育て主、村田清風~長州(127) [萩の吉田松陰]

SH3B0495.jpgSH3B0495境内西横に歴史館?
SH3B0500.jpgSH3B0500蝋人形が語る「村田清風(右手)と松陰(背中)」

萩・松陰神社境内を出て帰途に着くことにしよう。
そう思って境内を歩いて鳥居の下をくぐった。

夏の西日が暑いのでついソフトクリームの模型に目がいった。
そのままソフトクリームを買ってよろよろとベンチに座り、木陰で冷たいクリームを堪能した。

顔をソフトクリームから上げて自分の正面を見ると、境内の西の方に館がある。
歴史博物館のようでもある。

立ち上がって自然にそちらへ入っていった。

入館料を500~600円くらい支払ったようである。
入ってみると、なんと松陰の歴史を蝋人形で表現した館だった。

「蝋人形かあ」と落胆しつつ、逆流して出るわけにも行かないので、ざっと見て巡った。

地元の古老に松陰生存時の話を聞いたりして、地元の皆さんが語りつないできたものを小学生にもわかりやすく人形で教えたものである。

明治維新革命直後であったならば、まだ文盲の人も多かったはずだ。
蝋人形の果たした役割は大きかったであろう。

テレビが普及し、インターネットが発達した現代では、訪問する一般者は少ないように見受けられた。

修学旅行や団体旅行者が目当ての興行ということであろう。

ところが最後のこの見学が、思いがけずに私に大きな勇気を与えてくれることになった。

私は、萩のキリシタン殉教地と村田清風の居宅(別宅)の距離が近いこと、ひょっとして村田清風と松陰に隠れキリシタンを介して接点があったのではないかという推理を立てて、今回の萩訪問を企画した。

松陰とキリシタンの関係はわからないままであった。
ただ萩を追われたキリシタンたちは、松陰神社西側の道を通って山の中へ入っていったのは確かである。

松陰の母お滝の父村田右中(うちゅう)にはそれらしき雰囲気が漂っていた。
右中(うちゅう)は、毛利志摩守、支藩徳山藩主の家臣である。
萩毛利本藩から見れば陪臣である。

今回の萩訪問は「村田清風と松陰の接点探しの旅」でもあった。

それを探せないまま、これから帰京しようとしていた。

ところが幼い頃の松陰の蝋人形を見て歩いていると、藩主に向かって講義している幼い松陰の両側に藩士2名が座っており、その傍の名札に村田清風の名があったのだ。

藩主に11歳の兵学者松陰を師として立ち会わせた仕掛け人はこの二人である。
村田清風と、もう一人は甥の山田亦介だったと記憶している。

あまりの感激で、もう一人の武士の名前を記憶しないまま出てきてしまった。
それほど私にとってはこの蝋人形は嬉しい情報だったのである。

地元の人々の言い伝えを元に、正確を期して製作しただろう蝋人形である。

内部は暗いため、携帯カメラは長時間露光となり、ピントボケして写ってしまった。
よって、付き添いの藩士の傍に名札が立ててあるのだが、それも判読できなかった。

現地の蝋人形館に入って直接確かめていただくほかない。

私の記憶では、松陰の傍に臨席した藩士は、藩主に向かって右手が村田清風で、左手が山田亦介だった。

両者は伯父、甥の関係である。

村田清風が松陰を兵学者として育てたということがこの光景からよくわかる。
実際に後見人として手を下したのは、山田宇右衛門のようであるが、大きな仕掛けは村田清風が創ったのであろう。

吉田松陰(1830~1859)が吉田家に養子に行ってからの教育環境を見てみよう。
藩主慶親の前で「武教全書戦法篇」を講じたのは松陰11歳のときだった。
1783年生まれの村田清風はそのとき58歳になる。

年齢的にみて、両者が互いに同席できたぎりぎりの接点だったようだ。

村田清風は1855年(安政2年)に、持病の中風が再発して73歳で死去しているが、あの村田清風別宅内で寝起きしつつ、脱藩事件や米国密航未遂事件のことなどを頼もしく聞いていたことだろう。

そういう松陰となるべく、村田清風は松陰を引き立ててきたのである。

『中略。
五歳のとき、藩の兵学師範吉田家の仮養子となる。
翌年、養父・吉田大助が亡くなり、六歳で吉田家の八代当主となる。
大次郎と改名。 後には寅次郎、松陰を名乗る。

父と叔父玉木文之進から厳しい教育を受け、天保十(1840)年、藩校「明倫館」で山鹿流兵学を講義し、林雅人(大助の高弟)らが後見人となる。

同十一年、藩主慶親の前で「武教全書戦法篇」を講じ、慶親を驚嘆させる。

少年時代の松陰に感化を与えた人物に、家学の後見人である山田宇右衛門と、山田亦助がいる。

宇右衛門は、他流を学び海外の知識に通ずる必要性を説き、世界地図を収録した「坤輿図識」(こんよずしき)を松陰に贈って、欧米列強の存在を教えた。

また、長沼流兵学者、山田亦助を松陰に紹介した。
松陰は十六歳で亦助の門に入り、翌年に免許を受けて家伝の長沼流兵要録を贈られた。

この頃から海外の情報を得ることに熱心で、アヘン戦争についての情報を得て、強い衝撃を受ける。

十九歳で明倫館の兵学教授となる。
嘉永二年(1849)、藩の海岸線を視察し、海岸防備の必要性を実感する。

その後、九州を旅し、江戸に遊学、熊本藩士・宮部鼎蔵らとともに東北にも旅行して様々な人々と逢い見聞を広めた。

しかし手続き上の不備から亡命の罪に問われ、士籍、世禄を剥奪されてしまう。
その後、藩主より十年間の諸国遊学の許可を受け、再び江戸に向う。

安政元(1854)年、ペリー再来航時に密航を企てた罪で入獄、その後萩へ護送され、野山獄に入獄。

同二年、実家の杉家預りとなり、同四年に松下村塾を主宰。
その間、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山田顕義、山縣有朋ら約八十人の人材を育成した。

安政五(1858)年、幕府による通商条約調印を批判して、老中間部詮勝の暗殺を企てたことから、藩政府は松陰を再び野山獄に収容する。

安政六(1859)年四月、幕府より松陰の江戸護送の命が下る。
「安政の大獄」で勤皇派への弾圧が続くなか、同年10月27日、死罪となり斬首された。』(「人物紹介 長州藩」より)
http://www13.ocn.ne.jp/~dawn/choshu1.html

萩で松陰の思想形成に影響を及ぼしたのは、吉田家家学(山鹿流兵学)の後見人である山田宇右衛門と、長沼流兵学者の山田亦助だった。

大抵の記事にはそう書いてあるが、村田清風が藩主に面会させたことはほとんど出てこない。

地元萩では蝋人形で周知のことなのに、である。

この長州藩の兵学者両名は、文久元年に下関に着いた英国軍艦に乗り込み誰かと何事かを話し合っている。

『天保5年(1834年)、父の弟である吉田大助の仮養子となる。吉田家は山鹿流兵学師範として毛利氏に仕え家禄は57石余の家柄であった。

天保6年(1835年)、大助の死とともに吉田家を嗣ぐ。
天保11年(1840年)、藩主・毛利慶親の御前で『武教全書』戦法篇を講義し、藩校明倫館の兵学教授として出仕する。

天保13年(1842年)、叔父の玉木文之進が私塾を開き松下村塾と名付ける。

弘化2年(1845年)、山田亦介(村田清風の甥)から長沼流兵学を学び、翌年免許を受ける。

九州の平戸へ遊学した後に藩主の参勤交代に従い江戸へ出て、佐久間象山らに学ぶ。

嘉永4年(1851年)、東北地方へ遊学する際、通行手形の発行が遅れたため、宮部鼎蔵らとの約束を守る為に通行手形無しで他藩に赴くという脱藩行為を行う。

嘉永5年(1852年)、脱藩の罪で士籍家禄を奪われ杉家の育(はごくみ)となる。

嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のペリー艦隊の来航を見ており、外国留学の意志を固め、金子重輔と長崎に寄港していたロシア帝国の軍艦に乗り込もうとするが、失敗。

安政元年(1854年)、再航したペリー艦隊に金子と二人で赴き、密航を訴えるが拒否される。
事が敗れた後、そのことを直ちに幕府に自首し、長州藩へ檻送され野山獄に幽囚される。

安政2年(1855年)、生家で預かりの身となるが、家族の薦めにより講義を行う。
その後、叔父の玉木文之進が開いていた私塾松下村塾を引き受けて主宰者となり、高杉晋作を始め、幕末維新の指導者となる人材を多く育てる。

安政5年(1858年)、幕府が勅許なく日米修好通商条約を結ぶと激しくこれを非難、老中の間部詮勝の暗殺を企て、警戒した藩によって再び投獄される。

安政6年(1859年)、幕命により江戸に送致される。老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、江戸伝馬町の獄において斬首刑に処される、享年30(満29歳没)。』
(吉田松陰(Wikipedia)より)

山田亦介は村田清風の甥である。

ここに村田清風と松陰の間に、意外と太い関係線があることが見えてきた。

また、山田宇右衛門は世界地図を収録した「坤輿図識」(こんよずしき)を松陰に贈り、欧米列強の存在を教えたという。

後、文久3年に、山田宇右衛門は隠れキリシタン村の行政担当者として奥阿武山中に赴任することになる。

山田宇右衛門がその地区のコントロールを得意としていた理由は、おそらく宣教師や信者からもたらされる西洋情報にもかなり通じていたからであろう。

松陰は寅年生まれ~長州(126) [萩の吉田松陰]

SH3B0493.jpgSH3B0493松下村塾座敷の写真(鉢巻姿の久坂玄瑞ほか)
SH3B0494.jpgSH3B0494今年(2010年)は松陰寅次郎の「寅年」だった

松下村塾座敷に明治の偉勲たちの写真が飾ってあった。

私は鉢巻姿の久坂玄瑞の姿がこの塾生に一番にあっていると思った。

少年団が鉢巻姿で死を覚悟して革命の火蓋を切る。

ここは、そのためのボーイスカウト道場だった。

実は世田谷松陰神社鳥居の左手奥にボーイスカウトのトーテムポールが立っている。
そのことは、ほとんどの人は知らないだろう。

尤も師匠の松陰が追及した思想はもっと深いものがあった。
おそらく松陰の最終断面での思想は、天皇制度さえも否定する完全民主化路線だったであろう。

井伊直弼と幕府寄りの朝廷方はそれを聞き、震え上がったのであろう。

残酷ではあるが、萩松陰神社を去るにあたり、松陰斬首の姿に迫っておきたい。

私がかつてやったように、松陰刑死の足跡を東京・江戸で追う人の記事が二つあったので紹介する。

『松蔭が世田谷区若林に埋葬された経緯について

安政の大獄に連座し1859年(安政6年)10月27日に伝馬町の獄牢で処刑された吉田松陰の遺体は、最初は小塚原回向院に埋葬された。

その後、毛利家が所有していた東京都世田谷区若林お抱え地(現在、世田谷区若林4丁目)に改葬された。
この改葬地が現在、東京にある松陰神社となっている。

当時、刑死者の扱いは極めて粗雑で、松蔭の遺体は四斗桶に入れ、回向院のわら小屋に置かれていた。

役人が桶を取り出し、蓋を開けると、首の顔色はまだ生きてるようにも見えたが、髪は乱れ顔面を覆い、血がべったりとこびりつき、胴体は裸のままだったという。』
松蔭先生は寅年生まれ(立志尚特異・俗流與議難)
http://eritokyo.jp/independent/aoyama-col15236.htm

「胴体は裸のままだったという。」と表記している伝聞記事の出典はよくわからない。


『松陰 最初の墓
松陰処刑の報を知った在江戸の門下生達は、何とか師の遺骸を取り戻すべく百方手を尽くしたが上手く行かず、遂に正々堂々と獄吏に面会を求め熱心に引き渡しを請うた結果、その熱意と至誠に動かされた獄吏は「獄中死骸の処分に苦しむ」として小塚原回向院での交付を約し、桂小五郎、伊藤博文らが受取りに行き、四斗桶の遺体を見てあまりの処刑の凄まじさに驚いた。

首は落ち、身は一寸の衣も纏っていなく、首を繋ごうとしたが後日の検視を恐れた獄吏に止められ、各自が脱いだ衣服で遺体を包み、橋本左内の墓の左に葬り、巨石で覆った。

その後遺体は、高杉晋作らによって世田谷若林に改葬されたが、墓碑は今も回向院に現存している。

遺骸の改葬
門下生の晋作や久坂玄瑞らは、小塚原は火付けや強盗、殺人犯の遺骸の埋葬地で、このような連中とわが師を一緒にするなと他所への移葬を願い出たがこれがうまく行かず、後の大赦令の布告により現在の世田谷区若林の毛利家お抱え地に埋葬することが出来た。

この地の風景が松下村塾のあった松本村に似ており、この地が選ばれたようである。
明治に入り、この地に松陰神社が建てられたのはご存知の通りである。』
(「東京の中の防長・見てある記 2」より)
http://homepage3.nifty.com/ne/kk/kk-kaiho/kk-1999/1999-14/p-05.html


斬首直後に幕府の目に隠れて、桂小五郎(木戸孝允)、伊藤博文らが遺体に面会していることは始めてこの記事で知った。

これにも胴体が全裸であることがかかれている。

見るに忍びず、彼らは着ていた着物を脱いで遺体に着せたようだ。

首を縫うことも許されずに、回向院を立ち去っている。

将軍が日光へ行くときに通る御成街道を南へくだりつつ、木戸も伊藤も泣いたことであろう。

しかし、このとき晋作らはその場にいたのだろうか。

松門の三秀(晋作、久坂、吉田稔麿)のいずれか一人でもこの場にいたならば、幕吏の命令とは言え、首と胴体を縫い合わせずにこの場を立ち退けただろうか。

松陰の弟子といえども、伊藤博文は松門の三秀と大きな温度差を持っているようだ。

木戸孝允は松陰の弟子ではない。
木戸孝允は、明倫館教授でもあった松陰が、明倫館で兵学を教えた学生の中の一人に過ぎない。


平戸行きを勧めた人物~長州(125) [萩の吉田松陰]

SH3B0489.jpgSH3B0489松下村塾(松陰神社境内)
SH3B0490.jpgSH3B0490講義室
SH3B0491.jpgSH3B0491庭から講義室を見る

萩の松陰神社境内にある松下村塾の講義室の前に来ている。

庭の方から講義室を眺めていると、松陰が本を読む声が聞こえ、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿らがそれを復唱する姿が見えてくるようだ。

東京・世田谷の松陰神社横の墓所で松陰の墓に参った。

葉が真っ赤に色づいた11月のことだった。
楓の木の下の埋められている長州人の青年松陰の死の理由について考えようと思った。

静かに落ち着いた田舎町の萩で生まれ育った青年が、なぜ江戸で罪人として斬首されるまでに至ったのか。

山口県で20年間ほど暮らしたことのある私には、とうてい想像がつかない異常事件である。

誰が松陰青年をそういう過激志士へと教育したのか、それが大問題である。

平戸は、松陰が藩外へ出た最初の旅の行き先だった。
その藩は新生日本の天皇の誕生に関係していたことは先の記事で述べた。

藩主松浦清(静山)のひ孫が明治天皇だった。
私の推理では、静山の孫忠光と天皇を入れ替えており、入れ替えられた方の天皇は忠光になりすまして攘夷の第1声を発するため長州下関へやってきていた。

その間に滞在中の長府藩から惨殺された。
忠光が長府藩士に暗殺されたのは事実であるが、身代わりだったかどうかは議論の余地があるだろう。

若き松陰が、修行のために平戸へいくのを大げさに誉めて薦めた兵学者が萩にいた。

彼は幼い頃の松陰の後見人で、周防国熊毛郡上関(かみのせき)の生まれである。

私は司馬遼太郎著「世に棲む日日」でそのくだりを読んだが、その部分を抽出している記事があったので、抜粋する。

『松陰は平戸に留学する。生まれて初めて長州藩の外に出た。

この山田宇右衛門が、
「遊歴のこと、容易なことではおゆるしがおりまい。いったい、どこへゆくつもりか」と、松陰にきいた。

「肥前(長崎県)平戸へまいりたいとおもいますが」

松陰がいうと、宇右衛門はひざをうって声をあげ、
「こいつはぐうぜん、一致した。わしも平戸がよいとおもった。平戸へゆけ。ゆけば、おぬしの学問がひと皮むけるはずだ。」
と、ひどく昂奮した。

