赤堂と赤頭~奥州街道(4-213) [奥州街道日記]

TS393501.jpgTS393501赤堂稲荷大明神
TS393502.jpgTS393502急な階段
TS393504.jpgTS393504赤堂稲荷の階段に座って朝日を拝む
TS393503.jpgTS393503果物屋で買ったリンゴで朝食
Oda_Akagashira.jpg熊本県八代市の松井文庫所蔵品『百鬼夜行絵巻』より「赤がしら」(赤頭(Wikipedia)より引用)

まだほの暗い早朝の国道4号線沿いに、赤堂稲荷大明神の鳥居が見えた。
中尊寺前バス停から100mも歩いていない近い場所にあるから、古代は中尊寺と同じ地域に位置していたものであろう。

赤堂は「あかどう」と読むのだろうか。
赤胴鈴之助は、剣道武具の胴部が赤かったから赤胴なのである。
ならばこの赤堂とは、本堂の色が赤いのだろうか。

「音読み」なら「せきどう」または「しゃくどう」となる。

私が「あかどう」と聞いて思い出すのは、アテルイとともに奈良の坂の上に住んでいた渡来人の田村麻呂に成敗された赤頭(あかあたま)のことである。

頭(髪の毛)が赤いならば、赤い頭、赤頭(あかとう)になる。

音読みの連想により、私は蝦夷の赤頭を想像している。
「あかどう」→「あかとう」→「赤頭」である。

赤頭は、アテルイ(悪路王)とともに大和朝廷と戦った一族である。

『悪路王の首像。
悪路王には赤頭とともに村々をあらしまわったため、田村麻呂に征伐されたとの伝承がある。
アテルイの化身とも言われる。
茨城県鹿島神宮蔵。』
(「アテルイをたずねて~水沢」より)
http://www61.tok2.com/home2/adachikg/mizusawa.htm

「赤堂」が「赤頭」かどうかは不明であるが、蝦夷の「赤頭」については全国に伝説が残っている。

アイヌのアテルイとともに田村麻呂に征伐された赤頭(あかあたま)であるが、ひょっとしたらアジア大陸からやってきた「赤毛の渡来人」である可能性がある。

『赤頭(あかあたま)は、鳥取県に伝わる怪談、及びその怪談に登場する人物の名。

その昔、鳥取県西伯郡の名和村に赤頭という名の力自慢の男がいた。
その怪力たるや、米俵を12俵まとめて運ぶほどだった。

あるときに観音堂で赤頭がひと休みしていたところ、4歳か5歳程度の男の子が現れ、観音堂の柱目掛け、素手で五寸釘を刺した。

その力もさるものながら、今後は素手で釘を抜き取ったかと思うと、やがて釘を刺す、抜くを繰り返して遊び始めた。

しかも、よく見ると素手どころか、使っているのは指1本のみだった。

赤頭は「子供に負けるか」とばかりに自分も釘を刺すが、怪力自慢の彼でも、両手で釘を刺すのがやっとで、抜き去るのは到底無理だった。
男の子はその情けない様子を笑いつつ、どこかへと去っていった。

やがて赤頭の死後、村の若者たちの何人かは、彼にあやかって力を授かろうと彼の墓に集まるようになった。

ところが夜になると、墓のもとにいる者たちの背中に大変な重みが伝わり、とても我慢ができなくなった。

その様子はまるで、目に見えない重石のようなものが背中に乗せられ、何者かがそれを背中に押しつけてきたようだったという。

備考
熊本県八代市の松井文庫所蔵品『百鬼夜行絵巻』より「赤がしら」近年の書籍では、赤頭が出会った男の子が「赤頭」という名の妖怪とされているものもある。
なお、人を驚かすだけで傷つけたりはしないとされることもある。

また、鳥取の怪談の赤頭との関連性は不明だが、土佐国吾川郡生賀瀬(現・いの町)では赤頭(あかがしら)という妖怪の話がある。
赤い髪が太陽のように輝き、あまりに眩しくて二目と見られないほどという。二本足の妖怪で歩くが、その足元は笹やカヤなど草むらに隠れてよく見えず、人に危害を加えることもないという。

