寺院と私の相性~奥州街道(4-139) [奥州街道日記]

TS393172.jpgTS393172能持寺(再掲)
TS393173.jpgTS393173その境内

能持寺の境内に入って日陰で涼む。
落ち着ける場所はないので、駐車場のアスファルトの上で休んだ。

私の正面には板碑と地蔵が並んでいる。


能持寺(のうじじ)について調べてみた。

『宮城県栗原市にある寺院。
秋田県能代市にある寺院。
埼玉県越谷市にある寺院。 - 能持寺 (越谷市) 』
(能持寺(Wikipedia)より)

3つしかなく、そのうちのひとつが栗原市にあるこの寺である。

越谷にある能持寺は、ここと同じ奥州街道沿いであると言えよう。

『能持寺(のうじじ)
所在地 埼玉県越谷市
山号 是経山
宗旨 日蓮正宗

能持寺(のうじじ)は、埼玉県越谷市に所在する日蓮正宗の寺院。山号は是経山(ぜきょうさん)。』
(能持寺 (越谷市)(Wikipedia)より)

越谷の同名の寺が日蓮正宗であるから、やはりここの寺も日蓮宗寺院のようである。

私の母方祖父は曹洞宗寺院の僧侶だったので、幼い頃より度々遊びにいっていた。
だから街道沿いで出会った曹洞宗寺院では、私は落ち着くことができるようだ。

今までの人生の中で一番落ち着いていられたのは、京都の臨済宗大本山 南禅寺の門前であった。
学生時代にそこを訪ね、夏の昼下がりに門の広い敷居の上で昼寝をしてしまった。

そこはいつもは多くの観光客が通る門であるが、なぜか夏休みのある日の午後だけは人通りがなかった。
盆休みだったのだろうか。

ちょっとの時間だと思うが、私は南禅寺の門の敷居の上で仮眠を取っていたのだった。

九州大分の田舎にある実家に通ってくる生臭坊主に出会うまでは、臨済宗にはとてもよい印象を持っていた。
なんでも金々と老いた母から巻き上げるさもしいその生臭坊主が臨済宗であると知ってから、そのイメージは崩れてしまった。

日蓮宗寺院の境内で感じることは、私自身が疎外されている感じである。

境内にはくつろげる空間はまず見かけない。

シンプルであり、質素であるから、ふらっと訪ねた私のような風来坊の身を置く場所がまったくない。
つまり『落ち着けない』空間にいると感じるのである。

ここ能持寺境内もアスファルト駐車場以外に何も見えない。

本堂の方へは近寄り難いものを感じてしまう。

それよりも、境内に侵入して休息している大きなリュックを背負った不審者である私が罪悪感を感じてしまうのである。
どこかから私の姿を眺めている目を体で感じているのだが、景色にそういうものがあるわけではない。

監視カメラがあったり、望遠鏡で見られているということがあるのではない。

ただ、私の動物としての肉体の五感が、「落ち着きのなさ」を自然に感じているのである。

私の単なる思い込みに過ぎないのだろうl。

汗が引いたのを潮時に、私は日陰になったアスファルトから立ち上がり、境内を去ることにした。


コレハル村にあるシュロ~奥州街道(4-138) [奥州街道日記]

TS393163.jpgTS393163築館留場の民家のシュロの木
TS393169.jpgTS393169街道の面影
TS393171.jpgTS393171人影のない街道
TS393172.jpgTS393172「好珠山 能持寺」

栗原市の築館の街道筋にはシュロの木が見える。
それはアザマロの時代からあったものか、それとも北上してきた大和族が植えたものか。

私はシュロで神を祝うのは古代ユダヤ人の信仰習慣であると思っている。

ユダヤ教の聖典である旧約聖書にはナツメヤシの枝で神を祝えとモーセの教えが書かれているそうだ。

ザビエルの依頼で薩摩のヤジロウが和訳した際に、ナツメヤシをシュロと訳したようである。

ヤジロウはザビエルを日本へ連れてくるために平戸の松浦氏が派遣した倭寇の末裔であろうと推測している。

鉄砲と火薬を扱うポルトガル商人とイエズス会宣教師をセットで日本へ送り込んだのは、松浦水軍であったと推理している。

歴史の上では種子島時堯(ときたか)であるとされているが、日本支配を試みるには島主では小さすぎる。
もっと壮大な日本国支配の構想を持って実施されたプロジェクトであったはずだ。

