中山公子(こうし)とは~長州(123) [萩の吉田松陰]

SH3B0483.jpgSH3B0483「楷(かい)の木」側から見た松陰神社側面

「楷(かい)の木」の傍から松陰神社の側面を見ている。
意外に洒落たデザインである。

仙台伊達、鳥取池田、長州毛利の三藩が、黄檗宗を通じて宗教連携ができていたことがわかった。

長崎では日本へやってきた中国人が、キリスト教徒ではないことを証明するために仏教門徒になるべく黄檗宗の寺院の信者や檀家になった。

黄檗宗はそうやって新しく設けられた禅宗の一派である。

言い換えれば、日本へ入国するキリスト教徒にとって黄檗宗寺院は隠れ蓑として機能する。

黄檗宗信者だといえば、幕府のキリシタン疑惑による詮索を免れることができる。
踏み絵の苦しみから逃れることもできたことだろう。

信者にとってマリア像を彫った板を足で踏むことは拷問以上につらい。

岡山藩から鳥取藩へ移した池田氏の菩提寺は、当初は京都妙心寺派寺院だった。
黄檗宗に宗派替えをするのに、京都妙心寺と「ひと悶着」あったという。

私の母が亡父の遺骨を臨済宗寺院のアパート墓地から曹洞宗寺院の土石の墓に移そうと相談した。
臨済宗の僧侶が老いた母にいうには、名づけた40万円もする亡父の戒名を召し上げて「名無しの遺骨にする」と脅された。

これはほんの10年ほど前の、私の家族にあった話である。
大層気に入っていた亡き夫の戒名が墓替えで消滅すると脅された母は、遺骨の移し替えをあきらめた。

この例でわかるように、死んだ父に対して宗教があるのではない。
まだ生きている遺族のためにこそ、宗教がある。

死んだものはモノをいわないし、悔いもしない。

現代では、坊主の言うことの方が私たち在家の者よりもずっと生々しい。

「墓を替えてもよいが、その代わりわが宗派がつけた40万円の戒名は消滅するぞ!」とまで言って檀家をつなぎとめようとする。

釈迦が聞いたらさぞかし嘆くことだろう。
仏法創始者の思いなど、2500年も経過すると吹っ飛んでしまっている。

話は現代の我が家のことへ脱線したが、池田氏の宗旨替えトラブルのくだりで、池田氏は京都妙心寺派をかつて菩提寺にしていたことがわかった。

妙心寺の雑華院(ざっかいん)という塔頭は、キリシタン大名牧村利貞が建立したものである。

その娘は祖心尼となり大奥で将軍家光にキリシタンの教えに酷似している禅の教えを授けている。

そして京都妙心寺境内には、秀吉により破却された南蛮寺の鐘が大事に保管されている。

つまり、黄檗宗以前から池田氏にはキリシタンの教えが潜んでいた妙心寺と因縁が深かった。

このことは注目すべきことであろう。

さて、仙台にキリシタンを埋葬している「光明寺」という名の寺院がある。

拙著街道ブログに、その寺へ寄ったことを以前書いた。
奥州街道歩きの途上である。

以下に再掲する。

『光明寺党と攘夷~奥州街道(3-387)
http://blogs.yahoo.co.jp/realhear2000/59402246.html
2010/4/4(日) 午後 5:40中山道を歩こう

TS392397支倉六右衛門の文字のある石碑
TS392399光明寺
TS392401旧奥州街道
(注;写真は割愛しますので、見たい方は上のアドレスを参照してください。)

仙台市青葉区北山にある光明寺の門前に苔むした石柱が立っている。
北山五山の1つである。

「支倉六右衛門」の文字が見える。
支倉常長のことである。
「六右衛門」は別名である。
そして、霊名は「ドン・フィリッポ・フランシスコ」である。

フランシスコ・ザビエルの影響は、確実に仙台までやってきていた。
後の時代だが、(大分県国東出身の)ペトロ岐部も仙台布教に貢献している。

キリシタンの洗礼を受けた支倉常長の墓が光明寺にある。

以前も書いたが、旧約聖書の神は「光」を好む。
御みこしを金銀で飾るのもそのためである。

光の文字のあるところに私は旧約聖書やキリシタンの影響を感じる。
ここ「光明寺」と同じ名前の寺が、下関の瀬戸内海に面してある。

長州藩砲台から「砲弾」がアメリカ商船に向けて発射されたことは知られている。

光明寺から久坂ら光明寺党が小船で繰り出して、(沖で)大砲を積んだ(長州藩の)戦艦に乗り込み、明治維新革命の「最初の砲弾」を発砲させたという、ことの細部はあまり知られていない。