江戸時代の妖怪絵巻『百鬼夜行絵巻』にも「赤がしら」という、燃えるような赤い髪を持つ妖怪画が描かれている。
これも鳥取や土佐の赤頭との関連性は不明だが、赤い髪という特徴が土佐の赤頭と似ているとの指摘もある。』
(赤頭(Wikipedia)より)

ファンタジー小説、荻原規子著『薄紅天女』(うすべにてんにょ)を参考に蝦夷の生活を表現してものがある。

『「田を作らず、衣を織らず、鹿を食う。晦でもなく、明でもなく、山谷で遊ぶ。時々、人々の村里に来往して千万の人と牛を殺す。馬を走らせ、刀を弄ぶのは、まるで雷光のようだ」と。

田を作る、ということは「牛を使って田を作ること」、「晦でもなく、明でもなく」とは、夜昼を分かたずともという意味。
だから、朝廷から見れば野蛮に見えたのでしょうか。
蝦夷とは。『薄紅天女』の時代では、古の東北の地を駆け回る、自由な人々だったのでした。』(【蝦夷とは何か】より)
http://homepage2.nifty.com/sourouguu/ogiwara/usubeni/emishi.htm

鳥取では「あかあたま」だが、熊本県八代や土佐国吾川郡生賀瀬では「あかがしら」と読むようだ。

先日ロシア映画を見ていたら、主人公が鳴り響く電話の受話器を持ち上げたシーンに偶然出食わした。

「ンダ、ンダー」と言っていた。

東北の電話口での「もしもし」は、「んだんだ」ではないのだろうか。
そう、ふと思った。
九州生まれの私にはよくわからないことである。

土佐国吾川郡生賀瀬(現・いの町)では赤頭(あかがしら)という妖怪の話がある。
土佐の赤頭(あかがしら)は、赤い髪が太陽のように輝き、あまりに眩しくて二目と見られないという。

ロシアにも赤毛の人は多いはずだ。
「赤い頭」の人である。

開山は円仁、中興は清衡~奥州街道(4-212) [奥州街道日記]

TS393498.jpgTS393498中尊寺前の光景(手前にリュック)
TS393499.jpgTS393499旧奥州街道よりも西側の国道4号線
TS393500.jpgTS393500東京より450km地点、水沢まで17km

中尊寺の門前を通る道路は旧奥州街道ではない。
旧奥州街道はもっと東側の平泉市街地を通過している。
昨夜日が暮れてから旧街道筋から離れて国道4号線の歩道を歩いてきたのである。

私が特に意図もしないのに、自然と中尊寺門前の芝生に邂逅できたことがとても不思議な気持ちである。

私の母方の祖父が九州の曹洞宗禅寺中興の祖であり、開山した円仁も曹洞宗大慈寺で育ったというから、そのご縁でお導きして頂いたのかも知れないなどと勝手に想像している。

中興といえば、この中尊寺も奥州藤原氏によって開山後数百年を経て再興されているという。

『途中略。

その後、12世紀のはじめに、奥州藤原氏の初代清衡によって大規模な堂塔の建設・整備が行われました。
寺堂の規模は、鎌倉幕府の公的記録『吾妻鏡』によると、「寺塔の数が40以上、禅坊(僧房、僧の宿舎)が300以上」であったといいます。

清衡の中尊寺建立の目的は、11世紀後半に東北地方で続いた戦乱(前九年合戦・後三年合戦という)で亡くなった人々の霊を敵味方の別なく慰め、「みちのく」といわれ辺境とされた東北地方に、仏国土(仏の教えによる平和な理想社会)を建設する、というものでした。

清衡は『中尊寺建立供養願文』の中で、中尊寺は「諸仏摩頂の場」である、と述べています。

この場(エリア)に居さえすればいい。
この境内に入り詣でれば、ひとりも漏れなく仏さまに「あぁ、おまえさんよく来た、よく来た」と頭を撫でていただくことができる。
諸仏の功徳を直に受けることができる〈まほろば〉なのだ、という意味です。』
(「関山中尊寺」より)
http://www.chusonji.or.jp/guide/about/index.html

