松陰の日記文(今別宿南の鋳釜崎にて)~奥州街道第6幕の一部を先行掲載 [奥州街道日記]
SH3B0535松陰が南下した奥州街道
SH3B0545鋳釜崎
SH3B0532日記碑文
これ以前の記事は下記を参照してください。
http://blogs.yahoo.co.jp/realhear2000
「鋳釜崎(いかまがさき)の黒耀石に刻まれた松陰の日記の一ページには、深い意味が込められていたのかも知れない。」と述べたことがあった。
そのことを詳しく説明する。
鋳釜崎とは、今別町の南はずれ、海岸沿いにある断崖絶壁上の公園一帯のことである。
『鋳釜崎キャンプ場
袰月(ほろづき)海岸に面した緑の芝生が美しいキャンプ場。
海水浴や、磯遊び、釣りの絶好のスポットとして知られています。
鋳釜崎キャンプ場は、「鬼の形のトイレ」が目印です。
所在地 〒030-1512 今別町大字大泊字鋳釜』
(「鋳釜崎キャンプ場|今別町」より抜粋)
http://www.imabetsu.net.pref.aomori.jp/sightseeing/tourist/igamasaki.html
「陸奥湾・鋳釜崎で黒鯛釣り!」というサイトもあるから、魚つりには堪らない魚場のようである。
また、こういう記事もあった。
『黒い岩肌の絶壁鋳釜崎や嘉永4年(1851)に吉田松陰が通った. ことからその名がついたといわれる岩のトンネル「松蔭くぐり」など変化に富んだ光景を見ることができ、「海峡あすなろ公園」や「海峡はまなす公園」が整備されています。以下略』
(http://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kenmin/hi-renkei/files/tsugaru.pdfより)
その公園にあった黒曜石の石碑の文を以下に抜粋する。
『吉田松蔭の東北遊日記
吉田松陰
小泊・三厩の間、海面に斗出するものを竜飛崎(たっぴさき)と為す、松前の白神鼻(しらかみのはな)と相距(あいへだた)ること三里のみ。
而(しかれ)ども夷舶憧々(どうどう)として其の間を往来す。
これを榻側(とうそく)に他人の酣睡(かんすい)を容(ゆる)すものに比(くら)ぶれば更に甚だしと為す。
苟(いやしく)も士気ある者は誰れか之れが為めに切歯せざらんや。
独(ひと)り怪しむ、当路者漠然として省みざるを。
嘉永五年(1852)三月五日、小泊から算用師峠を越え、三厩から南下した松陰は、津軽海峡の異変を、藩を越え日本的視野で捉えている。
二十三歳であった。』(石碑文より抜粋、但し振り仮名はブログ管理者追記による)
松前の白神鼻(しらかみのはな)とは、北海道最南端の白神岬(北海道)のことで、津軽半島の北端にある竜飛崎との距離は三里しかないと書いている。
一里が4kmであるならば、12kmしか離れていないということになる。
その狭い岬の間を夷船(=外国船)が堂々と通過していく様子を松陰は見聞したのである。
酣睡(かんすい)を「うまい」とも読むので、昼寝のようなものだろうか。
「榻(とう)」は腰掛けのことで、寝台や寝床を指す。
自分の寝床に他人の昼寝を許すこと以上に、夷船の海峡自由往来はずっとひどいことである。
そう松陰は嘆いている。
当路者とは、「この道の者」ということだから、津軽の奥州街道沿いの海峡防備の責任を負う藩の役人たちを指すのであろう。
これが長州藩萩城下で玉木文之進が想像を絶する厳しさで育てた吉田松陰、23歳の旅の感想であった。
長州藩などの当時の領国区分を越えて、日本国の安全保障を真剣に考えている青年兵学者の姿がここに見て取れる。
SH3B0545鋳釜崎
SH3B0532日記碑文
これ以前の記事は下記を参照してください。
http://blogs.yahoo.co.jp/realhear2000
「鋳釜崎(いかまがさき)の黒耀石に刻まれた松陰の日記の一ページには、深い意味が込められていたのかも知れない。」と述べたことがあった。
そのことを詳しく説明する。
鋳釜崎とは、今別町の南はずれ、海岸沿いにある断崖絶壁上の公園一帯のことである。
『鋳釜崎キャンプ場
袰月(ほろづき)海岸に面した緑の芝生が美しいキャンプ場。
海水浴や、磯遊び、釣りの絶好のスポットとして知られています。
鋳釜崎キャンプ場は、「鬼の形のトイレ」が目印です。
所在地 〒030-1512 今別町大字大泊字鋳釜』
(「鋳釜崎キャンプ場|今別町」より抜粋)
http://www.imabetsu.net.pref.aomori.jp/sightseeing/tourist/igamasaki.html
「陸奥湾・鋳釜崎で黒鯛釣り!」というサイトもあるから、魚つりには堪らない魚場のようである。
また、こういう記事もあった。
『黒い岩肌の絶壁鋳釜崎や嘉永4年(1851)に吉田松陰が通った. ことからその名がついたといわれる岩のトンネル「松蔭くぐり」など変化に富んだ光景を見ることができ、「海峡あすなろ公園」や「海峡はまなす公園」が整備されています。以下略』
(http://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kenmin/hi-renkei/files/tsugaru.pdfより)
その公園にあった黒曜石の石碑の文を以下に抜粋する。
『吉田松蔭の東北遊日記
吉田松陰
小泊・三厩の間、海面に斗出するものを竜飛崎(たっぴさき)と為す、松前の白神鼻(しらかみのはな)と相距(あいへだた)ること三里のみ。
而(しかれ)ども夷舶憧々(どうどう)として其の間を往来す。
これを榻側(とうそく)に他人の酣睡(かんすい)を容(ゆる)すものに比(くら)ぶれば更に甚だしと為す。
苟(いやしく)も士気ある者は誰れか之れが為めに切歯せざらんや。
独(ひと)り怪しむ、当路者漠然として省みざるを。
嘉永五年(1852)三月五日、小泊から算用師峠を越え、三厩から南下した松陰は、津軽海峡の異変を、藩を越え日本的視野で捉えている。
二十三歳であった。』(石碑文より抜粋、但し振り仮名はブログ管理者追記による)
松前の白神鼻(しらかみのはな)とは、北海道最南端の白神岬(北海道)のことで、津軽半島の北端にある竜飛崎との距離は三里しかないと書いている。
一里が4kmであるならば、12kmしか離れていないということになる。
その狭い岬の間を夷船(=外国船)が堂々と通過していく様子を松陰は見聞したのである。
酣睡(かんすい)を「うまい」とも読むので、昼寝のようなものだろうか。
「榻(とう)」は腰掛けのことで、寝台や寝床を指す。
自分の寝床に他人の昼寝を許すこと以上に、夷船の海峡自由往来はずっとひどいことである。
そう松陰は嘆いている。
当路者とは、「この道の者」ということだから、津軽の奥州街道沿いの海峡防備の責任を負う藩の役人たちを指すのであろう。
これが長州藩萩城下で玉木文之進が想像を絶する厳しさで育てた吉田松陰、23歳の旅の感想であった。
長州藩などの当時の領国区分を越えて、日本国の安全保障を真剣に考えている青年兵学者の姿がここに見て取れる。