善からぬことは自分を愛するところから始まる(西郷隆盛)~長州(97) [萩の吉田松陰]

SH3B0392.jpgSH3B0392殉教碑を背後から
SH3B0394.jpgSH3B0394木の根から可憐な花が
SH3B0396.jpgSH3B0396キリシタンの墓標(腕の三角印がある)

ここに20名もの殉教者が葬られているのだ。
殉教碑のひときわ大きな石は、岩国屋敷の庭石であり、拷問の際にキリシタンの膝や胴の上に置いたもののようだ。

こんなものを置かれたら、相撲取りでも内臓破裂する。
真夏の正午過ぎである。

木陰に座って冷えた缶ジュースを飲みながら、迫害されたキリシタンたちの冥福を祈った。
歩き疲れて汗びっしょりになり、上着とシャツを脱いで水道水で洗った。
木陰でそれを干す間、せみの声の中で殉教碑を見上げている。

西郷隆盛は浦上崩れに対して何も行動しなかったのだろうか。

おかしなことに西郷の英雄的な歴史は、江戸無血開城でほぼ消えている。
東北でも同じように会津若松城の無血開城に出かけるはずだった。

松陰の思想によれば、内輪もめしている場合ではなかったはずだ。

急いで全国各地の海防戦備を強化するために、まずは産業振興により富国すべきであることは高杉晋作も悟っていた。

少なくとも将軍慶喜が降参した以上は、日本人同士で殺しあっている暇はなかったはずだ。

西郷の明治元年前後の不可解な行動を見てみよう。

『江戸幕府を滅亡させた西郷は、仙台藩(伊達氏)を盟主として樹立された奥羽越列藩同盟との「東北戦争」に臨んだ。

(慶応4年(1868年))5月上旬、上野の彰義隊の打破と東山軍の白河城攻防戦の救援のどちらを優先するかに悩み、江戸守備を他藩にまかせて、配下の薩摩兵を率いて白河応援に赴こうとしたが、大村益次郎の反対にあい、上野攻撃を優先することにした。

5月15日、上野戦争が始まり、正面の黒門口攻撃を指揮し、これを破った。
5月末、江戸を出帆。
京都で戦況を報告し、6月9日に藩主・島津忠義に随って京都を発し、14日に鹿児島に帰着した。
この頃から健康を害し、日当山温泉で湯治した。

北陸道軍の戦況が思わしくないため、西郷の出馬が要請され、7月23日、薩摩藩北陸出征軍の総差引(司令官)を命ぜられ、8月2日に鹿児島を出帆し、10日に越後柏崎に到着した。

来て間もない14日、新潟五十嵐戦で負傷した二弟の吉二郎の死亡を聞いた。

藩の差引の立場から北陸道本営(新発田)には赴かなかったが、総督府下参謀の黒田清隆・山縣有朋らは西郷のもとをしばしば訪れた。

新政府軍に対して連戦連勝を誇った庄内藩も、仙台藩、会津藩が降伏すると9月27日に降伏し、ここに「東北戦争」は新政府の勝利で幕を閉じた。

このとき、西郷は黒田に指示して、庄内藩に寛大な処分をさせた。
この後、庄内を発し、江戸・京都・大坂を経由して、11月初めに鹿児島に帰り、日当山温泉で湯治した。

薩摩藩参政時代
明治2年(1869年)2月25日、藩主・島津忠義が自ら日当山温泉まで来て要請したので、26日、鹿児島へ帰り、参政・一代寄合となった。

以来、藩政の改革(藩政と家政を分け、藩庁を知政所、家政所を内務局とし、一門・重臣の特権を止め、藩が任命した地頭(役人)が行政を行うことにした)や兵制の整備(常備隊の設置)を精力的に行い、戊辰参戦の功があった下級武士の不満解消につとめた。

文久2年(1862年)に沖永良部島遠島・知行没収になって以来、無高であった(役米料だけが与えられていた)が、3月、許されて再び高持ちになった。

5月1日、箱館戦争の応援に総差引として藩兵を率いて鹿児島を出帆した。
途中、東京で出張許可を受け、5月25日、箱館に着いたが、18日に箱館・五稜郭が開城し、戦争はすでに終わっていた(戊辰戦争の終了)。