山田宇右衛門が「平戸、平戸」と、しきりにいう肥前平戸とは、わずか六万一千石の小藩にすぎない。

そのおもな藩域である平戸島は、まわりが一六〇キロ、山がほとんどで海岸に断崖がせまり、人口は三万に足りない。

しかしこの藩(松浦家)はむかしから学問のさかんなことで有名であり、多くの人材を出したが、いま松陰が考えつづけている平戸ゆきの目的は、かれの専門である山鹿流兵学の研究のためであった。
中略、

話をはやく他へ転じたいとおもいながら、この稿における松陰はまだ九州に、とくに平戸に居つづけている。

このこと、どうも筆者にとってやむをえない。
なぜならば松陰にとって最初の外界への旅立ちである九州旅行は、この青年の生涯のものの考え方の一部をきめてしまったようにおもえるからである。

このうつくしい城のある平戸島は、島そのものが書物の宝庫のように松陰にはおもえた。さまざまの書物を借りだしては読み、あるいは全部写したり、一部だけ写しとったりした。』
(「世に棲む日日(その3)平戸編」より)
http://homepage3.nifty.com/torabane/meisaku27.htm

『この青年の生涯のものの考え方の一部をきめてしまったようにおもえる』と司馬氏はほのめかしているが、司馬氏はもっと確かな証拠をつかんでいたのではないだろうか。

彼は京都で寺社に関する新聞記者をしていたから、宗教関係については造詣が深かった。

おそらくそれを知っていても言えなかったのであろう。

私は、山鹿素行の末裔、山鹿万介が家老をする平戸藩滞在中に、青年松陰は別人となるべく訓練か修行がほどこされたものと推理している。

ひょっとすると、それは「宗教的な洗礼のような儀式」だったかも知れない。

後の松陰の江戸における悲惨な死は、平戸訪問によって決定付けられたと言ってもよい。

それに比べると、司馬遼太郎氏の言い方は慎重である。

松陰を斬首刑に追い込んでいくことで、三条実美や月性が育てた草莽たちをまんまと崛起させた。

そういう「闇の力」がこの国に存在すると仮定しよう。

その組織はこの国の出版界をも牛耳っている可能性が高い。
とくに革命成就した明治以降の活版印刷事業には深くかかわっているだろう。

世界で最初に活版印刷を事業活用したのは、確か「聖書」ではなかっただろうか。

司馬さんには、作家の生活がかかっている。
だから司馬氏も慎重な表現にならざるを得なかったのだろう。

さて、この小説では長州藩の山田宇右衛門が松陰の平戸行きの願いを吟味し、承認した人物として登場してきた。

山田宇右衛門は、幼い頃の松陰の後見人であった。

松陰に平戸へ言ってみたいと言わせることなど造作もないことだろう。
言わせて、誉めて、旅立たせている。

山田宇右衛門は、革命直前に55歳で世を去っている。

『名は頼毅、号を治心気斎(じしんきさい)または星山という。
長州藩士、禄100石。
文化10年(1813)熊毛郡上関(山口県)に生まれる。
藩士増野茂左衛門の三男。
 
文化14年、山田家を継ぐ。
吉田大助門下の高弟で松陰幼少時代の後見人、また山鹿流の代理教授も行う。

松陰の教育には最も力を尽くし将来の方向を与える。
松陰はその人物に敬服し、終生先生として崇める。
 
安政元年(1854)2月浦賀戌衛総奉行の手元役、2年3月長崎薩摩に出かける。
後徳地の代官。

文久元年(1861)5月英国軍艦が馬関(下関)に碇泊すると山田亦介(またすけ)と出張する。

文久2年8月学習院用掛として上京、勤皇のことに働き、帰国して参政する。
文久3年奥阿武の代官、慶応元年1月表番頭格に進み兵学校教授、2月には参政し教授を兼務。当時恭順派(きょうじゅんは)が失政し、その後をうけて藩政を改革し、兵備を拡張し幕府との戦いに備える。
 
慶応2年四境戦争に勝利したのは彼の功績は大きい。
5月撫育方(ぶいくがた)用掛を兼務。慶応3年6月民政方改正掛となり、11月11日亡くなる。享年55歳。明治31年正四位を贈られる。』
(「山田宇右衛門」より)
http://www9.ocn.ne.jp/~shohukai/syouinkankeijinnbuturyakuden/kankeijinbutu-y.htm

文久元年(1861)5月、英国軍艦が馬関(下関)に碇泊するとこれを訪ねていると紹介されている。

攘夷を叫んでいた長州人が、なぜ英国軍艦を訪問したのであろうか。
その3年後には、山田宇右衛門は奥阿武の代官をしている。

松陰の後見人で山鹿流兵学の代理教授たる人物が、この風雲急を告げる文久3年に山奥のキリシタン遺跡のある奥阿武の代官となって静かにしている意味は何なのか。

それは文久元年にあった英国人との話と、どう関連しているのか。

兵学専門家だった山田宇右衛門がキリシタン村のある奥阿武の代官をしていた文久3年とは、長州藩にとって藩滅亡の寸前にまで行った大変な年である。

山の中の村民の生活指導どころの事態ではない。

山田はあえて長州藩自体、それも長州の古い体質を対英国戦争で破壊しようとしていたのではあるまいか。

兵学者が戦略も持たずに戦争を眺めたりはしないはずだ。
ある戦略をもって、山中の行政担当として戦争中に引きこもったと私には読める。

明治天皇の叔父の中山忠光が狐一疋(ひき)を光明寺へ持参し、その1ヵ月後に下関戦争は火蓋を切った。

砲撃開始の合図は、松陰の一番弟子の久坂玄瑞の仕事であった。

次の記事の中に、米国南北戦争の終結間際にアジア方面へと逃げていった南軍の軍艦を追って日本へやってきた北軍の軍艦のことが出ている。
彼らもやはり久坂らの砲撃を受けている点に注目すべきである。

アメリカ南北戦争の勝敗があらかた決まり、やがて世界中の武器が余るという時代が文久3年であった。

既に述べたことだが、黒人奴隷だけで編成した北軍側部隊が白人だけの南軍正規部隊を負かしたことがきっかけで、戦争の勝敗が分かれた。


銃による近代武装によれば、農民兵中心であっても幕府の正規軍を負かすことができると言う知恵は、形を変えて世界中に伝わったはずである。

晋作も上海や長崎の米国人宣教師フルベッキから聞かされていたはずだ。
それが奇兵隊へとつながってくる。

明治維新とアメリカ南北戦争の関係を分けて考える限り、松陰の死の謎は解けない。

この攘夷戦争のあとで、世界中に余った大量の武器が「まるで長州藩が江戸幕府に勝利するかように」大量に届けられるのである。

『1863年(文久三年)5月、攘夷実行という大義のもと長州藩が馬関海峡(現 関門海峡)を封鎖、航行中の米仏商船に対して砲撃を加えた。
中略。

長州藩の攘夷決行
攘夷運動の中心となっていた長州藩は日本海と瀬戸内海を結ぶ海運の要衝である下関海峡に砲台を整備し、藩兵および浪士隊からなる兵1000程、帆走軍艦2隻(丙辰丸、庚申丸)、蒸気軍艦2隻(壬戌丸、癸亥丸:いずれも元イギリス製商船に砲を搭載)を配備して海峡封鎖の態勢を取った。

攘夷期日の5月10日、長州藩の見張りが田ノ浦沖に停泊するアメリカ商船ベンプローク号(Pembroke)を発見。

総奉行の毛利元周(長府藩主)は躊躇するが、久坂玄瑞ら強硬派が攻撃を主張し決行と決まった。

海岸砲台と庚申丸、癸亥丸が砲撃を行い、攻撃を予期していなかったベンプローク号は周防灘へ逃走した。

初めて外国船を打ち払ったことで長州藩の意気は大いに上がり、朝廷からもさっそく褒勅の沙汰があった。


フランスの通報艦キャンシャン号の被害23日、長府藩(長州藩の支藩)の物見が横浜から長崎へ向かうフランスの通報艦キャンシャン号(Kien-Chang)が長府沖に停泊しているのを発見。

長州藩はこれを待ち受け、キャンシャン号が海峡内に入ったところで各砲台から砲撃を加え、数発が命中して損傷を与えた。

キャンシャン号は備砲で応戦するが、事情が分からず(ベンプローク号が攻撃を受けたことを、まだ知らなかった)交渉のために書記官を乗せたボートを下ろして陸へ向かわせたが、藩兵は銃撃を加え、書記官は負傷し、水兵4人が死亡した。

キャンシャン号は急ぎ海峡を通りぬけ、庚申丸、癸亥丸がこれを追うが振り切られ、キャンシャン号は損傷しつつも翌日長崎に到着した。

26日、オランダ東洋艦隊所属のメジューサ号(Medusa)が長崎から横浜へ向かうべく海峡に入った。

キャンシャン号の事件は知らされていたが、オランダは他国と異なり鎖国時代からの長い友好関係があり、攻撃はされまいと判断していた。

だが、長州藩の砲台は構わず攻撃を開始し、癸亥丸が接近して砲戦となった。
メデューサ号は1時間ほど交戦したが死者4名、船体に大きな被害を受け周防灘へ逃走した。

米仏軍艦による報復
この時期のアメリカは南北戦争の最中で、軍艦ワイオミング号(砲6門)は南軍の襲撃艦アラバマ号の追跡のためにアジアに派遣されていたが、アメリカ公使ロバート・プルインの要請を受けて横浜に入港していた。

アメリカ商船ベンプローク号が攻撃を受けたことを知らされたデービット・マックドガール艦長はただちに報復攻撃を決意して横浜を出港した。


米艦ワイオミング号の下関攻撃
6月1日、ワイオミング号は下関海峡に入った。
不意を打たれた先の船と異なり、ワイオミング号は砲台の射程外を航行し、下関港内に停泊する長州藩の軍艦の庚申丸、壬戌丸、癸亥丸を発見し、壬戌丸に狙いを定めて砲撃を加えた。

壬戊丸は逃走するが遙かに性能に勝るワイオミング号はこれを追跡して撃沈する。

庚申丸、癸亥丸が救援に向かうが、ワイオミング号はこれを返り討ちにし庚申丸を撃沈し、癸亥丸を大破させた。

ワイオミング号は報復の戦果をあげたとして海峡を瀬戸内海へ出て横浜へ帰還した。

もともと貧弱だった長州海軍はこれで壊滅状態になり、ワイオミング号の砲撃で砲台も甚大な被害を受けた。


フランス艦隊による報復攻撃6月5日、フランス東洋艦隊のバンジャマン・ジョレス准将率いるセミラミス号(砲36門)とタンクレード号(砲6門)が報復攻撃のため海峡に入った。

セミラミス号は砲36門の大型艦で前田、壇ノ浦の砲台に猛砲撃を加えて沈黙させ、陸戦隊を降ろして砲台を占拠した。

長州藩兵は抵抗するが敵わず、フランス兵は民家を焼き払い、砲を破壊した。
長州藩は救援の部隊を送るが軍艦からの砲撃に阻まれ、その間に陸戦隊は撤収し、フランス艦隊も横浜へ帰還した。

米仏艦隊の攻撃によって長州藩は手痛い敗北を蒙り、欧米の軍事力の手強さを思い知らされた。

このため、長州藩は士分以外の農民、町人から広く募兵することを決める。
これにより高杉晋作が下級武士と農民、町人からなる奇兵隊を結成した。
また、膺懲隊、八幡隊、遊撃隊などの諸隊も結成された。

長州藩は砲台を増強し強硬な姿勢を崩さなかった。」(下関戦争(Wikipedia)より)


「藩兵ほか1000名、帆走軍艦2隻、蒸気軍艦2隻配備して海峡封鎖の態勢」を取っている文久3年に、松陰の後見人で山鹿流兵学代理教授たる人物が隠れキリシタン村の代官として阿武山中の村民生活全般の世話を焼いていたことは、とても信じがたいことである。

戦争の帰結を確信しており、しばらくは高みの見物としゃれ込もうという心境ではなかったか。

かつて東北遊歴の際に、松陰は友人との約束を優先して藩主を裏切り脱藩した。
そのとき来島、宮部らの説得を受け入れ、松陰は帰藩し野山獄へ入れられた。

そのとき後見人であった山田宇右衛門老人は松陰になんと言ったか。

「脱藩したのになぜおめおめと帰ってきたのだ。お前のような根性なしとは今後絶縁する」という意味の言葉を松陰へ与えている。

「友人との約束のためなら、藩主への忠誠なんて忘れちゃえ。」

そう言ったも同然である。

長州藩などという小藩は捨て去り、日本人兵学者として大きく国防に身をささげよといいたかったようである。

『松陰は叔父玉木文之進以外からも兵学を学んでいった。

山田宇右衛門は吉田大助の高弟で、江戸から帰ったばかりだった。
宇右衛門は西洋列強の侵略に対する危機意識を喚起し、海防研究を兵学上の重要課題とした。

さらに、長沼流兵学を山田亦介から学んだ。
亦介は国内外情勢に詳しく、西洋兵学も研究していた。

この二人の師の影響で、西洋列強からいかに国を守るかの研究に没頭するようになっていった。

二十歳の時、外国との水戦、陸戦について論じた『水陸戦略』を藩に提出した。

そこでは、日本の危機を指摘し、軍備の充実を論じているが、戦術としては「大船より小船のほうが適している。

小船なら素早く動け、砲術も正確で大きな外国船にはよく命中する。
外国船は大きく動きにくく、大砲の弾丸は遠くへ飛ぶが、命中しにくい」と述べている。

危機感はあっても、外国事情に関しては、まだ井の中の蛙であった。』
(関根徳男著「偉人たちの獄中期」より)
http://www.page.sannet.ne.jp/tsekine/book1-1.htm

外国にはとてもかなわなかったのが幕末の歴史事実だったから、この記事の著者は松陰の海防論を井の中蛙と形容している。

一部あたってはいるが、しかし、私はそうは思わない。

幕府と薩長土肥が一致協力して松陰の戦法を取っていれば、日本の沿岸戦であれば日本水軍は戦えたのではないかと思う。

「小船なら素早く動け、砲術も正確で大きな外国船にはよく命中する。」という戦法は、暗闇の周防大島沖で晋作が西洋式の幕府軍艦に仕掛けた戦法であり、長州藩の勝利へ貢献している。

もっとも昼間の戦闘では下関戦争では散々な目にあっているから、武力の差異は大きかった。

ベトナムのベトコンのような闇夜での艦船攻撃を継続することで、相手の戦意を喪失させることはできたかも知れない。

当時は日本の造船技術が未熟だったので、沈めてしまえば異人は帰国できなくなる。
日本刀がうじゃうじゃいるこの国で生きていくのは大変なことだっただろう。

そういう海防研究を兵学上の重要課題としていた山田宇右衛門が、文久3年に隠れキリシタン村の行政担当者として生活指導をしていたということが脳裏に焼きついている。

文久元年に下関で英国軍艦に乗り込んだ山田宇右衛門は、誰と、何を、話し合ったのだろうか。

おそらく相手は英国通訳書記官アーネスト・サトウであろう。
話し合ったテーマは幕府の怒りも配慮して、当然極秘扱いとしたはずだ。

アーネスト・サトウの日記抄、荻原延壽著「遠い崖」は全14巻を全て読んだが、下関戦争の3年前(文久元年)に長州藩兵学者山田宇右衛門と密談があったという記載の記憶はない。

英国軍艦の表向きの用事は、薪と水の補給を長州藩に申し入れただけであろう。

日本革命を仕掛けるスパイサトウと、長州藩の山鹿流兵学の代理教授との面談である。

国防や戦争、それへの英国軍支援などの話題が出ないはずはない。

山田は、ともかく一番重要な局面に臨んで、山の中のキリシタン村の行政担当を命じられている。

松陰が脱藩後に帰藩した態度をきつくなじった山田であるが、その厳しい姿勢は下関戦争を前にして急におとなしくなっている。

それはなぜだろうか。

55歳で無くなったのは、その4年後の慶応3年である。
文久3年当時の山田は、51歳である。

死の前の隠居仕事というにはまだ早い。

慶子の夢は~長州(124) [萩の吉田松陰]

SH3B0484.jpgSH3B0484 松陰の実家「杉家」
SH3B0488.jpgSH3B0488杉家の井戸

貧しかったこの松陰の塾にも、中山公子が訪ねてきたことがあるのではないか。
ならば、そのときは久坂が連れてきたのであろう。

それがもし「明治天皇になるはずだった孝明天皇の子」だとしたら、「連れてきた」ではなく「お連れした」と表現を変えねばなるまい。

「幕末日本史にとても重要な役割を果たす公家の名、中山忠能が登場してきた。
このことから、一気に「中山公子」の実像が見えてきた。
それは平戸藩主のひ孫で、明治天皇の叔父となる人物である。」

