川に映る空~長州(137) [萩の吉田松陰]

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H3B0541朝霧の駐車場
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SH3B0540山百合の蕾の鹿野町の清流
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SH3B0539「川が好き 川にうつった 空も好き」
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SH3B0538昨夕飛び込んだ温泉

朝靄(もや)が濃いから早朝は暗い。
しかし、山の中の朝のこの暗さは、却ってその日の快晴を約束してくれるものである。

昨夜遅く到着した鹿野町の川原の温泉の姿が、朝靄の中から浮かびあがってきた。
清流の岸辺に山百合の大きなつぼみがかすかに風に揺れている。

駐車場は川面に面していた。

石碑がある。
「川が好き 川にうつった 空も好き」

川に遊びに来た小学生が作った詩が全国の河川コンクールか何かで優秀賞として選ばれたのを記念して立てたものである。

「川面を見てそこに映っている空を発見する透明な心」を感じる。

私もそういう心を幼い頃持っていたことを思い出す。

いつの頃からそのような透き通った観察眼を失ったのであろうか。

川の汚染状態を見たり、川底の廃棄物金属の反射光を見たりするようになっている老人の目しか今は持ち合わせていない。

この詩を作った少女(?)を真似て、私も「川にうつった空」を見ようと努力してみた。

すると川面に空があるのが見えた。

詩は人の心を動かす。
詩は駄目になってしまった自分の心の実像を教えてくれる。

村田清風の死を聞いたときに、松陰は詩を作ってその悲しみを表現している。

「今日訃ヲキイテタダ錯愕ス。満窓ノ風雨、夢茫々タリ」

清風享年73歳、松陰26歳のときの別れである。

松陰は作った漢詩を読み上げ弟子たちの心を動かしたが、詩の読み方は長州方式ではなかった。
大和の「ある奇人」の用いていた「韻」を松下村塾で用いた。

それは松陰が旅をして学んだものであり、長州藩ではその韻を知るものは一人としていない。

明治になって、松下村塾の卒業生は、松陰先生の読んでいた独特の詩韻は、大和のある詩人の読み方の真似であることに気づいている。

その詩人は天狗党を鼓舞して、立ち上がらせた。

大和五条に棲む森田節斎である。

但し、鼓舞しておきながら節斎自身は逃げた。
逃げて明治まで生き延びている。

しかし、松陰は煽動しておきながら逃げるということはなかった。
むしろ煽動しつつ先頭を走って、弟子を置き去りにして死んだ。

新興宗教などでいつもそうであるが、マインドコントロールをかけた側は逃げおおせて、かけられた若者たちが罪を背負う。

宗教のマインドコントロールも音楽(韻、旋律)をよく使う。

「ショーコ ショコ ショコ ショーコ♪」の韻律をある参議院選挙の際に何度も耳にしたことを今でも覚えている。

瀬戸内へ~長州(136) [萩の吉田松陰]

SH3B0535.jpgSH3B0535山中を走る
SH3B0537.jpgSH3B0537月夜

江戸へ檻送される松陰の蝋人形を見て、これで私の萩訪問を終える。
午後4時過ぎである。

コンビニで冷やし中華そばのインスタントものを買って、駐車場で食べ旅立ちの前の腹ごしらえをした。

パンやサンドイッチ、あるいはおにぎりにすべきだった。

というのは、駐車中の車の中で食べたのだが、疲れていたのか手元が滑って容器を胸の前で傾けてしまった。

冷やし中華の甘ったるい醤油だしが、だらだらとたっぷりと私の洋服の前に流れ落ちてきた。

大慌てで車の外へ飛び出して、何とかシートへの汚染は防止できたのだが、体の背中側まで、いやズボンの中の下着まで冷やし中華の出しで濡れてしまった。

コンビニの駐車場でパンツまで着替えるのは困難だが、さりとてこのにおいをつけたまま運転をできまい。

着替えられるものは全部着替えて、パンツのみ残すこととなった。
コンビニに再び入って、トイレを借りてその中できれいな下着に履き替えた。

これで何とか臭いを断つことはできたようだ。
あとは温泉を見つけて飛び込むことである。

実は山口へ来た本来の用事は、ある実業団大会運営の応援のために来たのである。ここ萩とは反対側の海になる瀬戸内海側のある砂浜へ行くことが旅の本来の目的であった。

そのついでというか、応援業務の合間に、気になっていた村田清風とキリシタン殉教地、それに松陰との関係を自分の足で調べた次第である。

もっと調べたいことはあるが、専業作家ではないからそうも行かない。

車を再び阿武郡山中へと走らせた。

山中の景色を眺めながら、やがて日が暮れ月夜になっていった。

山陰と山陽の中間の山の中に鹿野(かの)という町がある。

ここは禅宗漢陽寺の精進料理観光で有名な町で、かなり昔に何度か来たことがある。
葉わさびの醤油漬けが私のお気に入りのお土産である。

その鹿野に温泉があると標識が出てきた。

街中で左折し4KMほど山へ入ったところの川そばに温泉があった。
かわらに駐車して温泉へ飛び込み、肌に染み付いた冷やし中華の臭いを洗い落とした。

萩のフィナーレが「冷やし中華ダシシャワー」となろうとは誰が予測できただろうか。

風呂上りに生ビールを飲み、川原の駐車場で車中泊した。

深夜にガスバーナーで味噌ラーメンを作り、空の月を見ながらおいしく食べた。

クリミア戦争の行方を知りたかった松陰~長州(135) [萩の吉田松陰]

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SH3B0528檻(おり)で江戸へ護送される松陰(松陰神社境内の蝋人形)

檻送される松陰を描いた蝋人形があった。
この竹で編んだ籠の中に捕縛されている29歳の萩の青年が、クリミア戦争のことを思っていたという。

これに反して、私たち現代日本人はクリミア戦争と幕末の日本の関係を驚くほど知らない。

当時松陰が抱いていた国家危機感の100分の一も、現代人は持ち合わせていないのである。

檻(おり)の中の松陰が知っていた事実を以下に抜粋する。

『クリミア戦争(Crimean War)は、衰退したトルコを食い物にするロシアと、ロシアの進出を嫌うイギリスやフランスとの戦いである。

その発端はトルコ領エルサレムの聖地管理権問題で、カソリック(フランス)とギリシア正教(ロシア)の宗教問題が絡んでいた。

元々管理権はフランスが持っていたが、フランス革命の混乱期にロシアに渡り、その後、ナポレオン3世がトルコに圧力をかけて取り戻した。

これに対してロシアは、トルコ領内のギリシア正教徒の保護を名目に、ロシア軍のトルコ領内進駐を迫った。

ロシアの真意は、地中海への出口確保(南下政策)だった。
イギリスやフランスはトルコを支援し、トルコはロシアの要求を拒否した。

バルカンでの戦闘  
1853年7月、ロシア軍は突然トルコ領モルドバ、ワラキアに進駐し、トルコ軍と対峙した。これに呼応してギリシャの義勇兵や反トルコ勢力が立ち上がり、マケドニアやブルガリア方面からトルコ軍を挟撃した。

苦境にたったトルコ軍を英仏艦隊が支援した。
フランス海軍は、ギリシャ向けの武器輸送船をテッサロニキで撃沈、イギリスもアテネの港ピレウスを封鎖した。

その結果、反トルコ組織は各地で鎮圧され、トルコ軍はロシア軍をドナウ以北にまで押し戻し戦線は膠着した。

同じ頃、コーカサス方面でもロシア軍が南下してきた。
要塞都市カルスをめぐる戦いが始まり、カルスへの補給基地であるシノープがロシアの攻撃目標になった。

クリミア半島
1853年11月、クリミア半島のセバストポリを出港したロシア黒海艦隊は、黒海南岸の港シノープ(Sinop)を急襲し、停泊中のトルコ艦隊を全滅させた。
また、艦砲射撃で街を焼き払い、多くの市民を犠牲にした。
各国はこの攻撃をシノープの虐殺と非難し、一気に戦争の気運が高まった。

1854年3月、イギリスとフランスはトルコと同盟を結び、ロシアに宣戦布告した。
モルドバ、ワラキアのロシア軍はオーストリアやプロシアの抗議により撤退した。
連合軍はブルガリアから北上してオデッサを攻める作戦だったが、オーストリア軍がワラキアに進駐したため、攻撃目標はロシア艦隊の基地セバストポリ(Sevastpol)となった。

1854年9月、連合軍6万を載せた大艦隊はクリミア半島に上陸、セヴァストポリに向けて進軍した。

ロシア軍は黒海艦隊を沈めて英仏艦隊の湾内突入を防ぎ、街を要塞化して連合軍を待ち受けた。』(「クリミア戦争 戦争にいたる経緯」より)
http://www.vivonet.co.jp/rekisi/b09_osman/crimeanwar.html

当時の日本では薩長を英国が、幕府をフランスが軍事支援していた。

ロシアがクリミア半島でどう出てくるのか、それは日本の国防戦略上とても重要な情報であった。

ロシアの軍人プチャーチンが長崎に寄航したと聞き、すぐに江戸を立って松陰は長崎へと向かった。

行動することが陽明学の基本だからである。
とにかくロシア人にあってことの事実を確かめたい。

しかし、日本の歴史では「あわてて長崎へ行こうと出発したが、ロシア軍艦が日本を去ってしまって、松陰は仕方なく江戸へ戻った」としか書かれていない。

「あわて者が結局失敗した」というニュアンスの書き方をするものさえいる。

黒船密航についても、「幕府ご法度を犯して結局失敗してつかまったあほな侍」という認識しか今の若者に伝えきれていない。

これは実際に私が25歳の若い女性に対して、「松陰の黒船密航事件についてどう思うか」と質問したときの返事である。

上の記事は英仏トルコ連合軍とロシア軍の大激突の前で終わっていた。

その年は1854年9月である。
『連合軍6万を載せた大艦隊はクリミア半島に上陸、セヴァストポリに向けて進軍した。』

同じ安政元年(1854年)、再航したペリー艦隊に松陰は萩の隠れキリシタンと思われる金子と二人で旗艦へ赴き、密航を訴えたのである。

松陰がペリーを刺殺しようとしていたという説もあるが、軍事戦略として松陰が考えた中にも「乗船して敵の大将を刺殺」というものはあっただろう。

しかし、もしそれが目的であれば、何も阿武郡のキリシタンの住む紫福村出身の足軽金子を伴う必要はないだろう。

むしろ剣客を雇うほうがいい。

ザビエルが布教した山口に程近い萩生まれの松陰は、宣教師が何をしに日本へやってきたかをほぼ正確に把握していたことだろう。

つまり、アメリカへ密航が成功したとき、アメリカという国家が日本に対して何をしたいと思っているのか、その最重要の情報を探る上でキリシタン人脈は効果的だと松陰は考えたのではないか。

萩を訪ねたあとで、私はそう思うように変わった。

アメリカのキリスト教徒も日本の隠れキリシタンも、ローマ法王のところで情報も人脈もつながっているからだ。

クリミア半島の争いがキリスト教徒のメッカエルサレムの統治権を争うものであることから、宗教問題に明るい人物による諜報活動を必要としたのではないか。

松陰は獄中において、「ナポレオン(那波列)翁による自由(フレーヘード)を求める革命」と同じことをやるべきだと、草莽による倒幕の決意を固めたのである。

『列藩の諸侯に至ては征夷の鼻息を仰ぐ迄にて何の建明もなし。
征夷外夷に降参すれば其の後に従て降参する外に手段なし。
独立不覊三千年来の大日本、一朝人の覊縛を受くること血性ある者視るに忍ぶべけんや。

那波列翁を起して、フレーヘードを唱へねば腹悶医し難し。
僕固より其の成すべからざるは知れども、昨年以来微力相応に粉骨砕身すれど一も裨益なし。』
(青山繁晴さん解説の「吉田松陰「草莽崛起論」」より抜粋)
http://blog.goo.ne.jp/ryogonsan/c/a227880520ed4f07a5fd1fee70eda345

剣豪キリシタンか~長州(134) [萩の吉田松陰]

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SH3B0526僧月性(左)と聾唖僧宇都宮黙霖(蝋人形、松陰神社境内)

前の記事で引用した福昌寺の記事でどうしても私の心に引っかかるものがあった。
それは次の部分である。

『略。
また1870年の浦上四番崩れの際には浦上(現・長崎市)のキリシタン収容所がこの福昌寺の跡地に建てられていた。

ちなみに他地域に送られたキリシタンの扱いはひどい物だったが、ここの待遇はかなり良かったらしく、後に西南戦争に連座して処刑された大山綱良の葬式をしたのはこの浦上のキリシタンであった。』(福昌寺 (鹿児島市)(Wikipedia)より)

大山 綱良(おおやま つなよし)は、西郷の西南戦争準備を後押しした鹿児島県令(知事)である。

大石内蔵助に向かって吉良邸へ押し入って強盗殺人をやれやれ、と囃し立てたのは、歌舞伎忠臣蔵では松浦侯である。

モデルは、松浦侯・肥前平戸藩6万3000石の藩主・松浦鎮信である。

あるいは堀部安兵衛親子である。

西南戦争の準備期に、それとよく似た役割を大山綱良が果たしたように私には思われる。

つまり、西郷に新政府と戦争をしろとせっつく役目を果たした人物である。

その大山は西南戦争後に連座の罪により斬首されたことまでは知っていたが、葬儀を浦上のキリシタンが行ったことは知らなかった。

そのことが福昌寺 (鹿児島市)(Wikipedia)の記事に書かれているということは、鹿児島でのキリシタンの隠れた信仰拠点が福昌寺であったことを暗示しているように見える。

