至福の村のお代官さま~長州(85) [萩の吉田松陰]

SH3B0340.jpgSH3B0340空き地にシュロの木
SH3B0344.jpgSH3B0344旧児玉家長屋
SH3B0345.jpgSH3B0345同上庭
SH3B0346.jpgSH3B0346入場無料

ここ堀内(地区)には身分の高い武士が住んでいた。
重要伝統的建造物群保存地区に指定されている堀内地区を歩いていると、なまこ壁の長屋門が見えてきた。

旧児玉家長屋に入ってしばし休憩した。
中庭に見学者用のトイレがある。

庭に面する縁側に「入場無料」と書いた木の板が立てられている。

児玉家は萩藩寄組に属していた。

「萩藩の寄組」というサイトによれば、二つ児玉家があり、いずれも萩藩のトップ10に入ろうかという小大名並みの武家であった。
http://www.geocities.jp/furi_316/YORI.htm

[石高と主な給領地]
児玉家 3,084石 小郡台道内上り熊 舟木有帆 美祢綾木高山 前大津三隅内中小野等
児玉家 2,243石 奥阿武惣郷 小郡下津令 前大津三隅 先大津新別名大迫内大原等 

ここは、「萩藩寄組2243石の大身武家児玉家の長屋門」と説明板にあるから、奥阿武惣郷を領していた児玉家の方の長屋である。

母屋は平安古総門に隣接し、表門は南向きに建てられていたそうである。
母屋はなくなっているが、それに接していた西側の長屋だけが残っている。
長屋だけでこの大きさだから、母屋は如何ほどまでに大きかったのだろうか。

おそらくこの長屋には多くの武士たちが寝起きしていて、平安古総門から侵入して三の丸へやってくるかも知れない敵の防御機能として存在していたのだろう。

この門を通過すれば、毛利の殿様の首はすぐ手に届く場所にあるのである。

この近くに「鍵曲(かぎまがり)」という迷路道が今もあるというが、それはわからなかった。
石高2,243石児玉家の給領地は奥阿武惣郷ということだった。
私は、妙に「奥阿武」の文字が気になっている。

たしか、萩の北方山奥に奥阿武宰判勘場跡というものがあり、その近くに昨日行ったはずである。
萩城から一定期間ごとに代官がやってきて行政を行っていた屋敷あとのことだった。

それは道に迷って奥阿武宰判の<紫福村>に入り込んだある牧師の日記の中にあった場所の名だった。

その「奥阿武宰判」というキーワードで検索すると、驚いたことに全くの偶然であるが最近書いた拙著ブログ記事が出てきた。

「キリシタンの里へ~長州(41) [萩の吉田松陰]」である。
http://shono.blog.so-net.ne.jp/2011-01-12-1

以下に再掲する。
『SH3B0129松陰神社のすぐ西側を通る道を北上し、阿武郡(あぶぐん)の山の中へ
SH3B0131この川の両側にキリシタン遺跡がある
SH3B0132川の左側(萩からくれば右側)奥にもう一本道路があり、そこは屋敷通りだった

玉木文之進旧宅、つまり最初の松下村塾を出て、私は自然に紫福村へ行こうと思った。
この坂を松陰生誕地へ向かって上っているときは、次は萩市内の晋作の家などを巡ろうと思っていた。

しかし、坂道を下って玉木旧宅まで降りてきたときは、金子の故郷紫福村へ行こうと思うようになっていた。

萩を追われた隠れキリシタンたちが、松陰神社の西にある道路から北へと向かったことに因縁を感じている。
まるで松陰神社から出発しているかのようである。

また北へ逃れる隠れキリシタン側から見れば、松陰神社は幕府や毛利藩に対する守りの砦になる。

道を間違って紫福村に迷い込んだある牧師の日記があった。

『<穢多>とキリシタンの里・・・
今日、仕事休みの妻と一緒に、雨の中、<高佐郷>に向かいました。しかし、<高佐郷>の中を走っているとき、雨と霧にけむった峠道や別れ道で方向を見失い、迷いに迷ったあげく、たどりついたのが、奥阿武宰判の<紫福村>・・・。

雨の中でもくっきり目立つように、キリシタンの遺跡をしめす案内板がたっています。

筆者、一度、この<キリシタンの里>である紫福村のキリシタンの歴史を調べてみたいと思ったのですが、紫福村のキリシタンの遺跡・・・、牧師である筆者の目からみますと、なにとなくこころもとないものがあります。

ほんとうにキリシタンの遺跡であるのかどうか・・・。
基督教の教理とあきらかに抵触する遺跡すらあります。

<マリア観音>ひとつをとっても、ほんとうに<マリア観音>であるのかどうか・・・。どちらかいいますと、仏教の<子安観音>の方ににかよっている・・・、ように筆者に見えます。

一説に、山口で迫害されたキリシタン600人が、どうのような方法で、山口往還の通り筋、高佐郷を素通りして、紫福村までたどりつき、紫福村の山奥にその身を隠すことができたというのか・・・? 

<旅人・強盗制道>という役務に誇りをもつ、高佐郷の<検問>をどのようにくぐり抜けることができたというのか・・・?