「まほろば」という言葉はリゾートホテルやマンションの名前として何度か耳にしたことがあるが、仏教世界の桃源郷のような意味があったことを知った。

蝦夷として差別されてきた奥州藤原氏には、「功徳を受けることに於いてはなんらの差別もない」という立場を取ったのであろう。
差別をされたことがあるからこそ、差別の無意味さを熟知していたとも言える。

交通標識には『東京より450km、水沢まで17km』と出てきた。
日本橋から三条大橋まで歩く距離で495kmだという。

東海道なら終点間近となる。
奥州街道では「まだ道半ば」という気分である。

17km先の水沢(市)といえば、あのアテルイが活躍していた地名である。
とうとう蝦夷族の族長アテルイの棲息地に近づいてきた。

彼こそ「生粋の原始日本人の象徴的モデル」ではないかと思う。
この国の「元の地主」なのであり、私たち日本人の「血のルーツ」なのだ。

『「エミシ」、それは奈良時代~平安時代、都にあった人々が東北地方に住んでいた人々をさげすんで呼んだ名前である。

当時の高僧空海でさえ、エミシは人間ではなく獣か鬼の類であると書き残している。

しかし実際は、大地を耕し花を愛で鳥を友とする、都の人々となんら変わらない人間だったのである。
朝廷による理不尽な支配に耐えかね、立ち上がった胆沢のエミシ。
そのリーダーがアテルイであった。

それから1200年後、水沢の地でアテルイのすがたを求めた。』
(「アテルイをたずねて~水沢」より)
http://www61.tok2.com/home2/adachikg/mizusawa.htm

このサイトには茨城県鹿島神宮蔵になる「悪路王の首像」の写真が掲載されている。田村麻呂に征伐された悪路王はアテルイの化身と言われるそうだが、アテルイ「その人」であったと思われる。
怨霊信仰に染まった大和族が霊を鎮めるために悪人面の面を拵えたものであろうが、根も葉もないものでもないとすれば、アテルイの面影を偲ぶ遺品のようにも見えてくる。

反権力者は、悪者扱いされるのは歴史の常である。
現代のノーベル平和賞受賞者さえ、牢獄に繋がれている。

空海は渡来人佐伯氏の末裔と言われ、本名を佐伯真魚という。
佐伯氏は製鉄技術に長けていたと思われる。
鉄器のこの国への導入は、灌漑用水、開墾の生産性を著しく向上させたはずである。

『佐伯直(さえきのあたい)は古代日本の氏族で、佐伯連の下、伴造として諸国の佐伯部を率いた。
中略。

地方豪族の佐伯直氏
古墳時代の中頃(5-6世紀)に播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5ヶ国に設定された佐伯部(詳細は佐伯部を参照)の中、上記播磨を除いた各地の佐伯部を伴造として率い、また、各国の国造にも任ぜられた。

因みに、空海は讃岐の佐伯直氏出であり、安芸国の佐伯直氏は後に厳島神社の神主家となった。』(佐伯直(Wikipedia)より)

空海は讃岐の灌漑事業を行い、お遍路ツアービジネスの創設した商売上手である。

また、バイリンガルどころかトリリンガル(3ヶ国語)以上の言語能力を有していたようだ。

『最初空海は唐に20年いるつもりでした。
密教修行のためにはこのくらいの期間は必要だと思ったのでしょう。
長安青竜寺の恵果に師事します。恵果は空海の優秀さに驚嘆し、「お前こそ私の法を習得するべき人物だ」と言います。

そして早く日本に帰って密教を宣布しなさいと勧められ、2年で帰国します。
中国語はおろかサンスクリット語(梵語)まで取得して帰ったそうです。
恵果の勧めは多分本当だったと思います。