『刀痕の所在地
山口県下関市細江1-7-10  光明寺本堂前廊下の柱

刀痕の誕生日
文久3年(1863)5月5日頃 馬関戦争勃発前、光明寺党が光明寺に駐屯していた頃

刀痕の背景
光明寺と光明寺党について、 
 
文久3年(1863)の下関攘夷戦争の際には、久坂玄瑞率いる浪士隊約50~60人がこの寺に駐屯しており、5月11日未明、アメリカ商船ベンブローグ号に対して庚申、癸亥両艦で海峡に乗り出し、又亀山八幡宮に築かれた砲台から攘夷の第一弾を打ち出したのが彼らでした。

今日この浪士隊は「光明寺党」と呼ばれています。

白石正一郎日誌の中に、文久3年4月、「中山公子今日狐狩りに御出長府より御猟方来る、得物の狐一疋光明寺へ御持ち行候」という記事もみられる。

中山公子とは、悲劇の死を遂げた云々。

又癸亥丸(英国より購入の軍艦)を飾っていた「艦首像」を切り取ってきて、光明寺本堂の前に置き出入の度ごとに叩いたりして、攘夷の思いを高揚させていたとも伝えられている。

若者らしき稚気では有りますが云々。

と説明され伝えられています。(要旨 地元紙、寺伝)』
(「下関攘夷戦争「下関光明寺に残る光明寺党の刀痕」」より)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~toukondankon/tyou-koumyouji.htm

文久3年(1863)4月に中山公子が狐を一匹光明寺に持参した。
5月5日頃、浪士たちの乱闘が本堂内であったようである。

刀を抜いて単に暴れただけかも知れないが、寺の本堂の柱に刀傷をつけるという、釈迦が聞いたらあきれるような行動を若者たちが行っている。

その約1週間後(5月11日未明)に外国船に大砲をぶっ放している。

狐を光明寺に持参した白石正一郎のいう「中山公子」とは一体誰のことだろう。
長府より下関に狩に出てきたというから、いつもは長府に住んでいたのだろう。

中山の公子牟(こうしぼう)、それは魏の公子で魏牟(ぎぼう)であるという文がある。

公子(こうし)とは、貴族の子弟、公達(きんだち)のことを指す。

白石正一郎が長府からやってきた高貴な人物を、中国「魏」の公子に比喩して記したものであろう。

『「仲尼第四」〔十三〕 
中山の公子牟(ぼう)は魏國の賢公子なり。
好みて賢人と游び、國事を恤(かへりみ)ずして、趙人公孫龍(こうそんりよう)を悅ぶ。

樂正子輿(がくせい しよ)の徒之を笑ふ。
公子牟曰く、子何ぞ牟の公孫龍を悅ぶを笑ふや。

子輿曰く、公孫龍の爲人(ひとゝなり)や、行ふに師無く、學ぶに友無く、佞給*にして中らず、漫衍*にして家無く*、怪を好みて妄言す、人の心を惑はし,人の口を屈せんと欲して、韓檀*等と之を肄(なら)ふと。

* 佞給、ねいきふ、口先がうまい。
* 漫衍、まんえん、とりとめがない。
* 家無く、一家をなさない。
* 韓檀、かんだん、人名。』(「仲尼第四」より)
http://sudana.hp.infoseek.co.jp/chuuji.htm