近世幕藩体制下において、キリシタン600人は、どのような歩みをしたというのか・・・? 近世初期において<キリシタン類族>に指定されても、近世後期には、すでに<キリシタン類族>からはずされ、一般の<百姓>に数えられていたことでしょう。

一度、ひまをみつけて、近世幕藩体制下の宗教警察である<穢多>・<宮番>の配置形態・・・、<キリシタンの里>といわれている紫福村とその他の奥阿武宰判のそれを比較検証して両者に相違があるのかどうか、確認してみたい・・・。

宗教警察である<穢多>・<宮番>は、紫福村においては、どのように機能していたのか・・・。

雨や霧でけむる峠、別れ道で道に迷い、偶然たどりついた<キリシタンの里>・・・、現代人のロマンだけが色濃く滲みでている<キリシタンの里>でした。』
(「穢多とキリシタンの里」より)
http://eigaku.cocolog-nifty.com/nikki/2010/03/post-f75b.html

この牧師さんは、紫福村のキリシタン遺物に疑問を投げかけている。

萩市や阿武町が公認しているキリシタン村について、牧師さんがはっきりと疑問を呈していること自体に不思議な思いがわいてくる。

疑問を感じていても否定しないケースもあるだろうが、この方は「根拠があいまい」というニュアンスを正直にブログで述べていた。

江戸期のキリシタン禁令の厳しさを思えば、それとわかるはっきりとした遺物を信者たちが残せたものだろうか。

「根拠をあいまい」にすることで、彼らは信仰が発覚することを長い間防いで来たのではないだろうか。

空論は辞めて、ともかくも私自身の目で遺跡を見てみよう。

車は両側の緑の森を見ながら、くねくねと坂道を登っていく。
何度か道の分岐に迷うが、正解のコースを通っているようだ。

川が豊かな水をたたえている場所に、キリシタンの村はあった。
周囲は水田であり稲穂が青々と茂っていた。

道は川に沿って曲がりくねるが、一本奥にももうひとつの生活道路がある。
私は川沿いに車を駐車して、歩いて屋敷街の道へと入っていった。』(抜粋終わり)

浦賀で松陰とともに漁船に乗ってペリー艦隊に密航しようとして捕らえられ獄中死した青年は、金子重之助だった。

その故郷が紫福村だったことを知り、その村へ行こうと思ったのである。

そのことを私に教えてくれたのは、松陰生誕地そばにある俳人、伊藤柏翠(勇)の石碑だった。

「この花の 松陰を生み 志士を生む」

その石碑の横の階段を上っていくと、小高い丘の上に松陰と金子の銅像があった。
松陰はまっすぐ指月城の方を眺めて立っているのに、珍しいことに金子は跪(ひざまず)いて下から松陰の顔を見上げている。

伊藤の詩は松陰をして「コノハナサクヤヒメが生んだ神」のごとく言い、金子は聖人を見上げる信者のごとき憧れの眼差しを松陰へ送っていた。

ふと、金子の信仰が気になって出自を調べると、紫福村と書いてあった。
実際は「しぶきむら」と発音するようである。

私にはすぐにそこが「至福の村」であることがわかった。

前から薄々推測はしていたのだが、初めて松陰とキリシタンの具体的な接点が微(かす)かながらも見えてきた。

萩を追われたキリシタンたちは、間違いなく松陰神社の北側の道を通って山の中へと進んでいったはずだ。

松陰自身は神道を信仰しており、キリシタンではなかっただろう。
しかし、キリシタンがもたらす科学技術や海外情報などには目を見張るものが多かったに違いない。
松陰の弟子の中にも少なからずキリシタンがいたことだろう。

ザビエルに山口での布教を許した大内義隆だったが、滅亡のとき山口から遺児が遺臣たちを連れて叔母の住む吉見氏の萩城へと逃れてきているのである。

萩にキリシタンが多くいることは、ザビエル来日の必然なのである。

奥阿武惣郷を主な給領地としていたこの児玉家の主は、紫福村が隠れキリシタンの村であることを知っていて見逃していたのだろう。

あるいはキリシタンたちから贈賄に目がくらみ、彼らの本性を見抜けていなかったのであろうか。

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三毛猫

検索しているうちにお邪魔しました。先祖は、毛利藩の目付けで児玉です。先祖について詳しく知りませんが、杉氏の領地のある毛利藩の飛び地である豊前に当時、中津の細川氏の新田開発に参加した様です。家の隣に右田氏(右田毛利)がいましたので、関ヶ原の敗戦の後、祖父の祖父の時代に移り住んできたと思われるのです。当時新田開発では、開墾した荒れ地は、自分の物になったそうで、宇佐の穀倉地帯を眺めれて、昔の人の苦労を想います。今年、アメリカ国務省から花ミズキを送られました。TPPに向けての勇み足の調査の様に感じられて気になっています。かつて福岡正信氏を訪ねたユダヤ人の弁護士が告げた言葉が恐ろしいです。その弁護士は、日本人が、数千年前からの先祖の恵を失うことになると告げたのです。その時は、解りませんが、今なら解ります。日本人は、学校で嘘の古代史を教えられていますが、ユダヤ人(カナン人=フェニキア人=べネッチア人)は、彼ら専用の学校で本当の歴史を教わります。
by 三毛猫 (2015-07-21 09:56) 

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