最近読んだ井沢元彦著「逆説の日本史9」に種子島時堯は鉄砲2丁(3丁説もある)入手後に、紀州根来(ねごろ)の杉之坊こと「津田堅物」と堺の貿易商橘屋又三郎に譲っている。
また種子島時堯は、島の中央寺院日蓮宗慈恩寺を庇護しており、慈恩寺の本山は法華宗本門流の大本山本能寺(京都)であるという。

ザビエルとともに上陸した鉄砲と火薬は、法華宗(日蓮宗)の寺と深い縁をもって全国に拡大しているのである。

本能寺の床下には火薬の原料である硝石が保管されていたというから、本能寺の燃え方は尋常ではなかったはずである。
大爆発を繰り返していた可能性さえある。

ドラマでは火の中で幸若舞を舞う信長を描いているが、現実には目覚めることすら出来なかった可能性があるだろう。

伊治(これはる)村の砦麻呂(あざまろ)は大和族と戦った蝦夷の豪族である。
その住まいであった伊治(これはる)村が今の栗原市である。

その築館宿を通過している。
古街道の面影が道には残されている。
夏の午後だから、人影の見えない街道風景である。

「好珠山 能持寺」境内で休憩することにした。

能持寺は何宗なのだろうか。

直感ではあるが、日蓮宗のような気がする。

あまつかみ~奥州街道(4-137) [奥州街道日記]

TS393164.jpgTS393164一関まで23km
TS393166.jpgTS393166曇りで栗駒山は見えない
TS393167.jpgTS393167「天神宮」の鳥居
TS393168.jpgTS393168あの森が天神宮

一関まであと23kmである。
一日25kmを目標に歩いているから、明日はつくだろう。

今朝築館インターで私を追い抜いた若いおじさんは、本日中に一関に着くと言った。
立ち止まることもなく歩きながらそう言って去っていった。

ああいう元気な人はきっと今夕までに一関宿に着いているのだろう。

私は気ままな街道旅である。
足が痛くなればそこで休み寝る。

それがどこであってもテントを張って寝れるという能力を身に着けている。
だから私は今日中に到着すべき目標を持っていない。

日が暮れたら寝るだけである。

空は曇りだから、交通標識に出てきた栗駒山は見えない。

「天神宮」と書いた赤い大きな鳥居がある。

「天満宮」ならよく見るが「天神宮」という表記は珍しい。
博多に住んでいたときには、天神という繁華街によく遊びにいった。
隣の中州が夜の歓楽街で、天神は昼のお買い物や映画館、大相撲九州場所などの楽しさがある町だった。

鳥居を通り過ぎて、左手奥に見えるあの「森」が天神宮のようである。

「天神さん」とは何か?

『天神(てんじん、あまつかみ)

天の神 [編集]
天にいる神(天空神)のこと。
これにはいくつかの種類がある。

・天津神(あまつかみ)。
日本で天皇や古代の有力豪族の祖先とされる神々。⇔地祇(国津神)。

・天神信仰の対象としての菅原道真のこと。
または、菅原道真を祀る神社(天満宮)のこと。

・天部(Skt:Deva, Devatā)の別訳。

インド由来のバラモン教や地域の民間信仰から仏教に取り込まれ護法善神となった梵天や帝釈天などの天上界の神々。
・天帝。
中国思想での天の神。
万物を主宰する最高神としての帝(みかど)。
また道教では地上の人々の行為を監視し、その善悪の裁きを下す神。

あるいは老子を神格化した老君を天神と同一視する。 』
(天神(Wikipedia)より)

