いに異なる誇張表現をしたことについて、親族に対して済まなさを感じ照れ笑いをしたのではないだろうか。

その場の詳しい状況を知らないために確かなことは言えないが、坂本龍馬を始め理想的な日本人青年像を描くことにおいて一流の作家となった司馬遼太郎氏にしては、その実力や功績に似つかわしくない態度を世良の親族に示したものだ。

私はその記事を読んだときにそう思った。

衣川(ころもがわ)~奥州街道(4-215) [奥州街道日記]

TS393510.jpgTS393510衣川橋バス停(東京から451km)
TS393511.jpgTS393511花巻は直進
TS393512.jpgTS393512小雨の街道

花巻は直進、衣川は左折である。
私は国道4号線を進み、花巻を目指す。

左に2kmいくと「長者ヶ原廃寺跡」があると表示が出ている。
「廃寺」だけでも跡地であるは、その「跡」があるということのようだ。

「廃寺跡」なのだから、今は何も残っていないのであろうか。

衣川は古戦場である。

『前九年の役で、義家が活躍しはじめる。この時期辺境の砦は「柵」と呼ばれたが、義家は次々と破った。

ある時「衣川柵」(岩手県・平泉町附近)も落した。
その衣川に安倍貞任がいた。

敗走する貞任を、義家が馬で追った。

追いながら「衣のたて(館)はほころびにけり」と歌の下の句を貞任に投げつけた。

と貞任は振り返り、にっこり笑い「年を経し糸の乱れの苦しさに」と上の句を返してきた。

義家は唖然・感動した。
無知で卑しいとされる辺境の武人が、都の人間以上に「雅心」をもっていたとは。

義家は、この時追跡をやめたという。
いわゆる「名場面」は義家と貞任の歌問答として知られる。』(抜粋終わり)

(「衣川の戦いにおける源義家と安倍貞任との和歌による歌問答についてその内容、歌などを詳しく教えてください。」(Hatena::Question)より)
http://q.hatena.ne.jp/1175822631


同じサイトにいくつかの別の回答もあり、その中に「源義家の裏切り」という微妙な表現が登場している。

『義家が衣川の館(たち)と衣類の縦糸をかけて「衣のたちはほころびにけり」と詠んだところ、貞任は裏切りを知っていたため、「年を経し糸の乱れの苦しさに」と詠み返した。と言われています。

貞任の歌の解釈は、衣を何年も着ていると糸がほつれて、組織も何年か経つと統率が乱れてと解釈されます。』(同上)

「裏切り」という行為は、元々仲間、同胞であったものが敵側に寝返ることを指すのではないだろうか。

すると源義家と安倍貞任は、元々同族であったという仮説が成り立つ。

両者ともに日本原住民であったのか、或いは両者ともにアジア大陸からの渡来人だったのか?

私はこれまで蝦夷の立場に立って奥州街道の風景を眺めてきた。
それは渡来民族と思われる大和族による原住日本人『蝦夷』排除への反感を伴っている。

平均的日本人の血の10%程度は中近東由来の混血があるそうだ。
私の体には原始日本人の血と渡来人の血が混じっていることだろう。
なのに、奥州街道を歩くと、どうしてもアイヌの味方になろうとする自分がいる。
判官贔屓(はんがんびいき)であろうか。

最近のテレビ番組で市川海老蔵の事件に関連する報道を眺めていて、こういう解説が流れて来た。
海老蔵氏がそうだという。

「酒を飲んで顔が赤くなるのは弥生人」

私も酒を飲むと顔が赤くなる。

工場売り出し中~奥州街道(4-214) [奥州街道日記]

TS393506.jpgTS393506国道4号線を歩く
TS393507.jpgTS393507テント泊できそうな河原
TS393509.jpgTS393509売り物件「丸大ハムの工場」(2009年10月時点)

広い国道の歩道を歩いている。
川を越えた。
今は早朝であるが、もし夕方ならばぎりぎり「テントを張りたいと思う河原」である。
「ぎりぎり」とは、本当はもっと柔らかい芝生の公園で張りたいのだが、日が暮れてきたのであればここなら何とか草むらで張れそうだという場所という意味である。

川を渡ってしばらく歩くと、右手に丸大ハムの看板が見えてきた。

食肉加工工場跡のようであるが、人気がない。
よく見ると赤い文字の看板に「売物件」と書いてある。

「……」

いろいろ考えてしまうシーンである。
これも、少子高齢化社会ということなのだろうか。

食べる量も減っていく。


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