こう先の記事で書いた。
おそらくそこまでは史実であっただろう。

この稿では、約1年間情報不足のために足踏み状態だった私の推理を、勇ましく発展させていきたい。

幕末の平戸藩主とは、松浦清のことである。

「(松浦)清は17男16女に恵まれた。
そのうちの十一女・愛子は公家の中山忠能と結婚して慶子を産み、この慶子が孝明天皇の典侍となって宮中に入って孝明天皇と結婚し、明治天皇を産んでいる。」
(「松浦清(Wikipedia)」より)

つまり、松浦清(静山)が皇室の寝室へ接近するために、娘愛子を公家に嫁がせて、生まれた娘を天皇の妻としている。

松浦清に利用された公家(婿)の名が、中山忠能である。
公家とはいえ、中山忠能は家禄わずか二百石の貧乏公家である。

静山の娘愛子が産んだ慶子が、孝明天皇の妻となって、明治天皇を産んでいる。

中山忠能自身は明治21年(1888年)、80歳まで長生きしているから、決して悲劇の死ではない。

だが、その息子が大変な「悲劇の死」を遂げている。

『中山慶子の弟・中山忠光(1845-1864)は14歳で孝明天皇の侍従となり、万延3年に睦仁親王の祇候となった。

文久3年、吉村寅太郎らの天誅組を指揮して反乱を起こしたが、敗れて長州下関で暗殺された。』
(「中山忠能と明治天皇すりかえ説」より)
http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_916c.html


中山忠光は、睦仁親王(後の明治天皇)の祇候となっている。
祇候(伺候)とは、「謹んで貴人のそば近く仕えること」であり、立身出世の道でもある。

つまり、中山忠光は本物の明治天皇のお傍に仕えていて、明治天皇の顔や性格までもよく知っていた。

もし、明治天皇をすり替えたものがいたとすれば、中山忠光が京都に居てはたいそうまずいことになる。

長州に旅に出ているという中山忠光の口封じを急がねばなるまい。

中山忠光は、何かの手違いで殺されたのではなく、狙って殺害されているのだ。

白石正一郎は日誌に「中山公子とは、悲劇の死を遂げた云々」と書いていた。
それは、中山慶子の弟・中山忠光のことだった。

これらのキーワードでもう一度「悲劇の死」を検索すると、「そのものずばりの記事」に遭遇することができた。

今までも何となくモヤモヤっとしていて「よくわからなかったこと」が、これによりはっきりと見えてきた。

可能性のひとつとして、「悲劇の死」を遂げた青年が実は慶子の生んだ祐宮(さちのみや)(後の明治天皇)であったのではないか、などと私は勝手な推理をしている。

あながち、あり得ないことではない。

つまり、「中山忠光と明治天皇がどこかで入れ替わっていた」という推理である。

そう推理する根拠は、慶子の父にある。
松浦静山が「慶子の子の入れ替え」も可能な位置、外戚の祖父という立場にいたから、推理の可能性も随分と高くなるのである。

そうでなければ、そういう推理は成立し得ない。

そう仮定すると、もし長州で中山公子が「明治天皇を詐称する人物」に会ったとき、そのうそを見破ることはいとも容易(たやす)いことである。
証明する手間が省けるのだ。

なにせ、「中山忠光を名乗る自分こそ、本物の睦仁親王(のちの明治天皇)である」からだ。

歌舞伎やドラマの忠臣蔵を見てもわかるが、松浦静山は歴史をドラマチックに創ることに情熱を注いだ人である。

「攘夷決行」の光明寺境内で、久坂に攘夷発砲の最初の命令を下すのは、実は幼い頃の明治天皇(当時は睦仁親王)だった、そういうドラマはあまりに美しいのではないか。

私は、次の記事「公子・中山忠光」を読むとき、「中山忠光=実は祐宮(さちのみや)」という仮説を立てて読んでいる。

そのために、この記事の内容は息を呑むものがある。

なぜそういう仮説を立てるかというと、松浦静山にはそうできる権限もあったし、そうなる必然性もあったからである。

静山は、やがて天皇になるひ孫を温室で育てることを好まなかった。

いよいよ孝明天皇の攘夷の『詔勅』命令を受け、日本全土で攘夷の火を発する時がやってきた。

その第一発が我がひ孫から発せられ、それが革命後の新天皇になる男児であったとすれば、これほど「天晴(あっぱ)れ」なことはない。

そう静山は考えたはずだ。
そうする必然性が静山の心中に生まれたと私は思う。

歴史を華やかに彩ることが好きな静山は、常に慶子の傍にいた。
慶子の傍とは、孝明天皇の閨にも近い。

慶子の夢は何だったのか。
慶子の夢はいつ開くのか。

慶子は正室ではない。
慶子が生んだ男の子は、いずれの九条の娘の手に渡るのである。

『万延元年7月10日(1860年8月26日)、勅令により祐宮(さちのみや)は准后女御・九条夙子の「実子」とされ、同年9月28日、親王宣下を受け名を「睦仁」と付けられた。』(中山慶子(Wikipedia)より)

慶子は8歳のわが子祐宮を九条夙子に取られている。
それも絶対に断れない「勅命」によって、である。

もし子を入れ替えておけば、わが子はいつまでも慶子の手元で育てることはできる。
ひ孫であれ、子であれ、手元に置きたいのは人情であろう。

慶子の夢は、静山の夢でもあった。

わが子に「その叔父中山忠光」を名乗らせて新日本の歴史創造の旅をさせている間に、シナリオが狂って預けていた長州藩、正確には支藩である長府藩に子を殺されるとは慶子も、その祖父静山も思っていなかったことだろう。

大和国の攘夷第一発砲の命令を、長州藩光明寺党を率いて馬関海峡に向けて発する忠光の姿は、いかにも神々しく美しい。

以下のことは、長州人もあまり知らない話題であろう。
長い記事だが、割愛せずに全文を引用したい。


『「思ひきや 野田の案山子(かかし)の 梓弓(あずさゆみ) 引きも放たで 朽ちはつるとは」

この和歌の詠み手の名を中山忠光と言う。
忠光は、大納言中山忠能(ただやす)の第五子である。

姉の慶子が宮中に出仕し、後の明治天皇・祐宮(さちのみや)を生んだことから、忠光は明治天皇の叔父にあたる。

祐宮は中山家の敷地内に設けられた御産所で生まれ、5歳になるまで中山家で養育された。

そして、祐宮が宮中に戻った翌々年の正月、14歳の忠光は、従五位侍従に叙せられ、宮中に出仕している。

宮中では異色の存在だったようだ。

場所もわきまえず、いきなり同輩に相撲をいどんだとか、衣冠束帯のまま袴の裾もとらずに賀茂川の浅瀬を歩いて渡ったとか、殿上人らしからぬ逸話がいくつか残っている。

明治天皇は大の相撲好きで、おまけにすこぶる強かったというのは、あるいは、この、型破りだった叔父の影響かも知れない。

忠光が土佐や長州の志士たちと盛んに交流し、尊皇攘夷の激派として頭角を現すようになったのは文久2年秋以降のことである。

この時、忠光は18歳。
土佐勤王党の党首・武市半平太の寓居を訪れ、「和宮降嫁を推進した宮中の奸物どもを刺そうと思うから、刺客を何人か貸して欲しい」と言ったという。

その頃、天誅の指令塔のようだった武市も、これには仰天したに違いない。

もっとも、この天誅計画は実行には移されなかった。

父の忠能が、忠光の前に立ちふさがり、「どうしてもやるなら、この私を刺してからやれ!」と、捨て身で引き止めた。
問題児を持つ父親の苦労は今も昔も同じである。

文久3年3月11日。
孝明天皇は、将軍・徳川家茂をはじめとする諸侯を従え、攘夷祈願のため賀茂神社に行幸した。
この時は忠光も騎馬で行列に加わったが、7日後の18日には忽然と姿を消している。

心配した忠能は八方手をつくして探したが、いくら探しても見つからない。
そうこうしているうちに、忠光の従僕が1通の書状を携えて戻ってきた。
それは大阪で書かれたもので、内容は以下のようなものだった。

「段々ご心配のこと、深々恐れ入り奉り候。然れば、皇国御ために相なり候心得にこれあり。不孝の次第、実にもって恐れ入り候。兼ねて御預け申し上げ候金子早々御まわし願い上げ候なり 忠光」

つまり、「ご心配をおかけして申し訳ありませんが、皇国のためにひとがんばりしたいと思いますので、そのための活動資金として、お預けしているお金を大至急おまわし下さい」
と言ったところか。

詳しいことは何一つ書かず金銭を要求するあたり、いかにも苦労知らずのお坊ちゃんである。驚いた忠能は、すぐさま使者を大阪に遣るが、忠光の姿はすでになかった。
久坂義助や入江九一の手引きで、海路、長州へ向かっていたのである。

3月26日に富海に上陸し、4月1日には下関の豪商・白石正一郎の屋敷に落ち着いている。

そのうち久坂義助が、数十人の浪士を率いて下関へやってきた。

忠光は久坂たちに担ぎ上げられ、光明寺党の党首として攘夷戦に参加。

5月10日の攘夷期日を待って、海峡を航行する異国船を次々と攻撃した。
ふいをつかれた船は、応戦もできずに大あわてで逃げていく。

その船影を見ながら忠光も浪士たちと共に快哉を叫んだに違いない。

文久3年6月8日、森俊齋と改名した忠光は、同志18人をしたがえて京都へ舞い戻った。
忠能は、無事に戻ってきた息子を見て、さぞかし喜んだことだろう。

ところが、ほっとしたのもつかの間、2カ月後の8月14日に、不肖の息子は再び家を飛び出し、2度と戻っては来なかった。

忠光が出奔する前日、尊攘派の画策により、大和行幸の詔(みことのり)が発せられた。
その建前は「攘夷祈願」であったが、真の目的は、大和の国に陣取って、攘夷実行の大号令を発し、それに従わざるもの、すなわち徳川幕府を討つというものだった。

忠光は、土佐の吉村虎太郎らと共に大和国へ向かい、五條代官所を襲って、代官の鈴木源内ら6名を血祭にあげた。
しかし、天誅組の活躍はここまでであった。

翌18日にぼっ発した「八・一・八の政変」で、彼らが頼みとする長州藩は失脚。
彦根藩、藤堂藩、紀州藩をはじめとする諸藩の追討軍に包囲され、文久3年9月末までに天誅組は壊滅する。
虎口を脱出できたのは、忠光の他、数えるほどしかいなかった。

その後、忠光は、船荷に隠れて海路・三田尻へ落ちのび、長州藩の支藩である長府藩に身を寄せることになる。けれども、幕府のおたずね者になった彼にとって、もはや長州は安全な場所ではなかった。

幕府の隠密の目を逃れるため、長府藩は忠光の自由を奪い、次々と隠れ家を移した。
終の棲家となった豊浦郡田耕村・太田新右衛門の家に入るまでの約1年で、彼は8回も居所を変えている。

監禁同様の隠棲生活に耐えられず、何度も脱走を試みるが、その度にとらえられ連れ戻された。
忠光を少しでも落ち着かせようと、長府藩は下関・赤間町の商人・恩地与兵衛の娘・登美を侍女として送り込んだりもしている。

運命の日は突然訪れた。
元治元年11月8日の夜、病で寝ていた忠光のもとに、庄屋の山田幸八が、真っ青な顔をしてやって来て、「幕吏が迫っています。今すぐここからお逃げ下さい」と告げた。

忠光は急いで服をあらため外に出た。
幸八は提灯を携えて、昼なお暗い密林の中を進んで行く。

凍てつく寒さの中、熱でふらつく身体をもてあましながら、幸八に従う忠光の胸に去来する思いはどのようなものだったのか。
今となっては知るよしもない。

川に沿って3・4町(1町=約109m)ばかり登ったところに、巨大な岩が横たわっていた。
そこまで来ると、何を思ったか幸八は、急に提灯の灯りを吹き消し、岩を乗り越えて駆け出した。

「待て!どこへ行く!?」忠光はとっさに叫んだが、幸八の姿はたちまち闇の中にかき消えた。
その刹那、何者かが忠光に近付き、棍棒で足を払った。

枯田に転倒したところに4人の男が一斉にのしかかる。
3人が手足を押え、残りの1人が首を締めて殺した。

計画されつくした上での完全犯罪。
男たちは長府藩が放った刺客であり、幸八は藩に命じられて忠光をおびき出したのだった。

後に幸八は狂い死にしている。
良心の呵責に絶えかねたのかも知れない。

刺客は忠光の死体を長持(ながもち)に収め下関を目指した。
ところが、ここで誤算が生じた。
下関郊外・綾羅木まで来たところで夜が明けてしまい、人目をはばかった刺客たちは、下関行きを断念して海岸の松林に長持を埋めた。

その後、長府藩は忠光暗殺を隠蔽するためにその死因を「病死」とし、医師の診断書をつけて朝廷へ報告。

また、別の報告書には、「かねて大酒好み、その上御色情深く御虚弱のように相見え」12月5日に亡くなったとしている。

現在、山口県には中山忠光を祀る神社が2つある。

1つは忠光の死体を埋めた綾羅木の地、そしてもう1つは彼が暗殺された田耕の地。

田耕の中山神社はささやかなものだが、綾羅木のそれは、なかなか立派で、私が訪れた時は、お宮参りの家族連れで賑わっていた。

私は少し複雑な思いで彼らを眺めた。
この神社を訪れる参拝者の中に、祭神である二十歳の青年公卿のことを知っている人が一体どのぐらいいるのだろう。

太田新右衛門の家は今でも田耕に残っている。

家の前にはのどかな田園風景が広がっていて、山と田んぼの他には何もない。
秋の空は爽やかに晴れ上がり、真っ赤な彼岸花が風に揺れていた。忠光が見た風景も、これと似たようなものだったかも知れない。

「思ひきや 野田の案山子(かかし)の 梓弓(あずさゆみ) 引きも放たで 朽ちはつるとは」

太田家の前に佇み、ふとつぶやいてみる。
すると、縁側に座って田んぼを見つめている貴公子の姿が一瞬浮かんで消えた。

中山忠光の暗殺は、幕末の長州にとって唯一の汚点と言えるかも知れない。

長府藩の隠蔽工作も空しく、暗殺の一件は明治天皇の知るところとなった。

明治になって、維新の功労者に爵位が贈られた際、長府藩は伯爵の地位がもらえず子爵止まりだったが、その裏には明治天皇の意思が働いていたと言われている。

明治天皇は、忠光に遊んでもらった幼い日々を忘れてはいなかったのだと思いたい。

公子・中山忠光は、地位を捨て、故郷を捨て、国事に奔走し、京都から遠く離れた田耕の地で非業の死を遂げた。

今は知る人も少ない彼もまた1人の草莽と言えるかも知れない。』
(「公子・中山忠光」より)
http://homepage3.nifty.com/ponpoko-y/yomoyama/04nakayamatadamitu.htm

明治天皇は、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)の生まれで、忠光は弘化2年4月13日(1845年5月18日)の生まれである。

忠光は14歳で宮中に出仕している。
それは1859年のことで、そのとき明治天皇は7歳である。

二人が入れ替わるには少し年が開きすぎているが、別の場所で生活するとすればできないことではない。

孝明天皇には毒殺説がある。
もし誰かが毒殺したとすると、孝明から明治への権限委譲を有利に進めることを狙ったものが犯人であろう。

実際の歴史は、「狂信的な攘夷」の孝明から、「開国友好」の明治へと変わっている。

開国により多くの利益を得ることになる海洋貿易商の姿が、私の目には浮かんでくる。

「お前も悪じゃあのう? ふふふ」という悪代官役は、この場合は公家かその親戚となろう。

その悪徳海洋貿易商(ビジネスマン)とは、まだ江戸末期にあってはどこかの海洋交通に長けている大名であったかも知れない。

天皇を入れ替え得る人物とは、まさに日本の歴史を創れる人物である。

井沢元彦氏の逆説の日本史だったと記憶しているが、織田信長が天下を取れなかった理由は「天皇を殺さなかったからだ」という。

あくまで天皇を尊重し、安土城内に居を移させ、藤原氏と同様に外戚関係を持って朝廷を支配しようとした。

そこが信長の唯一の欠点だった。

もし信長が天皇家を滅ぼしていれば、圧倒的な重火器を持つ信長の天下は確立したはずだ。

そういう論理展開であった。

日本人には天皇を心底尊敬するやさしい心根が古来から自然と備わっている。
私自身にもそれはある。

歴史を都合のいいように作り変えていく人物たちは、その心根をうまく利用しているのではないか。

一種の「民族マインドコントロールテクニック」であると言えよう。

まさか天皇がすりかえられていたなどとは、日本人は疑うことすらしないものである。

日本人はそろそろ自らの歴史に目覚める必要がある。

『忠光の死が元治元年(1864)11月5日(6日説あり)であり、頼徳の死から20日あまりで、潜居中の身にはるか茨城県から山口県まで辞世が伝わったとも思えず推量だが忠光の辞世なるものは後世の作と考えられる。
また完全な盗作である。

