鉄道の父~萩の吉田松陰(7) [萩の吉田松陰]

SH3B0019.jpgSH3B0019あの石は何だろう?
SH3B0018.jpgSH3B0018何かの装飾石である
SH3B0018a飾り石.jpgSH3B0018a「井上勝銅像台座飾り石 5」の文字
SH3B0020.jpgSH3B0020いざ萩市内へ!

あの石は何だろう?
萩駅舎を出ようとすると、傍に大きな平たい石が置いてある。
何かの装飾石のようである。

近づくと「井上勝銅像台座飾り石 5」の文字が見える。

井上勝は、「長州ファイブ」の一人である。

先の長州ファイブの説明板下段に、井上勝の説明文があったので、掲載する。

『鉄道庁長官(鉄道の父)
井上 勝
天保14年~明治43年(1843~1910)
明治時代の鉄道官僚。

井上与四郎の子として萩城下の土原に生まれた。
一時は野村弥吉と称した。

箱館(函館)の英国領事館員に英語を学び、文久3年(1863)英国へ密航留学して鉱山・土木工学を研究。

明治元年(1868)に帰国し、鉄道頭として日本最初の新橋・横浜間の鉄道開通に尽力した。

その後、工部大輔、鉄道庁長官などを歴任して全国の鉄道網を整備し、生涯を鉄道一筋に捧げた。

また同29年に汽車製造合資会社を設立し、機関車の国産化にも努めた。

贈 萩東ロータリークラブ 創立35周年記念事業』(抜粋終わり)

井上勝は萩藩士井上与四郎の子である。
井上与四郎については多くの記事は見出せなかったが、わずかに吉田松陰に連なることを示す記事があったので抜粋する。

『松陰に入獄の沙汰が下ったことに対し、(吉田)稔麿ら塾生8人と松陰の友人3人が井上与四郎の宅へ押しかけた。

そのことにより彼らにも自宅謹慎が申しつけられたが、身分の低かった入江九一、品川弥二郎及び稔麿は残りの5人よりも遅くまで謹慎を解かれなかった。』
(「若獅子絵巻」より)
http://sacrificio927.blog72.fc2.com/blog-category-20.html

この記述からすれば、井上勝の父・井上与四郎は松陰との関係で重要な位置を占めていたことがわかる。

年齢的にまとめ役であったのだろうか。

井上与四郎の子として壮太郎というものがいる。

『井上壮太郎(いのうえそうたろう)

萩藩士井上与四郎の嫡男。

明倫館に学び、嘉永2年9月、松陰の兵学門下となる。
翌3年、剣術修業のため松陰と共に江戸遊学。
松陰の東北亡命にかかわって逼塞を命じられたこともある。

安政5年末ごろから松陰の行動に賛同できず離れた。
明治になって東京へ出たというが以後不詳。』
(「イワエモン人名帳」より)
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/iwaemon/tyo-jinmei-a.htm

井上壮太郎は松陰の脱藩東北旅行の手助けをしたのであろう。

また、鳥山新三郎に関する記事を見ると、江戸に出てきた吉田松陰のもとにおいて井上壮太郎も各地の攘夷派論客と激論を交わしている様子が見てとれる。

『(鳥山新三郎、)名は正清または景清、字は子幹と言い、義所・確齋・冢峰・蒼龍軒・關以東生はその号なり。
松陰等よりは独眼流と綽名(あだな)されたらしい。

阿波(注:安房=千葉の間違い)の農家宇山孫兵衛の子なるも、表面は旗本溝口十郎家来と称す
蓋し血縁関係があることによる。

幼にして志を立て江戸の東條一堂に従学し、兵を加藤瑞園に学ぶ。

嘉永元年30歳頃、江戸鍛冶橋外樋町河岸に私塾を営む。

嘉永4年松陰江戸に遊学し、この人の許にて、来原良蔵・井上壮太郎・土屋蕭海・同恭平・中村百合蔵の長州藩士、羽後人村上寛斎、肥後藩士宮部鼎蔵・松田重助・永鳥三平・佐々淳二郎・薩摩藩士胆付七之丞及び南部藩士江庶ッ五郎等としばしば会し劇談高論せり。

