衣川(ころもがわ)~奥州街道(4-215) [奥州街道日記]

TS393510.jpgTS393510衣川橋バス停(東京から451km)
TS393511.jpgTS393511花巻は直進
TS393512.jpgTS393512小雨の街道

花巻は直進、衣川は左折である。
私は国道4号線を進み、花巻を目指す。

左に2kmいくと「長者ヶ原廃寺跡」があると表示が出ている。
「廃寺」だけでも跡地であるは、その「跡」があるということのようだ。

「廃寺跡」なのだから、今は何も残っていないのであろうか。

衣川は古戦場である。

『前九年の役で、義家が活躍しはじめる。この時期辺境の砦は「柵」と呼ばれたが、義家は次々と破った。

ある時「衣川柵」(岩手県・平泉町附近)も落した。
その衣川に安倍貞任がいた。

敗走する貞任を、義家が馬で追った。

追いながら「衣のたて(館)はほころびにけり」と歌の下の句を貞任に投げつけた。

と貞任は振り返り、にっこり笑い「年を経し糸の乱れの苦しさに」と上の句を返してきた。

義家は唖然・感動した。
無知で卑しいとされる辺境の武人が、都の人間以上に「雅心」をもっていたとは。

義家は、この時追跡をやめたという。
いわゆる「名場面」は義家と貞任の歌問答として知られる。』(抜粋終わり)

(「衣川の戦いにおける源義家と安倍貞任との和歌による歌問答についてその内容、歌などを詳しく教えてください。」(Hatena::Question)より)
http://q.hatena.ne.jp/1175822631


同じサイトにいくつかの別の回答もあり、その中に「源義家の裏切り」という微妙な表現が登場している。

『義家が衣川の館(たち)と衣類の縦糸をかけて「衣のたちはほころびにけり」と詠んだところ、貞任は裏切りを知っていたため、「年を経し糸の乱れの苦しさに」と詠み返した。と言われています。

貞任の歌の解釈は、衣を何年も着ていると糸がほつれて、組織も何年か経つと統率が乱れてと解釈されます。』(同上)

「裏切り」という行為は、元々仲間、同胞であったものが敵側に寝返ることを指すのではないだろうか。

すると源義家と安倍貞任は、元々同族であったという仮説が成り立つ。

両者ともに日本原住民であったのか、或いは両者ともにアジア大陸からの渡来人だったのか?

私はこれまで蝦夷の立場に立って奥州街道の風景を眺めてきた。
それは渡来民族と思われる大和族による原住日本人『蝦夷』排除への反感を伴っている。

平均的日本人の血の10%程度は中近東由来の混血があるそうだ。
私の体には原始日本人の血と渡来人の血が混じっていることだろう。
なのに、奥州街道を歩くと、どうしてもアイヌの味方になろうとする自分がいる。
判官贔屓(はんがんびいき)であろうか。

最近のテレビ番組で市川海老蔵の事件に関連する報道を眺めていて、こういう解説が流れて来た。
海老蔵氏がそうだという。

「酒を飲んで顔が赤くなるのは弥生人」

私も酒を飲むと顔が赤くなる。

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