  頼徳の辞世
   野田の案山子の竹の弓 と 朽ち果てんとは が
  忠光では
   野田の案山子の梓弓 と 朽ち果つるとは  に置き換えられている。

梓弓は万葉でよく唄われており、少し考えると田んぼの案山子が梓の立派な弓を持つわけがない。』
(「天誅組の変と立石孫一郎」より)
http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/kaitei/nakayama.htm

この記事の著者は「田んぼの案山子が梓の立派な弓を持つわけがない。」と言い切っているが、私はそうは思わない。

ドラマチック歴史を創るためにも、敢えて梓の立派な弓を持つ人物を田んぼの案山子として派遣するという演出も十分あり得る。

田んぼの案山子は、実は孝明天皇の子供だったのではないか。

「明治天皇は大の相撲好きで、おまけにすこぶる強かったというのは、あるいは、この、型破りだった叔父の影響かも知れない。」と叔父に感化された明治天皇の様子を描写しているが、実は明治天皇は虚弱だった。
相撲が得意なのは確かに叔父の中山忠光そのひとだったのだ。

長州で人違いのため明治天皇が殺害されたとすると、京都御所にいるのは一体誰なのか。

相撲が得意だった中山忠光自身ではなかったのか、と私は推理している。
もちろん、似たような年齢の虚弱なお子を身代わりにする手もあっただろう。

しかし、松浦静山にとってはひ孫にあたる後の明治天皇・祐宮(さちのみや)を失ったことになる。

やがて天皇の外戚として権力を振るうはずだったのが、他人のお子を天皇に入れ替えては長年の計画が水の泡になる。

慶子の弟中山忠光であれば、静山にとっては孫にあたる。

祐宮(さちのみや)の長州旅行のために、相撲の得意な忠光を身代わりさせていたのだが、そのまま明治天皇になってもらうしかないと考えただろう。
その場合、7歳もの年の開きや身体性格の特徴の違うところは多々ある。

無理は承知で静山の血を持つ人物に入れ替わるように仕組んだのであろう。

革命完了直後に遷都すれば何とか隠せおおせるだろう。

「明治天皇は入れ替わっており、本物は暗殺されていた。」

私の推理はそれであるが、それとまったく同じことを論じるサイトがあった。

文中には、即位の前後で別人と思われる人的特徴の段差を指摘していた。

『即位前(睦仁親王時代)
① 睦仁親王は疱瘡(天然痘)をわずらった。
疱瘡の後遺症として、顔面に「あばた」が残った。
②元治元年(1864)年7月の「禁門の変」の際、砲声と女官達の悲鳴に驚いた睦仁親王(当時13才)は、「失神」した。
③睦仁親王は幼少より「虚弱体質」で、毎年風邪をこじらせていた。
又、16才になっても、宮中で女官と一緒に「遊戯」にいそしんでいた。
④睦仁親王は16才になっても、書は「金釘流」、つまりは「下手」であった。
又、政務にも無関心であった。
⑤即位前の睦仁親王に、「乗馬」の記録は残っていない。
つまり、馬には乗れなかった。

即位後(明治天皇時代)
①明治天皇の「御真影」(これは「写真」ではなく、キヨソーネが描いた「肖像画」)に描かれた顔に「あばた」は無い。
又、実際の顔にも「あばた」は無かった。
②明治天皇は威風堂々、馬上から近衛兵を閲兵し、自ら大声で号令した。
③体重24貫(約90Kg)の巨漢で、側近の者と相撲をし、相手を投げ飛ばしたと言う。
④明治天皇は書が「達筆」であった。
又、学問にも熱心であり、教養豊かであった。
⑤明治天皇は、鳥羽伏見の戦の際、馬上豊かに閲兵した。』
(「「明治天皇」は暗殺されていた!! 南北朝秘史―其の肆(1998.1.4)」より)
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/honbun/nanboku4.html

性格といい、体格の違いといい、即位前後ではまったく別の人間である。

新政府が都を急いで京都から一旦は大阪へ遷そうとし、それがだめとなれば今度は江戸へ遷したというのも、そういう即位前の明治天皇を知る人々から御所を遠ざける必要があったのかも知れない。

長州藩で暗殺された男子は、おそらくは大砲の音で失神するほどの虚弱なお子だったのであろう。

歴史は繰り返される。
私たちは、天皇を国民の象徴と崇める限り、皇室の実態について無知であってはならない。

崇めつつ、見てみぬ振りをしてはならない。

もし、松陰が松下村塾で中山公子に会っていたら、互いに気が合ったのではないか。

松陰も即位前の親王と同様、幼い頃に痘瘡を患っており顔にあばたが残っていたのである。
そして剣術も苦手な痩せた松陰青年であった。

生きていたら、天皇の入れ替えという荒療治を松陰自身は果たして許しただろうか。
臣下がまずとるべき道というものを必死で探り実行していったはずだ。

松陰であれば、「使えないから殺してしまえ」とは決してならない。

松陰の思想は開国攘夷であると思う。
開国して貿易産業を振興し、日本を富国して後に強兵を実現する。

その結果、日本の植民地化を防御し、なおかつインド・中国をも含むアジアの西洋からの独立を画策するのである。

松陰は、「まず天皇を殺し、その子をも殺す」というひどい戦略を採らないはずだ。

以上は松陰と平戸を舞台に展開した幕末の推理劇であるが、実は時代考証に大きな問題を含む。
主役となっている松浦静山は、忠臣蔵で有名になった平戸藩主であるが、天保12年(1841)に死没している。

安政5年9月に家督を相続した肥前国平戸藩第12代(最後の)藩主松浦 詮(まつら あきら)が静山の見果てぬ夢を後押ししたと考えるべきであろう。

松浦 詮は明治41年(1908年)まで生きた。

中山公子(こうし)とは~長州(123) [萩の吉田松陰]

SH3B0483.jpgSH3B0483「楷(かい)の木」側から見た松陰神社側面

「楷(かい)の木」の傍から松陰神社の側面を見ている。
意外に洒落たデザインである。

仙台伊達、鳥取池田、長州毛利の三藩が、黄檗宗を通じて宗教連携ができていたことがわかった。

長崎では日本へやってきた中国人が、キリスト教徒ではないことを証明するために仏教門徒になるべく黄檗宗の寺院の信者や檀家になった。

黄檗宗はそうやって新しく設けられた禅宗の一派である。

言い換えれば、日本へ入国するキリスト教徒にとって黄檗宗寺院は隠れ蓑として機能する。

黄檗宗信者だといえば、幕府のキリシタン疑惑による詮索を免れることができる。
踏み絵の苦しみから逃れることもできたことだろう。

信者にとってマリア像を彫った板を足で踏むことは拷問以上につらい。

岡山藩から鳥取藩へ移した池田氏の菩提寺は、当初は京都妙心寺派寺院だった。
黄檗宗に宗派替えをするのに、京都妙心寺と「ひと悶着」あったという。

私の母が亡父の遺骨を臨済宗寺院のアパート墓地から曹洞宗寺院の土石の墓に移そうと相談した。
臨済宗の僧侶が老いた母にいうには、名づけた40万円もする亡父の戒名を召し上げて「名無しの遺骨にする」と脅された。

これはほんの10年ほど前の、私の家族にあった話である。
大層気に入っていた亡き夫の戒名が墓替えで消滅すると脅された母は、遺骨の移し替えをあきらめた。

この例でわかるように、死んだ父に対して宗教があるのではない。
まだ生きている遺族のためにこそ、宗教がある。

死んだものはモノをいわないし、悔いもしない。

現代では、坊主の言うことの方が私たち在家の者よりもずっと生々しい。

「墓を替えてもよいが、その代わりわが宗派がつけた40万円の戒名は消滅するぞ!」とまで言って檀家をつなぎとめようとする。

釈迦が聞いたらさぞかし嘆くことだろう。
仏法創始者の思いなど、2500年も経過すると吹っ飛んでしまっている。

話は現代の我が家のことへ脱線したが、池田氏の宗旨替えトラブルのくだりで、池田氏は京都妙心寺派をかつて菩提寺にしていたことがわかった。

妙心寺の雑華院(ざっかいん)という塔頭は、キリシタン大名牧村利貞が建立したものである。

その娘は祖心尼となり大奥で将軍家光にキリシタンの教えに酷似している禅の教えを授けている。

そして京都妙心寺境内には、秀吉により破却された南蛮寺の鐘が大事に保管されている。

つまり、黄檗宗以前から池田氏にはキリシタンの教えが潜んでいた妙心寺と因縁が深かった。

このことは注目すべきことであろう。

さて、仙台にキリシタンを埋葬している「光明寺」という名の寺院がある。

拙著街道ブログに、その寺へ寄ったことを以前書いた。
奥州街道歩きの途上である。

以下に再掲する。

『光明寺党と攘夷~奥州街道(3-387)
http://blogs.yahoo.co.jp/realhear2000/59402246.html
2010/4/4(日) 午後 5:40中山道を歩こう

TS392397支倉六右衛門の文字のある石碑
TS392399光明寺
TS392401旧奥州街道
(注;写真は割愛しますので、見たい方は上のアドレスを参照してください。)

仙台市青葉区北山にある光明寺の門前に苔むした石柱が立っている。
北山五山の1つである。

「支倉六右衛門」の文字が見える。
支倉常長のことである。
「六右衛門」は別名である。
そして、霊名は「ドン・フィリッポ・フランシスコ」である。

フランシスコ・ザビエルの影響は、確実に仙台までやってきていた。
後の時代だが、(大分県国東出身の)ペトロ岐部も仙台布教に貢献している。

キリシタンの洗礼を受けた支倉常長の墓が光明寺にある。

以前も書いたが、旧約聖書の神は「光」を好む。
御みこしを金銀で飾るのもそのためである。

光の文字のあるところに私は旧約聖書やキリシタンの影響を感じる。
ここ「光明寺」と同じ名前の寺が、下関の瀬戸内海に面してある。

長州藩砲台から「砲弾」がアメリカ商船に向けて発射されたことは知られている。

光明寺から久坂ら光明寺党が小船で繰り出して、(沖で)大砲を積んだ(長州藩の)戦艦に乗り込み、明治維新革命の「最初の砲弾」を発砲させたという、ことの細部はあまり知られていない。

『刀痕の所在地
山口県下関市細江1-7-10  光明寺本堂前廊下の柱

刀痕の誕生日
文久3年(1863)5月5日頃 馬関戦争勃発前、光明寺党が光明寺に駐屯していた頃

刀痕の背景
光明寺と光明寺党について、 
 
文久3年(1863)の下関攘夷戦争の際には、久坂玄瑞率いる浪士隊約50~60人がこの寺に駐屯しており、5月11日未明、アメリカ商船ベンブローグ号に対して庚申、癸亥両艦で海峡に乗り出し、又亀山八幡宮に築かれた砲台から攘夷の第一弾を打ち出したのが彼らでした。

今日この浪士隊は「光明寺党」と呼ばれています。

白石正一郎日誌の中に、文久3年4月、「中山公子今日狐狩りに御出長府より御猟方来る、得物の狐一疋光明寺へ御持ち行候」という記事もみられる。

中山公子とは、悲劇の死を遂げた云々。

又癸亥丸(英国より購入の軍艦)を飾っていた「艦首像」を切り取ってきて、光明寺本堂の前に置き出入の度ごとに叩いたりして、攘夷の思いを高揚させていたとも伝えられている。

若者らしき稚気では有りますが云々。

と説明され伝えられています。(要旨 地元紙、寺伝)』
(「下関攘夷戦争「下関光明寺に残る光明寺党の刀痕」」より)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~toukondankon/tyou-koumyouji.htm

文久3年(1863)4月に中山公子が狐を一匹光明寺に持参した。
5月5日頃、浪士たちの乱闘が本堂内であったようである。

刀を抜いて単に暴れただけかも知れないが、寺の本堂の柱に刀傷をつけるという、釈迦が聞いたらあきれるような行動を若者たちが行っている。

その約1週間後(5月11日未明)に外国船に大砲をぶっ放している。

狐を光明寺に持参した白石正一郎のいう「中山公子」とは一体誰のことだろう。
長府より下関に狩に出てきたというから、いつもは長府に住んでいたのだろう。

中山の公子牟(こうしぼう)、それは魏の公子で魏牟(ぎぼう)であるという文がある。

公子(こうし)とは、貴族の子弟、公達(きんだち)のことを指す。

白石正一郎が長府からやってきた高貴な人物を、中国「魏」の公子に比喩して記したものであろう。

『「仲尼第四」〔十三〕 
中山の公子牟(ぼう)は魏國の賢公子なり。
好みて賢人と游び、國事を恤(かへりみ)ずして、趙人公孫龍(こうそんりよう)を悅ぶ。

樂正子輿(がくせい しよ)の徒之を笑ふ。
公子牟曰く、子何ぞ牟の公孫龍を悅ぶを笑ふや。

子輿曰く、公孫龍の爲人(ひとゝなり)や、行ふに師無く、學ぶに友無く、佞給*にして中らず、漫衍*にして家無く*、怪を好みて妄言す、人の心を惑はし,人の口を屈せんと欲して、韓檀*等と之を肄(なら)ふと。

* 佞給、ねいきふ、口先がうまい。
* 漫衍、まんえん、とりとめがない。
* 家無く、一家をなさない。
* 韓檀、かんだん、人名。』(「仲尼第四」より)
http://sudana.hp.infoseek.co.jp/chuuji.htm

公孫龍は孔子の弟子の一人である。

中山の公子牟(ぼう)は「公孫龍を悅ぶ」、つまり「公孫龍の教え」を好むということだろう。

「樂正子輿(がくせい しよ)の徒」がそれを笑ったという。
「樂正」が姓で「子輿」は名であり、前漢の成帝の子の名をかたった人物のことであろう。

子輿は中山の公子が喜ぶという公孫龍を批判した。
中山の公子牟(ぼう)は魏國の賢公子というから、王国の高貴な貴族の子だろう。

ちょうど中山忠光と条件が一致し、しかも漢字表記まで同じである。
白石はこの中国の故事を知っており、それをなぞるようにして、忠光を中山公子と表現したのである。

つまり、中国の故事の前後と、幕末日本の当時の状況が一致する可能性を示唆している。

『公孫龍のひとゝなりは、行動するにも師が無く、学問をしようにも友が無く、口先はうまいけれど道理に外れ、とりとめがないけれど一家をなさないし、怪を好んででたらめを言い、人の心を惑はし,人の口を屈せんと欲して、韓檀等と之を肄(なら)ふと。』

ここには出てこないが、このあとで中山公子牟は「愚かな者には、智恵者の言葉を理解することはできない。」と反論を展開している。

「前漢の成帝の子」であると詐称するような連中には、公孫龍の教えなどはわかるまいという意味であろう。

「天皇の子であることを詐称する」というくだりは、幕末のこの時代にあっては孝明天皇の子、つまり「明治天皇であることを詐称する」ということになろう。

それが「子輿の徒」であれば、中山公子はそれらの怪しい連中とは一線を画した公家であったと自覚している。

「子輿の徒」の真似をした楽正王郎(おうろう)という思想家がいる。
子輿の名をかたった楽正氏だから、楽正子輿となる。

日本に置き換えると、また一段とややこしくなる。

「孝明天皇の子であることを詐称する」「子輿の徒」、つまり偽明治天皇がいて、それの真似をした楽正子輿がいた。

つまり、われは明治天皇であると詐称して有名になった男の真似をして、また「われこそは明治天皇である」と詐称した男まで現れたということになる。

孝明天皇毒殺(仮説)によって、ちまたにそういう連中が沸きあがってきたのであろう。
楽正子輿がどういう人物かを知ることで、幕末にその真似をした日本人がどういう人物かを投影してみることができるかも知れない。

『戦国時代の思想家。『列子』にみえる。
姓は楽正。

王莽が新を建国した際に、偶々長安では前漢の成帝の子である子輿を自称して誅殺された者がいた。

王郎はこの事件を利用し、自分こそが本物の子輿であると詐称する。』(王郎(Wikipedia)より)