公孫龍は孔子の弟子の一人である。

中山の公子牟(ぼう)は「公孫龍を悅ぶ」、つまり「公孫龍の教え」を好むということだろう。

「樂正子輿(がくせい しよ)の徒」がそれを笑ったという。
「樂正」が姓で「子輿」は名であり、前漢の成帝の子の名をかたった人物のことであろう。

子輿は中山の公子が喜ぶという公孫龍を批判した。
中山の公子牟(ぼう)は魏國の賢公子というから、王国の高貴な貴族の子だろう。

ちょうど中山忠光と条件が一致し、しかも漢字表記まで同じである。
白石はこの中国の故事を知っており、それをなぞるようにして、忠光を中山公子と表現したのである。

つまり、中国の故事の前後と、幕末日本の当時の状況が一致する可能性を示唆している。

『公孫龍のひとゝなりは、行動するにも師が無く、学問をしようにも友が無く、口先はうまいけれど道理に外れ、とりとめがないけれど一家をなさないし、怪を好んででたらめを言い、人の心を惑はし,人の口を屈せんと欲して、韓檀等と之を肄(なら)ふと。』

ここには出てこないが、このあとで中山公子牟は「愚かな者には、智恵者の言葉を理解することはできない。」と反論を展開している。

「前漢の成帝の子」であると詐称するような連中には、公孫龍の教えなどはわかるまいという意味であろう。

「天皇の子であることを詐称する」というくだりは、幕末のこの時代にあっては孝明天皇の子、つまり「明治天皇であることを詐称する」ということになろう。

それが「子輿の徒」であれば、中山公子はそれらの怪しい連中とは一線を画した公家であったと自覚している。

「子輿の徒」の真似をした楽正王郎(おうろう)という思想家がいる。
子輿の名をかたった楽正氏だから、楽正子輿となる。

日本に置き換えると、また一段とややこしくなる。

「孝明天皇の子であることを詐称する」「子輿の徒」、つまり偽明治天皇がいて、それの真似をした楽正子輿がいた。

つまり、われは明治天皇であると詐称して有名になった男の真似をして、また「われこそは明治天皇である」と詐称した男まで現れたということになる。

孝明天皇毒殺(仮説)によって、ちまたにそういう連中が沸きあがってきたのであろう。
楽正子輿がどういう人物かを知ることで、幕末にその真似をした日本人がどういう人物かを投影してみることができるかも知れない。

『戦国時代の思想家。『列子』にみえる。
姓は楽正。

王莽が新を建国した際に、偶々長安では前漢の成帝の子である子輿を自称して誅殺された者がいた。

王郎はこの事件を利用し、自分こそが本物の子輿であると詐称する。』(王郎(Wikipedia)より)

「子輿」は成帝の子であるが、「樂正子輿(がくせい しよ)の徒」とは「実は私こそが成帝の子である」と詐称する王郎のようなものたちを指す。

長州藩に王郎のような人々がいたのであろう。
中山公子は、その対極にある公家である。

すなわち「天皇の子を騙(かた)る」などというおろかな行為をしない公家である。

以下略。』(再掲載終わり)

今この拙著記事を読み直してみると、相当奥が深いものへ接近しようとしているように見える。

ことは下手をすると天皇家の正統性にまで及び兼ねない。

「子輿は中山の公子が喜ぶという公孫龍を批判した。」

これは日本の天皇の子であることを詐称する長州の男(ここでは子輿とあだ名している)が、中山公子が尊敬する孔子の弟子公孫龍を批判したということを示唆する。

儒教の忠孝の教えに反する人物だということだろう。

中山公子は長州藩内で天皇の子、幕末当時で言えば「孝明天皇の子である」と詐称する男と会って、孔子批判を聞かされたことになる。

「孝明天皇の子」を詐称するということは、「我は明治天皇である」と嘯(うそぶ)くことを意味する。

その男が本当に「孝明天皇の子である」かどうかを忠光が確認したかどうかは定かではない。

可能性としては、可愛い孫(天皇の後継者)に旅をさせようとしたおじいちゃんが、天皇の子であった孫を他人と入れ替えたことも考えられる。

中山公子が天皇と入れ替わったのではなく、天皇の子が中山公子と詐称して長州にいた可能性もある。

ともあれ、うそか真かはわからないが、「われは天皇の子」と主張する人物が長州藩にいたことは事実のようである。

もし「真」であるならば、それは皇統断絶に通じる可能性を生むことになる。

久坂玄瑞ら若者は、光明寺本堂の前に(階段下にという説もある)癸亥丸の「艦首像」を置き、出入の度ごとに叩いて攘夷の思いを高揚させていたとあった。

その船は英国で造られたブリック級木造帆船で、ランリックといった。

次の記事によれば、光明寺党はその像を蹴飛ばしていたという。

『原名ランリック。

イギリスで建造され、1863年1月英国より購入。
艦首には船首像が付いていたのだが、長州藩の過激派光明寺党が攘夷の魁とばかりに切り離し、宿舎である光明寺の階段の下に置いて、出入りの度に蹴飛ばしていた。

