浦上崩れ~長州(96) [萩の吉田松陰]
SH3B0385「案内板」
SH3B0386殉教碑
SH3B0387殉教碑(拡大)
萩キリシタン殉教者記念公園の入口にある案内板より抜粋する。
『キリシタン殉教者と記念碑
明治元年(1868)に続いて明治三年、政府はキリスト教弾圧政策をとり、長崎の浦上村全信徒三千八百人を全国各地に流刑した。
これがいわゆる「浦上崩れ」である。
このうち約300人が萩の地に流された。
信仰篤い彼らを改宗させるために三年間続けられた過酷な拷問と飢えのため、四十余名が英雄的な殉教を遂げた。
そのうち二十名がここに埋葬されていた。
在りし日の迫害、忍苦の跡を偲んで萩カトリック教会初代司祭ビリヨン神父は、明治24年(1891)に、信徒が幽閉されていたこの岩国屋敷跡に、寒天に裸体にされて責められたという庭石を集め、それを基礎として記念碑を造り、「奉教到死之信士於天主之尊前」の碑文を刻んだ。
またここには、慶長十年(1605)に棄教を拒んで殉教した毛利藩重臣熊谷豊前守元直の碑等がある。 萩カトリック教会』
やはり毛利氏家臣にもキリシタンがいた。
毛利氏も火薬と鉄砲は必須だったからだ。
熊谷元直は、安芸熊谷氏の当主で洗礼名をメルキオルと言う。
明治維新革命が成功した明治元年~三年に、なぜこのようなむごいことが萩ほか全国各地で行われたのか。
浦上信者を潰すだけなら長崎でやればいい。
わざわざ信者を全国に分割して、各地で見せしめの拷問をやる動機は何か。
善悪は別として、この国でキリスト教が普及しては困る団体の仕業であろう。
敢えてキリシタンが多く住んでいる藩に送り込み、見せしめにより棄教を促す政策のように見える。
送り込まれた藩には、それぞれキリシタン居住の情報が中央政府(当初は京都)にあったのであろう。
明治元年から3年間もの長い間の過酷な拷問は、政治の世界に影響を及ぼしていたはずだ。
吉田松陰も高杉晋作も久坂玄瑞も、坂本龍馬も、彼らは皆、立派な身分の上士の出ではない。
下士や郷士の出身者たちがやった革命である。
彼らが明治新政府の要人であれば、長い間貧しく虐げられてきたはずのキリシタンに死を与えるほどの拷問を課すはずはない。
しかし、彼らはすべて革命成就前に死亡している。
革命のエンジンにはなったのだが、革命の成果を手にしてはいない。
しかし、生きて革命の成果を一旦手にした同じ種類の日本人がいた。
西郷隆盛である。
明治3年前後の西郷の動きを見れば、当時の政府の素顔が見えるかも知れない。
それはあとで調べることにしよう。
今回萩を訪れようと思ったのは、2009年6月に萩市内にキリシタン殉教地があり、それが村田清風の居宅と近いところだということを知ったからだった。
両者のどこかに接点があるのではないかと思ったのである。
「萩キリシタン殉教記念公園」で検索してみると、その頃書いた拙著ブログ記事が出てきた。
それを抜粋する。
『2009-06-04
清風邸跡と萩キリシタン殉教記念公園の間の距離
地図 清風~萩キリシタン殉教記念公園間(googleマップより)
私が気になっていることは松陰の精神的支柱であった村田清風の居宅跡と、萩のキリシタン殉教者公園が約600メートルしか離れていないことである。
そこで会津を訪ねたときのことを思い出している。
会津の市観光協会発行の市内地図に、キリシタン「殉難の碑」が書かれてあった。
市の西北寄りの郊外にある。
初めて見に行く人はおそらく2~3回は道で迷うだろう。
なぜならば、案内が正確に出ていないからである。
そしてそれは個人住宅の庭先にあって、普段は入りにくい雰囲気がある。
なぜ、会津の観光雑誌などに正確な位置を載せないのだろうかと不思議に思う。
私にとって会津はキリシタンの濃い藩なのである。
理由は、豊臣政権時代に軍事力の勝るキリシタン大名、蒲生氏郷が藩主をしていたからである。