「子輿」は成帝の子であるが、「樂正子輿(がくせい しよ)の徒」とは「実は私こそが成帝の子である」と詐称する王郎のようなものたちを指す。

長州藩に王郎のような人々がいたのであろう。
中山公子は、その対極にある公家である。

すなわち「天皇の子を騙(かた)る」などというおろかな行為をしない公家である。

以下略。』(再掲載終わり)

今この拙著記事を読み直してみると、相当奥が深いものへ接近しようとしているように見える。

ことは下手をすると天皇家の正統性にまで及び兼ねない。

「子輿は中山の公子が喜ぶという公孫龍を批判した。」

これは日本の天皇の子であることを詐称する長州の男(ここでは子輿とあだ名している)が、中山公子が尊敬する孔子の弟子公孫龍を批判したということを示唆する。

儒教の忠孝の教えに反する人物だということだろう。

中山公子は長州藩内で天皇の子、幕末当時で言えば「孝明天皇の子である」と詐称する男と会って、孔子批判を聞かされたことになる。

「孝明天皇の子」を詐称するということは、「我は明治天皇である」と嘯(うそぶ)くことを意味する。

その男が本当に「孝明天皇の子である」かどうかを忠光が確認したかどうかは定かではない。

可能性としては、可愛い孫(天皇の後継者)に旅をさせようとしたおじいちゃんが、天皇の子であった孫を他人と入れ替えたことも考えられる。

中山公子が天皇と入れ替わったのではなく、天皇の子が中山公子と詐称して長州にいた可能性もある。

ともあれ、うそか真かはわからないが、「われは天皇の子」と主張する人物が長州藩にいたことは事実のようである。

もし「真」であるならば、それは皇統断絶に通じる可能性を生むことになる。

久坂玄瑞ら若者は、光明寺本堂の前に(階段下にという説もある)癸亥丸の「艦首像」を置き、出入の度ごとに叩いて攘夷の思いを高揚させていたとあった。

その船は英国で造られたブリック級木造帆船で、ランリックといった。

次の記事によれば、光明寺党はその像を蹴飛ばしていたという。

『原名ランリック。

イギリスで建造され、1863年1月英国より購入。
艦首には船首像が付いていたのだが、長州藩の過激派光明寺党が攘夷の魁とばかりに切り離し、宿舎である光明寺の階段の下に置いて、出入りの度に蹴飛ばしていた。

下関に配置され、文久三年五月十一日には庚申丸と共にアメリカ商船ペンブローク号を攻撃した。

この際の攻撃は拙劣で、癸亥と併せて12発の砲弾を撃ちながらマストに軽微な損傷を与えるに留まった。

此の後、二十二日にもフランス通報艦キェンシャンが馬関に近付くと、此を攻撃する為に庚申と共に出撃し、軽微な損害を与えた。

メデューサ号の攻撃に際しても庚申・壬戌と共に出撃して損害を与えて撃退したが、その命中弾が癸亥による物かは不明。

文久三年六月一日、アメリカ軍艦ワイオミング号が下関港に突入し、砲撃戦となるや、今度は間違えて味方の壬戌に当ててしまった。
その後ワイオミングの強力な11インチ砲弾2発を受け、大破した。

その後一時期の間廃艦扱いとされていたが、後に大改修を受け、慶応二(1866)年六月十七日に小倉口に出撃。
丙寅丸、丙辰丸らと共に田野浦を砲撃した。

鳥羽伏見の戦いの前夜、蒸気船鞠府丸・丙寅丸・満殊丸、帆船丙辰丸・庚申丸・乙丑丸と共に広島藩船万年丸の誘導の元、総督毛利元功(徳山藩世子)・隊長毛利内匠(徳山藩家老)以下1200名の藩兵を上陸させた。』
(「長州藩」より)
http://page.freett.com/sukechika/ship/ship04.html

艦首像は悲惨な目に遭っているが、艦船本体は後半ではそこそこ活躍していたようだ。

一般に欧州の帆船は女神像を艦首に飾ることが多いようだが、叩かれたり蹴られたりした像がどういう像であったかはわからない。

白石はその行為を「若者らしき稚気」と表現している。

松陰が育てた草莽たちは、案外子供っぽかった。
その腕白ぶりがそれをよく物語っている。

少年の集団はマインドコントロールに罹りやすい。
高校野球、高校サッカーなどの番組を見ると、涙々の物語は暇がないほど多い。

それをアジテータ(扇動者)が戦略的に利用したという側面もあるかも知れない。

私は奥州街道で訪ねた仙台の光明寺のことを思いながら、自然と長州の光明寺を連想している。

それほど、仙台と長州のイメージは近いのだろう。
キリシタン信仰と捕らえれば、さもありなんとなる。

長州はフランシスコ・ザビエルで、仙台は支倉常長(ドン・フィリッポ・フランシスコ)である。

どちらもかつては「フランシスコの独壇場」だった。

長州の光明寺で久坂らが異国船へ攘夷発砲をするに到った動機を調べようとしている。

それが「攘夷のため」ということは既にわかっている。

私が知りたいのは、日本国において「攘夷の第一発目の砲弾」がなぜ長州の光明寺から発せられたのか、という理由である。

正確には光明寺の少し西の高台にある亀山砲台から第一発目が打たれたのであるが、光明寺党がやったということは確かであろう。

発砲の約1ヶ月前に、光明寺に狐を持参した人物がいる。
それが「光明寺からの攘夷開始」の予兆を示すのではないか。

「白石正一郎日誌の中に、文久3年4月、「中山公子今日狐狩りに御出長府より御猟方来る、得物の狐一疋光明寺へ御持ち行候」とある。

「中山公子とは、悲劇の死を遂げた云々。」

この中にその動機が書かれていると、ずっと私は感じていた。

しかし、「中山公子」が誰を意味するのか、上記の拙著記事を書いた2009年当時にはわからないままだった。

ところが、一つ前に書いた記事の中に、幕末日本史にとても重要な役割を果たす公家の名、中山忠能が登場してきた。

このことから、一気に「中山公子」の実像が見えてきた。

それは平戸藩主の子で、明治天皇の叔父にあたる人物である。

光仲とキリシタン灯篭~長州(123) [萩の吉田松陰]

Shizutani_Scholl_Confucius_Tree80%.jpg(写真) 岡山藩主池田光政によって開設された世界最古の庶民学校にある「楷(かい)の木」(閑谷(しずたに)学校(Wikipedia)より引用)

気になっているのは、会津から萩へやってきた「楷(かい)の木」のことである。

萩・松陰神社境内の説明板によれば、現存する楷(かい)の大木は大正4年(1915)に林学博士、白沢保美(しらさわ やすみ)氏が中国曲阜(きょくふ)から種子を持ち帰ったものが成長したもので、その大木は岡山県の閑谷(しずたに)学校(岡山藩が庶民の教育場として建てられた藩校、国宝)にあるという。

「会津藩」と「萩の松陰」と「岡山藩」が、一本の線で結ばれてきた。

会津と萩で、私はキリシタン殉教地を訪ねている。

山口はザビエルが直接布教した町で、大内氏滅亡により萩へ信者が流れてきたようだ。
江戸期には萩を追われて、山中の阿武郡紫福村へとキリシタンたちは隠れて棲んだ。

会津は近江出身のキリシタン大名が治めた国である。

では、岡山藩とキリシタンの関係がどうなのだろうか。

幼くして備前岡山藩当主となった池田光仲は、「政治手腕の幼さ」のため、岡山藩から鳥取藩に転封となり、代わりに従兄弟の光政が岡山藩に赴任した。

両者ともに名に『光』の文字を持つから、私はすぐに「旧約聖書のにおい」を感じている。

新約聖書でも、同じく神は光を好むはずだ。
日本の神輿を金箔でキラキラ飾るのも、ほぼ同じ風習による。

光仲の伯父で初代岡山藩主にあたる池田忠継の菩提寺は、家臣団によって岡山から鳥取に移されている。

その寺の宗派が少し臭う。

長崎に来日した中国人たちが、自分たちが禁令に触れるキリシタンではないことを証明する目的で日本に作ったという黄檗宗なのである。

一応、禅宗のひとつである。

岡山から鳥取へ移された菩提寺の名は興禅寺といい、幼い池田光仲が開基である。

『興禅寺 本堂 所在地 鳥取県鳥取市栗谷町10
山号 龍峯山
宗派 黄檗宗
創建年 寛永9年(1632年)

開基 池田光仲

文化財 キリシタン灯籠(鳥取県保護文化財)
書院庭園(鳥取市名勝)
興禅寺(こうぜんじ)は鳥取県鳥取市に所在する黄檗宗の寺院。山号は龍峯山。
鳥取藩主池田家の菩提寺である。

歴史
寛永9年(1632年)、池田光仲が岡山藩より鳥取藩に転封となった際、伯父で初代岡山藩主にあたる池田忠継の菩提寺を家臣団が鳥取に移したことに始まる。
この際には臨済宗妙心寺派の寺院で忠継の院号である龍峯院殿より広徳山龍峯寺と名乗っていた。

その後、住職は黄檗宗への転向を願い光仲はそれを認めた。
しかし、妙心寺はこれを不服とし転向を認めず、両者間で争議が起こった。

結局、光仲が没した後に寺号を返納する事で和解が成立した。

元禄6年(1693年)に光仲が没し、翌年の元禄7年(1694年)寺号が妙心寺に返納された。

こうして黄檗宗に改宗され、光仲の院号である興禅院殿より寺号が龍峯山興禅寺と改められた。

その後、藩により興禅寺の隣地に再び龍峯寺が建立され、忠継の他、輝政・忠雄の位牌が移された。
池田家の菩提寺ではあるが墓所はここにはなく、鳥取市国府町奥谷に墓所が造営された。

江戸時代は鳥取藩主池田家庇護のもと、仙台藩伊達家の大年寺、長州藩毛利家の東光寺と並んで黄檗宗の三大叢林として栄えた。

しかし、明治時代になり廃藩置県以後は藩の支援が途絶え、経済的危機に見舞われた。
このため、本堂の売却を希望し、火災で本堂を焼亡した兵庫県美方郡新温泉町浜坂の龍雲寺に明治21年(1988年)に移築された。
現在の本堂は、鳥取藩主の御霊屋であった唯一現存する江戸期の建物である。

庭園

書院庭園久松山系の丘陵を生かして築山とし、麓に池、その対岸に書院を配する書院造の蓬莱山水・池泉鑑賞式庭園で、作庭時期は江戸時代初期と推定されている。『日本庭園史大系』において重森三玲・重森完途が「絵画的表現美を誇る意匠」、「山陰を代表する名庭の一つ」と絶賛している。

文化財 [編集]

尾崎放哉の句碑寺の周辺はキマダラルリツバメ(国の天然記念物)生息地に指定されている。

キリシタン灯籠
書院庭園の西の隅にあり、十字架の彫刻が見られることからキリシタン灯籠の名が付いた。鳥取県保護文化財。』
(興禅寺 (鳥取市)(Wikipedia)より)

光仲の開いた黄檗宗寺院に、鳥取県保護文化財となっているキリシタン灯籠がある。

これで池田光仲がかつて治めていた岡山藩にもキリシタンにつながるものがあることがわかった。

会津、萩、岡山ともに、キリシタンの存在が濃い地域である。

その会津からウルシ科の「楷(かい)の木」の種子がプレゼントされて、ここ松陰神社に植えられている。

鳥取藩主池田家は、仙台藩伊達家と長州藩毛利家(東光寺)と並び、黄檗宗の三大叢林と呼ばれていた。

黄檗宗に関して、鳥取藩と長州藩は同じくらいの重要な位置を占める藩だった。

仙台藩は、スペインへキリシタン支倉常長を派遣しており、江戸初期にはほぼ公然とキリシタン信仰を続けていた。

幕末の戊辰戦争では、会津と長州が戦火を開くことにおいて、仙台は重要な役割を演じている。

奥羽鎮撫府下参謀である長州藩士世良修蔵を滅多斬りし、旅籠の二階から追い落としている。

『(世良修蔵は、』仙台藩士瀬上主膳・姉歯武之進、福島藩士鈴木六太郎、目明かし浅草屋宇一郎ら十余名に襲われる。

2階から飛び降りた際に瀕死の重傷を負った上で捕縛された世良は、同日阿武隈川河原で斬首された。

世良の死をきっかけとして、新政府軍と奥羽越列藩同盟軍との戦争が始まる事になる。』(「世良修蔵(Wikipedia)より」

世良の斬首は、会津の歴史を大きく変換してしまった。
そう仕組んだ結果ともいえる。

木戸孝允はそれを誰に依頼されたのか?

池田屋事件では、「新政府での総理大臣候補第一人者」と目されていた松門三秀の一人、吉田稔麿が池田屋へ救援に向かう途中、会津藩士数名に切り殺されたという説がある。

それが事実であれば、松陰の子飼いの門弟を殺された恨みは長州人には残っただろう。
稔麿の死は、松陰が理想としていた新生日本国の死でもあった。

長州藩と仙台藩は黄檗宗関係で人的つながりはある。

幕末の仙台藩には、会津藩に恭順を薦める派閥と武断を薦める派閥と、両方あった。

長州の木戸孝允が仙台藩の武断派と結託して、会津が武断へと進まざるを得ない状況に追い込んだ可能性もある。

長崎では、黄檗宗寺院が日本に上陸した中国人キリシタンたちの隠れ蓑として機能した。

その線でつないでいけば、長崎、長州、仙台、鳥取、岡山に濃い人的つながりは出てくる。


『1623(元和9)年創建されたわが国最初の唐寺である。
あか寺、南京寺とも呼ばれる。

1620(元和6)年ころ、中国江西省の劉覚が長崎に渡来、彼はその後に剃髪して僧となり真円を名乗った。
同郷三江系(江南、江西、浙江)の欧陽の伊良林郷にある別荘地(現在の輿福寺の地)に3年間草庵を結んだ。

当時はキリスト教が禁止されていたが、渡来してくる唐人の中にキリスト教の信者も混じっていた。

このため唐船が入港したらすぐにキリスト教の信者かを厳しく問いただされた。

南京方面の船主達は協議の上、キリスト教との懐疑を晴すため、且つ海上神の菩薩を祀るため、また亡くなった唐人の供養のために、真円を開基の住持として寺院開基を奉行所に願出たところ許しを得て東明山興福寺を開創した。

諸船主からは寄進を受け船神媽姐堂を道立し、毎船持渡る処の船神媽姐の像を寺内に安置した。
輿福寺創建当時の代表的な壇越(檀家、檀那)としては、欧陽雲台(唐通事陽氏祖)、何高材(唐通事何氏祖)、陳九官(唐通事潁川氏祖)、王心渠(唐通事王氏祖)などがいた。

真円に続いて、1632(寛永9)年江蘇省の出身である唐僧黙子如定が渡来して2代住職となると、本堂をはじめとする諸堂を建立し、寺観を大いに整えた。また黙子は、アーチ型の石橋である眼鏡橋を架けたことでも知られる。

黙子に続いて、1645(正保2)年浙江省の出身である逸然性融が渡来して3代住職となった。逸然は当時の日本仏教界の荒廃を憂いて、黙子や有力な檀越らと協議して、当時中国の黄檗山万福寺の住職であった隠元隆琦を招請し住持に推戴し自らは監寺に下った。このほか逸然は仏画や高徳画などを得意とし、長崎漢画の祖といわれている。

1655(明暦元)年隠元が東上すると、翌2年正月から4代目(中興二代)澄一道亮が住持を勤めた。
澄一が在任中の1663(寛文3)年のいわゆる「寛文の大火」で伽藍はことごとく焼失してしまった。

1686(貞享3)年澄一の後を経いで5代住職となった悦峰道章は山門(県有形文化財)や鐘鼓楼(県有形文化財)をはじめとする諸堂の再建を行った。

9代住職となった竺庵が宇治の黄檗山万福寺の13代住職となると、以後唐僧の渡来がなったので、和僧の大倫が監寺(かんす)となり、住職の代行をした。

以後も住職は空席とされ(唐三か寺の住職は唐僧に限られていた)、和僧が監寺を務める例が幕末、維新まで続いた。

興福寺はこのように臨済宗黄檗派(明治9年から黄檗宗)発祥の記念すべき地である。』(「興福寺(東明山 興福寺)」より)
http://www.geocities.jp/voc1641/chinagasaki/2100kofuku/2110kofukuji.htm

戦国時代の会津キリシタン大名蒲生氏郷の育てたキリシタンが、幕末にもいたはずだが、九州の有名なキリシタン大名大友宗麟の家臣団は、歴史舞台から消えたのか?

