開山は円仁、中興は清衡~奥州街道(4-212) [奥州街道日記]

TS393498.jpgTS393498中尊寺前の光景(手前にリュック)
TS393499.jpgTS393499旧奥州街道よりも西側の国道4号線
TS393500.jpgTS393500東京より450km地点、水沢まで17km

中尊寺の門前を通る道路は旧奥州街道ではない。
旧奥州街道はもっと東側の平泉市街地を通過している。
昨夜日が暮れてから旧街道筋から離れて国道4号線の歩道を歩いてきたのである。

私が特に意図もしないのに、自然と中尊寺門前の芝生に邂逅できたことがとても不思議な気持ちである。

私の母方の祖父が九州の曹洞宗禅寺中興の祖であり、開山した円仁も曹洞宗大慈寺で育ったというから、そのご縁でお導きして頂いたのかも知れないなどと勝手に想像している。

中興といえば、この中尊寺も奥州藤原氏によって開山後数百年を経て再興されているという。

『途中略。

その後、12世紀のはじめに、奥州藤原氏の初代清衡によって大規模な堂塔の建設・整備が行われました。
寺堂の規模は、鎌倉幕府の公的記録『吾妻鏡』によると、「寺塔の数が40以上、禅坊(僧房、僧の宿舎)が300以上」であったといいます。

清衡の中尊寺建立の目的は、11世紀後半に東北地方で続いた戦乱(前九年合戦・後三年合戦という)で亡くなった人々の霊を敵味方の別なく慰め、「みちのく」といわれ辺境とされた東北地方に、仏国土(仏の教えによる平和な理想社会)を建設する、というものでした。

清衡は『中尊寺建立供養願文』の中で、中尊寺は「諸仏摩頂の場」である、と述べています。

この場(エリア)に居さえすればいい。
この境内に入り詣でれば、ひとりも漏れなく仏さまに「あぁ、おまえさんよく来た、よく来た」と頭を撫でていただくことができる。
諸仏の功徳を直に受けることができる〈まほろば〉なのだ、という意味です。』
(「関山中尊寺」より)
http://www.chusonji.or.jp/guide/about/index.html

「まほろば」という言葉はリゾートホテルやマンションの名前として何度か耳にしたことがあるが、仏教世界の桃源郷のような意味があったことを知った。

蝦夷として差別されてきた奥州藤原氏には、「功徳を受けることに於いてはなんらの差別もない」という立場を取ったのであろう。
差別をされたことがあるからこそ、差別の無意味さを熟知していたとも言える。

交通標識には『東京より450km、水沢まで17km』と出てきた。
日本橋から三条大橋まで歩く距離で495kmだという。

東海道なら終点間近となる。
奥州街道では「まだ道半ば」という気分である。

17km先の水沢(市)といえば、あのアテルイが活躍していた地名である。
とうとう蝦夷族の族長アテルイの棲息地に近づいてきた。

彼こそ「生粋の原始日本人の象徴的モデル」ではないかと思う。
この国の「元の地主」なのであり、私たち日本人の「血のルーツ」なのだ。

『「エミシ」、それは奈良時代~平安時代、都にあった人々が東北地方に住んでいた人々をさげすんで呼んだ名前である。

当時の高僧空海でさえ、エミシは人間ではなく獣か鬼の類であると書き残している。

しかし実際は、大地を耕し花を愛で鳥を友とする、都の人々となんら変わらない人間だったのである。
朝廷による理不尽な支配に耐えかね、立ち上がった胆沢のエミシ。
そのリーダーがアテルイであった。

それから1200年後、水沢の地でアテルイのすがたを求めた。』
(「アテルイをたずねて~水沢」より)
http://www61.tok2.com/home2/adachikg/mizusawa.htm

このサイトには茨城県鹿島神宮蔵になる「悪路王の首像」の写真が掲載されている。田村麻呂に征伐された悪路王はアテルイの化身と言われるそうだが、アテルイ「その人」であったと思われる。
怨霊信仰に染まった大和族が霊を鎮めるために悪人面の面を拵えたものであろうが、根も葉もないものでもないとすれば、アテルイの面影を偲ぶ遺品のようにも見えてくる。