嘉永6年第2回江戸遊学の時はこの家を寓居と定め、金子重之助も後に来り投ずるに至る。

安政元年3月松陰・金子重之助踏海の挙敗れて獄に繋がれると、しばしば金品を贈り、自らも亦連座して溝口氏の邸舎に幽せられ、押し込み罰を受け、50余日にして赦される。

安政3年7月29日病没する。享年38歳。

松陰は別後も書信を往復したがその訃報を聞いて哭詩を作り、又江庶ッ五郎をして碑銘を草せしめ、同志と建碑のことを話し合う。
明治45年従五位を贈られる。』
(「鳥山新三郎を御存知ですか?」より)
http://okwave.jp/qa/q3492712.html

これらのことから、勝や壮太郎の父である井上与四郎という人物が気になるところだ。

花々に埋もれた駅前ロータリーを通り、これから萩市内観光を始める。

ここは吉田松陰が生まれ育った町である。
何かから、彼の息吹が感じられるかも知れない。

人の器械~萩の吉田松陰(6) [萩の吉田松陰]

SH3B0016Aファイブ.jpgSH3B0016A長州ファイブ写真
SH3B0016Aファイブ解説.jpgSH3B0016A長州ファイブ解説

前の記事に掲載した「長州ファイブ」の説明板の写真を拡大して部分的に抜粋したものを再掲する。

これより、解説文を抜粋する。
長州ファイブとは英語では「The Choshu Five」と表記していた。

『長州ファイブとは?

文久3年(1863)、英国に密航留学した長州出身の若者たち―伊藤博文(春輔)・井上馨(聞多)・山尾庸三・井上勝(野村弥吉)・遠藤謹助―。
近年は留学先の英国でも彼らの功績が評価され、「長州ファイブ」の呼び名で顕彰されている。

江戸時代初頭に日本人の海外渡航が禁じられて以来、国禁を破って密航したのはこの5人が最初である。

幕末期、日本は欧米列強の植民地化の危機にあった。

長州藩重臣の周布政之助は、欧米列強と互角に渡り合うためには西洋文明・先進技術を身に付けた「人の器械」が必要だと考え、行く末を若い5人に託した。

このことはただ長州藩のためだけでなく、結果的には日本の近代化に大きく貢献することになったのである。

伊藤博文 初代内閣総理大臣 
井上馨 初代外務大臣
山尾庸三 工部卿(工業の父)
井上勝 鉄道庁長官(鉄道の父)
遠藤謹助 造幣局長

鉄道庁長官だった井上勝が含まれているから、萩駅舎入り口にこの説明板が掲げられていたのだ。

「人の器械」が必要だと断じた周布政之助という人物に興味が湧いてきた。

「人の器械」という表現は、決して日本文学的ではない。
どちらかというと奴隷制度に親しんできた欧米列強側が当時抱いていた概念ではないだろうか。

近年の用語だと
思うが、ロボット工学では「人の器械」に似た響きを持つものとして「ヒューマノイド」という言葉がある。

『ヒューマノイド(Humanoid)とは、「人間に似た姿をしているが人間ではないもの」のこと。人間を含む使われ方をする場合もある。次のどれかを意味することが多い。

中略。

ヒューマノイドという言葉は、人間に類似の身体構造をもつあらゆる存在に用いられる。
従って、神話上の被造物やサイエンス・フィクションやファンタジーに登場する人工生命体(ロボット)だけではなく、最広義にはサルもヒューマノイドと言える。』(ヒューマノイド(Wikipedia)より)

西洋人から見た場合、黄色いサルもヒューマノイドとする考え方は当時の世界では当然存在していたものではないだろうか。

あの「長州ファイブ」のことである。

周布の「人の器械」という言葉がこの説明板に書かれていなかったならば、江戸期の初の密航者たちとしての単なる記念碑としてしか私の記憶に残らなかっただろう。

しかし、萩観光の玄関口で、この看板は私に強烈な刺激を与えてくれたようだ。

周布を取り巻く当時の萩の「ある世界」には、西洋の香りが漂っていたような気がする。

「人の器械」なる人間は、別の言葉で言えば「操(あやつ)り人形」とも解釈できる。

果たして、誰が何のために操ったのか、それが問題である。

長州ファイブ~萩の吉田松陰(5) [萩の吉田松陰]

SH3B0014.jpgSH3B0014歴史の道 萩往還
SH3B0015.jpgSH3B0015指月山と萩城
SH3B0016.jpgSH3B0016「長州ファイヴ」