帰路、東京に寄った際、6月2日の王政復古の功により、賞典禄永世2,000石を下賜された。

このときに残留の命を受けたが、断って、鹿児島へ帰った。
7月、鹿児島郡武村に屋敷地を購入した。
9月26日、正三位に叙せられた。
12月に藩主名で位階返上の案文を書き、このときに隆盛という名を初めて用いた。

明治3年(1870年)1月18日に参政を辞め、相談役になり、7月3日に相談役を辞め、執務役となっていたが、太政官から鹿児島藩大参事に任命された(辞令交付は8月)。

大政改革と廃藩置県
明治3年(1870年)2月13日、西郷は村田新八・大山巌・池上四郎らを伴って長州藩に赴き、奇兵隊脱隊騒擾の状を視察し、奇兵隊からの助援の請を断わり、藩知事・毛利広封に謁見したのちに鹿児島へ帰った。

同年7月27日、鹿児島藩士で集議院徴士の横山安武(森有礼の実兄)が時勢を非難する諫言書を太政官正院の門に投じて自刃した。

これに衝撃を受けた西郷は、役人の驕奢により新政府から人心が離れつつあり、薩摩人がその悪弊に染まることを憂慮して、薩摩出身の心ある軍人・役人だけでも鹿児島に帰らせるために、9月、池上を東京へ派遣した。

12月、危機感を抱いた政府から勅使・岩倉具視、副使・大久保利通が西郷の出仕を促すために鹿児島へ派遣され、西郷と交渉したが難航し、欧州視察から帰国した西郷従道の説得でようやく政治改革のために上京することを承諾した。

明治4年(1871年)1月3日、西郷と大久保は池上を伴い「政府改革案」を持って上京するため鹿児島を出帆した。
8日、西郷・大久保らは木戸を訪問して会談した。

16日、西郷・大久保・木戸・池上らは三田尻を出航して土佐に向かった。
17日、西郷一行は土佐に到着し、藩知事・山内豊範、大参事・板垣退助と会談した。

22日、西郷・大久保・木戸・板垣・池上らは神戸に着き、大坂で山縣有朋と会談し、一同そろって大坂を出航し東京へ向かった。

東京に着いた一行は2月8日に会談し、御親兵の創設を決めた。
この後、池上を伴って鹿児島へ帰る途中、横浜で東郷平八郎に会い、勉強するように励ました。

2月13日に鹿児島藩・山口藩・高知藩の兵を徴し、御親兵に編成する旨の命令が出されたので、西郷は忠義を奉じ、常備隊4大隊約5,000名を率いて上京し、4月21日に東京市ヶ谷旧尾張藩邸に駐屯した。

この御親兵以外にも東山道鎮台(石巻)と西海道鎮台(小倉)を設置し、これらの武力を背景に、6月25日から内閣人員の入れ替えを始めた。

このときに西郷は再び正三位に叙せられた。

7月5日、制度取調会の議長となり、6日に委員の決定権委任の勅許を得た。
これより新官制・内閣人事・廃藩置県等を審議し、大久保・木戸らと公私にわたって議論し、朝議を経て、14日、明治天皇が在京の藩知事(旧藩主)を集め、廃藩置県の詔書を出した。

また、この間に新官制の決定や内閣人事も順次行い、7月29日頃には以下のような顔ぶれになった(ただし、外務卿岩倉の右大臣兼任だけは10月中旬にずれ込んだ)。

太政大臣(三条実美)
右大臣兼外務卿(岩倉具視)
参議(西郷隆盛、木戸孝允、板垣退助、大隈重信)
大蔵卿(大久保利通)

以下略。

この経緯については、各藩主に御親兵として兵力を供出させ、手足をもいだ状態で、廃藩置県をいきなり断行するなど言わば騙し討ちに近い形であった。

留守政府

明治4年(1871年)11月12日、三条・西郷らに留守内閣(留守政府)をまかせ、特命全権大使・岩倉具視、副使・木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳ら外交使節団が条約改正のために横浜から欧米各国へ出発した(随員中に宮内大丞・村田新八もいた)。

西郷らは明治4年(1871年)からの官制・軍制の改革および警察制度の整備を続け、同5年(1872年)2月には兵部省を廃止して陸軍省・海軍省を置き、3月には御親兵を廃止して近衛兵を置いた。

5月から7月にかけては天皇の関西・中国・西国巡幸に随行した。
鹿児島行幸から帰る途中、近衛兵の紛議を知り、急ぎ帰京して解決をはかり、7月29日、陸軍元帥兼参議に任命された。