反権力者は、悪者扱いされるのは歴史の常である。
現代のノーベル平和賞受賞者さえ、牢獄に繋がれている。

空海は渡来人佐伯氏の末裔と言われ、本名を佐伯真魚という。
佐伯氏は製鉄技術に長けていたと思われる。
鉄器のこの国への導入は、灌漑用水、開墾の生産性を著しく向上させたはずである。

『佐伯直(さえきのあたい)は古代日本の氏族で、佐伯連の下、伴造として諸国の佐伯部を率いた。
中略。

地方豪族の佐伯直氏
古墳時代の中頃(5-6世紀)に播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5ヶ国に設定された佐伯部(詳細は佐伯部を参照)の中、上記播磨を除いた各地の佐伯部を伴造として率い、また、各国の国造にも任ぜられた。

因みに、空海は讃岐の佐伯直氏出であり、安芸国の佐伯直氏は後に厳島神社の神主家となった。』(佐伯直(Wikipedia)より)

空海は讃岐の灌漑事業を行い、お遍路ツアービジネスの創設した商売上手である。

また、バイリンガルどころかトリリンガル(3ヶ国語)以上の言語能力を有していたようだ。

『最初空海は唐に20年いるつもりでした。
密教修行のためにはこのくらいの期間は必要だと思ったのでしょう。
長安青竜寺の恵果に師事します。恵果は空海の優秀さに驚嘆し、「お前こそ私の法を習得するべき人物だ」と言います。

そして早く日本に帰って密教を宣布しなさいと勧められ、2年で帰国します。
中国語はおろかサンスクリット語(梵語)まで取得して帰ったそうです。
恵果の勧めは多分本当だったと思います。

あるいは空海自身が密教の理論と実習をほぼ一瞬にして理解し、もうこれ以上中国で学ぶものはないと悟り、その旨恵果に言ったのかも知れません。

才能のある人の場合、一瞬にして膨大な学問の体系全般を悟得する事はありえます。
潜在的な可能性まで含めてです。

こうして空海は灌頂を受け、恵果の知るすべてを習得して帰国しました。
恵果はそれまで唐に入ってきたインド密教の二つの流れ、善無畏と金剛智の教えを総合して保持していました。
その後中国では仏教は衰退します。
インドでも同様です。

ですから空海はインド密教の直伝者になります。
換言すれば仏教における密教理論は空海において総合される事になります。

806年帰国。
数年は九州にいます。
すぐに都に入れなかった事情があります。
平城天皇は弟の伊予親王母子を反逆の罪で殺されました。

伊予親王の師が空海の叔父である阿刀大足(あとりのおおたり)でした。
空海は罪人の親戚になり、遠慮しなければなりません。

やがて平城天皇は退位され、嵯峨天皇の御代になります。
そして薬子の変で平城天皇の影響力は完全になくなります。

809年空海は上京します。
彼の携えてきた密教とその呪法は朝野で歓迎され、空海は嵯峨朝の文化ヒ-ロ-になります。

なによりも空海は広い教養の持ち主でした。
仏教内典は言うに及ばず、仏教以外の外典、つまり歴史や詩文にも造形が深く、加えて日本史を代表する能筆です。嵯峨天皇とはぴったりうまが合いました。

また空海は最澄と違い、南都の仏教に対して融和的に対処しました。
ごたごたは起こしません。
理論仏教である天台宗に比べて、実践優位の真言密教の融通無碍なところでしょう。以下略』(『「嵯峨天皇」補遺--最澄と空海』より)
http://blog.goo.ne.jp/masatoshi-nakamoto/e/d2ab65909b09df6b3d624b987f671d01

ここに登場する阿刀氏は空海の母方の出自ですが、天皇家との付き合いも深い立派な家柄だったようです。

空海の父母方の祖先たちは、どうやら当時の海外先進知識を習得していた帰化人だったように私には見えます。

一方、アテルイとその一族は間違いなくこの国で生まれた人間(純粋な日本人)と言えるでしょう。
もっとも、当時の東北(蝦夷)地方は「日本」と呼ばれていなかったので、生粋の蝦夷人というべきだろうが。

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