これは、ある種の秘密の暴露に見える。
言ってはいけないことだが、つい口から出てしまうという行為ではないだろうか。

西南戦争に連座して処刑された大山の葬儀は、浦上(現・長崎市)のキリシタンたちによって行われたと書いてある。

大山はキリシタン側にあった人物だということを示唆している。
ザビエルが鹿児島で撒いた種は、明治初期の鹿児島県令にまで及んでいたのだろうか。

大山は養子先の姓であり、綱良は元「樺山」姓の薩摩藩士である。
「剣客大山」の素顔が次の記事に描かれていた。

『大山 綱良(おおやま つなよし、文政8年11月6日(1825年12月15日)~明治10年(1877年)9月30日)は、江戸時代後期の薩摩藩士、明治時代の政治家である。

父は樺山善助。養父は大山四郎助。通称は正圓、角右衛門、格之助。
大山氏の本姓は宇多源氏で、養子先の家伝では佐々木盛綱の子孫である康綱の後裔を称するが明確ではない。

文政8年(1825年)、鹿児島に生まれる(幼名熊次郎)。

嘉永2年(1849年)12月26日に大山四郎助の婿養子となる。

西郷隆盛、大久保利通らとともに精忠組に属した。

島津久光の上洛に随行し、文久2年(1862年)の寺田屋事件では、奈良原喜八郎らとともに過激派藩士の粛清に加わり、事件の中心的役割を果たした。

特に寺田屋2階には大山巌・西郷従道・三島通庸らがいたが、大山が刀を捨てて必死の説得を行った結果、投降させることに成功した。

明治元年(1868年)の戊辰戦争では、奥羽鎮撫総督府の下参謀になった(もう一人の下参謀は仙台藩士に処刑された長州藩士、世良修蔵)。

大山率いる新政府軍は仙台城下で強盗・強姦などの乱暴狼藉を働き、庄内藩を討つため仙台から出陣した。

その結果、仙台藩の藩論は「会津擁護」に固まった。

大山の新政府軍は庄内戦線において、庄内藩の反撃にあい連戦連敗を喫した。
しかし、戦後、新政府から賞典禄を受けた。

長州藩で大楽源太郎が反乱を起こして敗走し、再起のために日田県庁を襲った時には新政府の命を受けて討伐軍の司令官として鹿児島から派遣されながら現地到着後に独断で軍解散を命じて木戸孝允らの怒りを買い、西郷隆盛が詫びる騒ぎとなっている。

新政府では廃藩置県後に鹿児島県の大参事、権令(県令)となる。

だが、これは旧藩と新府県の関係を絶つために、新しい府県の幹部には他府県の出身者をもって充てるとした廃藩置県の原則に反する特例措置であった。
大山は島津久光の意を受けて西郷らを批判した。

明治6年(1873年)に征韓論争から発展した政変で西郷らが新政府を辞職して鹿児島へ帰郷すると、私学校設立などを援助し西郷を助けた。

その後、大山が県令を務める鹿児島県は新政府に租税を納めず、その一方で私学校党を県官吏に取り立てて、鹿児島県はあたかも独立国家の様相を呈した。

明治10年(1877年)に鹿児島で西郷らが挙兵した西南戦争では官金を西郷軍に提供し、西郷軍の敗北後、その罪を問われて逮捕され東京へ送還、のち長崎で斬首された、享年53。

墓所は鹿児島県鹿児島市の南洲墓地。

剣の達人
大山は薬丸兼武及び子の兼義に薬丸自顕流の剣術を学んだ。
薬丸門下の高弟中の高弟であり、奥伝である小太刀を極め、飛鳥のように跳びかかって相手を打ち倒したという。

藩中随一の使い手といわれた。

江戸にて刀を用いた大道芸人を見物していたところ、大山が手練であることを見抜いた直心影流の長沼笑兵衛(恂郷)に道場に招かれた。

長沼の要請で大山は師範代と立ち会うことになった。
防具をつけた師範代に対し、大山は素面素小手で木刀一本を持って立会いに臨み、立会いがるや否や一撃で打ち倒した。

さらに薬丸流の技である打廻りを見せると、長沼は大変感激したという。

西郷隆盛とともに藤田東湖に会ったときのこと。
西郷は大山を剣の達人であると紹介した。

神道無念流門下であった藤田の斡旋で斎藤弥九郎道場の塾頭と試合をすることになった。

大山は例によって素面素小手。小太刀を一本持ったのみであった。
対して塾頭は防具と竹刀で臨む。

大山は立ち上がるや否や塾頭に打ち込んだ。
そこで塾頭はあまり打ち込みが早いのでもう一度試合をしてくれといったが、大山はこの道場では亡者が試合をするのかとあざ笑った。

実戦であれば一本目で決着が付くにもかかわらず、二本目、三本目と試合をすることへの皮肉である。

槍術の達人といわれた有村俊斉は鹿児島城下で次々と道場破りを行い、最後に薬丸家にやってきた。

薬丸家に代わって大山が試合に応じた。
結果大山が勝った。

有村は再戦を期し甲突川の水の中で槍突きの修行をし、三年くらい後に再びやってきた。
再度大山が立会い、やはり勝った。

有村は観念し薬丸家に入門した。

しかし有村、後の海江田信義の回顧では薬丸半左衛門(兼義)に入門したのは15歳のときとなっているので実際の相手は有村俊斉ではないだろう。

大山綱良が与えた影響
綱良が県令の時に、県庁に保存されていた薩摩藩時代の公文書を「旧弊が抜けないから」との理由で焼却してしまう。

この事件は江戸時代の火事や西南戦争とともに薩摩藩の歴史研究に弊害を与えたことが「鹿児島県史料 島津斉宣・斉興公史料集」の序章で述べられている。』(大山綱良(Wikipedia)より)

薩摩藩時代の公文書焼却には証拠隠滅の意識が働いているようだ。
「後世に知られてはまずい出来事」が幕末の薩摩藩内で行われていたことを暗示している。

「大山(綱良)が刀を捨てて必死の説得を行った結果、投降させることに成功した。」という下りは、読んだ当初は意味不明だった。

が、記事を最後まで読めば、その意味がじわりとわかってくる。

誰にも負けない腕を持つ大山(綱良)が刀を持てば、過激派の薩摩藩士であった大山巌・西郷従道・三島通庸らは皆殺しにあったはずだ。

それなのに大山(綱良)は刀を捨てて、彼らに投降してくれるように懇願したということである。

言われた方はかなわない。

私は、大山(綱良)は相当濃いキリシタンであったと想像している。
そういう視点で西南戦争を見直してみる必要があるだろう。

明治新政府は革命成功と同時にキリシタン弾圧を行っているのである。
反政府側に隠れキリシタンがいることは当然でもあろう。

仙台では世良の行状もさることながら、大山(綱良)の行状も奥州戦争勃発の触媒として作用しているようである。

よりによって、奥羽鎮撫総督府の下参謀2名に、薩長ともに危ない人物を登用したのである。

戦争をしたがっていた、というよりも日本で戦争が起きなければ破産するはずだったユダヤ資本がいたことは先に述べた。

再掲する。

『略。
しかしながら、南北戦争、クリミア戦争の終結と共に、ヨーロッパの兵器会社(ロスチャイルド系)の武器・弾薬は、上海市場に流れ込み、ロスチャイルドと縁戚関係を持つジャーディン・マセソン商会が、日本に内乱を画策し、長崎のグラバー商会を通して、また坂本龍馬の亀山社中(後の海援隊)をダミー会社として使い、イギリスは維新軍に武器を売りつけ、またフランスは幕府軍に武器を売りつけました。

これが、明治維新の本当の姿であります。

そして、彼らの画策に気づいた坂本龍馬は公武合体を唱え、徳川慶喜に大政奉還をうながし、内乱を避けようとした矢先に、坂本龍馬は暗殺されます。  

この時、内乱は必至とみたグラバーはジャーディンマセソン商会に大量の武器を発注してしまっており、日本が内乱に突入しないと、グラバー商会、ジャーディン・マセソン商会共に、大きな負債を抱かえてしまう問題がありました。』
(「クリミア戦争  ロスチャイルド」より)
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1114.html

グラバーやジャーディンマセソン商会が、長崎や鹿児島の隠れキリシタンと近い関係にあったことは容易に想像がつく。

大山(綱良)が彼らの要請を受けて、戦争を何とか奥州で起こそうとした可能性はある。

私の調べでは世良修蔵は、浄土真宗本願寺派の僧侶、柳井の月性が三条実美の意向を受けて育てた過激志士である。

世良の親友が会津に殺されていることから考えても、世良が奥州に行けば戦争になることは木戸孝允も知っていたはずだ。

しかし、世良は徳川幕府を倒したがっていた浄土真宗僧侶の育てた青年であって、キリシタンではないように思われる。

すると、世良を奥羽鎮撫総督府の下参謀に任命した木戸孝允が隠れキリシタンと深い関係を持っている可能性が浮上してくる。

これは、あくまで可能性があるという段階である。

以上をまとめると、「大山綱良と木戸孝允が、キリシタンであった」可能性が浮上する。

神戸で捕縛された大山綱良は、鹿児島ではなく、なぜか長崎で処刑されているのだった。だから浦上のキリシタンによって埋葬されたのである。

なぜ長崎で大山を処刑したのであろうか。

『明治10年9月30日長崎で処刑、53歳。
明治7年鹿児島県初代県令(知事)となる。

西南の役に際し、軍資金、兵器、弾薬、食糧を送るなど薩軍を援助した罪により神戸で捕縛、官位をはく奪された。』(大山綱良(Wikipedia)より)

髑髏の黄金盃~長州(133) [萩の吉田松陰]

SH3B0530.jpgSH3B0530獄中の松陰(蝋人形より)
スキタイ.jpgスキタイの地図(スキタイ(Wikipedia)より)
618px-Skythian_archer_Louvre_F126.jpg陶器に描かれたスキタイ戦士(同上)

先の記事で紹介したヤジロウ日記は第10章「東堂忍室」から抜粋したものだった。
「ヤジロウ日記」とは、実は小説だった。
戦国時代に口語体で書かれているのはおかしいとは思っていたが、やはりそうだった。

ザビエル書簡集やルイス・フロイスの日記を参考にしながら、現代の人が架空の物語に構成したものだった。

その著者は結城康三氏で、ご本人のサイトに掲載して公開していたものだ。

『この度第20回新風舎出版賞、フィクション部門にて奨励賞を受賞しました。

新風舎の出版化権が切れましたので作品を公開します。』
(「小説家ゆうきくん」より)
http://www.ykya.co.jp/dorakuan/shosetu/shosetu.htm

僧侶とザビエルの宗論の場は福昌寺といい、鹿児島市池之上町にあった寺である。
「あった寺」ということは、今はないということだ。

『フランシスコ・ザビエルは鹿児島滞在中、島津貴久によってこの福昌寺を宿所としていた。

この時に当時の福昌寺住持であった15世忍室とはかなり親しくしており、ザビエルは書簡で忍室のことを激賞している。

また1870年の浦上四番崩れの際には浦上(現・長崎市)のキリシタン収容所がこの福昌寺の跡地に建てられていた。

ちなみに他地域に送られたキリシタンの扱いはひどい物だったが、ここの待遇はかなり良かったらしく、後に西南戦争に連座して処刑された大山綱良の葬式をしたのはこの浦上のキリシタンであった。』(福昌寺 (鹿児島市)(Wikipedia)より)

「浦上四番崩れ」のキリシタン収容所がこの福昌寺の「跡地」に建てられたとはどういうことなのか。

キリシタンたちの心の拠り所が福昌寺だったのではないか。
それとも宗論でザビエルを負かした忍室の力量を尊重して、仏教徒がこの地にキリシタンを集めたのだろうか。

「浦上四番崩れ」のキリシタンたちは全国に分散して収容されている。

山口県萩市では、萩城下の堀の内にある厚狭毛利藩屋敷のすぐそばに収容て拷問を受けていた。

私は厚狭毛利氏かその家臣団にキリシタンがいて、彼らがキリシタンたちの便宜によいようにと近くに住まわせたのだと感じていた。

なぜならば、異教徒のキリシタン収容施設と、毛利本藩親戚筋の厚狭毛利家屋敷との距離があまりに近いからである。

普通なら拷問を受けるキリシタンは町外れの川原や山の中に収容されるはずだ。

萩と同じ仮説論理でいけば、鹿児島の福昌寺は隠れキリシタンたちの拠点であった可能性が高い。


さて小説「ヤジロウの日記」の第2章「学僧顕忍」に出てくるもうひとつのお寺「宝資山」とは、鹿児島にある光寿院東漸寺のことである。

『<仏寺> 宝資山光寿院東漸寺

地頭館より北西5町 川北にあり、本府の真言宗大乗院の末寺。
当郷の祈願所である。

開基は祢寝氏の支族・山本氏(円妙禅門・知泉禅尼)。

正龍寺由来記によると、山本某が海で大鯛を釣り上げ、腹を割いたら「黄金」がたくさん入っていた。

これを元手に根占に「東漸寺」、山川に「正龍寺」を建立した、という。

東漸寺は跡形もないが、山川港には正龍寺が今も残っている。』
(「『三国名勝図会』から学ぶおおすみ歴史講座」より)
http://kamodoku.dee.cc/oosumi-rekisikouza-8.html