このときに山城屋事件で多額の軍事費を使い込んだ近衛都督山縣有朋が辞任したため、薩長の均衡をとるために三弟西郷従道を近衛副都督から解任した。

明治6年5月に徴兵令が実施されたのに伴い、元帥が廃止されたので、西郷は陸軍大将兼参議となった。

なお、明治4年(1871年)11月の岩倉使節出発から明治6年(1873年)9月の岩倉帰国までの間に西郷主導留守内閣が施行した主な政策は以下の通りである。

府県の統廃合(3府72県)
陸軍省・海軍省の設置
学制の制定
国立銀行条例公布
太陽暦の採用
徴兵令の布告
キリスト教禁制の高札の撤廃
地租改正条例の布告

明治六年政変
対朝鮮(当時は李氏朝鮮)問題は、明治元年(1868年)に李朝が維新政府の国書の受け取りを拒絶したことに端を発しているが、この国書受け取りと朝鮮との修好条約締結問題は留守内閣時にも一向に進展していなかった。

そこで、進展しない原因とその対策を知る必要があって、西郷・板垣退助・副島種臣らは、調査のために、明治5年(1872年)8月15日に池上四郎・武市正幹・彭城中平を清国・ロシア・朝鮮探偵として満洲に派遣し、27日に北村重頼・河村洋与・別府晋介(景長)を花房外務大丞随員(実際は変装しての探偵)として釜山に派遣した。

明治6年(1873年)の対朝鮮問題をめぐる政府首脳の軋轢は、6月に外務少記・森山茂が釜山から帰って、李朝政府が日本の国書を拒絶したうえ、使節を侮辱し、居留民の安全が脅かされているので、朝鮮から撤退するか、武力で修好条約を締結させるかの裁決が必要であると報告し、それを外務少輔・上野景範が内閣に議案として提出したことに始まる。この議案は6月12日から7参議により審議された。

議案は当初、板垣が武力による修好条約締結(征韓論)を主張したのに対し、西郷は武力を不可として、自分が旧例の服装で全権大使になる(遣韓大使論)と主張して対立した。

しかし、数度に及ぶ説得で、方法・人選で反対していた板垣と外務卿の副島が8月初めに西郷案に同意した。

西郷派遣については、16日に三条実美の同意を得て、17日の閣議で決定された。
しかし、三条が天皇に報告したとき、「岩倉具視の帰朝を待って、岩倉と熟議して奏上せよ」との勅旨があったので、発表は岩倉帰国まで待つことになった。

以上の時点までは、西郷・板垣・副島らは大使派遣の方向で事態は進行するものと考えていた。

ところが、9月、岩倉が帰国すると、先に外遊から帰国していた木戸孝允・大久保利通らの内治優先論が表面化してきた。

大久保らが参議に加わった9月14日の閣議では大使派遣問題は議決できず、15日の再議で西郷派遣に決定した。

しかし、これに反対する木戸・大久保・大隈重信・大木喬任らの参議が辞表を提出し、右大臣・岩倉も辞意を表明する事態に至った。

これを憂慮した三条は18日夜、急病になり、岩倉が太政大臣代行になった。
そこで、西郷・板垣・副島・江藤新平らは岩倉邸を訪ねて、閣議決定の上奏裁可を求めたが、岩倉は了承しなかった。

9月23日、西郷が陸軍大将兼参議・近衛都督を辞し、位階も返上すると上表したのに対し、すでに宮中工作を終えていた岩倉は、閣議の決定とは別に西郷派遣延期の意見書を天皇に提出した。

翌24日に天皇が岩倉の意見を入れ、西郷派遣を無期延期するとの裁可を出したので、西郷は辞職した。

このとき、西郷の参議・近衛都督辞職は許可されたが、陸軍大将辞職と位階の返上は許されなかった(岩倉・木戸・大久保らは、これらを許可しないことによって、西郷ら遣韓派をいずれ政府に復帰させる意図があることを示したのであろう)。

翌25日になると、板垣・副島・後藤・江藤らの参議も辞職した。
この一連の辞職に同調して、征韓論・遣韓大使派の林有造・桐野利秋・篠原国幹・淵辺群平・別府晋介・河野主一郎・辺見十郎太をはじめとする政治家・軍人・官僚600名余が次々に大量に辞任した。
この後も辞職が続き、遅れて帰国した村田新八・池上四郎らもまた辞任した(明治六年政変)。