大友宗麟の臼杵といい、藩主大名がキリシタンの場合の城下の布教の盛んなことは当たり前のことである。
会津に数え切れないほどの隠れキリシタンの末裔が江戸時代と言えども住んでいたことは容易に想像できる。
彼らが斬首されたり、磔(はりつけ)の刑に遭った場所が「殉難の地」である。
会津のそれは川幅10mもない小さな小川の岸辺であった。
川辺に連れてこられて斬首されたり火あぶりされたりしたのである。
だからそこに殉難の碑を建立するのである。
つまり、キリシタン信者が日頃暮らしていた場所は殉難の地よりももっと市街に近かったはずである。
郊外に連れてこられて、そこで殺されたのである。
それは人々が人間の死を忌み嫌うからである。
そう考えると、村田清風の邸宅跡とキリシタン信者たちの住む家々はもっと近かったのではないかと思えるのだ。
『「萩キリシタン殉教者記念公園」付近(0.4km四方)の人気の旅行・観光・おでかけスポット』http://odekake.jalan.net/spt_35204af2170019915.html
というおあつらえ向きのサイトがあった。
そこには奇岩,砂浜等の景勝地、「北長門海岸」があった。
つまりポルトガル船やスペイン船が直接海から接近できる位置である。
また藩家老であった周布政之介の旧周布家長屋門もある。
周布も村田清風に近い政治心情であったと記憶している。
村田と反目したのは家老の椋梨藤太であった。
それに、旧厚狭毛利家萩屋敷長屋がある。
一方、『村田清風別宅跡の旅行・観光:おでかけガイド』を見てみよう。
http://odekake.jalan.net/spt_35204af2170018513.html
今度は『「村田清風別宅跡」付近(0.5km四方)の人気の旅行・観光・おでかけスポット』と紹介されている。
前の紹介が0.4km以内で、今度は0.5km以内の紹介である。
もし0.6km以内の紹介にしてくれれば、両方の紹介にお互いが掲載されるはずである。
「微妙な間合い」をとった観光案内である。
「村田清風別宅跡」付近(0.5km四方)にあるものは、
「久坂玄端誕生地」があり、これには丁寧に「村田清風別宅跡から約0.3km」と解説が付いている。
隣近所にいた青年は、蛤御門の変で御所に向かって大砲や鉄砲をぶっ放したのである。
久坂玄端は、戦況悪化の中で負傷した上に自害して果てている。
また、「高杉晋作誕生地」があって、「村田清風別宅跡から約0.5km」となっている。
ここは旧宅として保存されている。
松下村塾はここからは遠く外れた郊外にあるが、松陰の直弟子で比較的身分の高い藩士たちは村田清風とキリシタン殉難の地に極めて近いところで生活していたことになろう。』(抜粋終わり)
この頃、私は時代の前後について考慮していなかった。
ここにある案内板を見ると、キリシタン殉難は明治になってからの3年間であり、村田清風は江戸時代の天保の改革を行った藩士である。
もし、萩市内に住んでいたキリシタンが明治になって拷問を受けたのであれば、村田清風との因縁を追いかけることも意味があるが、浦上崩れによって300名が萩藩に預けられたのだとすれば、それは長崎から移送されてきたキリシタンだということになる。
萩にいたキリシタンが、浦上天主堂の信者たちと連絡を取っていて、その人物が300人の中に含まれていたのかどうか、そこまではまだわかっていない。
案内図にある距離のことにこだわって書いていたが、実際に歩いてみるとあまり問題になる距離ではない。
近いといえば近いし、結構遠いともいえる。
それよりも、堀内という高貴な身分の人々が暮らす町内で敢えて拷問を続けさせた意図の方が興味深い。
萩では、堀内に住む大名クラスの重臣こそキリシタン信仰は盛んだったのではないだろうか。
SH3B0386殉教碑