「歴史の道 萩往還」「指月山と萩城」などの写真入りの観光説明板に並んで、この駅舎の歴史が紹介されていた。

『旧萩駅舎は、1925年(大正14年)4月に、美祢線延長の長門三隅・萩間開通にともない開業した。
屋根や窓、壁に洋風のデザインや構造が施され、大正時代末頃の建築様式を今に伝える建物として、重要な資料である。
駅舎内部は、2等(現在のグリーン席)待合室と、一般待合室とに分けられていたといわれる。』(抜粋終わり)

公共施設なのに、国民を1等、2等、3等に分けていたのである。

2等がグリーンなら、3等が庶民なのだろうか。
1等は皇室関係者と貴族であろう。

その傍に気になる案内板があった。

「長州ファイブ」と大書され、5人の歴史上の偉人らしき写真が載っている。

日本語の文字と英語の解説文と同じスペースが割かれている。

「長州ファイブ」と称する以上、この案内板が外国人観光客を意識して書かれたものであろう。

逆に言えば、英仏米などの外国人たちは、侍の時代を終わらせたのは「長州ファイヴ」たちであることを彼らの歴史の上で学んで知っていることが推測される。

萩駅に到着した外国人たちは、「あの長州ファイブか―!」という感じでこの説明版を読むのであろう。

日本人も知らなかった「長州ファイブ」とは何だろうか?

日本人である私は、最初からいきなり大きなショックを与えられた気がした。

明治維新の始まり~萩の吉田松陰(4) [萩の吉田松陰]

SH3B0011.jpgSH3B0011萩駅待合室
SH3B0012.jpgSH3B0012東京方面
SH3B0013.jpgSH3B0013下関方面

萩駅の駅舎内に入ると、見掛けよりはずっと広々とした待合室が広がっていた。
人っ子一人いない。
駅員さえ見当たらないが、奥の方にはいるのだろう。

ちょうど明治維新前後の歴史を物語る遺物の展示がされているところのようだった。
或いは観光駅だから、いつもこういう状態なのかも知れない。

観光マップは沢山印刷されて積み上げられていた。
2枚同じものを入手した。
1枚は書き込みをするためで、もう一枚は記念にと思って取った。

しかし、東京へ帰ってみるともう2枚とも紙くずに捨ててしまっていた。

私の立てた計画などは、この程度のものなのかも知れない。

改札口に駅員がいないのを幸いに私は駅の構内へと入っていった。

そして、線路の上下を眺めてみた。
山以外には何も見えないのであるが、ここから明治維新が始まったのであるから、江戸が見えるような気がしたのである。

萩市観光マップ~萩の吉田松陰(3) [萩の吉田松陰]

SH3B0026.jpgSH3B0026駅の駐車場(無料)
SH3B0025.jpgSH3B0025花壇に囲まれた駅前ロータリー
SH3B0022.jpgSH3B0022国鉄「萩駅」
SH3B0021.jpgSH3B0021白い木の電話ボックス

山を越えて萩市に入った。
真っ先に松下村塾へ駆けつけたいところだが、旅程の効率を上げるためにまずは観光マップを入手することにした。

車を止め易い場所として駅前を選んだ。
公共施設の駐車場だから無料である。

本来は公共施設や公僕は、国民のためにこういうサービスを提供していた。
しかし、今は都会では駅前ほど高い駐車場料金を取る慣習がある。

国鉄「萩駅」である。
土曜日の朝だが、まだ10時なので人気は殆どない。

花壇に囲まれた美しい白い駅舎が向かえてくれた。
小さい駅であるが、小ぢんまりして落ち着いている。

白い木の電話ボックスが歴史を感じさせてくれる。

この中に観光パンフレットがあるはずだ。

打倒家康、誓いの道~萩の吉田松陰(2) [萩の吉田松陰]

SH3B0006.jpgSH3B0006緑の森の中へ
SH3B0008.jpgSH3B0008あの山を越えていく
SH3B0009.jpgSH3B0009萩まで14kmの標識
SH3B0010.jpgSH3B0010赤い瓦