このとき、西郷の推挙で兵部大輔・大村益次郎の後任に補されながら、能力不足と自覚して、先に下野していた前原一誠は「宜シク西郷ノ職ヲ復シテ薩長調和ノ実ヲ計ルベシ、然ラザレバ、賢ヲ失フノ議起コラント」という内容の書簡を太政大臣・三条実美に送り、明治政府の前途を憂えた。』(西郷隆盛(Wikipedia)より)

西郷は、岩倉・大久保が海外派遣で留守の間に、「キリスト教禁制の高札の撤廃」を実施していた。

中央では革命政府樹立後にキリスト教の扱いで軋轢が生じていたのであろう。
西郷は「鬼の居ぬ間」に洗濯をしたようにも見える。

西郷が白河へ行けば、おそらく奥羽列藩同盟と和平協議が整ったであろう。
それは会津若松城の無血開城を意味する。

長州藩士の大村益次郎がそれを妨害している。
その慶応4年(1868年)5月に西郷は体調を崩して京都を経て鹿児島へ帰着してしまっている。

よほどのショックが西郷にあったのではないだろうか。

慶応4年とは明治元年である。
ちょうど浦上のキリシタン迫害が始まった年である。

西郷を奥羽征伐に行かせずに結果的に鹿児島へ追い返すことになった大村益次郎は、今靖国神社の鳥居の奥に聳え立つ高い柱の上に立って皇居の方を見つめている。

東北戦争終結に際し、「西郷は黒田に指示して、庄内藩に寛大な処分をさせた。」という。
ヒューマニズムあふれる処置に庄内藩士たちは後々までも西郷を南州侯と称して尊敬している。

西郷が最初の奥州鎮撫府下参謀に薩摩の黒田清隆を推奨したのは、東北への寛大な処置を想定したものであろう。

それをひっくり返したのも、大村益次郎だったのか。

長州藩は、山口県柳井市にある西本願寺派の寺の僧月性が育てた世良修蔵を品川弥次郎に代えて推奨した。

それは木戸孝允による仕掛けだろう。
予定通り世良は仙台藩士に切り殺されて、奥羽での紛争ネタを提供してくれている。

穏便に革命を成し遂げようとしていた西郷が、明治元年以降のキリシタン迫害を容認していたとは思えない。

キリシタン迫害が始まった明治元年から西郷は体調を崩している。
明治2年12月、西郷が朝廷へ宛て藩主名で「位階返上の案文」を書いたことは、朝廷への相当な当てつけになったのではないか。

明治三年に西郷は生涯2度しか書かなかったという墓碑文を新政府に抗議し自刃した横山安武のために書いている。
それが明治3年のことである。

『横山安武は、森有礼の実兄。
明治初年、久光の第五子忠経の随行員として山口、佐賀に派遣されていたが、独断で帰藩したことが久光の勘気に触れ罷免された。

蟄居謹慎中に明治維新を迎えたが、明治三年(1870)七月二十六日、集議院の門前に意見書を掲げ、退いて津軽藩邸門前で屠腹して果てた。
意見書は十条から成る新政府に対する批判であった。

当時郷里にあった西郷隆盛は横山安武の死を悼み碑文を書いている。
西郷が人のために墓碑文を書いたのは生涯に二度(もう一人は染川實秀)と言われる。

横山の政府批判は、新政府の官員が驕奢に溺れ、私利私欲に走っていることから、巷を賑わせている征韓論の愚にまで及んでいる。

明治三年の段階で西郷は征韓について主唱していないので他人ごとだったかもしれないが、新政府官員の堕落については大いに感ずるところがあったのであろう。 

西郷の「横山安武碑文」は、鹿児島市内の福昌寺に建立されているというが、未だ実見していない。

今度、鹿児島を訪れたら是非立ち寄ってみたいものだ。
なお碑文は岩波文庫「西郷南洲遺訓 山田済斎編」80ページ以降に全文が掲載されている。』

これはまだ読んだことはない本だが、一体「西郷南洲遺訓 山田済斎編」とはいかなる書籍か。

『戊辰の役の後の庄内藩は恐怖のどん底にいた。

敗軍となった庄内藩は勝利者である薩摩藩からどんな仕打ちを受けるかわからない状態であった。
まして、庄内藩は戦争前から薩摩藩の怨みを買っていた。

幕府が急遽組織した新徴組が再三再四薩摩屋敷を襲ったからだ。
その新徴組を動かしていたのが庄内藩であった。

庄内藩の人たちはどんな仕打ちがなされるのかと戦々恐々としていたが、お咎めはほとんどないに等しかった。
それは西郷隆盛の意向であった。

戊辰の役の後、東北の多くの人たちは薩摩・長州藩を恨んだが、意外にも西郷隆盛を悪くいう人は少なかった。
その理由が上にあげた庄内藩に対する寛大な処置にあるのは明らかであろう。

