火石輪神社~奥州街道(4-208) [奥州街道日記]
TS393486配志和神社から飛び出してきたジョギング中の人
TS393487平泉へ(左厳美渓、右陸前高田)
薄暮の中、神社の鳥居のそばからジョギング姿のおじさんが飛び出してきた。
その神社の名前であるが、「配志和神社」とはどう読むのだろうか。
岩手県一関市山目字舘にある式内社で、古くは陸奥國磐井郡の配志和神社というそうである。
御祭神は、「高皇産靈神 瓊瓊杵尊 木花開耶姫命」である。
靈神の「」は、旧字体、所謂繁体字というそうで、訓読で「たま」、音読で「レイ」、「リョウ」と読むという。中国語では、「ling2」(リン)と読む。
高皇産靈神は「タカミムスビノカミ」と読む。
『タカミムスビは、日本神話の神である。
『古事記』では高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、『日本書紀』では高皇産霊神(タカミムスビノカミ)と書かれる。
葦原中津国平定・天孫降臨の際には高木神(タカギノカミ)という名で登場する。神社の祭神としては高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)などとも書かれる。
別名の通り、本来は高木の神格化されたものを指したと考えられている。
「産霊(むすひ)」は生産・生成を意味する言葉で、神皇産霊神とともに「創造」を神格化した神である。
『古事記』によれば、天地開闢の時、最初に天御中主神が現れ、その次に神皇産霊神(かみむすび)と共に高天原に出現したとされるのが高皇産霊神という神である。子に思兼神(おもいかね)、栲幡千千姫命がいる。
天御中主神・神皇産霊神・高皇産霊神は、共に造化の三神とされ、いずれも性別のない神、かつ、人間界から姿を隠している「独神(ひとりがみ)」とされている。この造化三神のうち、神皇産霊神・高皇産霊神は、その活動が皇室・朝廷に直接的に大いに関係していると考えられたため、神祇官八神として八神殿で祀られた。
高皇産霊神は、『日本書紀』では、天地初発条一書第四に「又曰く~」という形式で登場しているに過ぎない神であり、その他では巻十五の「顕宗紀」において阿閇臣事代が任那に派遣され壱岐及び対馬に立ち寄った際に名前が登場する程度ではある。 また、『延喜式』「祝詞」・「出雲国神賀詞」には、「神王高御魂命」とされている。
神話での行動
天照大神の御子神・天忍穂耳命(あめのおしほみみ)が高皇産霊神の娘栲幡千々姫命(たくはたちぢひめ)と結婚して生まれたのが天孫瓊々杵尊であるので、タカミムスビは天孫ニニギの外祖父に相当する。
天津国玉神の子である天稚彦(あめのわかひこ)が、天孫降臨に先立って降ったが復命せず、問責の使者・雉(きぎし)の鳴女(なきめ)を射殺した。それが高皇産霊神の怒りに触れ、その矢を射返されて死んだという。
『古事記』では神武天皇の熊野から大和に侵攻する場面で夢に登場し、さらに天照大神より優位に立って天孫降臨を司令している伝も存在する。』
(タカミムスビ(Wikipedia)より抜粋)
本来は高木の神格化されたものを指し、「産霊(むすひ)」は生産・生成を意味する言葉で、「創造」を神格化した神であるというが、高木神(タカギノカミ)、それは「無から糸を算出する蚕の化身」のことではないだろうか。
ふと、そんなことを思った。
お一人の神様のことを調べるだけでも、これだけの行数がかかる。
さて、ここでの本題はこの「配志和神社」の読み方でああった。
『景行天皇の御代、日本武尊により創祀されたといわれる神社。
火石輪が変化して配志和となったとされている。
火石輪がどういう意味かわからないが、烽火を囲んだストーンサークルのようなものだろうか。』(「配志和神社」より)
http://www.genbu.net/data/mutu/haisiwa_title.htm
「ひいしわ」が「はいしわ」に転化したもののようであるが、事実はわからない。
もっと深い深い歴史の謎が含まれている可能性もある。
古代日本人は自分たちのことを「わ」から来たと言った。
魏志倭人伝にそう書いてある。
「お前たちはどこから来たか?」
「『わ』から来た。」
このやりとりから、古代中国人たちは彼らを「わ」人、蔑視した当て字を当てて倭人と称したという。
井沢元彦著「逆説の日本史」を読むと、この「わ」を井沢氏独自の解釈をしている。
「環」または「輪」であろうという。
環濠集落では住む形態も、先祖の墓の形態も環状を持って形成していたために、環もしくは輪の状態の集落全体を「わ」と称したものであろう。