下関に配置され、文久三年五月十一日には庚申丸と共にアメリカ商船ペンブローク号を攻撃した。

この際の攻撃は拙劣で、癸亥と併せて12発の砲弾を撃ちながらマストに軽微な損傷を与えるに留まった。

此の後、二十二日にもフランス通報艦キェンシャンが馬関に近付くと、此を攻撃する為に庚申と共に出撃し、軽微な損害を与えた。

メデューサ号の攻撃に際しても庚申・壬戌と共に出撃して損害を与えて撃退したが、その命中弾が癸亥による物かは不明。

文久三年六月一日、アメリカ軍艦ワイオミング号が下関港に突入し、砲撃戦となるや、今度は間違えて味方の壬戌に当ててしまった。
その後ワイオミングの強力な11インチ砲弾2発を受け、大破した。

その後一時期の間廃艦扱いとされていたが、後に大改修を受け、慶応二(1866)年六月十七日に小倉口に出撃。
丙寅丸、丙辰丸らと共に田野浦を砲撃した。

鳥羽伏見の戦いの前夜、蒸気船鞠府丸・丙寅丸・満殊丸、帆船丙辰丸・庚申丸・乙丑丸と共に広島藩船万年丸の誘導の元、総督毛利元功(徳山藩世子)・隊長毛利内匠(徳山藩家老)以下1200名の藩兵を上陸させた。』
(「長州藩」より)
http://page.freett.com/sukechika/ship/ship04.html

艦首像は悲惨な目に遭っているが、艦船本体は後半ではそこそこ活躍していたようだ。

一般に欧州の帆船は女神像を艦首に飾ることが多いようだが、叩かれたり蹴られたりした像がどういう像であったかはわからない。

白石はその行為を「若者らしき稚気」と表現している。

松陰が育てた草莽たちは、案外子供っぽかった。
その腕白ぶりがそれをよく物語っている。

少年の集団はマインドコントロールに罹りやすい。
高校野球、高校サッカーなどの番組を見ると、涙々の物語は暇がないほど多い。

それをアジテータ(扇動者)が戦略的に利用したという側面もあるかも知れない。

私は奥州街道で訪ねた仙台の光明寺のことを思いながら、自然と長州の光明寺を連想している。

それほど、仙台と長州のイメージは近いのだろう。
キリシタン信仰と捕らえれば、さもありなんとなる。

長州はフランシスコ・ザビエルで、仙台は支倉常長(ドン・フィリッポ・フランシスコ)である。

どちらもかつては「フランシスコの独壇場」だった。

長州の光明寺で久坂らが異国船へ攘夷発砲をするに到った動機を調べようとしている。

それが「攘夷のため」ということは既にわかっている。

私が知りたいのは、日本国において「攘夷の第一発目の砲弾」がなぜ長州の光明寺から発せられたのか、という理由である。

正確には光明寺の少し西の高台にある亀山砲台から第一発目が打たれたのであるが、光明寺党がやったということは確かであろう。

発砲の約1ヶ月前に、光明寺に狐を持参した人物がいる。
それが「光明寺からの攘夷開始」の予兆を示すのではないか。

「白石正一郎日誌の中に、文久3年4月、「中山公子今日狐狩りに御出長府より御猟方来る、得物の狐一疋光明寺へ御持ち行候」とある。

「中山公子とは、悲劇の死を遂げた云々。」

この中にその動機が書かれていると、ずっと私は感じていた。

しかし、「中山公子」が誰を意味するのか、上記の拙著記事を書いた2009年当時にはわからないままだった。

ところが、一つ前に書いた記事の中に、幕末日本史にとても重要な役割を果たす公家の名、中山忠能が登場してきた。

このことから、一気に「中山公子」の実像が見えてきた。

それは平戸藩主の子で、明治天皇の叔父にあたる人物である。

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