西郷南洲はとてつもなく度量の大きな人であった。
西郷の度量の大きさは何も庄内藩だけに示したものでなく、他にもいろいろな状況・場面で示している。

ただ、その度量の大きさが仇(あだ)になって、賊軍という汚名を着て、鹿児島の城山で果てるのは何とも惜しいことである。

西郷南洲とはどんな人間であったのか。
西郷ほどわかっているようでわからない人もいないのではないか。
西郷は何を考えそしてどこへ向かおうとしていたのか。
西郷の行動原理は未だにわからないことが多い。
そもそも西南戦争とは何のための戦争だったのか。

明治10年の西南戦争後、西郷は当然のごとく陸軍大将という官位は剥奪され、国賊となった。
明治22年に大日本帝国憲法が発布されると、俄かに西郷の名誉挽回の運動が起こり、結局、西郷の名誉は復活し、西郷は上野の山で銅像となった。

西郷の名誉を挽回しようとしたとき、西郷の生前の言行録がまとめられた。

この言行録は、維新になって鹿児島に下野した西郷を訪ねた庄内藩の藩士が西郷から聞いた話が中心になっている。
この言行録が「西郷南洲遺訓」である。』
(「山田済斎「西郷南洲遺訓」を読む」より)
http://meityo.blog44.fc2.com/blog-entry-39.html

西郷がまだ明治新政府に出仕していた頃、西郷のブレインの一人とも言える人物が政府では活躍していた。

西郷辞職を受けて共に辞任した薩摩藩士池上四郎(いけうえしろう)であるが、その当時は西郷の命令で満州を偵察していた。

西郷の城山切腹まで、そばでそれを見届けた。
西郷のガードマン兼諜報エリートである。
西郷の軍略策定のための頭脳に当たる人物だといってもいいだろう。

西南戦争では熊本鎮台に固執せず、一気に東上して新政府を突く戦略を提案したが、桐野らの同意を得られなかった。

もし池上の提案どおりに西郷が東上していれば、戦備不十分な新政府は瓦解していた可能性もあった。

鎮台が長期間篭城している間に、新政府は軍備増強する時間が稼げたのである。

『『西南記伝』には「四郎、天資聡敏にして才幹あり、又韜略(とうりゃく)に通ず、其軍中に在るや、兵士を馭する、甚だ紀律あり、其事を処する、裁決流るるがごとし、故に其声望、或は桐野利秋に亜ぐに至る。西郷隆盛、嘗て四郎を評して曰く『四郎の智慮周密、張子房(張良)の流亜なり』と」という評が残っている。

才幹(才能)に秀で、軍略家であり、事務処理能力もあったので、池上は戊辰戦争・満洲偵察では軍事参謀、西南戦争では軍事参謀・方面司令・後備事務・病院を一人で担当している。

酒豪としても知られ、満洲偵察時には強度の焼酎を飲んで寒を凌いだという。』
(池上四郎(薩摩藩士)(Wikipedia)より)

この薩摩の切れ者は、日本陸軍の将来を担うチャンスを失ってしまった。
薩摩の海軍、長州の陸軍といわれ、昭和初期の陸軍のアジア大陸での暴走は記憶に新しい。

しかし、西郷隆盛は陸軍であった。
もし西郷が生きていたら、もし海防戦略家の松陰が生きていたらと、思わざるを得ない。

そういう新政府の論理破綻の中で、キリシタンへの拷問が続けられていたのである。

西郷がようやく「キリスト教禁制の高札撤廃」の命令を発したのは、明治6年(1873)2月のことだった。

「善からぬことは自分を愛するところから始まる」というのは西郷隆盛の言葉だそうだが、自分の信じる教団を愛するところから善からぬことをはじめた人々が新政府内部に居たことは確かであろう。

そのことについて、歴史的な反省の弁というものは公開されているのだろうか。

こっそり秘匿しているのであれば、それはまた再発するはずだ。

この公園への道のりのわかりにくさが、まだ反省が足りないことを物語っているようだ。

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