博多の天神は中国思想での天の神であろう。
博多には唐人町(とうじんちょう)という地名の町がある。

中国からの帰化人「唐人」が住むチャイナタウンが昔からあったのである。

奥州薬師瑠璃光如来のそばにあるこの天神宮は、古代の奥州有力豪族の祖先神かも知れない。

天神は語源は「天の神、天津神」であったが、一般には「菅原道真の神号」と考えられている。

もし、天神が古代の豪族祖先神であったとすれば、出雲大国主命が暗殺され(表向きは国を譲ったとされる)、アマテラス族の国家支配が確立した時点で、各地に天神があったはずである。

不遇の末怨念を抱いて死んだ菅原道真を天満宮として祭ったのは怨霊鎮護のためだと言われる。(井沢元彦著『逆説の日本史」の主張を参考)

そのときに、全国の祖先神を菅原道真神に統一していったのかも知れない。

各地に古代日本人の祖先が祭られているということはアマテラス族から見れば面白くない「事実」であったはずだ。

事実をどう消していくかということも国家支配の重要な政(まつりごと)であっただろう。

祖先がたったの一人で、それは天から降りてきたという「天孫降臨」神話は、日本だけでなく東南アジア、中国、朝鮮半島など東アジアに共通する古代信仰の姿である。

そう言うことで、東アジアの古代の人々は素直に指導者に従ったということである。

漁猟・伐採を禁じた留場~奥州街道(4-136) [奥州街道日記]

TS393158.jpgTS393158築館キリスト教会の十字架
TS393161.jpgTS393161築館町「留場」信号
TS393162.jpgTS393162河川敷の畑

駐車場の日陰で休息した。

座ったまま見上げると、「彰光堂印舗」という看板の上に十字架がある。
印鑑と十字架の組み合わせは変である。

よく見ると印鑑屋の家屋の向こう側に教会の建物があって、十字架だけが印鑑屋の上に見えているのだった。

電柱に「築館キリスト教会」と書いてある。

「留場」に川が流れている。
宮城県栗原市築館の「留場」である。

河川輸送で船を留めた場所だろうか。

「とめば(kotobank デジタル大辞泉 )」によれば、
http://kotobank.jp/word/%E7%95%99%E5%A0%B4

『1 江戸時代、一般人の漁猟・伐採を禁じた所。→御留場(おとめば)
2 江戸時代の歌舞伎劇場で、花道の揚げ幕の奥、西の木戸口の脇にあった場内取り締まりの若者の詰め所。また、その若者。

御留場とは
「 一般の狩猟を禁止する場所。江戸時代、将軍の狩猟場をいう。」』

江戸時代の将軍の狩猟場だったようだ。

河川敷は完全に有効利用されており、すべて畑になっている。

テントを張る隙間もない。

隣は薬師神社~奥州街道(4-135) [奥州街道日記]

TS393151.jpgTS393151薬師神社
TS393152.jpgTS393152「奥州杉薬師如来」の看板
TS393157.jpgTS393157築館宿の古い家屋

薬師霊場(双林寺)をでてすぐ近くに薬師神社がある。
その看板に「奥州杉薬師如来」と書いている。

昔はこの一体が薬師瑠璃光如来の山だったのだろう。
寺と神社を分割したのは明治維新革命のときからである。

聖徳太子が「篤く仏法を敬え」と言ってから、この国では神と仏は同じものという和合精神があった。

この国に古代からある「和をもって尊しとなす」考え方だろう。

明治維新は、この国にある意味で「一神教」の精神を導入したこととも言えよう。

日本の風俗は、確かに明治以降大きく変貌を遂げている。
独立した島国文化が、欧米の文化圏にしっかりと組み込まれた感がある。

名高い「奥州杉」を見たいところだが、観光めぐりばかりしているわけにはいかない。

いつもの通り街道筋で歩きながらの片手参拝とし先へ進む。

築館宿に古い民家があった。

何とか頑張って自分の力だけで「残っている」という印象である。
自治体がこういう古くてよいものを保存する活動を広めてほしいものだ。

東京や大阪などの大都市では消滅した建築物なのである。
江戸以前には東京や大阪にもあったはずの建物である。

屋根の鬼瓦と家紋らしい文様が壁にしっかりと残っている。


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