あるいは空海自身が密教の理論と実習をほぼ一瞬にして理解し、もうこれ以上中国で学ぶものはないと悟り、その旨恵果に言ったのかも知れません。

才能のある人の場合、一瞬にして膨大な学問の体系全般を悟得する事はありえます。
潜在的な可能性まで含めてです。

こうして空海は灌頂を受け、恵果の知るすべてを習得して帰国しました。
恵果はそれまで唐に入ってきたインド密教の二つの流れ、善無畏と金剛智の教えを総合して保持していました。
その後中国では仏教は衰退します。
インドでも同様です。

ですから空海はインド密教の直伝者になります。
換言すれば仏教における密教理論は空海において総合される事になります。

806年帰国。
数年は九州にいます。
すぐに都に入れなかった事情があります。
平城天皇は弟の伊予親王母子を反逆の罪で殺されました。

伊予親王の師が空海の叔父である阿刀大足(あとりのおおたり)でした。
空海は罪人の親戚になり、遠慮しなければなりません。

やがて平城天皇は退位され、嵯峨天皇の御代になります。
そして薬子の変で平城天皇の影響力は完全になくなります。

809年空海は上京します。
彼の携えてきた密教とその呪法は朝野で歓迎され、空海は嵯峨朝の文化ヒ-ロ-になります。

なによりも空海は広い教養の持ち主でした。
仏教内典は言うに及ばず、仏教以外の外典、つまり歴史や詩文にも造形が深く、加えて日本史を代表する能筆です。嵯峨天皇とはぴったりうまが合いました。

また空海は最澄と違い、南都の仏教に対して融和的に対処しました。
ごたごたは起こしません。
理論仏教である天台宗に比べて、実践優位の真言密教の融通無碍なところでしょう。以下略』(『「嵯峨天皇」補遺--最澄と空海』より)
http://blog.goo.ne.jp/masatoshi-nakamoto/e/d2ab65909b09df6b3d624b987f671d01

ここに登場する阿刀氏は空海の母方の出自ですが、天皇家との付き合いも深い立派な家柄だったようです。

空海の父母方の祖先たちは、どうやら当時の海外先進知識を習得していた帰化人だったように私には見えます。

一方、アテルイとその一族は間違いなくこの国で生まれた人間(純粋な日本人)と言えるでしょう。
もっとも、当時の東北(蝦夷)地方は「日本」と呼ばれていなかったので、生粋の蝦夷人というべきだろうが。

円仁という僧~奥州街道(4-211) [奥州街道日記]

TS393493.jpgTS393493南部鉄瓶専門店「せきひら」の前の自動販売機
TS393494.jpgTS393494関山中尊(寺)の石柱
TS393495.jpgTS393495テント泊地(リュックのある所)
450px-Yunogo2000.jpg写真 円仁(Wikipedia)より引用

午前4時、けたたましい音楽とともに携帯電話のアラームベルが鳴り響いた。
すぐに起床しテントを畳み、リュックの中に仕舞う。
その位置から周囲を見渡し、写真撮影した。

昨夜の暗闇の中で、旅館街だとばかり思っていた日本家屋の並びは2階建ての木造家屋からなる「みやげもの店」だった。
灯りしか見えなかったが、自動販売機も見える。

背中の方を振り返ると、「関山中尊○」の石柱がある。
中尊寺の山号は「関山」であるから、中尊寺の門前である。

平泉観光の目玉の場所にテントを張った私は、確かに「不審者」だった。
暗がりではそれはちょっとわからないような気がしていたが、実はぼんやりとはわかっていたことだった。

わからないフリをして図々しくテントを張っていたのである。
急な夕立、背に腹は換えられぬ。

この寺の開山は、慈覚大師、即ち円仁である。
長くなるが、中尊寺開山僧の人生を辿っておこう。

『円仁(えんにん、延暦13年(794年)~貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。
入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。
下野国の生まれで出自は壬生氏。

円仁の人物像
794年(延暦13年)下野国都賀郡壬生町(現在の壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏の一族)の壬生首麻呂の子として生まれる。
兄の秋主からは儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。

大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄の理解者であって、多くの弟子を最澄に師事させている。

