慶子の夢は~長州(124) [萩の吉田松陰]

SH3B0484.jpgSH3B0484 松陰の実家「杉家」
SH3B0488.jpgSH3B0488杉家の井戸

貧しかったこの松陰の塾にも、中山公子が訪ねてきたことがあるのではないか。
ならば、そのときは久坂が連れてきたのであろう。

それがもし「明治天皇になるはずだった孝明天皇の子」だとしたら、「連れてきた」ではなく「お連れした」と表現を変えねばなるまい。

「幕末日本史にとても重要な役割を果たす公家の名、中山忠能が登場してきた。
このことから、一気に「中山公子」の実像が見えてきた。
それは平戸藩主のひ孫で、明治天皇の叔父となる人物である。」

こう先の記事で書いた。
おそらくそこまでは史実であっただろう。

この稿では、約1年間情報不足のために足踏み状態だった私の推理を、勇ましく発展させていきたい。

幕末の平戸藩主とは、松浦清のことである。

「(松浦)清は17男16女に恵まれた。
そのうちの十一女・愛子は公家の中山忠能と結婚して慶子を産み、この慶子が孝明天皇の典侍となって宮中に入って孝明天皇と結婚し、明治天皇を産んでいる。」
(「松浦清(Wikipedia)」より)

つまり、松浦清(静山)が皇室の寝室へ接近するために、娘愛子を公家に嫁がせて、生まれた娘を天皇の妻としている。

松浦清に利用された公家(婿)の名が、中山忠能である。
公家とはいえ、中山忠能は家禄わずか二百石の貧乏公家である。

静山の娘愛子が産んだ慶子が、孝明天皇の妻となって、明治天皇を産んでいる。

中山忠能自身は明治21年(1888年)、80歳まで長生きしているから、決して悲劇の死ではない。

だが、その息子が大変な「悲劇の死」を遂げている。

『中山慶子の弟・中山忠光(1845-1864)は14歳で孝明天皇の侍従となり、万延3年に睦仁親王の祇候となった。

文久3年、吉村寅太郎らの天誅組を指揮して反乱を起こしたが、敗れて長州下関で暗殺された。』
(「中山忠能と明治天皇すりかえ説」より)
http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_916c.html