同じ名の寺が仙台にもある。

鹿児島で余り普及し得なかったキリスト教は、後に仙台藩で大変な発展を遂げている。
伊達政宗の家臣で、キリシタン武将の支倉常長の話はあまりに有名である。

鹿児島の東漸寺が、仙台へ引越したのだろうか。

豊後国東のキリシタンだったペドロ岐部は、インドから歩いてローマへ行きようやくイエズス会宣教師となるが、江戸のキリシタン禁制中の日本へ再び死を覚悟して布教のために戻ってくる。

長崎に上陸した岐部は、なぜか仙台で布教活動を進めていた。

そして仙台藩内で捕縛され、拷問死するに至る。
今は殉教した聖人として世界中の信者に尊敬されている。

仙台の東漸寺は、鍛冶職人の町にあった。
なぜ鉄造りの町にあるのだろうか。

『慶長末年(1614年)開創(大阪冬の陣前あたり)
藩政初期の早い段階に寺領が定まり堂舎がつくられる。
400年の歴史をもつ。

寛永頃には城下東南の地として既に発展し、荒町から南鍛冶町にかけては、曹洞四録司の中の昌伝庵、泰心院、皎林寺、法華の仏眼寺と共に、東漸寺は城下に於いて真宗の拠点寺院として重きをなし、江戸時代にあっては確固たる地位を占めていました。(参考文献、佛法山東漸寺誌)

南鍛冶町と東漸寺  
東漸寺の南を東西に通じる幹線道路が南鍛冶町です。
伊達政宗による慶長5~6(1600~1601)の仙台城下の町割でつくられたなかに元鍛治町があります。

現在のここに鍛冶職人を集めて鍛治町をつくりましたが、やがて侍屋敷をまとめるために北鍛冶町と南鍛冶町に分かれて鍛冶衆が移動しました。

やがて参勤交代で奥州道中がここを通るようになりますと、職人町と街道沿いということも手伝って南鍛冶町はより重要さを増していきました。

北山五山を中心に臨済、曹洞など伊達ゆかりの寺が多く、八塚(現在の新寺地区)などには曹洞、法華などが多く、念仏系の浄土、真宗、時宗の各宗は北山でも、八塚方面でも周辺部におかれたなかで、町人層に立脚した東漸寺は、城下東方の若林の地にあっても脈々と信仰の法灯を守り続けたことを考える時、城下の名もなき、権力もない人々によって永らえ続けたことが、今日の南鍛冶町に東漸寺ありということになったものと思われるのです。』
(「真宗大谷派仏法山東漸寺」より)
http://sekishin.info/temples/wakabayashi/touzenji/

更に、千葉県松戸市にも同じ名の寺がある。
松戸の東漸寺は、1481年の開基である。
ザビエルの来日は1549年であるから、その68年も前にできた寺である。

『東漸寺は、今から約520有余年前の文明13年(1481)、経譽愚底運公上人により、当初、根木内(この地より1キロ北東)に開創いたしました。
この後約60年後の天文年間、現在地に移され、江戸初期に関東十八檀林の1つとされた名刹です。

檀林となった東漸寺は、広大な境内を持ち、多くの建物を擁するようになりました。
大改修が成就した享保7年(1722)には本堂、方丈、経蔵(観音堂)、鐘楼、開山堂、正定院、東照宮、鎮守社、山門、大門その他8つの学寮など、20数カ所もの堂宇を擁し、末寺35カ寺を数え、名実ともに大寺院へと発展しました。

明治初頭に、明治天皇によって勅願所(皇室の繁栄無窮を祈願する所)となりました。

江戸時代に幕府の擁護を受けた東漸寺も、廃仏毀釈等で、神殿、開山堂、正定院、浄嘉院、鎮守院などの堂宇を失ってしまいました。

また、学寮およびその敷地は、地域青少年の育成のために寺子屋として利用され、後に黄金小学校(現・小金小学校)となりました。

幕末以降の経済基盤となっていた広大な寺有田(現在の新松戸周辺)は、第2次大戦後の農地解放で失い、境内もかなり荒廃していました。

しかしながら、歴代住職の尽力により、関東屈指の多数の文化財ならびに檀林の面影を伝えてくれている境内の古木や巨木が昔のまま保存され伝えられてきたことは、東漸寺の復興に大きな力となりました。

昭和38年に、寺子屋教育の再現を目指して、東漸寺幼稚園を開設、昭和40年後半より、開創500年記念復興事業として、熱心な檀信徒の協力を得て、本堂、鐘楼、中雀門、山門、総門の改修、書院の新築平成8年に観音堂の再建を完成し、現在にいたっています。

現在では樹齢300年を誇るしだれ桜や鶴亀の松、参道の梅やあじさい・もみじなど、四季折々の自然に触れ、日本の伝統美を感ずることのできるお寺として、また、賑わいを求めて4月の御忌まつり、12月の除夜の鐘など毎年、多数の参詣者が訪れます。』
(「東漸寺の歴史 東漸寺の沿革」より)
http://tozenji.sakura.ne.jp/rekisi.html

東漸寺のある地名が、鹿児島では根占で、千葉県松戸では根木内と「根」の字を含むところがよく似ている。

西洋では根をルーツと言い、民族的な根源、先祖を意味する。

鍛冶町の人々は、一体どこからやってきたのだろうか。
東漸寺は彼ら民族の信仰の場であったのである。

製鉄技術は中近東のヒッタイトやスキタイ人が口伝して伝えてきたものと言われる。
製造法を紙に書き残すと、他民族に盗まれるからである。

やがてシルクロード(絹の道)を通って、製鉄技術はわが国へとわたってきたはずだ。

すると、鍛冶町の人々はスキタイの末裔なのか。

『スキタイは紀元前8世紀~紀元前3世紀にかけて、南ウクライナを中心に活動していた遊牧騎馬民族および遊牧国家。
中略。

家畜
スキタイでは馬を始め、数々の家畜を飼育しているが、豚だけは飼育しておらず、生贄にも使わない。

戦争
スキタイは最初に倒した敵の血を飲む。

また、戦闘で殺した敵兵の首はことごとく王のもとへ持っていき、その数に応じて褒美がもらえる。

首は頭蓋骨から皮をきれいに剥ぎ取って手巾とし、馬勒にかけて勲章とする。

またある者は敵兵の皮をつなぎ合わせて衣服にしたり、矢筒にしたりする。

頭蓋骨は最も憎い敵に限り、髑髏杯として用いる。

年に一度、戦争で手柄のあった者はその地区の長官から一杯から二杯の酒がもらえる。
逆に手柄のないものは酒がもらえず、恥辱をしのんで離れた席に座る。』
(「スキタイ(Wikipedia)より」

織田信長は、敵将の浅井長政の髑髏(どくろ)を黄金の盃にしていた。

日本の武士たちは戦場で獲得した首の種類と数によって、戦勲を評価されていた。

首と髑髏の扱いについては、源氏平氏の末裔たちの行動に非常によく似ている。

『アッシリア碑文の記録
「アッシリア碑文」においてスキタイはアシュグザあるいはイシュクザーヤと記される(紀元前7世紀)。

アッシリア王エサルハドン(在位:前681年 - 前669年)は、マンナイの地(現:西北イラン)でマンナイ軍とマンナイを救援するためにやってきたアシュグザ(スキタイ)王イシュパカーの軍を撃ち破った。

その後もイシュクザーヤ(スキタイ)はメディアの同盟者としてギミッラーヤとともにマンナイに与してアッシリアに抵抗するが、その王イシュパカーは前673年頃アッシリアによって殺される。

ところがその翌年、エサルハドンは自分の娘をイシュクザーヤの王バルタトゥアに与えて結婚させ、同盟関係となる』

スキタイは紀元前7世紀にはアッシリアから影響を受けていたようだ。

アッシリア語で「水」のことは「ミズ」と発音し、「塩」のことは「シオ」と発音するそうだ。

どちらも、生命体を維持するために無くてはならない大切なものである。

大日とデウスの戦い~長州(132) [萩の吉田松陰]

SH3B0509読み下し.jpgSH3B0509読み下し 松陰「自警の詩」の読み下し文

大日とデウスの戦い~長州(132)
SH3B0509読み下し 松陰「自警の詩」の読み下し文

先ほどの「西欧の東洋侵略」年表は、「1854(安政元年)クリミア戦争はじまる」で終わっていた。

明治維新とは「クリミア戦争」を知ることですべてが把握できるのではないだろうか。

私は高校で日本史を選択したため、クリミア戦争のことをまったく知らない。
私の脳は歴史という意味において、きわめて巧妙に分断されている。

日本国内のことしかわからないのである。

第2次世界大戦で敗戦した日本は、再建時の憲法制定から教育法制定までアメリカを中心とする欧米諸国の意向のもとで再興を果たした。

その国で教育された私は、そこで育ち還暦を迎えて高齢者の仲間入りを果たした。

その私はクリミア戦争のことや、それと明治維新革命とのかかわりについてまったく何も知らない。
やがて知らないまま死んでいくことになるのだが、それでよいのだろうか?

お釈迦様の手のひらの上で生かされているという言い方があるが、現代日本人はキリスト様あるいはダビデ王の手のひらの上で生かされているのではないのだろうか。

『Rothschild-26  阿片戦争

産業革命により、ヨーロッパ各国は経済力をつけると共に、その製品のはけ口としての市場を奪い合うようになって、争いは容易に軍事衝突にエスカレートするようになりました。

同時に、人々の国家意識が高揚し、封建領主の土地に細分化されていたドイツやイタリアにも国民国家を求める機運が高まり、こうした情勢下で始まったのがロシアのトルコ干渉に端を発したクリミア戦争(1853-1865年)であります。

イギリス、フランスが参戦したこの戦争で、ロスチャイルド家はトルコ側に立ち、戦時公債の起債に協力しましたが、その背景にはロシアでのユダヤ人迫害がありました。

かねてから、ロシアのユダヤ人弾圧政策に反発していたロンドン、パリの分家はそれぞれ総力を挙げてイギリス、フランス両軍の遠征費の調達を行い、トルコにも借款を行い、戦局はクリミア半島のロシアのセヴェストーポリ要塞の攻略に成功したトルコ英仏連合の勝利に終わり、ロスチャイルド家は久しぶりに大きな利益を上げました。

実は、江戸末期に起こったアメリカの南北戦争、ロシアのクリミア戦争は、我々日本にも大きな影響を与える事になります。

それは、この戦争のおかげで、ヨーロッパ列強は忙しく、日本を侵略することが出来ず、時間稼ぎができた日本は、ヨーロッパの植民地にならずに済んだのです。

しかしながら、南北戦争、クリミア戦争の終結と共に、ヨーロッパの兵器会社(ロスチャイルド系)の武器・弾薬は、上海市場に流れ込み、ロスチャイルドと縁戚関係を持つジャーディン・マセソン商会が、日本に内乱を画策し、長崎のグラバー商会を通して、また坂本龍馬の亀山社中(後の海援隊)をダミー会社として使い、イギリスは維新軍に武器を売りつけ、またフランスは幕府軍に武器を売りつけました。

これが、明治維新の本当の姿であります。

そして、彼らの画策に気づいた坂本龍馬は公武合体を唱え、徳川慶喜に大政奉還をうながし、内乱を避けようとした矢先に、坂本龍馬は暗殺されます。  

この時、内乱は必至とみたグラバーはジャーディンマセソン商会に大量の武器を発注してしまっており、日本が内乱に突入しないと、グラバー商会、ジャーディン・マセソン商会共に、大きな負債を抱かえてしまう問題がありました。』
(「クリミア戦争  ロスチャイルド」より)
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1114.html

これによれば、日本国内内乱を回避しようとした坂本龍馬を暗殺したのはユダヤ資本を元にした兵器商人であるという推理が成り立ってくる。

日本で戦争を始める必要があったために、奥羽鎮撫総督下参謀に月性が育てた世良修蔵を任命したのである。

すると、戦乱の素となる世良を推奨した木戸孝允、あるいはその主人は、ユダヤ兵器商会と深い関係があったということになろう。

米国の世界警察としての力が弱まってきた今こそ、本当の歴史を正しく学ぶ必要を感じている。

そこで前の記事で約束した「禅宗僧侶とザビエルの宗教討論」のことを調べてみた。

鹿児島で布教をするためにザビエルは鹿児島へ上陸したはずだ。
しかし、宗教討論のおかげで、ザビエルは島津氏の保護下から離れ、平戸松浦氏のもとへ去った。

平戸は幕末にいたって、倒幕思想を育てる場所と成長していく。

鹿児島でザビエルは何を体験したのだろうか。

布教するためにザビエルはインドネシアの人食い人種の島へ単身乗り込んでいった。

それほどの勇気ある人が、何を嫌って、あるいは何を避けて、鹿児島を去ったのだろうか。

人食い人種よりも恐ろしいものを鹿児島で見たに違いない。

その問題に対する対策は、自分が中国大陸に渡ることだとザビエルは達観した。
来日2年を待たずに、ザビエルは中国へ渡ろうとし、途上で病死する。

その後の中国をマクロで観測すると、アヘンを注入され、それでも破壊されないとわかるとマルクス主義(毛沢東思想)を注入され、唐時代に完成されていた中国文化は、ほぼ破壊されてしまった。