北九州では朝鮮半島人と北九州人が海上で混血化していったことが想像されるので、私は韓国語の読みを調べてみた。
韓国語で「わ」と読む文字に「輪」があることを知った。
それで私は「輪人」であると想像した。
後日、あるサイト記事で吉田松陰の叔父さんで松下村塾の創設者である玉木文之進のことを調べていると、玉木家は古くは環(たまき)家であり、大内義隆滅亡時の遺児の末裔であると書かれていた。
当の環家末裔の人物が祖父母から聞き伝えられた話を書いていた記事だった。
周防の大内義隆の祖先は多々良家であり、韓国からの渡来人であることはほぼ間違いない。その末裔が環(たまき)家を名乗ったことは、北九州と朝鮮半島南部を往来していた有力な一族が「環」(わ)ではなかったのかと思われる。
北九州から魏の国へわたった古代日本人は、南朝鮮と北九州を根拠地とするバイリンガル(二ヶ国語民族)である環(わ)人だったのではないだろうか。
玉木文之進は松蔭の生まれた吉田家から玉木家へ養子にいき、松下村塾を創立し、甥の松蔭を過酷な教育によって鍛え上げたのである。
その吉田松陰の教え子たちは、やがて徳川政権を転覆し、明治の天皇中心の政治社会を再構築したのである。
明治維新とは、古代から続く「環」一族の復権でもあったのだ。
話が逸れたが、火石輪(ひいしわ)とは貴重な火打石を環状に並べたものを指すよう思われる。
火石といい、輪(環)といい、古代日本人の存在を色濃く示す神社名である。
北九州に上陸した環人たちは、岩手山のふもと、宮城山福松生誕の地辺りまで北上してきたのであろうか。
何かの宗教的政治的配慮からいつの時代か配志和神社と改名しているが、「わ」の音から和を用いて輪(環)のイメージを消している操作の跡を私は感じる。
古代のこの国の原住民であった環人(輪人)ではない一族の仕業による改名のような気がする。
なぜならば輪もしくは環のイメージが破壊されてしまっているからである。
音の「わ」を残したのは、せめてもの意地なのであろうか。
道路のトラックなどが前照灯をつけ始めた。
かなり暗くなってきたようだ。
交通標識に「平泉(左へ厳美渓、右へ陸前高田)」が見えてきた。
源義経終焉の地へと近づいている。
TS393487平泉へ(左厳美渓、右陸前高田)
薄暮の中、神社の鳥居のそばからジョギング姿のおじさんが飛び出してきた。
その神社の名前であるが、「配志和神社」とはどう読むのだろうか。
岩手県一関市山目字舘にある式内社で、古くは陸奥國磐井郡の配志和神社というそうである。
御祭神は、「高皇産靈神 瓊瓊杵尊 木花開耶姫命」である。
靈神の「」は、旧字体、所謂繁体字というそうで、訓読で「たま」、音読で「レイ」、「リョウ」と読むという。中国語では、「ling2」(リン)と読む。
高皇産靈神は「タカミムスビノカミ」と読む。
『タカミムスビは、日本神話の神である。
『古事記』では高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、『日本書紀』では高皇産霊神(タカミムスビノカミ)と書かれる。
葦原中津国平定・天孫降臨の際には高木神(タカギノカミ)という名で登場する。神社の祭神としては高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)などとも書かれる。
別名の通り、本来は高木の神格化されたものを指したと考えられている。
「産霊(むすひ)」は生産・生成を意味する言葉で、神皇産霊神とともに「創造」を神格化した神である。
『古事記』によれば、天地開闢の時、最初に天御中主神が現れ、その次に神皇産霊神(かみむすび)と共に高天原に出現したとされるのが高皇産霊神という神である。子に思兼神(おもいかね)、栲幡千千姫命がいる。
天御中主神・神皇産霊神・高皇産霊神は、共に造化の三神とされ、いずれも性別のない神、かつ、人間界から姿を隠している「独神(ひとりがみ)」とされている。この造化三神のうち、神皇産霊神・高皇産霊神は、その活動が皇室・朝廷に直接的に大いに関係していると考えられたため、神祇官八神として八神殿で祀られた。
高皇産霊神は、『日本書紀』では、天地初発条一書第四に「又曰く~」という形式で登場しているに過ぎない神であり、その他では巻十五の「顕宗紀」において阿閇臣事代が任那に派遣され壱岐及び対馬に立ち寄った際に名前が登場する程度ではある。 また、『延喜式』「祝詞」・「出雲国神賀詞」には、「神王高御魂命」とされている。
神話での行動