中山忠光は、睦仁親王(後の明治天皇)の祇候となっている。
祇候(伺候)とは、「謹んで貴人のそば近く仕えること」であり、立身出世の道でもある。

つまり、中山忠光は本物の明治天皇のお傍に仕えていて、明治天皇の顔や性格までもよく知っていた。

もし、明治天皇をすり替えたものがいたとすれば、中山忠光が京都に居てはたいそうまずいことになる。

長州に旅に出ているという中山忠光の口封じを急がねばなるまい。

中山忠光は、何かの手違いで殺されたのではなく、狙って殺害されているのだ。

白石正一郎は日誌に「中山公子とは、悲劇の死を遂げた云々」と書いていた。
それは、中山慶子の弟・中山忠光のことだった。

これらのキーワードでもう一度「悲劇の死」を検索すると、「そのものずばりの記事」に遭遇することができた。

今までも何となくモヤモヤっとしていて「よくわからなかったこと」が、これによりはっきりと見えてきた。

可能性のひとつとして、「悲劇の死」を遂げた青年が実は慶子の生んだ祐宮(さちのみや)(後の明治天皇)であったのではないか、などと私は勝手な推理をしている。

あながち、あり得ないことではない。

つまり、「中山忠光と明治天皇がどこかで入れ替わっていた」という推理である。

そう推理する根拠は、慶子の父にある。
松浦静山が「慶子の子の入れ替え」も可能な位置、外戚の祖父という立場にいたから、推理の可能性も随分と高くなるのである。

そうでなければ、そういう推理は成立し得ない。

そう仮定すると、もし長州で中山公子が「明治天皇を詐称する人物」に会ったとき、そのうそを見破ることはいとも容易(たやす)いことである。
証明する手間が省けるのだ。

なにせ、「中山忠光を名乗る自分こそ、本物の睦仁親王(のちの明治天皇)である」からだ。

歌舞伎やドラマの忠臣蔵を見てもわかるが、松浦静山は歴史をドラマチックに創ることに情熱を注いだ人である。

「攘夷決行」の光明寺境内で、久坂に攘夷発砲の最初の命令を下すのは、実は幼い頃の明治天皇(当時は睦仁親王)だった、そういうドラマはあまりに美しいのではないか。

私は、次の記事「公子・中山忠光」を読むとき、「中山忠光=実は祐宮(さちのみや)」という仮説を立てて読んでいる。

そのために、この記事の内容は息を呑むものがある。

なぜそういう仮説を立てるかというと、松浦静山にはそうできる権限もあったし、そうなる必然性もあったからである。

静山は、やがて天皇になるひ孫を温室で育てることを好まなかった。

いよいよ孝明天皇の攘夷の『詔勅』命令を受け、日本全土で攘夷の火を発する時がやってきた。

その第一発が我がひ孫から発せられ、それが革命後の新天皇になる男児であったとすれば、これほど「天晴(あっぱ)れ」なことはない。

そう静山は考えたはずだ。
そうする必然性が静山の心中に生まれたと私は思う。

歴史を華やかに彩ることが好きな静山は、常に慶子の傍にいた。
慶子の傍とは、孝明天皇の閨にも近い。

慶子の夢は何だったのか。
慶子の夢はいつ開くのか。

慶子は正室ではない。
慶子が生んだ男の子は、いずれの九条の娘の手に渡るのである。

『万延元年7月10日(1860年8月26日)、勅令により祐宮(さちのみや)は准后女御・九条夙子の「実子」とされ、同年9月28日、親王宣下を受け名を「睦仁」と付けられた。』(中山慶子(Wikipedia)より)

慶子は8歳のわが子祐宮を九条夙子に取られている。
それも絶対に断れない「勅命」によって、である。

もし子を入れ替えておけば、わが子はいつまでも慶子の手元で育てることはできる。
ひ孫であれ、子であれ、手元に置きたいのは人情であろう。

慶子の夢は、静山の夢でもあった。

わが子に「その叔父中山忠光」を名乗らせて新日本の歴史創造の旅をさせている間に、シナリオが狂って預けていた長州藩、正確には支藩である長府藩に子を殺されるとは慶子も、その祖父静山も思っていなかったことだろう。

大和国の攘夷第一発砲の命令を、長州藩光明寺党を率いて馬関海峡に向けて発する忠光の姿は、いかにも神々しく美しい。

以下のことは、長州人もあまり知らない話題であろう。
長い記事だが、割愛せずに全文を引用したい。


『「思ひきや 野田の案山子(かかし)の 梓弓(あずさゆみ) 引きも放たで 朽ちはつるとは」

この和歌の詠み手の名を中山忠光と言う。
忠光は、大納言中山忠能(ただやす)の第五子である。

姉の慶子が宮中に出仕し、後の明治天皇・祐宮(さちのみや)を生んだことから、忠光は明治天皇の叔父にあたる。

祐宮は中山家の敷地内に設けられた御産所で生まれ、5歳になるまで中山家で養育された。

そして、祐宮が宮中に戻った翌々年の正月、14歳の忠光は、従五位侍従に叙せられ、宮中に出仕している。

宮中では異色の存在だったようだ。

場所もわきまえず、いきなり同輩に相撲をいどんだとか、衣冠束帯のまま袴の裾もとらずに賀茂川の浅瀬を歩いて渡ったとか、殿上人らしからぬ逸話がいくつか残っている。

明治天皇は大の相撲好きで、おまけにすこぶる強かったというのは、あるいは、この、型破りだった叔父の影響かも知れない。

忠光が土佐や長州の志士たちと盛んに交流し、尊皇攘夷の激派として頭角を現すようになったのは文久2年秋以降のことである。

この時、忠光は18歳。
土佐勤王党の党首・武市半平太の寓居を訪れ、「和宮降嫁を推進した宮中の奸物どもを刺そうと思うから、刺客を何人か貸して欲しい」と言ったという。