15歳のとき、唐より最澄が帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい、最澄に師事する。
奈良仏教との反撃と真言密教の興隆という二重の障壁の中で天台宗の確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問と修行に専念して師から深く愛される。

最澄が止観(法華経の注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。

中略。

性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。
浄土宗の開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。

遣唐使の渡海の困難
836年(承和2年)、1回目の渡航失敗、翌837年(承和3年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。838年(承和5年)6月13日、博多津を出港。

『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。
志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。

円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁はずぶ濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

※上陸日である唐の開成4年7月2日は日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

天台山を目指すが…
最後の遣唐使として唐に留学するが、もともと請益僧(入唐僧(唐への留学僧)のうち、短期間のもの)であったため目指す天台山へは旅行許可が下りず(短期の入唐僧の為日程的に無理と判断されたか)、空しく帰国せねばならない事態に陥った。唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。

そこで円仁は遣唐使一行と離れて危険をおかして不法在唐を決意する(外国人僧の滞在には唐皇帝の勅許が必要)。

天台山に居た最澄の姿を童子(子供)の時に見ていたという若い天台僧敬文が、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。
日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って訪れて来たのだという。
唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになる。

海州東海県で遣唐大使一行から離れ、一夜を過ごすも村人達に不審な僧だと警戒され(中国語通じず、「自分は新羅僧だ」と主張しているが新羅の言葉でもない様だ、怪しい僧だ)、役所に突き出されてしまう。
再び遣唐大使一行のところに連れ戻されてしまった(『行記』839年(開成4年)4月10日条)。

在唐新羅人社会の助け
当時、中国の山東半島沿岸一帯は張宝高をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、山東半島の新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅人社会の助けを借りて唐残留に成功(不法在留者でありながら通行許可証を得る等)する。遣唐使一行から離れ、寄寓していた張宝高設立の赤山法華院で聖林という新羅僧から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめたが五台山という新たな目標を見出す。
春を待って五台山までの約1270キロメートルを歩く(『行記』840年(開成5年)2月19日~4月28日の58日間)。

五台山巡礼
840年、五台山を巡礼する。
標高3000mを超す最高峰の北台にも登山する(47歳)。

五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(『行記』840年(開成5年)4月28日条)。
五台山を訪れた2人目の日本人だという(1人目は、最澄とともに入唐し、帰国せず五台山で客死した霊仙三蔵)。

法華経と密教の整合性に関する未解決の問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。
また、南台の霧深い山中で「聖燈」(ブロッケン現象か。『行記』840年5月22日条、6月21日条、7月2日条)などの奇瑞を多数目撃し、文殊菩薩の示現に違いないと信仰を新たにする。

長安への求法
当時世界最大の都市にして最先端の文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から約1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。
その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授く。また、金剛界曼荼羅を長安の絵師・王恵に代価6千文で描かせる。

台密にまだなかった念願の金剛界曼荼羅を得たこの晩、今は亡き最澄が夢に現れた。曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれた。円仁は師の最澄を拝しようとしたが、最澄はそれを制して逆に弟子の円仁を深く拝したという(『行記』840年10月29日条)。描かせていた曼荼羅が完成する(『行記』840年(開成5年)12月22日条)。

しばらくして、唐朝に帰国を百余度も願い出るが拒否される(会昌元年8月7日が最初)が、その間入唐以来5年間余りを共に過して来た愛弟子・惟暁を失う(『行記』843年(会昌3年)7月25日条。享年32)。

また、サンスクリット語を学び、仏典を多数書写した。
長安を去る時には423部・合計559巻を持っていた(『入唐新求聖教目録』)そして、842年(会昌2年)10月、会昌の廃仏に遭い、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った(会昌5年2月)。

帰国の旅の苦難
当時の長安の情勢は、唐の衰退等も相まって騒然としていた。
治安も悪化。不審火も相次いでいた。
その長安の街を夜半に発ったが、(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)夜にも関わらず、多くの長安住人の送別を受けた。

送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁の長安暮らしを支えた長安在留の新羅人達が主であった。
餞けとして絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。
歩くこと107日間、山東半島の新羅人の町・赤山まで歩いて戻った。