SH3B0387殉教碑(拡大)
萩キリシタン殉教者記念公園の入口にある案内板より抜粋する。
『キリシタン殉教者と記念碑
明治元年(1868)に続いて明治三年、政府はキリスト教弾圧政策をとり、長崎の浦上村全信徒三千八百人を全国各地に流刑した。
これがいわゆる「浦上崩れ」である。
このうち約300人が萩の地に流された。
信仰篤い彼らを改宗させるために三年間続けられた過酷な拷問と飢えのため、四十余名が英雄的な殉教を遂げた。
そのうち二十名がここに埋葬されていた。
在りし日の迫害、忍苦の跡を偲んで萩カトリック教会初代司祭ビリヨン神父は、明治24年(1891)に、信徒が幽閉されていたこの岩国屋敷跡に、寒天に裸体にされて責められたという庭石を集め、それを基礎として記念碑を造り、「奉教到死之信士於天主之尊前」の碑文を刻んだ。
またここには、慶長十年(1605)に棄教を拒んで殉教した毛利藩重臣熊谷豊前守元直の碑等がある。 萩カトリック教会』
やはり毛利氏家臣にもキリシタンがいた。
毛利氏も火薬と鉄砲は必須だったからだ。
熊谷元直は、安芸熊谷氏の当主で洗礼名をメルキオルと言う。
明治維新革命が成功した明治元年~三年に、なぜこのようなむごいことが萩ほか全国各地で行われたのか。
浦上信者を潰すだけなら長崎でやればいい。
わざわざ信者を全国に分割して、各地で見せしめの拷問をやる動機は何か。
善悪は別として、この国でキリスト教が普及しては困る団体の仕業であろう。
敢えてキリシタンが多く住んでいる藩に送り込み、見せしめにより棄教を促す政策のように見える。
送り込まれた藩には、それぞれキリシタン居住の情報が中央政府(当初は京都)にあったのであろう。
明治元年から3年間もの長い間の過酷な拷問は、政治の世界に影響を及ぼしていたはずだ。
吉田松陰も高杉晋作も久坂玄瑞も、坂本龍馬も、彼らは皆、立派な身分の上士の出ではない。
下士や郷士の出身者たちがやった革命である。
彼らが明治新政府の要人であれば、長い間貧しく虐げられてきたはずのキリシタンに死を与えるほどの拷問を課すはずはない。
しかし、彼らはすべて革命成就前に死亡している。
革命のエンジンにはなったのだが、革命の成果を手にしてはいない。
しかし、生きて革命の成果を一旦手にした同じ種類の日本人がいた。
西郷隆盛である。
明治3年前後の西郷の動きを見れば、当時の政府の素顔が見えるかも知れない。
それはあとで調べることにしよう。
今回萩を訪れようと思ったのは、2009年6月に萩市内にキリシタン殉教地があり、それが村田清風の居宅と近いところだということを知ったからだった。
両者のどこかに接点があるのではないかと思ったのである。
「萩キリシタン殉教記念公園」で検索してみると、その頃書いた拙著ブログ記事が出てきた。
それを抜粋する。
『2009-06-04
清風邸跡と萩キリシタン殉教記念公園の間の距離
地図 清風~萩キリシタン殉教記念公園間(googleマップより)
私が気になっていることは松陰の精神的支柱であった村田清風の居宅跡と、萩のキリシタン殉教者公園が約600メートルしか離れていないことである。
そこで会津を訪ねたときのことを思い出している。
会津の市観光協会発行の市内地図に、キリシタン「殉難の碑」が書かれてあった。
市の西北寄りの郊外にある。
初めて見に行く人はおそらく2~3回は道で迷うだろう。
なぜならば、案内が正確に出ていないからである。
そしてそれは個人住宅の庭先にあって、普段は入りにくい雰囲気がある。
なぜ、会津の観光雑誌などに正確な位置を載せないのだろうかと不思議に思う。
私にとって会津はキリシタンの濃い藩なのである。
理由は、豊臣政権時代に軍事力の勝るキリシタン大名、蒲生氏郷が藩主をしていたからである。
大友宗麟の臼杵といい、藩主大名がキリシタンの場合の城下の布教の盛んなことは当たり前のことである。