その頃、天誅の指令塔のようだった武市も、これには仰天したに違いない。

もっとも、この天誅計画は実行には移されなかった。

父の忠能が、忠光の前に立ちふさがり、「どうしてもやるなら、この私を刺してからやれ!」と、捨て身で引き止めた。
問題児を持つ父親の苦労は今も昔も同じである。

文久3年3月11日。
孝明天皇は、将軍・徳川家茂をはじめとする諸侯を従え、攘夷祈願のため賀茂神社に行幸した。
この時は忠光も騎馬で行列に加わったが、7日後の18日には忽然と姿を消している。

心配した忠能は八方手をつくして探したが、いくら探しても見つからない。
そうこうしているうちに、忠光の従僕が1通の書状を携えて戻ってきた。
それは大阪で書かれたもので、内容は以下のようなものだった。

「段々ご心配のこと、深々恐れ入り奉り候。然れば、皇国御ために相なり候心得にこれあり。不孝の次第、実にもって恐れ入り候。兼ねて御預け申し上げ候金子早々御まわし願い上げ候なり 忠光」

つまり、「ご心配をおかけして申し訳ありませんが、皇国のためにひとがんばりしたいと思いますので、そのための活動資金として、お預けしているお金を大至急おまわし下さい」
と言ったところか。

詳しいことは何一つ書かず金銭を要求するあたり、いかにも苦労知らずのお坊ちゃんである。驚いた忠能は、すぐさま使者を大阪に遣るが、忠光の姿はすでになかった。
久坂義助や入江九一の手引きで、海路、長州へ向かっていたのである。

3月26日に富海に上陸し、4月1日には下関の豪商・白石正一郎の屋敷に落ち着いている。

そのうち久坂義助が、数十人の浪士を率いて下関へやってきた。

忠光は久坂たちに担ぎ上げられ、光明寺党の党首として攘夷戦に参加。

5月10日の攘夷期日を待って、海峡を航行する異国船を次々と攻撃した。
ふいをつかれた船は、応戦もできずに大あわてで逃げていく。

その船影を見ながら忠光も浪士たちと共に快哉を叫んだに違いない。

文久3年6月8日、森俊齋と改名した忠光は、同志18人をしたがえて京都へ舞い戻った。
忠能は、無事に戻ってきた息子を見て、さぞかし喜んだことだろう。

ところが、ほっとしたのもつかの間、2カ月後の8月14日に、不肖の息子は再び家を飛び出し、2度と戻っては来なかった。

忠光が出奔する前日、尊攘派の画策により、大和行幸の詔(みことのり)が発せられた。
その建前は「攘夷祈願」であったが、真の目的は、大和の国に陣取って、攘夷実行の大号令を発し、それに従わざるもの、すなわち徳川幕府を討つというものだった。

忠光は、土佐の吉村虎太郎らと共に大和国へ向かい、五條代官所を襲って、代官の鈴木源内ら6名を血祭にあげた。
しかし、天誅組の活躍はここまでであった。

翌18日にぼっ発した「八・一・八の政変」で、彼らが頼みとする長州藩は失脚。
彦根藩、藤堂藩、紀州藩をはじめとする諸藩の追討軍に包囲され、文久3年9月末までに天誅組は壊滅する。
虎口を脱出できたのは、忠光の他、数えるほどしかいなかった。

その後、忠光は、船荷に隠れて海路・三田尻へ落ちのび、長州藩の支藩である長府藩に身を寄せることになる。けれども、幕府のおたずね者になった彼にとって、もはや長州は安全な場所ではなかった。

幕府の隠密の目を逃れるため、長府藩は忠光の自由を奪い、次々と隠れ家を移した。
終の棲家となった豊浦郡田耕村・太田新右衛門の家に入るまでの約1年で、彼は8回も居所を変えている。

監禁同様の隠棲生活に耐えられず、何度も脱走を試みるが、その度にとらえられ連れ戻された。
忠光を少しでも落ち着かせようと、長府藩は下関・赤間町の商人・恩地与兵衛の娘・登美を侍女として送り込んだりもしている。