宗麟の血筋にあたる立花氏は、家紋に十字を入れて元気に活躍していた。

『祇園守とは、京都東山にある八坂神社が発行する牛頭天王の護符のことである。

八坂神社は全国にある祇園さんの本家で、京に夏を呼ぶ祇園祭で知られた神社である。
中略。

祇園守紋の由来には、三つの説がある。

すなわち祇園社の森の図案化、牛の頭部の図案化、キリスト教の十字架の図案化だが、いずれも決め手を欠いている。

いずれにしろ、牛頭天王や八坂神社への信仰から家紋として用いられるようになったことは間違いない。
祇園守紋は単に守紋ともいわれ、その図柄はクロスした筒が特徴である。
後世筒は巻き物に変わったが、呪府のシンボルであることは変わらない。
中略。

この紋を用いる近世大名で有名なのが、豊後の戦国大名大友氏の一族で柳川藩主立花氏である。

祖の立花宗茂は、薩摩島津氏との戦いにおける潔さ、また、朝鮮の役における碧蹄館の戦での大勝利が知られる。

本来、立花氏は杏葉紋を用いていたが、関が原の合戦後、封を失った宗茂は、数年の流浪の末に棚倉城主に返り咲くことができた。

正月の夜、夢の中に祇園の蘇民将来の守りを捧げた老人があらわれ、この守りをもって本国へ帰り給えといって守りを手渡した。

もともと宗茂は本国の柳川祇園社を深く信仰していたことでもあり、祇園天王の夢のお告げかもしれないとありがたくおもっていたところ、将軍家より旧領柳川を返し与えられたのであった。

喜んだ宗茂は祇園天王の加護に感謝して祇園守を家紋とするようになったのだという。

柳河藩立花氏のものは、とくに「柳河守」とよばれ、中心に二つ巴が入っているのが特徴になっている。

●ヤソ教(キリシタン)との関係は如何

その他、大名家では備前岡山と因幡鳥取の両池田氏が用いている。

池田氏は清和源氏頼光流を称し、本紋には輪蝶を用い、副紋として守を用いた。

松浦静山の著した『甲子夜話』に、ある日、静山が池田家の分家の松平氏に、池田家の祇園守の由緒を尋ね、ヤソ教関係のものではないのかと聞いた。

すると松平氏は由緒のことはよく知らないが、我が家では天王から貰ったものと言い伝えており、天王は祇園だから祇園守というのだろうが、それは世に隠れるものであって実は王の上に一点があったのだろうと答えた。

つまり、天王ではなく天主であったと。
これから推せば祇園守紋は、ヤソ教の十字架を家紋として意匠化したものということになる。

 立花氏の仕えた大友宗麟はキリシタン大名として知られ、宗茂も少なからず影響を受けたかもしれない。

一方の池田氏はキリシタンとして知られた摂津池田氏の一族といい、摂津池田氏は「花形十字紋」を旗印に用いたことが知られている。

加えて、摂津から出たキリシタン大名中川清秀の子孫で豊後竹田藩に封じられた中川氏は、抱き柏紋とともに中川車あるいは轡崩しと呼ばれる家紋を用いている。

同紋は、別名中川久留守といわれるように十字架を象ったものであった。

同じく、摂津能勢を領した能勢氏の「矢筈十字」紋は「切竹十字」ともいわれ、クルスを象ったものという。
さらに丹波の戦国大名波多野氏は「出轡(丸に出十字)」を用いたが、これもキリシタンとの関係を秘めたものであろうといわれている。』
(「名字と家紋column(祇園守)」より)
http://www.harimaya.com/kamon/column/mori.html

柳川藩主立花氏は幕末の水戸学成立に貢献している。

明滅亡に際して明は徳川家康に軍事援助を何度も要請し、その都度断られている。
その救援要請者であった明の遺臣朱舜水が長崎へ亡命してきたとき、柳川藩主立花氏が保護し、かつ水戸徳川光圀へ朱を預ける手配をしている。

朱は水戸光圀の江戸別邸へ移り住み、そこで歴史編纂を手伝った。
その場所は、現在の東大農学部正門の左奥であり、今もそこに朱の住居跡を示す石碑が立つ。

大日本史編纂事業に大きく関わった人物である。
すなわち、水戸史観の形成に影響を及ぼしている。

立花氏は十字デザインの家紋を用いていたが、備前岡山の池田氏も副紋として祇園守を使用していたという。

図柄は以下のサイトに掲載されている。
「祇園守紋」(備前池田氏の副紋)
http://www.harimaya.com/kamon/column/mori.html

「能勢氏 切り竹矢筈十字紋」
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nose_k.html

松浦静山が池田家分家の松平氏に、池田家の祇園守の由緒はヤソ教関係のものではないのかと聞いたところ、松平氏は我が家では(牛頭)天王から貰ったものと言い伝えており、天王は祇園だから祇園守というのだろうが、それは世に隠れるものであって実は王の上に一点があったのだろうと答えたという。

つまり、天王ではなく天主(キリスト)であったと示唆したのである。

松浦静山は、肥前国平戸藩の第9代藩主「松浦 清」(まつら きよし)のことで、静山は号である。

平戸は、松陰も山鹿素行の末裔の平戸藩家老「山鹿万介」に兵学を習いにいったところだが、キリスト教会と仏教寺院がすぐ隣に建っているような宗教環境の町である。

ザビエルは鹿児島から、長崎を経て、まもなく平戸へ入っている。
一時期は長崎よりも平戸の方が布教は進んだのではなかっただろうか。

平戸はそういう歴史を持つ藩である。

松浦静山が上手に「天主」の話へと池田氏親族を誘導した可能性もある。

キリシタンたちにとって、戦国~江戸期の平戸の藩主は、ただの西洋かぶれの殿様ではなかった。

摂津能勢氏の「矢筈十字」紋は「切竹十字」であり、東京・本所のある寺の門扉に見られる。

一度見に行ったが、十字架のように私には見えた。
檀家もそれをたぶんに意識して門をくぐるのであろう。

海舟が犬に睾丸を噛まれて瀕死の重傷を負ったときに、父が子の快癒を祈願した寺である。

勝海舟も隠れキリシタンだったのだろうか。

それより、興味深いのは、松浦静山の孫娘慶子のことである。

『(松浦)清は17男16女に恵まれた。

そのうちの十一女・愛子は公家の中山忠能と結婚して慶子を産み、この慶子が孝明天皇の典侍となって宮中に入って孝明天皇と結婚し、明治天皇を産んでいる。

つまり、明治天皇の曾祖父にあたることになり、現在の天皇家には、この清の血も少なからず受け継がれているのである。』(松浦静山(Wikipedia)より)

松浦静山は孝明天皇の外祖父であった。
孫娘を通じて皇室内部にも通じている人物だといえよう。

彼は忠臣蔵にも登場する「武断を激しく好む大名」である。

ヒトの全身に塗れば、おそらく痙攣を起こして致死する猛毒サフロール(safrol)は樟脳赤油から得られる。

白沢博士は欧州留学の2年後に、樟脳油の研究で林学博士号を取得し、中国の曲阜からウルシ科の「楷(かい)の木」の種子を日本に持ち込んだ。

その種子から育った「楷(かい)の木」が、松陰神社境内に植えられていた。
それが会津藩からの贈り物なのである。

安政3年 (1856) 江戸森田座初演の、三代目瀬川如皐・三代目桜田治助合作『新臺いろは書初』(しんぶたい いろはの かきぞめ、新字体:新台〜)の十一段目に、山鹿流陣太鼓を叩いて赤穂浪士に討ち入りを催促する松浦侯が登場する。

松陰が東北遊歴の旅に出発したのは、討ち入りの日(12月14日)だった。
晋作の奇兵隊が功山寺で決起したのは12月15日未明だったが、晋作の予定では14日決起のつもりだった。

松浦藩主は、日本の歴史的事件において、絶妙のタイミングと役割で「ちょっとだけ」顔を出す。

大石内蔵助も吉田松陰も、山鹿素行の兵学を学んでいる。

江戸末期には山鹿素行の末裔「万介」は、平戸藩家老として幕末の勤皇の志士たちに兵学を伝えている。

樟脳赤油から得られる猛毒~長州(122) [萩の吉田松陰]

SH3B0482.jpgSH3B0482会津から萩へやってきた「楷(かい)の木」(萩・松陰神社境内)

「現存する楷(かい)の大木は大正4年(1915)林学博士であった白沢保美(しらさわ ほみ)氏が中国曲阜から種子を持ち帰ったもの」である。

この林学博士は、欧州仕込みの樹木学者である。

東京のプラタナス並木は、この人による都市緑化事業の成果でもある。

白沢の地元の記事「安曇野ゆかりの先人たち」には、
http://www.city.azumino.nagano.jp/yukari/person/130/

「白沢 保美(しらさわ ほみ)」と出ているが、Wikipediaは名を「やすみ」と読んでいる。

『白沢 保美(しらさわ やすみ、1868年(慶応4年)4月~1947年12月20日)は、日本の樹木学者。東京市の初期、都市緑化事業の指導にあたる。

人物
1868年(慶応4年)、信濃国安曇郡明盛村(現・長野県安曇野市)の医師の家に生まれる。

1894年(明治27年)東京帝国大学農科大学林学科を卒業、大学院で研究のかたわら農商務省山林局に勤務、1900年(明治33年)より欧州に2年留学、1903年(明治36年)林学博士。

1908年(明治41年)山林局林業試験場長に就任、1932年(昭和7年)退職するまで20数年の長期にわたってその職についた。

都市緑化について強い関心を持ち、1904年(明治37年)優秀樹木として、プラタナス、ユリノキの種を大量に公園樹木として供給した。

また、1907年(明治40年)東京市の委嘱により福羽逸人と協力し、街路樹は種苗より整然と育成すべきことを説いた東京市行道樹改良案を提出、東京の街路樹事業の大綱が樹立させた。

東京市はこれによりプラタナス、イチョウ等の栽培をはじめたほか、1910年(明治43年)から新規格による街路樹の植栽に着手し、以来年々これが育成に努力した結果戦前に10万余本の街路樹の整備を見た。

こうして、多数の優良海外樹種が公園や道路、学校園等の公共地に配布栽培が出来ている。』(白沢保美(Wikipedia)より)

1901年(明治34)、白沢は33歳のときにドイツ・フランス・スイス等に留学し、森林樹木学・造林学の研究に没頭しているが、他の分野にも精魂を傾けた可能性もあり得る。

つまり西洋の宗教哲学なども、である。

帰国後2年の明治36年、彼の林学博士論文は「樟木に関する樟脳油」であり、白沢は林業専門家だった。

樟木(くすのき)は、南朝の楠正成を連想させてくれる。

松陰神社境内奥の「楷(かい)の木」説明板は、この人物が中国から持ち帰った種子が楷(かい)の大木」となり、岡山県にある日本最古の庶民学校、国宝の「 閑谷(しずや)学校」にあると書いていた。

萩を代表する庶民学校は松下村塾であり、松陰と閑谷(しずや)学校とはその点でつながる。

会津と松陰と、岡山藩の庶民学校とを結ぶ「楷(かい)の木」なのである。
そして、それは毒をもつ。

『ウルシオール
ウルシやハゼまけの原因物質。

ロテノン(rotenone)
南洋・熱帯地方のマメ科植物のデリス根部に含まれる毒の主成分がロテノン。
魚毒性を利用して毒流し漁法で魚を捕っていたという(現在は使用禁止)。

日本では戦前殺虫剤として使われていた。呼吸鎖複合体Iの阻害剤。
ピレトリン
除虫菊に含まれる殺虫成分。

サフロール(safrol)
クスノキ科の植物Sassafras albidum Neesの根に含まれるサッサフラス油の主成分。
肝腫瘍を発生。
ロテノン(デリス) ピレトリン(除虫菊) サフロール(サッサフラス油)
以下略』
(「動物の毒 植物の毒 微生物の毒」より)
http://www.sc.fukuoka-u.ac.jp/~bc1/Biochem/venoms.htm


この記事によると、白沢博士の専門研究対象であるクスノキ科植物からも毒物サフロールが作れるという。

致死量はどれほどなのだろうか。

『サフロール
safrole
別称1,3-benzodioxole,5-(2-propenyl)(CAS名)

特性
化学式 C10H10O2
モル質量 162.19
外観 無色~淡黄色の液体
匂い ササフラス香
密度 1.096
融点 11.2℃
沸点 232~234℃
水への溶解度 不溶
溶解度 プロピレングリコール・グリセリンに微溶
アルコール、油類に可溶
ジエチルエーテル、クロロホルムに混和
屈折率 (nD) 1.536~1.539

危険性
引火点 97℃
半数致死量 LD50 1.95g/kg(ラット経口)
5g/kg以上(ウサギ経皮)

関連する物質
関連物質 イソサフロール
特記なき場合、データは常温(25 ℃)・常圧(100 kPa)におけるものである。

サフロール(英: safrole)は、化学式C10H10O2で表わされる有機化合物の一種。天然にはササフラス油やオコチア油、樟脳赤油に存在する。

用途
ヘリオトロピンやピペロニルブトキサイドの原料としての用途が主であるが、かつては石鹸の香料としても使用された。
国際香料協会では、調合香料での使用は0.05%以下と制限を設けている。

アメリカ合衆国では、食品への使用を禁じている。
工業的にはブラジル産オコチア油や中国酸ササフラス油の分留により得られる。

安全性
日本の消防法では危険物第4類・第3石油類に分類される。

半数致死量(LD50)は、ラットへの経口投与で1.95g/kg、ウサギへの経皮投与で5g/kg以上。

ヒトへの急性症状としては吐き気やチアノーゼ、痙攣、感覚麻痺などの神経症状が報告されている。
動物実験では肝臓への発癌性が報告されている。

特定麻薬向精神薬原料に該当し、一定量を越える輸出入等には麻薬及び向精神薬取締法に基づく届出が義務付けられている。』
(サフロール(Wikipedia)より)

あいにく、「人の致死量」についての記載はなかった。

しかし、ウサギの皮膚にわずかに塗りこんでも哺乳類のウサギが死に至る毒である。

ウサギの平均体重を3kgとすると、ウサギへの経皮投与では3kg×5g/kg=15gを皮膚にすり込めば痙攣を起こしてウサギは死ぬ。

人間への影響も、これより十分に類推できよう。

いくら高貴な人物であっても、裸にされて全身に刷り込まれては身がもつまい。

アメリカ合衆国では、食品への使用を禁じているそうだが、ならば日本では禁じていないということなのか、それは私にはまだ不明である。

天然の樟脳赤油に存在するという。
なぜか、白沢博士の博士論文の内容に密接に関連してくるようだ。

猛毒性の一方で、「ウルシ科の楷の木」は松陰と儒教、とりわけ孔子との関係も示唆してくれている。

『中国生まれの楷の木
聖廟に登る19段の石段。

その左右の斜面に一対の楷の木がこんもりした枝葉を広げています。
いずれも幹回り1メートル余、高さ12.3メートルの巨木。

晩秋には聖廟に向かって左側の樹が深紅色に、右側は黄色がかった淡紅色に紅葉し、その景観は天下一品です。

楷の木は中国の山東、河北、河南各省に自生するウルシ科で、学名はピスタチア・シモンシス・ブンゲ(日本では、とねりばはぜのき)、黄蓮樹とも呼ばれます。

大正時代、白沢博士が持ち帰り、閑谷が一番大きく成長

閑谷の楷の木は大正4年、当時の農商務省林業試験場長だった白沢保美博士が、中国山東省曲阜にある孔子廟から持ち帰った種子を苗に育て、大正14年、閑谷学校、東京・聖堂、栃木・足利学校、佐賀・多久聖廟など孔子ゆかりの地に植えました。

風土が合ったせいか、閑谷学校の木が一番大樹に育ちました。

林野庁資料室に保存されている白沢博士の報告書によりますと、曲阜の楷の木は当時で幹の直1メートルという大樹で、孔子十哲の一人、子責が植えた樹の種子が育ったものだといわれています。
いずれにせよ、孔子の聖地、曲阜直系の珍木なのです。

孔子にちなんで「学問の木」

 孔子にちなんで閑谷ではこの楷の木を「学問の木」と呼ぶようになり、紅葉した落ち葉を大事そうに持ち帰る受験生も増えています。』
(「「楷の木」豆知識」より)
http://www3.ocn.ne.jp/~bizenst/kainoki/setumei.htm