日本は原爆投下2発によって主体性ある国家としての姿を棄却し、「米国に従属する国家としての平安」を求めてきた。

ザビエルを鹿児島から追い出し、中国へと追いやったという宗論を見てみよう。

ザビエルをインド・ゴアから日本の鹿児島へ連れてきた薩摩藩士「ヤジロウの日記」(小説、結城康三著)からその下りを抜粋する。

聖書の和訳もヤジロウの仕事であったから、ヤジロウは宗教哲学にも明るいはずだ。

仏教の成立は約2500年前、キリスト教の成立は2011年前である。

『十月八日

ザビエル様は今日、福昌寺の忍室(にんじつ)様を訪ねました。
あれから幾度か福昌寺を訪ねているのですが、その度に忍室様の書院で親しく話をしてきます。

今日はザビエル様が僧侶の修業を見たいと言いました。
忍室様はうなずいて寺の道場に案内してくれました。

道場の入口を入り内側の扉を開いて中を覗くと、そこは静寂そのものの別世界でした。
両側に二〇人位ずつ僧侶が黙って足を組んで座っていました。

僧侶の修業である座禅というものを聞いたことはあったのですが、こうして見るのは初めてでした。
僧侶は座ったままぴくりともせずに、あたかも石像のようでした。

手に笏を持った僧侶が一人、真中の通路をゆっくりと往復して歩いていました。
その僧侶は忍室様に気がつくと、立ち止まり軽く頭を下げて又黙々と歩き始めました。

そこは外の世界とは全く違った空間のように思えました。
空気さえも動きません。

ザビエル様もさすがにこの雰囲気には驚いたようです。

しかし、ザビエル様を驚かせたのは、その雰囲気も去ることながら、僧侶の修行が、霊操というイエズス会総会長イグナティウス様が考えた修業に酷似していたことでした。
私もゴアで霊操を行っていた時のことを思い出していました。

霊操では、イエズス・キリストの生涯を観想し、それを自分の物とするのです。
今、目の前で修行をしている僧侶達が霊操を行っていると言われたら私は疑わないかもしれません。

彼らの衣装や堂内の調度品がわずかにそれを否定するものでした。
私やザビエル様がボウズの衣装で、この堂内で霊操を行えば、人は私達が座禅をしていると思うかもしれません。

しばらくして忍室様は静かに扉を閉じて外に出ました。

書院に戻る途中、ザビエル様は忍室様に尋ねました。
「あの僧侶達はいったい何を考えて座っているのですか。」

忍室様はザビエル様よりそのような問いが出るのをすでに承知していたようでしたが、わざと首をかしげて言いました。

「さて、それはまた難解な御質問じゃ。あの者達がのう・・・一体何を考えておるのか。」

忍室様は手に持った扇子をもう一方の手に打ち付けながら、さも難問を課せられたような顔で言いました。

「拙僧も修業が足りぬ故・・・。あの者達は拙僧の弟子でな。ろくな事を考えてはおらんじゃろう。」

私はザビエル様に忍室様の言葉をどのように通訳して良いのか分かりませんでした。
ザビエル様は忍室様の気持ちを十分に汲み取っていると信じて、忍室様が話された通りに通訳するしかありませんでした。

「右側の一番前に座っていた若い僧侶がおったじゃろう。あれは空念と申して修業を始めたばかりじゃ。毎日、皆の食事の世話をしておるよって夕食の事でも考えておるのじゃろう。あいつはいつも飯がまずいと他の僧侶に怒られてばかりおるからのう。」

忍室様の言葉は高僧の言葉とも思えませんでした。
「それから左側の中ほどに座っておった元開という僧は寺の勘定方じゃ。
真面目な奴じゃから過去数カ月間に信徒達からどれだけの収入が有ったかを勘定しておるかもしれぬ。」

ザビエル様が忍室様の答えに不思議そうな顔をしたのを見て忍室様は言いました。
「上に座っている者達はもう長く修業をしておる。早くこの寺を出て、いづれかの寺の住職になりたいと思っておるのじゃろう。どの寺に行けば一番待遇が良いのかをな、ハッハッハ。」

忍室様は自分の話を一笑するかのように声高に笑い、そして言われました。

「要するに何か価値の有る事を考えている者は一人もおらぬかも知れん。しかし、彼らが何を考えているのか、どんな境地にいるのか、推し量ることさえもおこがましい。彼らの考えている事が価値があるとかないとか、慮る事こそ価値がないのではないのかな。」

私は忍室様の言葉を必死になって通訳しました。
まだ日本語を片言しか話せないザビエル様が忍室様の言葉をどのように受けとめているのかが心配でした。

しかし、私とて仏教の知識はありませんし、忍室様の真意を図ることはできませんでしたので、言葉通りにしか伝えることができませんでした。

 
十月十二日

入信した弘道は、毎日ザビエル様より教義を教えられていました。
まじめで頭の良い弘道です。
海綿が水を吸うように教義を良く理解して行きました。

入信して二十日も経たないと言うのに、未だ私の知らないことまでザビエル様は弘道に教えています。
所詮、私とは頭の出来が違うのでしょう。
ザビエル様も面白いように知識を吸収する弘道をかわいがっていました。

しかし、どうも私には妙に感じてなりません。
弘道は入信して後も袈裟を脱ごうとはしませんでした。

本人は他に着る物がないと言っておりますし、ザビエル様も、信仰は着るもので決まるものではないと言うのですが、私にはどうも妙でならないのです。

弘道が祭壇で祈る姿は仏教の僧侶そのものでした。
その姿を見ていると、彼が信じるものと私達が信じているものが果たして同じものなのか分からなくなってしまいます。

弘道は、
「私は真理を極めたい。」
と繰り返し言うのですが、果たして信仰の証とは何なのでしょうか。

ザビエル様の言うとおり、信仰心は服装や持ち物で決まるものではありません。

全てはその人の心の内にあり。
それは分かっているのです。

私が弘道の袈裟姿を見て彼の信仰心に疑いをはさんでいるのは私の心にこそ病巣があるのでしょうか。

今日も弘道は祭壇の前で祈っておりました。
私は袈裟を着て手を合わせる弘道をじっと見ていました。

「Padre nosso Que estas em os Santificado Seja o teu nome ・・・・」

弘道の流暢なポルトガル語は、彼の聡明さを感じさせて余りあるものでした。しかし、その次に彼の口から出た言葉は信じられないものでした。

「ナウマク、サマンダボダナン、アビラウンケン・・・・・・」

それがポルトガル語でもラティムでもないことはすぐに分かりました。

私には聞きなれた言葉でした。
その言葉はすぐに顕忍さまを連想させました。

根占の寺で顕忍さまが本堂の本尊を前に口にしていた言葉でした。
「ナウマク、サマンダボダナン、アビラウンケン・・・」

私は心の内にその言葉を暗誦していました。
根占の寺で何度となく聞かされたその言葉は、私の心の中に染み付いていました。そして、
「大日如来、・・・」
言葉が言葉を連想させていました。

私は背筋に冷たいものが走ったような気がしました。
「大日如来・・・」

私はデウスを「大日」と訳し、日本の人達に伝え、弘道もデウスを大日と呼び、信奉していました。

「ひょっとして弘道は、大日如来を・・・・。」
私は弘道の誤った信仰心を責めようとする前に、自分が取り返しのつかない大きな罪を犯したように思えました。

十月二十日

ザビエル様は今日も福昌寺の忍室様を訪ねました。
ザビエル様は寺の門を入ると、まっすぐに忍室様の書院に向かいました。
いつもの事なので、門番の寺男もザビエル様を止めようとはしません。

中庭から書院の方へと入りました。忍室様は書物に目を通しているところでした。
庭先からザビエル様は忍室様に声をかけました。
忍室様はいやな顔一つせずにザビエル様を迎えてくれます。

ザビエル様は縁側に座り、忍室様に話しかけました。
「東堂様、相変わらずお元気ですね。」

忍室様は書物を閉じてザビエル様の方ににじり寄って応えました。
「いやいや、拙僧ももう年老いてしまって、あなた方若い者がうらやましい。」

ザビエル様はその言葉を聞いて、忍室様の方に向き直って言いました。

「忍室様、あなたは今この寺の東堂という地位にありますが、青年時代のあなたと今の高齢のあなたとどちらが良いと思われますか。」

不意の質問に忍室様はしばらく考えていましたが、
「それは、やはり青年時代でしょう。」
と、答えました。

「何故に青年時代の方が良いと申されるのですか。」
「それは無論、青年時代には身体も丈夫で病気の禍もない。それに自分がしようと思う事は何でもできますからな。」

忍室様の応えは誰でもうなずけるものでした。
いかに福昌寺の東堂という高い地位についても、やはり人間は肉体的な若さと寿命に執着するものです。

「しからば、今ここに一つの港から出帆して、他の港へ行かねばならない船があるとしましょう。その船が大海に乗り出し波風や嵐にさらされている時と、無事に目的の港に入ろうとしている時とでは乗客はどちらが嬉しいでしょうか。」

忍室様はザビエル様の言葉に相槌を打ちながら言いました。
「ザビエル殿、あなたが言わんとしている事は良く分かります。荒波を乗り越えてきた乗客達にとって、早く港に入り安堵感に満たされる事が喜ばしいのは私も良く承知しております。」

「では何故、青年時代の方が良いとおっしゃられるのでしょうか。」
「人の人生を船の航海に例えることが当を得ているのかどうかは分かりません。今、老いた私がこうして人生を振り返れば、青年時代の私は、今の私に比べてはるかに無知で軽薄でした。

人生の最後の時が近づいた私が果たして極楽へ行くのか、それとも畜生道に落ちるのか、それは私には分かりません。あなたの喩えを借りれば、私は果たしてどの港に入れるものやら分からないのです。

人は皆、青年時代には必死で生きています。
後から考えればたわいのない事に悩み、若さ故の苦悩と戦わなくてはなりません。

言わば、今の私は崖を登りきった者が、後から崖を登ってくる人々を見ているようなものです。
もっと楽な道があるのに何故急な崖を登ろうとするのか、と思うこともありましょう。
一生懸命崖を登ろうとする者にとって、他に楽な道があると思ってはいないでしょう。

目の前にある崖が自分に与えられた道と信じて皆必死に登ろうとしています。
ある者は崖を途中まで登りつめ、はたと他を振り向き、もっと楽な道があることに気が付き楽な道に移ろうとして崖から落ちてしまう者もいるかもしれません。

楽な道を登り始め、途中急に崖が険しくなり途方に暮れる者もいるでしょう。
崖を登りつめた私にとっては果たして青年時代の私は自分に与えられた道を正直に登ってきたのかどうか疑問に思っています。

一度崖を登りつめた私でも、できることならもう一度崖を登ってみたい。
正直に脇目も振らずにな。それがどこへ続く道であろうとも。」

「東堂様は人生と言う道が、どこへ続くのか、漕ぎ出した船がどの港へ着くのか分からぬと申されるのか。」
「さよう。私が死後どこへ辿り着くのか、どちらの港に着くのかは、私の知る所ではありません。」

私は忍室様の言葉を事細かにザビエル様に通訳しましたが、忍室様の言葉は禅問答とでも申すのでしょうか。私には上手く通訳できないことが多いのです。

先日、忍室様は霊魂は不滅であると申していたのですが、それ以前には霊魂は滅するとも言っておりました。

私にはどちらの言葉も容易に嚥下することができるのですが、論理的に理解しようとするザビエル様には不可解に思えたようです。
やはり私は日本人なのでしょうか。

今日の忍室様との話でザビエル様は、忍室様が人生の目的を見失っているかのような印象を受けたかもしれません。

しかし、忍室様の心の内は、それ程単純ではないことは私には良く分かりました。

私は、神の教えを日本に広めようとするザビエル様と日本との橋渡しになろうと決心して日本に戻ってきました。

せめてザビエル様やフェルナンデス様が日本の言葉を理解できるようになるまで、私は身を捧げようと思っていました。

しかし、私は神の声やザビエル様の言葉を正確に日本の人達に伝えているのだろうか。

そして、忍室様や島津様、そして日本の人達の気持がザビエル様に正確に伝わっているのだろうか。

急にそんな不安な気持が私の心に広がって行きました。』

このあとで、ザビエルは和訳聖書の「神」を「大日如来」から原語の「デウス」に変えさせている。

神の定義において、ザビエルは禅宗の神とキリスト教の神が同一神となることを恐れたのである。

ヤジロウの書いていた「根占の寺で顕忍さまが本堂の本尊を前に口にしていた言葉」「ナウマク、サマンダボダナン、アビラウンケン・・・」とは、真言である。

オン バザラダト バン(金剛界)
ナウマク サマンダボダナン アビラウンケン(胎蔵界)

この真言を唱えれば、あらゆる霊徳が得られるとされるもので、胎蔵界とは「万物の創造」を意味する。

驚くほど聖書の記述に似てくるのは不思議なことではない。

空海が唐から持ち帰った経典の中には、漢字で書かれた旧約聖書もあり、今でも高野山に保管されている。

真言密教とは秘密にすべき宗教であって、実は旧約&新約聖書をも含むのである。
高野山の僧侶は朝の念仏修行の際に袈裟の前で十字を切る。

そこまで詳しくヤジロウは記述することをためらっているが、イエズス会信者となった元禅宗僧侶の弘道がイエス・キリスト像の前で袈裟を着て十字を切る姿を見たはずだ。

その光景にヤジロウが恐れおののいたのもよくわかる。

日本の国ではキリスト教さえも密教化して多くの神々の中に吸収されていたのだった。

ザビエルはそれを知って、あえて袈裟を着たまま弘道に祈りを続けさせている。
西洋の論理は是非、善悪の二者択一である。

同じバスク人であるイグナチオ・ロヨラに心酔してイエズス会創設に参加したザビエルが、ロヨラの哲学を非とするわけがない。

真言密教の流れを汲む禅宗を「悪」、「邪教」とザビエルは見たはずだ。
あえて袈裟を着たまま、どこまで弘道がキリスト教の真似毎を日常修行の中に取り入れていたかを観察していたのだろう。