運命の日は突然訪れた。
元治元年11月8日の夜、病で寝ていた忠光のもとに、庄屋の山田幸八が、真っ青な顔をしてやって来て、「幕吏が迫っています。今すぐここからお逃げ下さい」と告げた。

忠光は急いで服をあらため外に出た。
幸八は提灯を携えて、昼なお暗い密林の中を進んで行く。

凍てつく寒さの中、熱でふらつく身体をもてあましながら、幸八に従う忠光の胸に去来する思いはどのようなものだったのか。
今となっては知るよしもない。

川に沿って3・4町(1町=約109m)ばかり登ったところに、巨大な岩が横たわっていた。
そこまで来ると、何を思ったか幸八は、急に提灯の灯りを吹き消し、岩を乗り越えて駆け出した。

「待て!どこへ行く!?」忠光はとっさに叫んだが、幸八の姿はたちまち闇の中にかき消えた。
その刹那、何者かが忠光に近付き、棍棒で足を払った。

枯田に転倒したところに4人の男が一斉にのしかかる。
3人が手足を押え、残りの1人が首を締めて殺した。

計画されつくした上での完全犯罪。
男たちは長府藩が放った刺客であり、幸八は藩に命じられて忠光をおびき出したのだった。

後に幸八は狂い死にしている。
良心の呵責に絶えかねたのかも知れない。

刺客は忠光の死体を長持(ながもち)に収め下関を目指した。
ところが、ここで誤算が生じた。
下関郊外・綾羅木まで来たところで夜が明けてしまい、人目をはばかった刺客たちは、下関行きを断念して海岸の松林に長持を埋めた。

その後、長府藩は忠光暗殺を隠蔽するためにその死因を「病死」とし、医師の診断書をつけて朝廷へ報告。

また、別の報告書には、「かねて大酒好み、その上御色情深く御虚弱のように相見え」12月5日に亡くなったとしている。

現在、山口県には中山忠光を祀る神社が2つある。

1つは忠光の死体を埋めた綾羅木の地、そしてもう1つは彼が暗殺された田耕の地。

田耕の中山神社はささやかなものだが、綾羅木のそれは、なかなか立派で、私が訪れた時は、お宮参りの家族連れで賑わっていた。

私は少し複雑な思いで彼らを眺めた。
この神社を訪れる参拝者の中に、祭神である二十歳の青年公卿のことを知っている人が一体どのぐらいいるのだろう。

太田新右衛門の家は今でも田耕に残っている。

家の前にはのどかな田園風景が広がっていて、山と田んぼの他には何もない。
秋の空は爽やかに晴れ上がり、真っ赤な彼岸花が風に揺れていた。忠光が見た風景も、これと似たようなものだったかも知れない。

「思ひきや 野田の案山子(かかし)の 梓弓(あずさゆみ) 引きも放たで 朽ちはつるとは」

太田家の前に佇み、ふとつぶやいてみる。
すると、縁側に座って田んぼを見つめている貴公子の姿が一瞬浮かんで消えた。

中山忠光の暗殺は、幕末の長州にとって唯一の汚点と言えるかも知れない。

長府藩の隠蔽工作も空しく、暗殺の一件は明治天皇の知るところとなった。

明治になって、維新の功労者に爵位が贈られた際、長府藩は伯爵の地位がもらえず子爵止まりだったが、その裏には明治天皇の意思が働いていたと言われている。

明治天皇は、忠光に遊んでもらった幼い日々を忘れてはいなかったのだと思いたい。

公子・中山忠光は、地位を捨て、故郷を捨て、国事に奔走し、京都から遠く離れた田耕の地で非業の死を遂げた。

今は知る人も少ない彼もまた1人の草莽と言えるかも知れない。』
(「公子・中山忠光」より)
http://homepage3.nifty.com/ponpoko-y/yomoyama/04nakayamatadamitu.htm

明治天皇は、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)の生まれで、忠光は弘化2年4月13日(1845年5月18日)の生まれである。