「曲阜(チュイフー)の孔廟(コンミャオ)」という旅行日記がある。
http://4travel.jp/sekaiisan/confucius/

曲阜(チュイフー)は日本語読みでは「キョクフ」と読まれるようだ。

また、「曲阜紀行聖蹟・江蘇省の教育概観」というサイトでは、
http://porta.ndl.go.jp/Result/R000000008/I000150633

「キョクフ キコウ セイセキ」と読ませている。

織田信長は支配権を確立したあと美濃国の城下町を岐阜(ギフ)と命名した。

「岐阜」の地名由来辞典によれば、中国の縁起のよい地名、「岐山」「岐陽」「岐阜」によるという説と、「周の文王が岐山より起こり、天下を定む」に由来するという説の二つがあるという。

信長の命名であれば後者であろう。
信長は、天皇さえも越えようとした、最初でおそらく最後の日本人である。

このサイトに「楷の木が完全に紅葉した様子」として、深紅(左)と橙色(右)に紅葉した二つの大きな樹木の写真が掲載されていた。

「聖廟に向かって左側の樹が深紅色に、右側は黄色がかった淡紅色に紅葉」と解説されているから、その写真は中国曲阜(チュイフー)の「楷の木」であろう。

日本最大の閑谷の「楷の木」の姿もこれに似ているはずだ。
なぜならば、同じ遺伝子なのである。

中国曲阜(チュイフー)の「楷の木」から白沢博士が持ち帰ったものが、現存する国内最大の閑谷の「楷の木」である。

この曲阜(チュイフー)の「楷の木」の写真を眺めていると、世田谷の松陰の墓の傍の楓の紅葉と同じ色であることに、ふと気づいた。

初めてそれを発見したと言っていい。

松陰と晋作の契りとは、私が推測していたような「カトリック的な楓の契り」ではなく、「楷の木の契り」つまり「孔子の教え」であったのではないだろうか。

晋作が世田谷に松陰の白骨化した遺骸を埋めるとき、「楷(かい)の木」の根元に埋めたいと思ったのだろうが、幕末当時の日本にはまだその種子はなかった。

だから晋作は楓の木を選んだのではないだろうか。

孔子の墓所と子弟と「楷(かい)の木」の話である。

『1.孔子にゆかりのある中国原産の珍木

今から2500年前、儒学の祖、孔子(紀元前552~479)は、多くの子弟に見守られながら世を去り、山東省曲阜の泗水のほとりに埋葬された。

門人たちは3年間の喪に服した後、墓所のまわりに中国全土から集めた美しい木々を植えました。
今も残る70万坪(200ha)の孔林です。

孔子十哲と称された弟子の中で最も師を尊敬してやまなかった子貢(しこう)は、さらに3年、小さな庵にとどまって塚をつくり、楷の木を植えてその地を離れました。

この楷の木が世代を超えて受け継がれ、育った大樹は「子貢手植えの楷」として今も孔子の墓所に、強く美しい姿をとどめています。

その墓所のまわりには、孔子を慕う弟子や魯の国の人々が集まりはじめ、やがて住み着いた者の家が百あまりであったので孔里と名づけられました。

孔子は300年後の漢代中期以後、国家的崇拝の対象となります。
しだいに墓域も拡大され、孔里は現在、孔林という広大な国家的遺跡になっています。

その後、「楷の木」は科挙(中国の隋の時代から清の時代までの官僚登用試験)の合格祈願木となり、歴代の文人が自宅に「楷の木」を植えたことから『学問の木』とも言われるようになりました。

合格祈願木とされたのは、科挙の合格者に楷で作った笏(こつ)を与えて名誉を称えたからだと考えられています。

また、その杖は「楷杖」として暴を戒めるために用いたとされます。』
(「「楷の木」の歴史」より)
http://www.cheng.es.osaka-u.ac.jp/alumni/kainoki.htm

晋作の家は、天神信仰が篤かった。

この萩散歩のブログでも写真を紹介したが、晋作の旧宅には、「高杉家伝来 鎮守堂 晋作遺愛品」として小さな祠があった。
それは菅原道真を祀るものだった。

中国の「楷の木」は科挙の合格祈願木であり、歴代の中国の文人が自宅に「楷の木」を植えたことから『学問の木』になったという。

菅原道真を連想させてくれる木でもある。

思いのほか、ここではウルシ由来の毒物の記述に紙面を割いてしまった。
肝心の「岡山藩とキリシタンの関係」は次の記事で述べることにする。

ウルシの毒と会津~長州(121) [萩の吉田松陰]

SH3B0481.jpgSH3B0481「楷(かい)の木」説明板

松陰神社境内の右奥に楷(かい)の木が植えられている。

私は楓かシュロの木があるはずだと思い込んでいた。
それを隈なく探すうち木々の間にひっそりと植えられているこの説明板に遭遇した。

おそらく一般の観光客はまったくそれに気づくことなく、萩を立ち去るだろう。
それを期待して、大変目立たない場所に植えているようにも見える。

そういう植樹の位置から見ると、言いたいことではあるが、秘匿せなばならぬことなのだろうか。

『楷(かい)の木

ウルシ科の木ウルシの毒は無くなることはない。
雌雄異株で春に黄白色の花が咲き秋になると葉が深紅色に染まり美しい。

通称黄蓮木別名を孔子菜または孔木という珍木である。

ここに植樹した楷(かい)の木は会津藩校日新館が中国曲阜にある孔子廟の楷(かい)樹の種子を貰い受けて育苗したものを松陰神社御祭神吉田松陰先生が東北遊歴の際、嘉永五年二月二十五日(1852)日新館を尋ねられし縁故により献木されたものである。

なお現存する楷(かい)の大木は大正4年(1915)林学博士であった白沢保美(しらさわ ほみ)氏が中国曲阜から種子を持ち帰りったもので、岡山県の閑谷(しずや)学校(岡山藩が庶民の教育場として建てられた藩校、国宝)にある。』(抜粋終わり)

「会津藩校日新館が中国曲阜にある孔子廟の楷(かい)樹の種子を貰い受けて育苗したもの」とあり、「吉田松陰先生が東北遊歴の際、嘉永五年二月二十五日(1852)日新館を尋ねられし縁故により献木されたもの」とある。

松陰自身がこの木を植えることを希望し、会津もそれを歓迎したのであろう。

会津の神保修理が生きている頃であれば、会津藩もまだ勤皇の姿勢が鮮明であった。
それを家老の梶原が切腹に追い込んだと私は推理しているが、神保の死を持って会津は長州藩の敵に転じている。

岡山藩といえば、池田氏の居城だと思うが、教育熱心な県で、今でも行政も風俗取締りなどには他県よりも厳しい姿勢を維持している。

ある種の宗教戒律を重んじ、民主化傾向が強い地域のように感じている。

『岡山城を築城したのは、岡山城を居城にして戦国大名として成長し、豊臣家五大老を務めた宇喜多氏であった。

しかし慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて、西軍方の主力となった宇喜多秀家は改易となり、西軍から寝返り勝敗の要となった小早川秀秋が入封し備前・美作の51万石を所領とした。
ただ慶長7年10月18日(1602年12月1日)、秀秋は無嗣子で没したため小早川家は廃絶となった。

慶長8年(1603年)、姫路藩主・池田輝政の次男・忠継が28万石で岡山に入封し、ここに江戸期の大名である池田家の治世が始まる。

慶長18年(1613年)には約10万石の加増を受け38万石となった。
元和元年(1615年)忠継が無嗣子で没し、弟の淡路国由良城主・忠雄が31万5千石で入封した。

寛永9年(1632年)忠雄の没後、嫡子・光仲は幼少のため山陽筋の重要な拠点である岡山を任せるには荷が重いとして、鳥取に国替えとなった。

代わって従兄弟の池田光政が鳥取より31万5千石で入封し、以後明治まで光政の家系(池田家宗家)が岡山藩を治めることとなった。

このように池田氏(なかでも忠継・忠雄)が優遇された背景には、徳川家康の娘・督姫が池田輝政に嫁ぎ、忠継・忠雄がその子であったことが大きいとされる。

光政は水戸藩主・徳川光圀、会津藩主・保科正之と並び江戸初期の三名君として称されている。

光政は陽明学者・熊沢蕃山を登用し、寛文9年(1669年)全国に先駆けて藩校「岡山学校(または国学)」を開校した。

寛文10年(1670年)には、日本最古の庶民の学校として「閑谷学校」(備前市、講堂は現在・国宝)も開いた。

また土木面では津田永忠を登用し、干拓などの新田開発・百間川(旭川放水路)の開鑿などの治水を行った。

光政の子で次の藩主・綱政は元禄13年 (1700年)に偕楽園(水戸市)、兼六園(金沢市)と共に日本三名園とされる大名庭園・後楽園を完成させている。

幕末に9代藩主となった茂政は、水戸藩主徳川斉昭の九男で、鳥取藩池田慶徳や最後の将軍徳川慶喜の弟であった。

このためか勤皇佐幕折衷案の「尊王翼覇」の姿勢をとり続けた。

しかし戊辰戦争にいたって茂政は隠居し、代わって支藩鴨方藩主の池田政詮(岡山藩主となり章政と改める)が藩主となり、岡山藩は倒幕の旗幟を鮮明にした。

明治4年(1871年)廃藩置県が行われ、岡山藩知事池田章政が免官となり、藩領は岡山県となった。

なお、池田家は明治17年(1884年)に侯爵となり華族に列せられた。』
(岡山藩(Wikipedia)より)

寛永9年(1632年)忠雄の嫡子・光仲が幼少のため岡山は荷が重いとして、鳥取に国替えとなり、代わって従兄弟の池田光政が鳥取より31万5千石で入封し、以後明治まで光政の家系(池田家宗家)が岡山藩を治めることとなったとある。

つまり幕末動乱時は池田光政の末裔が治めていた藩である。

名前の中に「神が好む」という「光」の文字を見つけると、私は反射的にキリシタンもしくは旧約聖書を重んじる人々を想起するくせがついている。

会津もキリシタン殉教碑があった町である。

それ以前に、長州は大内義隆がザビエルに布教を許した藩であり、その影響の下で後に会津はキリシタン大名蒲生氏郷が治めた藩である。
関係が薄いはずはない。

会津から萩へ毒の樹の種子をプレゼントするとは、どういうことなのだろうか。
毒を誰かに飲ませたことを暗示するのであろうか。

会津の誰かが、長州の誰かに依頼して、その敵となる首魁に毒を飲ませたということか。

会津と長州のキリシタンに交流はあったのか。
岡山藩は仲介役だったのだろうか。


この植樹説明板に書かれた文字は風化してまもなく読めなくなることだろう。
私もやっと読み取れたものだ。(上に抜粋した。)

「毒」と「会津」と「萩」と「岡山」と、そして「孔子」がキーワードになっている。

会津も萩もキリシタン殉教地があった。
私はいずれも実際現地を見てきている。
岡山がキリシタンに関係あるかどうか、光政の「光」の文字はその可能性をかなり高めてくれる。

なぜそれが孔子になるのか、そこはなぞのままであるが、岡山藩にキリシタンがいたとすれば、キリシタンによってその3箇所が共通することになる。

そのとき、キリシタンはウルシの毒を誰に飲ませたのだろうか。

幕末の毒殺説の中で、歴史を動かした最大のものは「孝明天皇崩御」である。
長州藩は京都の政変に深く深くかかわっている。

会津の誰かがそれを感謝しているのか。

もし会津のキリシタンであったならば、会津藩主以下が悲惨な目にあっている様は仇討ちのシーンとしては最高のものだっただろう。

その場に西郷隆盛はいなかった。
薩摩藩士はいたのであるが、つまりは長州による会津狩なのである。

それを長州に感謝する会津人が少なからずいたことになろう。

岡山藩とキリシタンの関係が鍵を握る。

説明板の冒頭句にある、「ウルシ科の木ウルシの毒は無くなることはない」という1行が妙に気になっている。

日本語の書き方として違和感がある。
永遠に毒は続くといいたいのだろうか。

厚狭船木村出身の三兄弟~長州(120) [萩の吉田松陰]

SH3B0479.jpgSH3B0479松陰神社本殿裏

萩訪問前に持っていたひとつの予想、隠れキリシタンが昔萩に住んでいたことは確かめられた。

江戸末期には既に山中の紫福村(しぶきむら)へ隠れ棲んでいたが、戦国~江戸初期は萩付近に居住していたものと思われる。

私のもうひとつの予想は裏切られた。
松陰神社境内に楓の木とシュロの木があるという予想だ。

写真は本殿裏の樹木であるが、いずれも存在していなかった。

さて、思いがけずに境内で見つけた「萩の変殉難者七人」のことである。

「前原一誠、佐世一清、奥平謙輔、有福恂允、山田頴太郎、横山俊彦、小倉信一」がその七人であった。

このうち、前原一誠、奥平謙輔については概略紹介した。

「前原一誠は奥平謙輔・横山俊彦らと党を集め云々」とあったから、奥平、横山ともに乱の中心人物だったのであろう。

ちなみに「乱」とは朝廷に反乱したものを指すのだから、名誉回復するならば、「萩の乱」も「萩の変」などと変えるべきであろう。

英語のアルファベットと異なり、「漢字」という文字は意味を持つ。

『(横山俊彦は、』嘉永3年生まれ。
長門萩藩士。
藩校明倫館と吉田松陰の松下村塾にまなぶ。
新政府に絶望し、前原一誠らと新政府転覆を画策し、明治9年萩の乱をおこしたが,捕らえられ12月3日斬殺された。27歳。幼名は新之允。』(「横山俊彦」より)http://kotobank.jp/

横山も松門門下生ゆえの新政府への絶望感だったのだろう。
松陰から革命後の社会の在りようを耳にしていたはずだ。

絶望はその裏返しでもある。

もし横山が松陰と邂逅していなければ、そういう人物には成長していなかったはずである。

山田頴太郎(えいたろう)と佐世一清は、いずれも前原一誠の弟である。

高祖母(こうそぼ)とは、「祖父母の祖母」のことで「ひいお祖母ちゃん」のこと。
親族の方のブログ記事のようである。

『高祖母河北伊登の弟山田頴太郎と佐世一清とは兄の前原一誠と共に萩の乱に参加。
頴太郎は、山田政輔の養子となり、妻は同じく養女の玉子。
子は克介と前原昌一。
佐世一清は、兄一誠が前原家を起したので佐世家を継いだ。

以下、『増補近世防長人名辞典』(著:吉田祥朔、発行:マツノ書店[1976])より。

山田頴太郎
嘉永2(1849).9-明治9(1876).12.3 (27)
諱:一昌
称:次郎、一樹、頴太郎
生:長門国厚狭郡船木村
身:萩藩八組士 陸軍少佐

名は一昌、萩藩士佐世彦七の第2子にして前原一誠の次弟なり、幼時出でて藩士山田氏を嗣ぐ、弱冠大村益次郎に就きて兵学を修め維新後陸軍少佐となり大阪鎮台に転任す、既にして辞して萩に帰る、明治9年10月奥平謙輔横山俊彦と共に一誠を擁して兵を挙げその隊伍の編制及び進退等主として頴太郎の画策に出ず、事敗るるに及び一誠等と山陰に赴きて縛に就き12月3日萩にて斬に処せらる、年27。

佐世一清
嘉永5(1852).3-明治9(1876).12.3 (25)
諱:一清
称:三郎、一武
生:長門国厚狭郡船木村
身:萩藩八組士

初名三郎、萩藩士佐世彦七の第3子、前原一誠山田頴太郎の弟なり、幼にして明倫館に学びまた玉木文之進に従って経史を講ず、明治9年10月兄一誠の事を挙ぐるや褊将として奮闘衆に超ゆ偶々飛丸その右腕を貫き為に刀を揮うの自由を失うもなお督戦数刻、時に兄頴太郎弾丸雨注の間に倒れ未だ殊せず乃ち自ら之を負い後方に脱出す、事敗れ宇龍港にて縛に就き12月3日斬らる、年25。』
(山田頴太郎と佐世一清)より)」
http://www2.airnet.ne.jp/hillside/roots/032.html

兄の前原と両名ともに、厚狭郡船木村の生まれである。
年の順は前原一誠、山田頴太郎、佐世一清で、3人とも佐世家で生まれている。

萩の乱にまで三兄弟で参加するのだから、仲の良い兄弟だったのだろう。

親子や兄弟、いとこなどで仇討ちに参加するのは、赤穂浪士47士の特徴でもある。
内蔵助親子が強調されるが、意外に赤穂浪士も親類縁者で組織化して参加しているものが多い。