会津に数え切れないほどの隠れキリシタンの末裔が江戸時代と言えども住んでいたことは容易に想像できる。
彼らが斬首されたり、磔(はりつけ)の刑に遭った場所が「殉難の地」である。
会津のそれは川幅10mもない小さな小川の岸辺であった。
川辺に連れてこられて斬首されたり火あぶりされたりしたのである。
だからそこに殉難の碑を建立するのである。
つまり、キリシタン信者が日頃暮らしていた場所は殉難の地よりももっと市街に近かったはずである。
郊外に連れてこられて、そこで殺されたのである。
それは人々が人間の死を忌み嫌うからである。
そう考えると、村田清風の邸宅跡とキリシタン信者たちの住む家々はもっと近かったのではないかと思えるのだ。
『「萩キリシタン殉教者記念公園」付近(0.4km四方)の人気の旅行・観光・おでかけスポット』http://odekake.jalan.net/spt_35204af2170019915.html
というおあつらえ向きのサイトがあった。
そこには奇岩,砂浜等の景勝地、「北長門海岸」があった。
つまりポルトガル船やスペイン船が直接海から接近できる位置である。
また藩家老であった周布政之介の旧周布家長屋門もある。
周布も村田清風に近い政治心情であったと記憶している。
村田と反目したのは家老の椋梨藤太であった。
それに、旧厚狭毛利家萩屋敷長屋がある。
一方、『村田清風別宅跡の旅行・観光:おでかけガイド』を見てみよう。
http://odekake.jalan.net/spt_35204af2170018513.html
今度は『「村田清風別宅跡」付近(0.5km四方)の人気の旅行・観光・おでかけスポット』と紹介されている。
前の紹介が0.4km以内で、今度は0.5km以内の紹介である。
もし0.6km以内の紹介にしてくれれば、両方の紹介にお互いが掲載されるはずである。
「微妙な間合い」をとった観光案内である。
「村田清風別宅跡」付近(0.5km四方)にあるものは、
「久坂玄端誕生地」があり、これには丁寧に「村田清風別宅跡から約0.3km」と解説が付いている。
隣近所にいた青年は、蛤御門の変で御所に向かって大砲や鉄砲をぶっ放したのである。
久坂玄端は、戦況悪化の中で負傷した上に自害して果てている。
また、「高杉晋作誕生地」があって、「村田清風別宅跡から約0.5km」となっている。
ここは旧宅として保存されている。
松下村塾はここからは遠く外れた郊外にあるが、松陰の直弟子で比較的身分の高い藩士たちは村田清風とキリシタン殉難の地に極めて近いところで生活していたことになろう。』(抜粋終わり)
この頃、私は時代の前後について考慮していなかった。
ここにある案内板を見ると、キリシタン殉難は明治になってからの3年間であり、村田清風は江戸時代の天保の改革を行った藩士である。
もし、萩市内に住んでいたキリシタンが明治になって拷問を受けたのであれば、村田清風との因縁を追いかけることも意味があるが、浦上崩れによって300名が萩藩に預けられたのだとすれば、それは長崎から移送されてきたキリシタンだということになる。
萩にいたキリシタンが、浦上天主堂の信者たちと連絡を取っていて、その人物が300人の中に含まれていたのかどうか、そこまではまだわかっていない。
案内図にある距離のことにこだわって書いていたが、実際に歩いてみるとあまり問題になる距離ではない。
近いといえば近いし、結構遠いともいえる。
それよりも、堀内という高貴な身分の人々が暮らす町内で敢えて拷問を続けさせた意図の方が興味深い。
萩では、堀内に住む大名クラスの重臣こそキリシタン信仰は盛んだったのではないだろうか。
2011-02-06 00:36
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