忠光は14歳で宮中に出仕している。
それは1859年のことで、そのとき明治天皇は7歳である。

二人が入れ替わるには少し年が開きすぎているが、別の場所で生活するとすればできないことではない。

孝明天皇には毒殺説がある。
もし誰かが毒殺したとすると、孝明から明治への権限委譲を有利に進めることを狙ったものが犯人であろう。

実際の歴史は、「狂信的な攘夷」の孝明から、「開国友好」の明治へと変わっている。

開国により多くの利益を得ることになる海洋貿易商の姿が、私の目には浮かんでくる。

「お前も悪じゃあのう? ふふふ」という悪代官役は、この場合は公家かその親戚となろう。

その悪徳海洋貿易商(ビジネスマン)とは、まだ江戸末期にあってはどこかの海洋交通に長けている大名であったかも知れない。

天皇を入れ替え得る人物とは、まさに日本の歴史を創れる人物である。

井沢元彦氏の逆説の日本史だったと記憶しているが、織田信長が天下を取れなかった理由は「天皇を殺さなかったからだ」という。

あくまで天皇を尊重し、安土城内に居を移させ、藤原氏と同様に外戚関係を持って朝廷を支配しようとした。

そこが信長の唯一の欠点だった。

もし信長が天皇家を滅ぼしていれば、圧倒的な重火器を持つ信長の天下は確立したはずだ。

そういう論理展開であった。

日本人には天皇を心底尊敬するやさしい心根が古来から自然と備わっている。
私自身にもそれはある。

歴史を都合のいいように作り変えていく人物たちは、その心根をうまく利用しているのではないか。

一種の「民族マインドコントロールテクニック」であると言えよう。

まさか天皇がすりかえられていたなどとは、日本人は疑うことすらしないものである。

日本人はそろそろ自らの歴史に目覚める必要がある。

『忠光の死が元治元年(1864)11月5日(6日説あり)であり、頼徳の死から20日あまりで、潜居中の身にはるか茨城県から山口県まで辞世が伝わったとも思えず推量だが忠光の辞世なるものは後世の作と考えられる。
また完全な盗作である。

  頼徳の辞世
   野田の案山子の竹の弓 と 朽ち果てんとは が
  忠光では
   野田の案山子の梓弓 と 朽ち果つるとは  に置き換えられている。

梓弓は万葉でよく唄われており、少し考えると田んぼの案山子が梓の立派な弓を持つわけがない。』
(「天誅組の変と立石孫一郎」より)
http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/kaitei/nakayama.htm

この記事の著者は「田んぼの案山子が梓の立派な弓を持つわけがない。」と言い切っているが、私はそうは思わない。

ドラマチック歴史を創るためにも、敢えて梓の立派な弓を持つ人物を田んぼの案山子として派遣するという演出も十分あり得る。

田んぼの案山子は、実は孝明天皇の子供だったのではないか。

「明治天皇は大の相撲好きで、おまけにすこぶる強かったというのは、あるいは、この、型破りだった叔父の影響かも知れない。」と叔父に感化された明治天皇の様子を描写しているが、実は明治天皇は虚弱だった。
相撲が得意なのは確かに叔父の中山忠光そのひとだったのだ。

長州で人違いのため明治天皇が殺害されたとすると、京都御所にいるのは一体誰なのか。

相撲が得意だった中山忠光自身ではなかったのか、と私は推理している。
もちろん、似たような年齢の虚弱なお子を身代わりにする手もあっただろう。

しかし、松浦静山にとってはひ孫にあたる後の明治天皇・祐宮(さちのみや)を失ったことになる。

やがて天皇の外戚として権力を振るうはずだったのが、他人のお子を天皇に入れ替えては長年の計画が水の泡になる。

慶子の弟中山忠光であれば、静山にとっては孫にあたる。

祐宮(さちのみや)の長州旅行のために、相撲の得意な忠光を身代わりさせていたのだが、そのまま明治天皇になってもらうしかないと考えただろう。
その場合、7歳もの年の開きや身体性格の特徴の違うところは多々ある。