禅宗はインドで発生した仏教が、中国を経て日本へわたってきたものである。
キリスト教もインドから伝わったものが含まれていても決しておかしくはないが、善悪の二者択一論に汚染されると冷静な判断はできなくなる。

ひょっとしてザビエルは、中国へ渡り禅宗を破壊しようとしたのではないだろうか。

この宗論が戦わされた鹿児島の福昌寺(ふくしょうじ)とは、曹洞宗大本山總持寺の御直末であり、そしてそれは明治維新革命によって破壊されている。

薩摩藩主島津氏の菩提寺であったものが、なんと明治初年の廃仏毀釈により破壊されたのだ。

仏教徒から見れば明治維新とは一体なんだったのか明らかなのではないか。

明治維新はザビエルの抱いた「見果てぬ夢」の実現でもあった。

しかし、それは兵学者松陰の目から見れば、「日本の敗北」となろう。
敗北を恥ずべきではない、
問題は負因を分析し、同じ負けを2度とせぬことだと松陰は言っている。

歴史を正しく学ばない人は、同じ負けを再び受けるはずだ。

国民を馬鹿な状態のまま温存するには、歴史を正しく学ばせないことである。



東洋侵略と鎖国戦略の妙~長州(131) [萩の吉田松陰]

SH3B0505.jpgSH3B0505歴史資料館にあった「西欧の東洋侵略」年表
SH3B0501.jpgSH3B0501旅立ち
SH3B0506.jpgSH3B0506自警の詩

日本人の歴史教育ではこういう洋の東西を比較した考察が欠落しているようだ。

それに比べれば、ここ松陰神社境内にある歴史資料館、私には蝋人形展に見えるが、そこに掲げられていた年表の方がより歴史事実に肉薄しているように見える。

家康の鎖国令にはそれなりの意味があったことがよくわかる。
囲碁将棋でいう「西欧植民地化」に対する次の手として意味がある。

家康以降の日本人にその種の高度な戦略性がかけていたともいえよう。
家康による鎖国の歴史的価値はもっと大きく見直す必要があるだろう。

「西洋の東洋侵略」年表を抜粋する。

『西洋の東洋侵略
1271(文永8年)マルコ・ポーロ東方旅行へ出発
(1299『東方見聞録』を著わす。)
1498(明応7年)バスコ・ダ・ガマ、インド航路発見
1519(永正16年)マゼラン世界一周に出発
1543(天文12年)ポルトガル人、種子島に漂着
1592(文禄元年)豊臣秀吉朝鮮に出兵
1600(慶長5年)イギリス、東インド会社設立
1602(慶長7年)オランダ、東インド会社設立
1604(慶長9年)フランス、東インド会社設立
1639(寛永16年)日本の鎖国
1641(寛政18年)オランダ、マラッカ占領
1745(延享2年)インドにおける英仏戦争はじまる
1825(文政8年)日本、外国船打払い令を出す
1840(天保11年)阿片戦争起こる
1853(嘉永6年)米国使節ペリー浦賀に来航
1854(安政元年)クリミア戦争はじまる』(抜粋終わり)

これだけ西洋と東洋の濃い関わりを年表で論じながら、奇異な感じを私は受けた。
それは、何よりも大事なイベントが書かれていないからだ。

蝋人形展示を企画した者たちはあえて「そのこと」を隠したのか?
それは何故なのか?

「そのこと」とは、1549年8月15日ザビエルの日本上陸のことである。

上の年表では「鉄砲伝来と秀吉の朝鮮出兵の間の出来事」である。

しかもザビエル来日による山口への影響は、とてつもなく大きかったのである。
なぜならば大名大内義隆は山口での布教をザビエルに許したからである。

『日本へ
1548年11月にゴアで宣教監督となったザビエルは、翌1549年4月15日、イエズス会員コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、ゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人と共にジャンク船でゴアを出発、日本を目指した。

一行は明の上川島(広東省江門市台山/en:Shangchuan Island)を経由しヤジロウの案内でまずは薩摩の薩摩半島の坊津に上陸、その後許しを得て、1549年8月15日に現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した(この日はカトリックの聖母被昇天の祝日にあたるため、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げた)。

1549年9月には、伊集院城(一宇治城/現鹿児島県日置市伊集院町大田)で薩摩の守護大名・島津貴久に謁見、宣教の許可を得た[4]。

ザビエルは薩摩での布教中、福昌寺の住職で友人の忍室(にんじつ)と好んで宗教論争を行ったとされる。

後に日本人初のヨーロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドなどにもこの時に出会う。

しかし、貴久が仏僧の助言を聞き入れ禁教に傾いたため、「京にのぼる」ことを理由に薩摩を去った(仏僧とザビエル一行の対立を気遣った貴久のはからいとの説もある)。

1550年8月、ザビエル一行は肥前平戸に入り、宣教活動を行った。
同年10月下旬には、信徒の世話をトーレス神父に託し、ベルナルド、フェルナンデス修道士と共に京を目指し平戸を出立。

博多に滞在の後、11月上旬に周防山口に入り、無許可で宣教活動を行う。
周防の守護大名・大内義隆にも謁見するが、男色を罪とするキリスト教の教えが大内の怒りをかい、同年12月17日に周防を立つ。

岩国から海路に切り替え、堺に上陸。豪商の日比屋了珪の知遇を得る。

失意の京滞在 山口での宣教
以下略。』(フランシスコ・ザビエル(Wikipedia)より)

「種子島へのポルトガル船漂着」と私たちは歴史で習うが、中国人倭寇がポルトガル商人2名を載せて中国製ジャンク(帆船)に乗り銃と火薬の売り込みにやってきたのだ。

その後、ヤジロウを含む3人の日本人がザビエルをゴアまで迎えに行っている。

ヤジロウは「人をあやめた薩摩藩士で、海外逃亡した」といわれている人物であるが、それもあやしい。

薩摩藩か平戸松浦藩の藩主が、ヤジロウらを使って鉄砲と火薬を届けてくれる西欧人宣教師とポルトガル商人を迎えにやらせたのだろう。

8月15日に鹿児島に上陸するも、藩主の意向もあって8月中に鹿児島を去って平戸へ渡った。
ザビエルは平戸に2ヶ月間滞在していて、それから京都へ旅立った。

平戸で多くの信者の洗礼を行ったことは間違いない。

このことから、ゴアまでザビエルを迎えにやらせたのは平戸藩主であろう。
まずは南九州の覇者であって、中央勢力に対抗できる島津氏へ礼を尽くして先に行かせたのであろう。

鹿児島では、福昌寺の住職忍室(にんじつ)とザビエルの論争のどこかに問題があったようだ。

このことは、あとの記事で述べる。

こうしてみると、現在よりも当時の日本人は海を越えて積極的に世界とかかわりあってきたのである。

航海技術に長けた日本人倭寇や朝鮮人倭寇、中国人倭寇の果たした役割は大きかったはずだ。

倭寇は日本の海賊を指す言葉だが、後に倭寇の名をかたって朝鮮や中国沿岸で窃盗を働く集団が大量に発生していた。

日本人はゼロかわずか数名で、あとはほとんど中国人という「倭寇」も多かった。
彼らの中の一味のリーダー王直が、五島列島の本拠地からゴアへザビエルを迎えに行ったのであろう。

種子島にポルトガル商人2名を連れ鉄砲の売り込みへやってきたのは王直所有のジャンク船で、操船も王直自身が行っていた。

鉄砲の伝来によって軍事バランスが一変することに驚いた家康は、鎖国という手段で内乱を鎮め、西洋の植民地化へ対抗したのである。

打った「手」としては、家康の鎖国はなかなか鋭い戦略であると思う。
もし家康が鎖国をしなかったら、日本という国はどこかの植民地になっていた可能性がある。

西洋の日本に向けて打つ手は「開国要求」であるが、250年間もの長い間西欧はなかなかその要求を押し通せなかったのである。

幕末にやっとペリーがやってきて、黒船軍事力による威圧を背景にそれをなし遂げたのである。

幕末の松陰が世界の中の日本のあり方を考えていないわけはなかった。
戦国武将の家康でさえ、それほど真剣に悩み鎖国戦略を立てたのである。

街道歩きの得意な松陰の姿が蝋人形展の中に出ていた。

編み笠をかぶり、片ひざついて草鞋の緒を締める旅立ち姿だった。
蝋人形の傍の説明板にはこう書いてある。

『日本中を歩いて学んだ松陰

松陰16歳・山田亦介に、西欧諸国が盛んに東洋諸国を侵略して植民地としている状況を聞き大いに驚く。

鴉片(アヘン)戦争の結果、日本が老大国と信じ、文化の拠り所としていた清国が英国の為に破れた事は衝撃だった。

僅か唯一つ外国に向かって開いている港長崎、そして平戸、彼はそこに遊学し北九州各地を歴訪した。

特に平戸では葉山左内につき猛烈な勉強を開始する。

貸し与へられた新刊書の筆者に精力をささげた。
そして熊本に行き宮部鼎蔵と親友になった。

松陰は嘉永4年7月23日東北諸国遊歴を藩から許可されたが、宮部と共に南部藩士の安芸五蔵(江幡五郎)の仇討ちに協力する約束があったので、藩からの通行証明書が待ちきれず出発、奥州1円を巡って絵嘉永5年に江戸に帰り、藩邸にて脱藩の罪を問われ、萩に帰ったが、士籍を削られ、扶持も召し上げられ実父杉百合之助(はぐくみ)となりました。』(抜粋終わり)

松陰が脱藩し東北遊歴に旅立った日は、赤穂浪士討ち入りの日、つまり12月14日である。

多感な青年が、ちょっと前のドラマチックな事件にあこがれ、わが身をそこに置く気持ちはよくわかる。

ザビエルが平戸へ行き、そして300年後に松陰が平戸へ行ったのである。
平戸藩主は大石内蔵助と同じ山鹿素行から兵学を習っている。

平戸藩主は大石に討ち入りをけしかけ、成功してから両国橋のたもとで面会し天晴れとほめている。
そして、松陰は、平戸藩家老で山鹿素行の末裔である山鹿万介から兵学を学んでいる。

松陰が脱藩決行日として赤穂浪士討ち入りの日を選んだ意味は、多感な青年がドラマを夢見て選んだのとはわけが違うように思う。

松陰には討ち入りの日に重大事項を決行すべき必然性が生まれていたのではないだろうか。多感な萩の一青年が、そう洗脳され誘導されていたといっても良い。

蝋人形のそばの年表からはザビエルが削除されていて想像しにくいが、洋の東西を代表する重要人物二名は、時代は異なるものの小さな平戸の島で触れ合うことになる。

宗教哲学家でありイエズス会兵士(ザビエル書簡にその記載あり)でもあったザビエルと、日本の軍事革命専門家松陰との、時空を越えた出会いである。

蝋人形展企画者は、そのことを秘匿したかったのであろう。
これほど重要な「ザビエルの来日」を、その年表から省いてしまっている。

その企画者の中に金子重輔と同じ隠れキリシタンの紫福村(しぶきむら)の出身者がいたのだろう。

彼らは「重要な事実を秘匿する」ことで生き延びてきた人々である。

昨年私が歩いた奥州街道のことであるが、宿場終点の「三厩(みんまや)宿」から、更にバスで30分ほど北へ行くと、竜飛岬に至る。

松陰は歩いてそこまで行って海峡を眺めた。

「あれをご覧 竜飛岬 北のさいはて」は石川さゆりの代表曲である。

そこに立った松陰は、今風に言えば「メドベージェフ大統領の北方5島蹂躙」を強く憤った、ということになる。

『作家古川薫は「各地を行脚して志ある者と交流し、憂国の思いを述べ合う旅程の中で、激情と旅情が渾然(こんぜん)して吐露された魂の告白ともいうべき旅の詩が生まれた。松陰は、まさに吟遊詩人だった」と述べているが、

新潟での作、
「雪を排し来り窮(きわ)む北陸の陬(はて)
日暮れて乃(すなわ)ち海楼に向かって投ず

寒風栗烈(りつれつ)膚を裂かんと欲す
枉是(ことさら)に人に向って壮遊を誇る

悲しいかな男子蓬桑(ほうそう・天下を周遊せんとする志)の志
家郷更に慈親の憂となるを慈親子を憂うる致らざるなく
まさに算(かぞ)ふべし今夜何(いず)れの州(くに)に在るかと
枕頭眠り驚き燈滅せんと欲し涛声雷の如く夜悠々たり」

という詩も、松陰の真情をよく示すものであろう。

そうした松陰が佐渡から再び新潟に帰り、以後、酒田、本荘、秋田、大館、弘前、小泊とたどって三月五日、本州北辺の龍飛崎に立って、津軽海峡を目にしたとき、彼の心をとらえたものは、海峡の詩情といったものではなかった。

それは、海峡を傍若無人に通航する異国船への、いや、むしろそれを見過ごしているわが国自体への国士的な怒りであった。

龍飛崎と対岸松前の白神鼻とはわずかに三里、その間を恐れもなく通航する異国船に対して、わが方には何の手当もなく、これを傍観している。

一体、当局は何をしているのか。

切歯する思いであると憤慨しているのである。』
(「吉田松陰 その19 歴史舞台への登場」より)
http://www.rekishi.info/library/syoin/scrn2.cgi?n=1019