この際、新羅人の唐役人にして張宝高の部下の将・張詠が円仁のために唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが、密告に遭い、この船では帰れなくなる。

「円仁が無事生きている」という情報は日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。

楚州の新羅人約語(通訳のこと)・劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトリリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。
円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈っている。

朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。
新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。
博多津に到着し、鴻臚館に入った。(『行記』847年(承和14年)9月19日条)。日本政府は円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いる様に太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている(『行記』847年(承和14年)12月14日条。54歳)

この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』で、これは日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されている(エドウィン・ライシャワーの研究により欧米でも知られるようになる)。
巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。

目黒不動として知られる瀧泉寺や山形市にある立石寺、松島の瑞巌寺を開いたと言われる。
慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされる。
浅草の浅草寺はそのひとつ。
このほか北海道にも存在する。

後に円仁派は山門派と称された。(円珍派は寺門派、両者は長期にわたり対立関係になった)。』(円仁(Wikipedia)より)

五台山巡礼のために1270kmを歩いた円仁には驚く。
四国お遍路は1周すれば約1500kmだそうだから、それに比べれば驚くにはあたらないが、750kmほどの奥州街道をふうふう言いながら歩いている私にとっては、円仁が歩いた1270kmは「驚くべき距離」である。

更に、そのあと長安まで約1100kmを53日間かけて(おそらく)歩いている。
1日20kmの旅程は、今の私の街道歩きと同じペースとなる。
大変ゆっくりした旅と言える。
しかし巡礼記には、「円仁は一日約40kmを徒歩で移動していた」と書いてあるそうだ。
毎日フルマラソンとは、修行を通り越して「苦行」である。
847年頃の円仁の帰国の様子を見る限り、日本人と新羅人がほぼ一体となって国際ビジネスに関与している様子がうかがわれる。

円仁は下野の国の生まれである。

東山道下野国(しもつけのくに)は、今の栃木県とほぼ同じであるが、群馬県桐生市の桐生川以東を含む。

大慈寺という名の寺はわが国にいくつか存在するが、円仁のいた大慈寺とは、岩手県遠野市にある曹洞宗の寺院のことであろうと思っていた。
しかし、調べてみると円仁は栃木県下都賀郡岩舟町小野寺にある「小野寺山大慈寺」で修行したという。

「慈覚大師円仁修行寺 小野寺山大慈寺」とそのサイトに書いてある。
小野小町様もゆかりがある寺だという。

『大慈寺(小野寺山 転法輪院 大慈寺)は聖武天皇の天平9年(737年)、行基菩薩によって開山建立されたと伝えられています。
別名を小野寺とも、大雄山鎮国千部道場ともいいます。
開祖行基の後は、二祖道忠様、三祖広智様と法が伝えられます。

最高に勢力があったときには、広い敷地に七堂伽藍を備え修行僧が何千人もいたといわれています。

伝教大師最澄様がおいでになり、天台宗の東国発展の基礎を築かれたお寺であります。
その折、全国六か所に建てようとされた相輪塔の一つを境内地に建立されました。

さらに、円仁様(後の慈覚大師)が9才から15才までの6年間にわたって修行を積んだ寺、四代住職になった寺でもあります。

この円仁様は、世界の三大旅行記と評価されている『入唐求法巡礼行記』を書いた僧侶として世界的に知られています。

六歌仙の一人、小野小町様も当大慈寺と関係があります。
この小野寺の地に、小野小町様が晩年を過ごしたという伝説が残されています。

また、一遍上人が訪れたとも言われています。
さらに小野寺家の祖、小野寺禅師太郎様の父、義寛様とのかかわりも深い寺院でもあります。

しかしそのような古い歴史も、天正年間の兵火(諏訪ヶ岳の戦)により焼失してしまいました。
また再建後の弘化二年にも不審火により全焼しました。

その後復興され、現在では、嘉永年間に再建された大師堂、全国6ヶ所の1つといわれる相輪塔、行基菩薩御作の薬師如来が祀られていた薬師堂、慈覚大師の座禅修行の場であった奥の院など当時の面影を彷彿させるものがあります。