山口市へ出て、それから右へ左へと曲がり、やがて山を越えていく。
車での移動はあっと言う間である。

今の時代ではそれが当たり前なのだろうが、五街道をこの二本の脛で歩き通しタ私にとっては、自動車の旅は驚くほどに速くて、そして味気ないものだった。
便利ではある。

車の旅で最も嬉しいことは、今夜のテント宿泊地を探す必要がないことである。

適当な場所へ駐車して、車内のシュラフに潜り込むだけで一夜を過ごせる。
この獣たちから保護された自動車の内部の安心感は何者にも替えがたい。

羊の群れの山々が消えてくると山口市に入ったということだ。
やがて深い森の中へと車は入っていく。

険しい山を越えることでようやく萩市へ入る。

山越えをしながら、戦国時代の戦に破れ、失意の中に広島から山口萩へと転居させられた毛利家家臣団の気持ちを思った。

防府から山口まではほぼ直線で広い道路が続いている。

山陽方面の産業地帯と県庁所在地の山口市とは便利さで接続されている。

しかし、山口から山陰地方の海辺にある萩への道は細い山道を越える苦労を強いられる。

自動車ではあっと言う間であるが、街道歩きを想像すればとても辛く長い山間歩行が続いていたことだろう。

「徳川家康めー!」

関が原の敗戦の結末がこの苦しく長い旅である。

「いつか家康を倒してみせようぞ!」

藩主のみならず足軽の一兵卒に至るまで家臣たちがそう思わないはずがない。
その思いを300年も継続させて、幕末に発散させ切ったのである。

勝海舟や坂本龍馬の戦争を回避しようという暖かいヒューマニズムなどは長州人にとっては邪魔者でしかない。

邪魔者は消せ。

坂本龍馬暗殺の下手人説に最近は勝海舟本人説が登場してきた。
意表を突く推理ではある。

私は長州人説を考えたい。
坂本龍馬は、温和な革命によって国内戦争を回避し、徳川家を温存しようと画策した。

300年の長州の怨念をようやく晴らせる舞台であったが、それを龍馬は帳消しにしようとしたのである。

この仮説の面白さは、長州藩出身の「奥羽鎮撫総督府下参謀」選出の「謎」をも解くことである。

吉田松陰の弟子である木戸孝允は、朝廷から内示まで出ていた品川弥二郎を世良修蔵に替えさせている。

薩摩の黒田清隆、長州の品川弥二郎が奥羽鎮撫総督府下参謀では、まとまる話がまとまってしまうのである。

つまり奥羽列藩同盟が恭順し無血開城になってしまうのである。

どこかで徳川方の血を流さねばならない。

世良はその目的達成のために送り込まれたのであろう。
まとまる話を破壊してくる使命を負っていたのである。

彼岸花の咲く頃 [つれづれ日記]

70%彼岸花2.jpg写真 ヒガンバナ(Wikipedia)より引用

今朝のテレビで「ゲゲゲの女房」の総集編を見ていた。

「彼岸花の咲く頃に亡くなった人は、先祖に守られてあの世に行ける。」とゲゲゲの女房の母親が教えていた。

私の母も真っ赤な彼岸花の咲く季節に亡くなっていた。

「ああ、よかった。」と私は思った。

迷信や宗教などは、このように生き残っている人間たちをほっとさせるものでなければならない。

戒名代として数文字に何十万円も請求するような今の仏教のあり方は間違っている。

名づけは、原則無料であるべきだ。
すべて葬儀が終わってから、寄付金として任意で受け取るものとすればいい。
葬儀屋と坊主が連携して、葬儀ビジネスに戒名が組み込まれている現状はすぐに改めるべきだろう。

大事な人を失ってすぐに、戒名代の支払いで遺族を苦しめる仏教ではいけない。

遺族が何かほっとする、そういう葬儀にしていくべきだろう。

『ヒガンバナ(彼岸花) 英名 リコリス(red) spider lily
ヒガンバナ(彼岸花、学名:Lycoris radiata)は、ヒガンバナ科ヒガンバナ属の多年草。
クロンキスト体系ではユリ科。
リコリス、曼珠沙華(マンジュシャゲ、またはマンジュシャカ サンスクリット語 manjusaka の音写)とも呼ばれる。学名の種小名 radiata は「放射状」の意味。』(ヒガンバナ(Wikipedia)より)

私が子供の頃、九州大分では、「マンジュシャゲ」と呼んでいたと記憶している。

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