旅が若者を育て、そして国土を愛する心を育(はぐく)む。

しかし、松陰の脳内には陽明学や埼門学が既に注入されている。
よって改革も「現体制下での改善」ではとうてい済まない。
破壊して創り直そうとする。

現代で言えば、松陰青年は反カダフィであり、反ムバラクを叫び始めるのである。

蝋人形展を企画した人物の思いを想像してみると、彼が秘匿しようと努力しているザビエルの影が執拗に浮かびあがってくるのだった。

その影は、村田清風や村田右中の末裔、弟子たちへと掛かっていく。
おそらく松陰にもその影は届いたはずである。

時期は平戸滞在中であろう。

私はまだ松陰のキリシタンからの影響についてはその根拠を手にしていない。
よって、松陰と隠れキリシタンとの関係は、今はあくまで仮説のひとつに過ぎない。

ザビエルの影は、時代の推移にともなってキリシタン迫害者となった徳川幕府打倒へと雪崩を打っていくことになるが、それは当然すぎる帰結である。

ザビエルとその後継者たちは宣教師でもあるが、イエズス会兵士なのである。
仲間の宣教師や信者たちが信仰の自由を侵され殺されれば、その仇を討つべき立場にある。

ザビエルは来日してすぐの頃に大名による保護を願ったが、ポルトガル商人が持ち込んだ鉄砲の威力のために下克上の混乱を伴う戦国時代となってしまった。

庇護者だった大友宗麟や大内義隆が下克上により滅ぼされてしまった。

ザビエルは「朝廷や幕府の打倒」を彼の今後の行動目標に立てたことは間違いないだろう

イエズス会兵士ザビエルと兵学者松陰とは、時代を隔てて微妙な「和音」を奏でている。

その理由や証拠を探すのが、今回の萩の旅の目的であった。

蝋人形展のそばに掛けてある「松陰直筆の掛け軸」が目に付いた。

「自警の詩」松陰と書いてある。

士苟得正而斃
何必明哲保身
不能見幾而作
猶當殺身成仁
道並行而不悖
百世以俟聖人

これは安政六年(1859)3月14日、松陰30歳のときの詩である。
斬首刑になる7ヶ月前のものである。

冒頭句「士苟得正而斃」でGOOGLE検索してみたが、中国語の記事複数と拙著ブログしか検索されなかった。

日本人はあまり興味がないのだろう。

山鹿素行がその著「中朝事実」で地球上に残っている純粋な中国とは、日本のことであるという意味を実感した。

当時の日本の文学は、まさに純粋な中国・唐文化の影響を色濃く残したものであり、次の中国人と思われる萩観光客の書いた記事の中で、松陰の漢詩は自然体で収まっていた。

『至於在市區東面的松陰神社裏,我花上一整天的時間,因神社內的松陰遺墨展示館、松門神社、吉田松陰歷史館和小小的松下村塾,都得參觀;在吉田松陰歷史館裏,給我發現了一首意義深長但鮮見記載的松陰漢詩,題曰自警詩,於是連忙把它抄下,詩云:

士苟得正而斃,
何必明哲保身;
不能見幾而作,
猶當殺身成仁;
道並行而不悖,
百世以俟聖人。』
(「萩市行記」より部分抜粋)
http://bigfished.pixnet.net/blog/post/14811903


その後中国はモンゴルに侵略され、文化は人種的混合をしていくことになる。

日本国にだけ純粋な中国が残っていると主張した山鹿素行の意見には一理あると思った。

ザビエルの置き土産~長州(130) [萩の吉田松陰]

Franciscus_de_Xabier.jpg写真 フランシスコ・ザビエル(Wikipedia)より引用

ヨセフこと、ジョセフ・ヒコの日本帰還により松陰は斬首されたのかも知れない。
それほどに大きな役割を担うかもしれない日系アメリカ人で、おそらくカトリック教徒(プロテスタント系の可能性もあるが)であろう。

はなはだおぼつかない私の記憶によれば、両派はアイルランドなどでは同じキリスト教徒でありながら、殺し合いをしていた間柄だ。

一概にキリスト教徒という言い方はかえって時代の流れを読む力を削ぐことになりかねない。

どちらのキリスト教徒であったかということが、前後の歴史に深くかかわってくる。

アメリカ建国をしたのはピューリタン(清教徒)であるが、プロテスタントに近いのではないだろうか。

しかし、現在の米国大統領が就任式で宣誓をするのはカトリック教徒の慣習によるのではないだろうか。

禅宗に臨済宗と曹洞宗があって、それ以前には天台宗と真言宗があるというわかりにくさに似ている。

天台も真言も僧兵を多数抱えて宗派のために大いに人を殺しあった時期がある。

織田信長が比叡山を焼き討ちし僧侶、女、子供を惨殺したことは姦しく歴史資料に書かれているが、当時は信長以外の武将もみな戦ではそうしたものだ。

僧兵だって、そうしていたのである。

信長は寺が軍隊能力を持つことを徹底的に叩きのめした。

だから私たちはその恩恵をこうむっている。

寺から脅されたり、拷問されたり、殺されたりすることは、例外を除き、まず信長以降の日本では起きていない。

信長の政教分離の識見の卓越さに驚くばかりである。


あの下克上の混乱の世相の中で、どうやって信長は普遍的真理を読み取ることができたのだろうか。

私はイエズス会の宗教、哲学、文学の影響が大きかったのであろうと推測している。

ザビエルが大内義隆にプレゼントした機械式置時計、これが日本初の時計使用となるが、その修理を始めた宮大工の技術承継が江戸期にからくり人形師を育てた。

有名な江戸末期のからくり人形師の手によって、東芝の前身やトヨタ自動織機が創業されたのである。

ザビエルは技術以外にも多くの種をこの国に撒いている。
織田信長の政教分離政策や楽市楽座はザビエルの置き土産のように見える。

ザビエルはバスク人である。

そして、ザビエルをキリスト教宣教師への道へ導いたイエズス会の創立者で聖人のイグナチオ・デ・ロヨラもまた、バスク人なのである。

『バスク人は85%がRh-型の血液である。このことから、バスク人はヨーロッパで最も古い種族ではないかと推測されている。』(バスク人(Wikipedia)より)


私はスペインサッカーリーグを時々見るが、シャビ・アロンソ、ミケル・アロンソというサッカー選手の顔がテレビ画面に大写しされると、ザビエルに重なった見える。

とくに髭を生やしたシャビの横顔はザビエルによく似ている。

アロンソ兄弟も、ルイス・フェルナンデスも、サッカー選手にバスク人が多い。

身体能力も高いのであろうか。

ヨセフの帰国と松陰の死~長州(129) [萩の吉田松陰]

SH3B0521.jpgSH3B0521「金子よ、あれが目指す黒船だ」(蝋人形展より)
SH3B0516.jpgSH3B0516「ハリス上陸」(蝋人形展より)
Joseph.jpg写真 「後から送りこまれたヨセフ」(浜田彦蔵(Wikipedia)より引用)

晋作は、回先生(吉田松陰)の遺書を7月下旬に杉梅太郎(松陰の兄)から受け取り、同時期に久坂玄瑞の訃報に接することになる。

晋作が、死を決意する時期がそろそろと迫って来ている。

晋作は執拗に久坂の「戦」の始まりと終わりを気にして梅太郎に書簡でたずねている。
それは「歴史を作る」ということなのだろうか。

この後の下関功山寺での晋作による奇兵隊決起は、確かに歴史を作った行動だったといえる。

しかもわざわざ雪の中を、深夜に功山寺境内まで騎馬で乗り付けている。
そこは急な長い階段が多い寺である。

馬も苦労して石段を登っていっただろう。
晋作が馬から下りて、馬の手綱を引いて歩いて上ったとしたら、それは大変興味深いことであるし、現地を見てみればそのほうが現実的でもある。

一度、雪の降り積もる夜の功山寺を上の境内まで騎馬で乗ってみたいと私は思っている。

あり得ないほど危険な行為ではないかと思うが、ひょっとして石段とは別に土の馬車道があったのかも知れない。

現地を歩いた体験からみて、「難儀しつつ馬で境内まで辿り着いた」という推測は成り立つが、おかしくもある。

映画製作でもそうであるが、ドラマ演出はなかなか大変なことである。

赤穂浪士討ち入りの12月14日を狙って挙兵したはずだが、手違いで1日遅れてしまった。

師匠が赤穂浪士討ち入りの日にこだわっていたことは晋作もよく知っていたはずだ。

だから12月に奇兵隊挙兵としたのである。
なのに、結局一日遅れてしまった。

そういうところも、晋作に人間味が感じられて面白い。

松陰はきちんと12月14日に江戸長州藩邸を脱藩して、東北遊歴の旅へと出発している。

師匠の方のドラマ演出はいつも完璧だった。
山鹿流兵学者は、忠臣蔵ドラマをお手本にするように演劇指導を受けているようである。

大石内蔵助も、赤穂藩お抱えの兵学者山鹿素行の指導を実地で受けている。
大石自身はあまり勉強に身が入らなかったようである。

なぜそう推理するかというと、討ち入りまでには優柔不断な期間が長く、松陰のようにスパッと行動はしていない。

仕方なく、最後はしぶしぶと腰を上げているが、行動を起こしたときは立派な山鹿流を披露している。

その点では、晋作の行動は大石に似ている。

大石も晋作も行動するならば、失敗しないようにと配慮を重ねている。

一方松陰の行動は、その場の激情に従い急である。

偽の仇討ちを目指す南部藩士を信じ切ってしまい、涙する松陰がいた。
松陰には人を疑う余裕すらなく、すぐに行動に移すところがある。

騙されやすく、純粋な人間であった。

斬首刑の前日に松陰が弟子へ書いた「留魂録」には、失敗を恐れるな、失敗から学べと諭していた。

失敗はあってもよいと松陰は考えていたのである。
むしろ失敗して、それが元で挫折するような奴は武士ではないと手厳しい。

就職活動で苦しんでいる学生さんたちには、多少の励ましの言葉になる。

学生さんは、大多数が学士か修士である。
その「士」という字は、「武士」からもぎ取って明治になって名づけたものである。

だから松陰が「士(さむらい)」へ投げかける言葉が学生さんたちの身に浸みるのも当たり前なのである。

青山繁晴さん解説の「吉田松陰「草莽崛起論」」から部分的に解説を抜粋する。
http://blog.goo.ne.jp/ryogonsan/c/a227880520ed4f07a5fd1fee70eda345

『一敗乃ち挫折する、豈に勇士の事ならんや。切に嘱す、切に嘱す』

「一度失敗したからといって、たちまち挫折してしまうようでは、勇士とはいえないではないか。諸君よ、切に頼む、切に頼むぞ」


『今日の事、同志の諸士、戦敗の餘、傷残の同士を問訊する如くすべし』
 
「何が失敗だったのか。だれに責任があるのか。どうすれば、よかったのか。すべてを明らかにし、残すのだ。次の戦いには、それらに十分注意し、再び失敗せぬように戦え、そして勝て。」

久坂玄瑞ほどの松陰高弟であっても、師の松陰の哲学を実践することはできなかった。

受傷を負った久坂は鷹司邸内へ行き、朝廷への願いを訴えた。
相手の鷹司卿が恐れて逃げてしまい、その願いは届かなかった。

そのために久坂は邸内で自刃している。
久坂も恩師の遺言書「留魂録」を読んでいたはずだ。

師の言葉は、読んで知っていたとしても、あまりに実践することに困難を伴うものだった。

晋作においても、決起のタイミングを見計らうことにおいてかなり迷っていた。

目出度く奇兵隊決起はしたものの、戦や政治活動の中で死を敢えて選ぶということをしなかった。

しかし、松陰自身は、己(おのれ)が吐いた言葉通りの人生を歩いたように見える。

松陰がそういう人間であることが、松陰の敵(井伊直弼以外に朝廷内にもいたはずだ)には空恐ろしかったに違いない。

松陰は、朝廷も幕府も要らないと最後には言い出していた。
「幕末にあって民衆革命を叫んだ」のである。

平戸訪問時に松陰は長崎にも足を伸ばしている。
晋作よりも先に米国人宣教師フルベッキと松陰は会っているのではないか。

まだ、そういう資料にはめぐり合ってはいないのだが、萩歴史散歩を終えてみて、そんな気がしてきた。

調べてみると、「松陰とフルベッキの関係」については語られていないが、両者の間にいる人間を論じている対談があった。

これまでに私はフルベッキを米国人宣教師と紹介してきたが、無国籍の宣教師だったようだ。日本に墓がある。

『小島 私は九州の福岡県で生まれた人間だから、そんな感じがしないこともない。ただ、東京の人は地方の出身者に偏見を持つから、東国政権としての徳川幕府を倒した薩長の人間に対してとくに反発するのでしょう。

藤原 そういわれると図星だから参ってしまいます。
でも、明治政府を支配した長州系の権力者の多くが、吉田松陰の松下村塾の出身者だから、松陰を偉大に描きすぎていると思うのです。

確かに、松下村塾からは高杉晋作をはじめとして、伊藤博文や山縣有朋などが出ているし、彼らは奇兵隊を指揮して立身出世しています。

また、吉田松陰が教育者として孟子をテキストに使い、人材を育て上げたことに関しては評価するが、松下村塾はある意味でテロリスト養成所として、タリバン(神学塾生)に似ているのではないかと思います。

小島 アフガンのタリバンとの比較は奇抜なだけでなく、タイムリーな発想でとてもわかりやすい。

しかし、吉田松陰の信奉者たちが聞いたら怒るでしょう。
でも、松下村塾の四天王と呼ばれて皆の尊敬を集めていた高杉晋作、久坂玄瑞、吉田栄太郎、入江杉蔵ら全員が、御一新が完成するのを迎える前に斃れています。