また境内近辺より、「大慈寺」という銘の入った古瓦が出土し、確実に古代大慈寺の存在を証明してくれています。以下略。』
(「大慈寺概要」より)
http://www.cc9.ne.jp/~daijiji/~daijiji.gaiyou.html

この時代、修行僧が何千人もいたということは、即ち武装した僧侶兵の集団を意味しており、東北地方統治のための進駐軍の臭いがする。

知恵第一者の円仁と数千人の僧兵、当時の「知」と「力」とが栃木県下都賀郡岩舟町小野寺に集結していた。

『円仁様は9才より大慈寺で修業をはじめ、15才のときに比叡山に登り最澄様の弟子となります。

そして43才の時、天台宗の密教を完成しようという希望に燃えて唐へとわたります。
この旅の模様を円仁様自身が書き残した『入唐求法巡礼行記』は、日本人最初の本格的旅行記であり、その価値はマルコ・ポーロの『東方見聞録』、玄奘の『大唐西域記』とともに、世界の三大旅行記の一つに数えられています。

己れの出世欲のかけらもなく、ただ人々の魂を救うため、日本に仏教の火をともすため、命懸けで仏の真の道を求め続けた円仁様の信仰の生涯は、1200年後の今も私たちの心に、深い感動を与えつづけ、受け継がれているのです。

円仁誕生物語
いまからおよそ1200年前、794年(延暦13)11月15日、下野国都賀郡の上空(今の岩舟町にある三鴨山麓とも壬生町の壬生寺寺内とも言われています)に、不思議な紫色の雲がかかりました。
大慈寺の僧、広智様がその雲の下を訪ねてみると、大慈寺の檀家、壬生家に男の子が誕生したところでした。

これはきっとめでたいしるしに違いないと思った広智様は、この子はきっとすぐれた人になる、この子が大きくなったら是非私の寺に連れてきてくれないか、と頼んで帰りました。

そしてその言葉のとおりに、利発な子供に育った少年は、9才の時に大慈寺の広智様のもとで修業に入ったのです。
この少年こそ、後の慈覚大師円仁様なのでした。

大慈寺から比叡山へ
円仁様は、並居る小僧さんたちの中でも特に優秀だった上に、努力も人一倍される方でした。

15才になった円仁様は、ある日不思議な夢を見ます。
まだ見たこともないはずの僧侶が、自分の目の前に立って微笑んでいるのです。
夢の中で見えない人の声を聞きます。

「このお方は比叡山にいらっしゃる最澄様です」と。
この夢をきっかけに、円仁様は比叡山へ登り最澄様の弟子となることを願うようになるのです。

才能の開花
最澄様の弟子となった円仁様は、次第に頭角を現し、最後には最澄様の代理に講義をされるまでになりました。
そして最澄様がなくなる直前には、最澄様より一心三観の妙義を伝授されるのです。

最澄様の死後、円仁様は比叡山で6年の修行をされた後、日本各地を訪れて布教に、救済にと粉骨砕身されます。
特に東北地方への布教は特筆すべきものでありました。
その後、病を得られて比叡山の横川で療養されますが、奇跡的に快復されます。

中略。

そして円仁61才のとき、比叡山の延暦寺三代天台座主に迎えられました。
それから71才で熱病にかかり亡くなるまでの10年間、最澄様の理想を受け継ぎ、比叡山の発展につくしたのです。

亡くなって2年後の、866年(貞観8)7月4日、朝廷より「法印大和尚」の位とともに「慈覚大師」の賜号が師である最澄様の伝教大師とともに贈られました。

これは、日本で最初の大師号という栄誉です。以下略。』
(「慈覚大師円仁より」)
http://www.cc9.ne.jp/~daijiji/~daijiji.ennin.html

円仁は「大師さま」であり、そして多くの寺をこの国に創った。
その寺の一つである中尊寺の門前でテント泊できた私は、大変なご縁をいただいたことになる。

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