無理は承知で静山の血を持つ人物に入れ替わるように仕組んだのであろう。

革命完了直後に遷都すれば何とか隠せおおせるだろう。

「明治天皇は入れ替わっており、本物は暗殺されていた。」

私の推理はそれであるが、それとまったく同じことを論じるサイトがあった。

文中には、即位の前後で別人と思われる人的特徴の段差を指摘していた。

『即位前(睦仁親王時代)
① 睦仁親王は疱瘡(天然痘)をわずらった。
疱瘡の後遺症として、顔面に「あばた」が残った。
②元治元年(1864)年7月の「禁門の変」の際、砲声と女官達の悲鳴に驚いた睦仁親王(当時13才)は、「失神」した。
③睦仁親王は幼少より「虚弱体質」で、毎年風邪をこじらせていた。
又、16才になっても、宮中で女官と一緒に「遊戯」にいそしんでいた。
④睦仁親王は16才になっても、書は「金釘流」、つまりは「下手」であった。
又、政務にも無関心であった。
⑤即位前の睦仁親王に、「乗馬」の記録は残っていない。
つまり、馬には乗れなかった。

即位後(明治天皇時代)
①明治天皇の「御真影」(これは「写真」ではなく、キヨソーネが描いた「肖像画」)に描かれた顔に「あばた」は無い。
又、実際の顔にも「あばた」は無かった。
②明治天皇は威風堂々、馬上から近衛兵を閲兵し、自ら大声で号令した。
③体重24貫(約90Kg)の巨漢で、側近の者と相撲をし、相手を投げ飛ばしたと言う。
④明治天皇は書が「達筆」であった。
又、学問にも熱心であり、教養豊かであった。
⑤明治天皇は、鳥羽伏見の戦の際、馬上豊かに閲兵した。』
(「「明治天皇」は暗殺されていた!! 南北朝秘史―其の肆(1998.1.4)」より)
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/honbun/nanboku4.html

性格といい、体格の違いといい、即位前後ではまったく別の人間である。

新政府が都を急いで京都から一旦は大阪へ遷そうとし、それがだめとなれば今度は江戸へ遷したというのも、そういう即位前の明治天皇を知る人々から御所を遠ざける必要があったのかも知れない。

長州藩で暗殺された男子は、おそらくは大砲の音で失神するほどの虚弱なお子だったのであろう。

歴史は繰り返される。
私たちは、天皇を国民の象徴と崇める限り、皇室の実態について無知であってはならない。

崇めつつ、見てみぬ振りをしてはならない。

もし、松陰が松下村塾で中山公子に会っていたら、互いに気が合ったのではないか。

松陰も即位前の親王と同様、幼い頃に痘瘡を患っており顔にあばたが残っていたのである。
そして剣術も苦手な痩せた松陰青年であった。

生きていたら、天皇の入れ替えという荒療治を松陰自身は果たして許しただろうか。
臣下がまずとるべき道というものを必死で探り実行していったはずだ。

松陰であれば、「使えないから殺してしまえ」とは決してならない。

松陰の思想は開国攘夷であると思う。
開国して貿易産業を振興し、日本を富国して後に強兵を実現する。

その結果、日本の植民地化を防御し、なおかつインド・中国をも含むアジアの西洋からの独立を画策するのである。

松陰は、「まず天皇を殺し、その子をも殺す」というひどい戦略を採らないはずだ。

以上は松陰と平戸を舞台に展開した幕末の推理劇であるが、実は時代考証に大きな問題を含む。
主役となっている松浦静山は、忠臣蔵で有名になった平戸藩主であるが、天保12年(1841)に死没している。

安政5年9月に家督を相続した肥前国平戸藩第12代(最後の)藩主松浦 詮(まつら あきら)が静山の見果てぬ夢を後押ししたと考えるべきであろう。

松浦 詮は明治41年(1908年)まで生きた。

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Arleen

トピックに関する貴重な経験の不明瞭さと保全性についての情報
予期せぬ感情の
by Arleen (2017-10-17 16:58) 

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