また、佐世八十郎(前原一誠)は新政府で陸軍大輔になったが、辞任した後で萩の乱の首謀者として処刑された。

生き残って明治政府で栄華を極めたのは、足軽出身である伊藤博文と山縣有朋でした。

藤原 この2人は奇兵隊の指揮官として足場を築き、有能な先輩がどんどん死んでいったおかけで、明治になってから位人臣を極めています。
また、伊藤の場合は幕末のロンドンに密航して渡り、半年ほど滞在して英国の社会を体験しています。

小島 伊藤悛輔(博文)と井上聞多(馨)が訪英したのは、福沢諭吉が訪欧から戻ってから半年後の1863(文久3)年であり、ロンドンで下関砲撃のニュースを聞いたので、大急ぎで帰国したのに英語はかなりできたようです。

それからは長州征伐の混乱期だったので、2人は銃の手配に長崎に何度も出かけて、武器商人のグラバーや坂本竜馬と取引しており、このへんが歴史のエピソードとして面白いところです。

●忘れ去られた近代日本への影響

藤原 ちょうど蘭学から英学に移行する時期に当たり、フルベッキはその橋渡しの役目を果たしたが、福沢諭吉も一歩先んじてその体験をしています。

小島 福沢諭吉は長崎で蘭学を学んで大坂に出て、緒方洪庵の適々斎塾で学び塾長になるが、藩命で江戸に行って蘭学塾を開く。

ところが、ある日のこと、横浜に行ったら看板が読めず、役に立たないオランダ語から英語に切り替え、ショックで蘭学をやめて英学に変わった話は有名です。

しかも、万延元年(1860)の遣米使節団に木村摂津守の従僕として渡米し、続いて遣欧使節団の翻訳方としてヨーロッパ各地を訪れ、その体験から『西洋事情』をまとめて出版した。・・・中略・・・

日本との結びつきという意味でオランダの存在は、江戸時代の長崎の出島における関係だけでなく、幕末から明治における西周や榎本武揚を含めて、近代日本に大きな影響を及ぼしています。

中略。

藤原 私の青春時代の体験を通じてよくわかることは、フルベッキの生き方の中にオランダ気質が沈積しており、「彷徨えるオランダ人」-フライング・ダッチマンーそのものだという点です。

オランダ生まれの彼はユトレヒトの工科学校に学び、20歳の時に新天地を求めてアメリカに渡り、鉄道技師として働いていた。

その時に伝染病で倒れたが、病床で宣教師になって布教しようと決めます。

ちょうど日本はペリーの黒船に脅かされて開国を決め、帝国主義の勢力争いの穴場に似たところだったのです。
彼は布教のために幕末の長崎にやってきたが、日本は蘭学から英学に関心が移る転換期であり、フルベッキは架け橋の役目を果たしたのです。

彼は海外での長い彷徨でオランダ国籍を失ったが、肩書きに執着しないからアメリカの国籍も取らず、日本でも帰化しないで地味に暮らしたので、無国籍の世界市民として日本で生涯を終えた。東京の青山墓地に葬られているのです。

そこで無理を承知でお願いしたいのですが、福沢山脈を探検して記録を残した小島先生に、フルベッキ山脈にも踏み込んでほしいのです。

小島 フルベッキが大隈重信や副島種臣をはじめとして、高橋是清に至る明治に活躍した日本人に、絶大な影響を与えたことは疑いえない。

日本人としてその恩恵を大いに感謝したいと恩います。
人材を育てた恩人としてのフルベッキ先生は、一般には明治のお雇い外国人の1人であるという形で、その貢献に対して評価が行われているが、「彷徨えるオランダ人」という捉え方は実に新鮮です。

 彼が育てた幕末の日本の若者が成長して、その実力と見識によって近代日本が作られ、日本の進路が決まったことがわかった以上は、ライジングサンのフライング・ダッチマンの存在が、これからの仕事にとって大きな励みになります。 』
(「近代日本の基盤としてのフルベッキ山脈」より)
http://2006530.blog69.fc2.com/?mode=m&no=494


さらに松陰とフルベッキの関係を探ろうとしていると、熱く二人を語るブログ記事が見つかった。

よく読んでみると、この萩散歩の初め頃に書いた拙著ブログだった。
熱いはずである。

その題名は、「萩藩寄組(上士)の繁沢家~長州(58)[萩の吉田松陰]」となっていた。
http://shono.blog.so-net.ne.jp/archive/20110116


『途中略。

周布家は大組士の筆頭だった。
高杉家も同じ大組士だったから、晋作は周布政之助の子分のような位置付けだったのだろう。

ちょうど土佐の下士(かし)である武智半平太と坂本龍馬の関係に似ている。

徳川幕府は倒したいほど憎いが、現在の主君毛利は憎めないにしても、上士の連中の鼻持ちならぬ態度には我慢ができない、下士とはそういう立場であった。

世が乱れたときに、彼ら下士が勇敢に立ち上がることは自明のことであった。

月性は国を乱すことで、攘夷思想にかぶれた下士連中が尊王のために命を捨てるというメカニズムを掌握した上で、松陰をけしかけたのであろう。

その武士の本能刺激実験は、元禄時代に赤穂藩の浪士たちで実証済みであったのだ。
歌舞伎や芝居、小説などで、世間にも十分知らしめてきた。
武士は桜花のように主君のために散るものであると。

囚人籠の中の松陰が泉岳寺前を護送されて通過するときに歌ったこの歌は、そのメカニズムを正確に理解し切った上で、敢えて黒船に乗り込んだ松陰自身を称える歌でもあった。

「かくすれば かくなるものと知りながら 已むに已まれぬ大和魂  松陰」

侍とはこうあるべきだ、というメカニズムの宣伝であり、宣言である。

月性の「松陰火薬」への点火仕掛けは、きわめて知的な戦略に基づいている。
しかし、聡明な松陰は、そのからくり、仕組みに既に気づいていたのではないだろうか。

宇都宮黙霖からの最初の面会要請を拒絶した松陰は、それを見破っていたのはないだろうか。

その間に何か大きな情勢の変化があったのだろう。
梅田雲浜の獄中での病死だったのか、まだ私は追求仕切れていない。

獄中の松陰は、あえて月性の誘いに身を委ねようと決意したような気がしてきた。

月性が放ったと思われる聾唖の僧宇都宮黙霖と松陰との文通は、松陰をして感情的な高ぶりへと誘導していったと言われるが、事実は逆ではないのか。

月性の戦略は確かに緻密で頭脳的ではあったが、そのからくりを読み取った上で、敢えて松陰はその流れに身を任せたのではないだろうか。

国の大乱に乗じて昔の主君の復権を図る。
その場合の松陰にとっての主君は天皇政治であり、大内家再興だったと思われる。

大乱に乗じて復権を図る。
そういう視点では、石見の地頭職だった周布家の人々の思いも同じだったであろう。

しかし、佐久間象山など西洋に通じた知識人たちとの接触や、長崎平戸での海外事情聴取の結果、松陰の世界観は急激に変化していったはずだ。

松陰の主君とはいつまでも天皇だったか。
一般の民、とりわけ実家杉家の末弟である聾唖の敏三郎、彼らが国家の主役であるという西洋思想に心を打たれたのではないだろうか。

松陰の死後であるが、文久3年にはアメリカ南北戦争で黒人奴隷の騎兵隊が、白人騎兵隊を打ち負かす事件が起きている。
晋作の奇兵隊結成には、その米国での一大事件に関する知識が反映されている可能性が高い。そのニュースを晋作に知らせてくれたのは長崎で出会った宣教師フルベッキであろう。

日本史の中で「風雲急を告げる文久三年」と浪曲やドラマでナレーションが流れるが、鉄砲の登場で風雲急を告げたのはアメリカ黒人奴隷の軍隊化であり、南北戦争終結の見通しが見えた文久3年には、世界中であまる銃器をどこに売りつけるかというビジネスが「風雲」急を告げたのである。

日本史と世界史を分けて教えるから、それが日本人にはなかなか見えてこない。
私は還暦になってようやくぼんやり戊辰戦争の背景が見えてきたところだ。

学校の歴史分野の教師の皆さん自身が見えていないのではないだろうか。
見てみぬ振りをせよとでもいうのだろうか。

歴史は繰り返すという。
歴史を知らない国民は、何度でも同じ過ちを繰り返すことだろう。

そういう時代にあって、長崎経由の知識人脈もある松陰は、アメリカ大統領制度について知識を得たはずだ。
明治革命後の政治形態にそれを考え始めたのではないだろうか。

松陰の主君は天皇に代わって国民になり始めていたのであろう。
それは、幕府にとっても朝廷にとっても危険な存在となりえる。

松陰が消された本当の理由は、老中暗殺計画暴露などではなく、「主君の変更」にあるのではないかと感じている。

いずれ米国大統領制度と松陰の関係は調べてみたい。

長崎で晋作は米国の宣教師フルベッキに会っている。
師匠の松陰はそのとき既に他界していたが、フルベッキは松陰が全く知らない世界の人脈ではないはずだ。

平戸へ行けば。長崎の人脈や情報はすぐに手に入る。
鹿児島、平戸、長崎はザビエルの日本上陸後の南九州での行動範囲内にある。』
(拙著ブログより再掲)

松陰が消された理由が、天皇制廃止、米国型大統領制導入という思想の転換にあるとそのときの私は推測していた。

今松陰神社を離れるにあたって、その思いはさらに強くなっている。

なぜかというと、聾唖の弟敏三郎でさえも、努力すれば米国では国家元首(大統領)になれるということを松陰は獄中で学んだからであろう。

獄中の松陰は、日本の国体を揺るがすほどに恐ろしい人物へと変わっていったのであろう。

松陰がまだ江戸伝馬町牢屋内で生きていた安政6年6月18日、アメリカは米国人で日系1世のジョセフを日本へ送り込んできた。

『中略。

日本人で初めて大統領に接見し、日本人で初めてアメリカに帰化した人物が、今年、アメリカ帰化後150周年を迎えました。

その人の名は、「ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)」日本名浜田彦蔵、兵庫人です。

現在の兵庫県加古郡播磨町で生まれた浜田彦蔵は、運搬船(樽廻船)の乗組員だった13歳(嘉永4年)のときに、静岡沖で遭難しました。

太平洋を漂流中に、中国から母国アメリカに帰港中の船オークランド号の乗組員に救助され、そのままサンフランシスコの土を踏むこととなります。

その2年後、嘉永6年に日本人で初めて当時の大統領フランクリン・ピアーズに接見します。

安政5年には、これも日本人で初めてアメリカに帰化。
翌6年には、日本領事のハリスの通訳として採用され、日本に戻ってきます。

その後、色んな事業をやり、「新聞の父」とも呼ばれています。
詳しく書き出すときりがないので、この程度で。

漂流民としてアメリカに渡った人物としては、高知土佐藩の「ジョン・万次郎」が有名ですね。
でも、アメリカでの実績や日本への貢献度からすると、ジョセフ・ヒコの方が上ではないかと思います。

でも、なぜかヒコは、あまりメジャーではありません。

一方、ジョン・万は、NHK大河ドラマ「篤姫」にも出てきてますよね。
ヒコにちょっと興味が沸いた方、「ジョセフ・ヒコ、アメリカ帰化150周年」を機会に、関連する本を読んでみてください。

文久年間に本人が書いた「漂流記」や、最近の出版本では「ヒコの幕末―漂流民ジョセフ・ヒコの生涯」など他にもありますので、ぜひ。』
(「新アメリカ大統領と、大統領に初めて会った日本人のこと」より)
http://ryomaniax.blog15.fc2.com/blog-entry-24.html

米国大統領にあった幕末の日本人ジョセフ・ヒコは、何と「安政6年」に日本領事のハリスの通訳として採用され、日本に戻ってきている。

それは松陰が春に江戸送りされ、秋に斬首された年である。

『安政3年(1856)、総領事ハリスが来日した。
ハリスは、通商開国を強く求め、安政4年末には日米修好通商条約の案文が定まった。

安政5年(1858)、幕府は調印前に勅許を得ようとしたが、孝明天皇の強い攘夷の意思もあり、勅許を得ることはできなかった。

幕府は結局、勅許なしで調印をしたが、このことは尊攘激派の強い反発を買った。』(総領事ハリス来日と通商条約より)
http://bakumatu.727.net/bakumatu/tuushi1-kaikoku2.htm

ハリスの来日は安政3年である。
なのに、日本人通訳を安政6年に送り込み、補充している。

ハリス入国から3年も経過して、わざわざ日本人通訳を日本へ送り込んだアメリカFBIあるいはCIAの狙いは何だったのか。

当時そういう部局が米国政府内にあったかどうかは知らないが、アメリカは本来諜報好きな国民である。

ハリスの後ろに必ず諜報部隊が暗躍していたはずである。

『1862年には病気を理由に辞任の意向を示し、幕府は留任を望むものの、アメリカ政府の許可を得て4月に5年9か月の滞在を終えて帰国、後任はロバート・プルイン。

辞任の理由に関しては、ハリスの日記に日本滞在中に体調が優れなかった健康上の事情が記されており、また本国において共和党のエイブラハム・リンカーンが大統領となっていたことや、南北戦争の故郷への影響を心配していたとも指摘されている。』タウンゼント・ハリス(Wikipedia)