天照大神の御子神・天忍穂耳命(あめのおしほみみ)が高皇産霊神の娘栲幡千々姫命(たくはたちぢひめ)と結婚して生まれたのが天孫瓊々杵尊であるので、タカミムスビは天孫ニニギの外祖父に相当する。
天津国玉神の子である天稚彦(あめのわかひこ)が、天孫降臨に先立って降ったが復命せず、問責の使者・雉(きぎし)の鳴女(なきめ)を射殺した。それが高皇産霊神の怒りに触れ、その矢を射返されて死んだという。
『古事記』では神武天皇の熊野から大和に侵攻する場面で夢に登場し、さらに天照大神より優位に立って天孫降臨を司令している伝も存在する。』
(タカミムスビ(Wikipedia)より抜粋)
本来は高木の神格化されたものを指し、「産霊(むすひ)」は生産・生成を意味する言葉で、「創造」を神格化した神であるというが、高木神(タカギノカミ)、それは「無から糸を算出する蚕の化身」のことではないだろうか。
ふと、そんなことを思った。
お一人の神様のことを調べるだけでも、これだけの行数がかかる。
さて、ここでの本題はこの「配志和神社」の読み方でああった。
『景行天皇の御代、日本武尊により創祀されたといわれる神社。
火石輪が変化して配志和となったとされている。
火石輪がどういう意味かわからないが、烽火を囲んだストーンサークルのようなものだろうか。』(「配志和神社」より)
http://www.genbu.net/data/mutu/haisiwa_title.htm
「ひいしわ」が「はいしわ」に転化したもののようであるが、事実はわからない。
もっと深い深い歴史の謎が含まれている可能性もある。
古代日本人は自分たちのことを「わ」から来たと言った。
魏志倭人伝にそう書いてある。
「お前たちはどこから来たか?」
「『わ』から来た。」
このやりとりから、古代中国人たちは彼らを「わ」人、蔑視した当て字を当てて倭人と称したという。
井沢元彦著「逆説の日本史」を読むと、この「わ」を井沢氏独自の解釈をしている。
「環」または「輪」であろうという。
環濠集落では住む形態も、先祖の墓の形態も環状を持って形成していたために、環もしくは輪の状態の集落全体を「わ」と称したものであろう。
北九州では朝鮮半島人と北九州人が海上で混血化していったことが想像されるので、私は韓国語の読みを調べてみた。
韓国語で「わ」と読む文字に「輪」があることを知った。
それで私は「輪人」であると想像した。
後日、あるサイト記事で吉田松陰の叔父さんで松下村塾の創設者である玉木文之進のことを調べていると、玉木家は古くは環(たまき)家であり、大内義隆滅亡時の遺児の末裔であると書かれていた。
当の環家末裔の人物が祖父母から聞き伝えられた話を書いていた記事だった。
周防の大内義隆の祖先は多々良家であり、韓国からの渡来人であることはほぼ間違いない。その末裔が環(たまき)家を名乗ったことは、北九州と朝鮮半島南部を往来していた有力な一族が「環」(わ)ではなかったのかと思われる。
北九州から魏の国へわたった古代日本人は、南朝鮮と北九州を根拠地とするバイリンガル(二ヶ国語民族)である環(わ)人だったのではないだろうか。
玉木文之進は松蔭の生まれた吉田家から玉木家へ養子にいき、松下村塾を創立し、甥の松蔭を過酷な教育によって鍛え上げたのである。
その吉田松陰の教え子たちは、やがて徳川政権を転覆し、明治の天皇中心の政治社会を再構築したのである。
明治維新とは、古代から続く「環」一族の復権でもあったのだ。
話が逸れたが、火石輪(ひいしわ)とは貴重な火打石を環状に並べたものを指すよう思われる。
火石といい、輪(環)といい、古代日本人の存在を色濃く示す神社名である。
北九州に上陸した環人たちは、岩手山のふもと、宮城山福松生誕の地辺りまで北上してきたのであろうか。
何かの宗教的政治的配慮からいつの時代か配志和神社と改名しているが、「わ」の音から和を用いて輪(環)のイメージを消している操作の跡を私は感じる。
古代のこの国の原住民であった環人(輪人)ではない一族の仕業による改名のような気がする。
なぜならば輪もしくは環のイメージが破壊されてしまっているからである。
音の「わ」を残したのは、せめてもの意地なのであろうか。
道路のトラックなどが前照灯をつけ始めた。
かなり暗くなってきたようだ。
交通標識に「平泉(左へ厳美渓、右へ陸前高田)」が見えてきた。
源義経終焉の地へと近づいている。
2010-12-27 18:11
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