内蔵助は、親族参加している彼らに引きずられる形で息子の参加を決めたように思われる。

前の記事「前原一誠の紹介」の中で、佐世家は「天保十年(1839)に父の厚狭郡船木村出役に従い移居した」と書いてあったから、長兄の一誠だけは萩生まれなのだろう。

下の二兄弟は厚狭郡船木村で生まれている。

以前書いた記事の中に、「厚狭」の名で思い出す長州藩重臣(支藩藩主)がいた。

私はこういう風にその殿様を紹介していた。

『厚狭毛利家といえば、宇部市・小野田市の領域を差配していた殿様である。

今では宇部興産、小野田セメントなどをはじめ瀬戸内臨海工業地帯でさまざまな産業が発達した山口県内の主要産業都市である。

また、厚狭毛利家は本藩萩城の足元にあるキリシタン殉教碑に相当近い位置に屋敷を持つ殿様であった。

私のイメージでは厚狭毛利氏というよりも、「宇部・小野田毛利氏」という雰囲気が強い。
科学や工業を発展させるだけの西洋からの知識移入があった地域である。

山口大学工学部が宇部市にあることからしても、東京の知識に最もするどくキャッチアップしている地域でもある。

ザビエルの山口布教以降、バテレン経由でもたらされた西洋・東洋人脈も多くあったであろう。

日本の時計などの精密機械技術は、ザビエルが大内義隆にプレゼントした機械式置時計に始まる。

それが壊れたことから、宮大工が見よう見真似で修理したことが技術の始まりとなる。

その好影響により、のちの江戸期になって「からくり人形」が発達し、今はそれが半導体やロボット工学にまで進化している。

東芝創設者、トヨタ織機創設者、共に「からくり人形師」と呼ばれた匠(たくみ)の技(わざ)が元手となった。

ザビエルの来日が日本の産業界に果たした役割は、意外と大きい。

厚狭毛利氏はキリシタンとなんらかの因縁を持つのではないかと、私は思っている。

なぜならば、萩城近くのキリシタン殉教地と厚狭毛利家屋敷の距離が、余りに近すぎるからだ。

拷問の叫び声が聞こえるようにと、厚狭毛利氏へのあてつけとして同屋敷の近場で拷問を行ったのではないだろうか。』(拙著ブログより一部加筆して再掲)

厚狭毛利氏が隠れキリシタンであるという根拠をこれ以外に私は知らないのだが、「隠れる」からこそ証拠を「残さない」のである。

紫福村に偶然迷い込んだある日本人のカトリック宣教師は、その日記ブログで「本当にキリスト教徒の遺跡なのか」と疑問を正直に書いている。

江戸時代のキリシタン禁令の厳しさを身を持って知らない平和な時代の宣教師だから、「そう」感じるのである。

私は紫福村のキリシタン遺跡と傍に植えてあった棕櫚の木の組み合わせから、かなり濃いキリシタン信仰であると現地で感じている。

佐世三兄弟の実家は、その厚狭毛利氏の領地、船木村である。
そこが現在の厚狭駅付近であるならば小野田市内となる。

前原一誠、山田頴太郎、佐世一清、奥平謙輔、横山俊彦の計5名は既に紹介した。

前原一誠、横山俊彦は「松下村塾生」であるが、山田頴太郎は大村益次郎に兵学を学び、佐世一清は「玉木文之進」に指導を仰いでいる。

奥平謙輔は、藩校明倫館の出身である。

残る有福恂允と小倉信一を見てみよう。

これで「萩の変殉難者七人」となる。

有福恂允(kotobank.jpより)のことである。
「ありふく じゅんすけ」と読む。

『1831-1876幕末~明治時代の武士、士族。
天保2年生まれ。長門萩藩士。

三条実美らの七卿落ちのとき御用掛をつとめる。

維新後は萩で家塾をひらく。
明治9年前原一誠らの萩の乱にくわわり、同年12月3日処刑された。
46歳。通称は半右衛門。』

有福恂允(じゅんすけ)は勤皇志士としては意外と高齢である。

「三条実美らの七卿落ちのとき御用掛を勤めている」から、護衛用の武術か貴族と話が合うほどに学問や詩歌にすぐれていたのであろう。

松陰との接点はこの記事からは見当たらない。
三条実美や月性と濃い関係があった人物かも知れない。

最後に小倉信一(kotobank.jpより)を見てみよう。
「おぐら しんいち」と読む。

『1839-1876幕末~明治時代の武士、士族。
天保10年生まれ。長門萩藩士。

明治9年前原一誠らの萩の乱にくわわる。
徳山の同志に決起をつたえてひきかえし、部隊をひきいて奮戦したが政府軍に捕らえられ、明治9年12月3日処刑された。38歳。』

小倉は瀬戸内海川に面した周防徳山の同志と連絡があった人物である。

徳山とは、あの「毛利志摩守」の徳山藩である。
その家臣である「村田右中(うちゅう)」は陪臣と呼ばれていた。

今気づいたのだが、右中は、「宇宙」と「音(おん)」が同一である。
創造の神は、「宇宙」を支配する。

右中は、萩本藩毛利家の家臣でもある徳山藩主の家臣である。
つまり「家臣の家臣」という意味で陪臣なのである。

娘のお瀧を、少禄とは言え萩藩直参の藩士杉百合之助に嫁がせるために、お瀧を萩藩家老の児玉家養女とし、しかも百合之助に屋敷まで買い与えている。

その「村田瀧」が、松陰を生んだ女だった。

右中はじめ徳山藩士たちの元へ行き、決起を促したのが小倉信一だった。

何を求めて朝廷への反抗とされる「乱」をこの7人は起こしたのか。

その動機や政府への改善要求は、おそらく握りつぶされて闇の葬られてしまっただろう。

例えば、会社社長が女性従業員に対してスカートをめくるなどのセクハラや、パワハラ、退職強要などの違法行為をしても、従業員にはそれを訴えるすべがないのに似ている。

握りつぶしているから、その理由が歴史に陽に残らないのである。

したがって、そういう組織は同じ過ちを繰り返すことになる。
是正の機会が得られないから、ますます組織は悪化の度を増す。

行き着く先は、会社なら倒産、幕府なら大政奉還である。

『萩の乱(はぎのらん)は、1876年(明治9)に山口県萩で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。

1876年10月24日に熊本県で起こった神風連の乱と、同年10月27日に起こった秋月の乱に呼応し、山口県士族の前原一誠(元参議)、奥平謙輔ら約200名によって起こされた反乱である。』(萩の乱(Wikipedia)より)

全国の反乱に呼応して山口県士族約200名による反乱だったという。

彼らは一体何を政府に訴えたかったのか、次にそれを調べてみよう。

玉木文之進の介錯は女~長州(119) [萩の吉田松陰]

SH3B0478明治九年萩の變七烈士殉難之地

松陰神社本殿の左側手前に目立たない石碑が隅っこにある。
注意してみていないとつい見落としてしまう。

その碑には「明治九年萩の變七烈士殉難之地」と刻まれている。
西南戦争の前の年のことである。

この記事のあとの方でわかるが、実は殉難の地はここ松陰神社付近ではない。
130年経過して途中で気が変わってここへ石碑を移し変えてきたものだ。

誰の気?

「世間の気」が変わったとしかいいようがない。

『松下村塾出身で、明治新政府で参議に任ぜられていた前原一誠が起こした萩の変より、130年となることを記念して、平成18年(2006)12月3日萩の變130年祭に併せてここに移設されました。 

この石碑は、明治9年(1876)、萩の変で殉難した、前原一誠をはじめとする7烈士の遺徳を顕彰するために、萩の変より100年にあたる昭和51年(1976)年に建立されたものです。

元は7烈士が処刑された萩市恵美須町にありましたが、諸般の事情により、ここに再度建立されました。』
(石碑「明治九年萩の變七烈士殉難之地」より)
http://www.shoin-jinja.jp/keidai/10.php

新政府への反乱という判定をされ、犯罪人扱いされてきたのだろう。
百年を経てようやく勤皇の志士として認められたようだ。

殉難の7人の烈士とは前原一誠以下だれだろう。

『玉木文之進(山口県萩市・護国山墓地)

萩藩士。
文政三(1820)年11歳の時、玉木十右衛門正路の跡を継いだ。
天保十三(1842)年初めて松下村塾を開き人材の育成に努めた。
とくに吉田松陰・杉民治・宍戸某・久保断三らはその逸材である。

その後、藩学明倫館の都講、異船防禦掛等を勤め、また進んで諸郡(小郡・吉田・船木・上関・奥阿武・山代等)の代官を歴任して民政に力を尽くし、郡奉行をも勤めた。

明治二(1869)年に隠退して再び松下村塾を興し、教育に専念したが、明治九(1876)年萩の前原一誠の乱に師弟数人が一味したことの不徳を自責し、11月6日先塋の側で切腹した。享年67歳。

玉木さんのスパルタ教育は有名で、どんな文献を採ってもその峻烈さが描かれています。
吉田松陰さんも、そして後に日露戦争で第三軍司令官として旅順攻略に当たる乃木希典大将もその薫陶を受けています。
今の日本に武士が育たない理由もわかる気がしますね。

奥平謙輔(山口県萩市・大照院)

萩藩士。
藩校明倫館に入り、安政六(1859)年その居寮生となった。
文久三(1863)年8月選鋒隊士として下関外船砲撃に参加し、元治元(1864)年7月世子上京に従ったが、禁門の変に途中から帰国、慶応元(1865)年4月に長兄数馬の養嗣子となった。

慶応二(1866)年5月干城隊に入り、慶応三(1867)年同隊引立掛として討幕軍に加わり、慶応四(1868)年越後・会津に転戦した。

明治二(1869)年4月越後府権判事として佐渡を治め、8月辞職して萩に帰った。

明治三(1870)年脱退暴動に干城隊を率いて山口藩邸を守衛したが、明治九(1876)年前原一誠と意気相投じ、10月萩の乱を起こして敗れ、11月出雲宇竜港で捕えられ、12月3日ついに萩で斬首された。享年36歳。

前原一誠(山口県萩市・弘法寺/山口県下関市・桜山神社)

萩藩士。
天保十(1839)年父の厚狭郡船木村出役に従い移居し、武術を幡生周作に、文学を国司某・岡本栖雲に学んだ。
嘉永二(1849)年福原冬嶺に従学したが、翌年帰萩のとき落馬のため長病を患い、武技を捨て再び船木に住して写本に努めた。

安政四(1857)年父に従って帰萩、吉田松陰に師事し、安政六(1859)年2月長崎に遊学して英学を修め、6月帰って博習堂に学び、万延元(1860)年病気のため博習堂を退き、文久元(1861)年練兵場舎長となり、文久二(1862)年脱藩上京して長井雅楽の暗殺を謀ったが果たさず、8月江戸に行った。

文久三(1863)年正月また上京、6月右筆役となり、7月攘夷監察使の東園基敬に従って時山直八と紀州に行き、八月十八日の政変に帰国して七卿の用掛となった。

元治元(1864)年下関で外艦と戦い、12月高杉晋作と下関新地の会所を襲い、慶応元(1865)年正月恭順派藩庁軍と美禰郡に戦った時、諸隊総会計を勤めた。

同年3月用所役右筆となり、前原姓を名乗り、干城隊頭取を兼ね、5月国政方に転じ、慶応二(1866)年2月下関越荷方となり、6月幕長戦に小倉口の参謀心得として小倉藩降伏に尽くした慶応三(1867)年12月小姓筆頭となり海軍頭取を兼ね、明治元(1868)年6月北越出兵の干城隊副督となり、蔵元役と兼ね、萩から越後柏崎に上陸、7月越後口総督の参謀となって長岡城攻略に尽くした。

明治二(1869)年2月越後府判事となり、6月戊辰戦争の功により永世禄600石を賜り、7月参議に任じ、12月兵部大輔となり、明治三(1870)年9月辞職し、10月病気静養のためと称して萩に帰った。

明治九(1876)年10月奥平謙輔・横山俊彦らと党を集め、天皇に訴えて朝廷の奸臣を掃うための東上軍を起こしたが、事敗れて11月島根県宇龍港で捕らえられ、ついで萩で12月3日斬首された。享年43歳。

いわゆる萩の乱で散った悲運の将という感じを個人的には持っています。
弘法寺の奥に眠っておられますが、この弘法寺がやや見つけにくく、通り過ぎたりして難儀しました。

それでなくてもまだ回らなくてはならない場所がたくさんあるため時間がなくて焦ってましたからもうちょっとで諦めなければならないところでした。この第二次萩調査では事前準備の不足から多くの探査が未了という状況の中での数少ない成果でした。

以下略。』(「明治九年萩の変」より)
http://mahorobas.sakura.ne.jp/isinji/1876%20HAGI.htm


玉木文之進は先塋(せんえい)の傍で割腹したとあるが、「先塋」とは先祖の墓のことだ。

その墓は玉木家の祖先、つまり環(たまき)家、大内義隆の遺児の末裔だと私は考えている。

玉木は、あの椎原の松陰生誕地傍の墓所にあった「玉木家先祖の墓」の文字を持つ五輪塔のような大きな墓のそばで腹を切った。

このときの文之進の介錯、つまり首の切断をある女がした。

『玉木正誼は萩の乱で前原一誠に従い死んでいます。玉木文之進も萩の乱後、山の上の先祖の墓の前で切腹、この時介錯をつとめたのは吉田松陰の一番上の妹お芳でした。

この時のことを以下のように追懐されています。『世に棲む日日』より引用。

この日、叔父は私をよび、自分は申しわけないから先祖の墓前で切腹する。
ついては介錯をたのむ、と申されました。

私もかねて叔父の気象を知っていますから、おとめもせず、御約束のとおり、午後の三時ごろ、山の上の先祖のお墓へ参りました。
私はちょうど四十でありました。

わらじをはき、すそをはしょって後にまわり、介錯をしました。
その時は気が張っておりましたから、涙も出ませんでした。

介錯をしたあとは、夢のようであります。』
(「幕末歴史探訪 松陰と玉木文之進」より)
http://www.google.co.jp/url?q=http://www.webkohbo.com/info3/shoin/shoin.html&sa=U&ei=qlNVTaiTC4HCcci0tJ4M&ved=0CA8QFjAB&usg=AFQjCNHzbNz9eVReUV8k4pC3GcUQud1xGw

松陰の妹「お芳」にしてこの勇敢さである。・・・

杉家や玉木家の関係者は、男女を問わず幼いころからの教育が尋常ではないということだろう。
いくら武家の娘とは言え、どの家庭でも介錯をする作法をまじめに教えたりはしていないだろう。

やれといわれれば、素直にやれる。
その覚悟の心持が普通でない。

前原は、『元治元(1864)年下関で外艦と戦い、12月高杉晋作と下関新地の会所を襲い、慶応元(1865)年正月恭順派藩庁軍と美禰郡に戦った」とあるが、この行動は晋作とほぼ一体であり、松陰と晋作の遺志を継げる立派な志士だったと思う。

長い間新政府も山口県人たちも、前原たちを犯罪者扱いしてきたが、ようやく自らの過ちに気がついたということなのかも知れない。

今はささやかではあるが、境内で顕彰されるようになっている。

日露領土交渉を本日ロシアでやったようだが、いささか日本の大臣に迫力が感じられない。

もし松陰の言うとおりに明治新政府が動いておれば、今頃はずいぶん広い領土を持っていたことだろう。

前原ら7人の決起は、後世への憂いから発したものであろう。


玉木、前原、奥平、横山の名が上の記事に出ていた。
7烈士だから、あと3名いるはずだ。

石碑の右側面に7人の名が書いてあるそうだ。

「前原一誠  佐世一清  奥平謙輔  有福恂允  山田頴太郎  横山俊彦  小倉信一」が「萩の変殉難者七人」である。
 
玉木文之進は、前原らを松下村塾で指導していたということの責任を自らとって切腹をしたということだ。

私は玉木が主導した革命行動だったのではないかと疑っている。
松陰が生きていれば、松陰は吉田稔麿を総理大臣にして、玉木の望む世の中にしたはずだ。

それができなくなったから、もう一度起死回生を図ったのであろう。

「松陰神社ホームページ」に石碑の紹介があった。

石碑の左側面に「昭和五十一年歳次丙辰十月 前原一誠萩の変百年祭顕彰会建之」と刻まれていて、この碑は七烈士が処刑された萩市恵美須町にあったという。

萩の変130年祭にあわせて松陰神社へ入ることができたのはつい最近のことだった。(平成18年)

松陰も幕府によって罪人とされ、2年半もの長い間南千住の回向院の罪人墓に埋められていた。
晋作が名誉回復して世田谷の楓の木の根元に回葬している。

前原の遺骸も師匠と同じ運命を辿ったが、130年目の回葬とはずいぶん遠回りしたことである。

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