ハリスが離日したのは、1862年つまり文久2年である。
5年9ヶ月も滞在していたから、来日したのは1856~7年頃となる。

つまり、ハリスは安政3年(1856)の「初来日」以来、ずっと日本に住んでいたのである。

そのハリスの通訳として、米国民となった元日本人が来日3年を経た安政6年に日本へやってきた。

通訳というより、何らかのスパイ活動のために送り込まれてきたのだろう。

革命扇動業務ではなかったか。

アフガン・タリバン養成係は、当初はアメリカ軍の担当だったという。
今はかつての教え子と戦争をしており、よって米国内の軍需産業は潤い続けている。

ジョセフ・ヒコは米国人国籍を取得し、米国大統領にも面会しているエリートである。

つまり、ジョセフ・ヒコは米国キリスト教(おそらくカトリック)の洗礼を受けていたはずだ。

そうでなくては、こうもとんとん拍子に大統領に謁見できないだろう。

アメリカは、ある確かな意図をもってジョセフ・ヒコを育てている。

アメリカの行動は、このように計画的でかつ合理的である。
今でもそうである。

『嘉永6年に日本人で初めて当時の大統領フランクリン・ピアーズに接見します。
安政5年には、これも日本人で初めてアメリカに帰化。

翌6年には、日本領事のハリスの通訳として採用され、日本に戻ってきます。』
(前回抜粋より再掲、「新アメリカ大統領と、大統領に初めて会った日本人のこと」より)http://ryomaniax.blog15.fc2.com/blog-entry-24.html

松陰は安政6年4月に萩・野山獄を出て江戸へ向かい、10月に江戸伝馬町で斬首された。

その間にジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)こと浜田彦蔵から、米国の民主主義と大統領制度の話を聞いたのではないか。

フルベッキ人脈の中に晋作は入ったが、松陰生存時にフルベッキ人脈が萩で駆動されていたかどうか。

私は隠れキリシタンの人脈から既に村田清風の全盛期にフルベッキ人脈もしくはそれに相当する人脈が動いていたと見ている。

ジョセフ・ヒコの情報は、「松陰の米国密航の目的」を完全達成するほど貴重なものであったはずだ。

松陰は、それを知ったらすかさず行動を起こすように訓練されてきた。
玉木文之進の教育の賜物である。
山田宇右門の影響もあっただろう。

そして、それは陽明学の基本理念でもある。

ジョセフ・ヒコからの情報を受け取り、獄中で松陰は日本革命の発動、幕府のみならず朝廷さえも消し去る過激な計画を発動しようとしたのではないだろうか。

それが、急いで松陰が消された理由であると私は推理した。
東京・世田谷の松陰神社の横の墓の前で、「この萩の青年はなぜ江戸で斬首などされたのか」と自然と感じたなぞはようやく解けそうになってきた。

なぜかではなく、必然的に松陰は消されたのである。
そのことにアメリカの政策判断のミスが働いていたのだろう。

ジョセフ・ヒコの日本への送り込みは問題を解決すると読み誤っていたのである。
それどころか、囲炉裏にガソリンを撒くような事態を惹起してしまった。

井伊直弼の悪役大老ぶりだけがドラマでは目だってしまうが、実は朝廷自身が大きく変質してしまった松陰を恐れ、幕府に命じて消させたのであろう。

ジョセフ・ヒコの来日前の安政6年春のことだが、松陰は「天朝も要らぬ」(朝廷不要)と書簡で書いているから、それ以前から火はついてしまっていたかも知れない。

『恐れながら、天朝も幕府 吾が藩も入らぬ、ただ六尺の微躯が入用』(野村万作に宛てた書簡より)

天朝を恐れてはいるから、まだ国体の破壊者ではない。
革命軍構成としては草莽崛起しかないという意味合いであろう。

ジョセフ・ヒコの来日は松陰の火に油を注いだであろう。
ジョセフ・ヒコの帰国という事件によって、松陰は日本全体を震えあがらせたのかも知れない。

兵庫県人船乗り浜田彦蔵の帰国とは、相手のアメリカ側から見れば、米国人となったキリスト教徒ジョセフ・ヒコによる日本革命の火付け役投入と期待されるだろう。

ジョセフは日本に着くと、まず長崎にいる米国宣教師フルベッキに面会して日本革命予備軍(タリバン)の事情を聴取しているはずだ。

米国名ジョセフとは、旧約聖書では「ヨセフ」である。


『ヤコブは、旧約聖書の創世記に登場するヘブライ人の族長。
別名をイスラエルといい、イスラエルの民すなわちユダヤ人はみなヤコブの子孫を称する。


中略、
レア、ラケル、ビルハ、ジルパという4人の妻との間に娘と12人の息子をもうけた。
その息子たちがイスラエル十二部族の祖となったとされている。

晩年、寵愛した息子のヨセフが行方不明になって悲嘆にくれるが、数奇な人生を送ってエジプトでファラオの宰相となっていたヨセフとの再会を遂げ、やがて一族をあげてエジプトに移住した。

エジプトで生涯を終えたヤコブは遺言によって故郷カナン地方のマクペラの畑の洞穴に葬られた。』(ヤコブ (旧約聖書)(Wikipedia)より)

江戸(横浜?)滞在中のハリスのもとにジョセフ(ヨセフ)の名を持つヒコが送られてきた事実に、朝廷が一番驚いたのではないだろうか。

日ユ同祖論、つまり日本人の遠い祖先はユダヤ人であるという説を唱える人々は、日本人のルーツをイスラエル十二部族としているからである。

最近の遺伝子分析によれば、日本人である私たちの血の10%程度は中東からやってきたユダヤ人由来のものがあるらしい。

シルクロードを辿ってきた宝物は、奈良法隆寺の中に納められている。

絹の道の出発点はエルサレムである。
「宝物だけいただいて、混血していない」と言うほうがおかしいだろう。

孝明天皇が米国人との接触を毛嫌いしていた理由は、血の由来とも関係があったかも知れない。

そういう直感的な外国人嫌いの感情は、朝廷自身の手によって毒で消されたようである。

命がけで黒船密航を実行しようとした松陰である。
元日本人ジョセフ・ヒコ帰国の情報を入手して、じっとしているはずがない。

問題は松陰とジョセフ・ヒコとに接触があり得たかどうかである。

『安政6年(1859年)に駐日公使・ハリスにより神奈川領事館通訳として採用される。

6月18日(7月17日)に長崎・神奈川へ入港し9年ぶりの帰国を果たした。

(1860年)2月に領事館通訳の職を辞め、貿易商館を開く。

文久元年9月17日(1861年10月20日)当時は尊皇攘夷思想が世に蔓延しており外国人だけでなく外国人に関係した者もその過激派によって狙われる時代であったため、彦蔵は身の危険を感じてにアメリカに戻った。

文久2年3月2日(1862年3月31日)にブキャナンの次代の大統領エイブラハム・リンカーンと会見している。同年10月13日(12月4日)に再び日本に赴き、再び領事館通訳に職に就く。

文久3年9月30日(1863年11月11日)に領事館通訳の職を再び辞め、外国人居留地で商売を始めた。

元治元年6月28日(1864年7月31日)、岸田吟香の協力を受けて英字新聞を日本語訳した「海外新聞」を発刊。これが日本で最初の日本語の新聞と言われる。ただしこの新聞発行は赤字であったため、数ヵ月後に消滅した。』(浜田彦蔵(Wikipedia)より)

ヨセフの公的業務は、松陰の死後4ヵ月後に終わっている。
約4ヶ月の間、二人は同じ日本国に生きていたことになる。

松陰は、絶対といっていいが、弟子たちにジョセフの情報を入手して教えるように命じたはずである。

まるで松陰を死なせるためにジョセフが日本に送り込まれたような気がしてきた。

当時のアメリカ諜報部は、「日本列島の土人たちに対する植民地化戦略」を間違えたのではないだろうか。

米国で先進文明人となったヨセフを日本へ送り込むことで、親米派が増えると考えたのだろうが、日本におけるキリスト教徒への迫害の激しさを読み切れていなかったのだろう。

西洋人の想像を超えるキリスト教徒迫害が200年以上も続いている「神々の統べる国」なのだった。

ジョセフは、公務から離れ民間人としてビジネスに精を出そうとするも、殺されそうになり、アメリカに一時帰国している。

「日本人土人たち」は、米国人が征服を果たしたアメリカインディアンなどとは文化宗教面で大きく異なっていたのだ。

戦略を誤ったと気づいて早々に「ヨセフ戦略」は取りやめたようだが、松陰はその稚拙な諜報戦略ために犠牲となってしまったように思われる。

ナポレオンを目指した晋作~長州(128) [萩の吉田松陰]

Shinsaku.jpg写真 功山寺挙兵の銅像(高杉晋作(Wikipedia)より引用)

青山繁晴さん解説の「吉田松陰「草莽崛起論」」を読んだ。
http://blog.goo.ne.jp/ryogonsan/c/a227880520ed4f07a5fd1fee70eda345

「吉田松陰北山安世宛書簡安政六年四月七日付」の内容解説である。
あの「草莽崛起」の言葉の初出の書簡である。
わかりやすく解説されている。

ここでは原文のみ抜粋する。

この書簡の宛名人である北山安世は、明治になって、自宅幽閉されていたとき実母を殺して狂死したことは既に述べた。

松陰処刑の半年前に書かれた書簡である。

『吉田松陰北山安世宛書簡安政六年四月七日付

徳川存する内は遂に墨・魯・暗・仏に制せらるゝこと、どれ程に立行べくも計り難し、実に長大息なり。幸に上に明天子あり、深く爰に叡慮を悩されたれども、□紳衣魚も陋習は幕府より更に甚しく、ただ外夷を近ては神の汚れと申す事計にて、上古の雄図遠略等は少も思召されず、事の成らぬも固より其の所なり。

列藩の諸侯に至ては征夷の鼻息を仰ぐ迄にて何の建明もなし。
征夷外夷に降参すれば其の後に従て降参する外に手段なし。
独立不覊三千年来の大日本、一朝人の覊縛を受くること血性ある者視るに忍ぶべけんや。

那波列翁を起して、フレーヘードを唱へねば腹悶医し難し。
僕固より其の成すべからざるは知れども、昨年以来微力相応に粉骨砕身すれど一も裨益なし。

徒に岸獄に坐するを得るのみ。
此の余の所置妄言すれば則ち族矣なれども、今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。

されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。
草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし』
(青山繁晴さん解説の「吉田松陰「草莽崛起論」」より抜粋)
http://blog.goo.ne.jp/ryogonsan/c/a227880520ed4f07a5fd1fee70eda345

幕府も大名も酔っ払いと同じだと断言している。

「那波列(ナポレオン)翁を起して、フレーヘードを唱へねば腹悶医し難し。」は、ナポレオンを起こして自由を唱えねば、問題解決しないという意味で、松陰は軍事クデターの後で民主主義革命を意図していたようだ。

そう書いていて、思い当たった。

晋作はその絵姿を功山寺に残像として残していることに気づいた。

後ろ足立ちして勇む馬を馬上で手綱を操る晋作の銅像である。
写真の銅像が、今の功山寺境内にある。

はじめて現物を見学したとき、「意外と小さい人物だったのだなあ」という印象しか私は持たなかった。

奇兵隊長の馬の体格は立派なのであるが、意外に小柄な晋作のイメージが焼きついている。

しかし、小兵ながらも、晋作の気構えは大きかった。
師の考え方をなぞりつつ、ドラマチックに奇兵隊決起をした晋作だった。

なかなか恩師の言葉通りに生死を選択できなかった晋作であったが、いよいよ死を覚悟して行動を開始したときは、師の言葉通りの絵姿を残していた。

あの椎原の晋作の草庵で、よくよく松陰の書簡や遺書を読み込んだのであろう。

奇兵の「奇」と「狂」とは、ともに「民衆」を意味するらしい。

天下泰平の貴族から見れば、近衛兵が正規軍だし、幕府軍は朝廷の傭兵であって征夷大将軍である。

民衆の軍隊なんて、というあざけりの意味合いが「奇兵」や「狂」の中に含まれている。

高杉晋作は通称であって字は暢夫、号は東行、東洋一狂生と称した。

奇兵も東洋一狂生も、そんな貴族どものあざけりを受け取って今に見ておれという意気込みを含めた用語なのである。

晋作はアメリカで黒人奴隷が白人の正規軍を破ったニュースをどこかで聞いていたのではないか。

黒人奴隷部隊のマサチューセッツ第54歩兵連隊は、チャールストン湾入口のFort Wagner(ワグナー砦)を攻撃することとなった。

『1863年7月18日の戦闘で、連邦軍は1,600名の死傷者を出したが、マサチューセッツ第54歩兵連隊は勇敢に戦い、多くの人々の黒人に対する偏見を一掃した。』
(「Boston African American National Historic site)より)
http://usnp.exblog.jp/5771055/

ワグナー砦の攻撃で黒人「奇兵」部隊が勝利を挙げたのは、日本の暦で言えば文久3年(1863)7月18日となる。

その1ヵ月後、日本の京都で政治クーデターが発生している。
8月18日の政変で、それにより禁門の変が誘発されている。

晋作の挙兵は、文久4年(1864年)12月15日であるから、1年半年も前のアメリカのニュースは長崎の米国人宣教師フルベッキから晋作へ届けられていた可能性がきわめて高い。

晋作は上海視察にいくとき、長崎でフルベッキと懇談している。

晋作は「勝てる戦」と見たから決起したのである。
最後まで慎重な性格の人物だったのだろう。

写真は功山寺挙兵のときの晋作の騎馬像であるが、ナポレオン騎馬像にとてもよく似ている。

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