照井堰~奥州街道(4-209) [奥州街道日記]
TS393488史跡標柱「照井堰改修の先覚者・柏原清左衛門末裔屋敷跡」
TS393489中里公民館「蠶祖神」(柏原清左衛門末裔屋敷跡が公民館)
陽もとっぷり暮れた街道筋に、立派な屋敷があったが、景色はよく見えない。
中里公民館前の門の入り口に、史跡標柱「照井堰改修の先覚者・柏原清左衛門末裔屋敷跡」と書いた白い木柱が目立っている。
柏原清左衛門という人物の末裔の屋敷であるが、照井堰改修という治水工事で貢献した人物のようである。
二宮金次郎の薫陶を受けた人であろうか。
『柏原文書その2
=平泉高舘の霜月田屋敷御百姓柏原清左衛門北堰開鑿完成万治元年より3~4年要す=
北照井堰完成までは、五串村・達谷村・平泉村・高舘村・中尊寺村の五邑は用水不足が激しく、不作の年が連綿と続き離村する者後を絶たずと云うほどであった。(近世日本農村経済史論より)
そのため生活は困難を極め5人組帳前書きは着る物や嗜好品、米食の制限、身分等細かく規制されていた時代であった。
その時柏原清左衛門は私財を投じ磐井川の水を笹辺良で照井堰から分水し、穴堰にて太田川に合水する計画を立て、現在の猿鼻隧道580間を開鑿したのであった。
その中間には35間毎に斜坑を掘り、年々の泥上げ等の用心坑としたので計6箇所設置されている。
その他に8箇所の隧道があり、その計はおよそ880間に及ぶと云う。
太田川に合水された用水は下流髢石で日向堰に、さらに下萱で西風堰に分水されている。
髢石で分水された日向堰は毛越寺の裏を流れ、中尊寺坂下より衣川に注ぐ。またもう一つの下萱より分水された西風堰は平泉村高田に達し上照井堰と合流する。
さらに文久3年柏原清左衛門の後裔新十郎が私財を投じ五串穴堰48間の堀接を行う。
同年秋、花館の穴堰が崩壊したので更に千葉半右衛門と共に私財を投じて44間の堀更を完工した。』(【忘れては成らぬこと..】より抜粋)
http://www.terui1170.com/aisatu(wasurenai).html
注)万治年間とは?
万治(まんじ)は、日本の元号の一つ。明暦の後、寛文の前。1658年から1660年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。(Wikipediaより抜粋)
二宮尊徳(金次郎)は1787年9月4日の誕生であるから、柏原清左衛門の方が百年以上も昔の大先輩であった。
以上は、江戸後期にあった照井堰改修の美談であるが、そもそも「照井堰」とは誰がいつ作ったものだろうか。
実は、源義経の時代の「照井さんが施工した堰」なのである。
この国の「二宮金次郎」は、源平の時代から存在していたことになる。
源氏物語を作り、照井堰を施工する日本民族とは一体どこからやってきたのであろうか。
1000年も前に、この国土に治水技術、水工土木技術を有していたのである。
その人物とは、藤原秀衡の家臣照井太郎高春である。
『一関市は栗駒岳に水源をもち東流する磐井川は北上川に合流するまでの流域です。
江戸時代には、仙台藩の支藩である田村三万石大江堰流域に成立し、照井堰流域の仙台本藩蔵入地とともに穀倉地帯として栄え明治維新を迎えます。
この地域の用水は、磐井川から取水する照井堰と大江堰に依存しており、平泉町および一関市の穀倉地帯を潅漑しています。
取水口は厳美渓五串(イツクシ)の滝を2.8㎞ほどさかのぼった小河原に大〆切頭首工にあります。
伝承では藤原秀衡の家臣照井太郎高春が用水路の開削に着手し、その子孫高安が萩荘荘司大江氏と結んで造り上げたと言います(西磐井大肝入大槻久右衛門書上)。
また藤原氏滅亡で主を失った照井氏は秋田に逃れ、数代を経て照井隆春・隆定は、先祖の地で身をたてるために平泉に向かい、隆定は千手院に引き取られ、隆定の孫掃部左衛門は先祖の偉業を知り、承応元年(1652)に堰を改修するために工事に乗りだしました。
しかし工事人足の支払いに藩のお救い米50石を流用し、このことが咎められ太田川に架かる橋のたもとで死刑に処せられたと伝えられています。
ともあれ「照井堰」「大江堰」の名称はこれらの伝承をもとにしていると思われます。』(「照井堰・大江堰」より抜粋)
http://www42.tok2.com/home/kaidoumiyagi/terui.htmll.htm
奥州藤原氏は、陸奥(後の陸中国)平泉を中心に出羽を含む東北地方一帯に勢力を張った一族で、天慶の乱を鎮めた藤原秀郷の子孫を称する豪族である。
照井太郎高春の主人である藤原秀衡は奥州藤原氏第3代当主であり、源氏の御曹司義経を匿って養育した人物である。
先祖の藤原秀郷は、近江三上山の百足(むかで)退治の伝説で有名な俵藤太である。
田原藤太とも書き、読みは「たわらのとうだ」或いは「たわらのとうた」)である。
奥州街道を歩いていると、何度も遭遇する謎の古代人である。
どうやら炭焼きや金鉱堀、製鉄業などを得意としていたエキゾチックジャパンな俵藤太から、奥州藤原氏は治水や水理測量などの知識や技能を承継していたように思われる。
俵藤太がエジプトから日本へ移住してきたのであれば、技術の流れは納得できるが、突然平安時代に縄文人が発明したと言われても納得いかないものである。
私たち日本人は、そのルーツである俵藤太の足跡に迫る必要があるが、遺伝子分析はきっとそれを可能とするであろう。
奥州藤原氏の遺骨や遺髪は大切に保管されねばならないだろう。
前の記事で私は主祭神の名から蚕を連想していたことを書いた。
『本来は高木の神格化されたものを指し、「産霊(むすひ)」は生産・生成を意味する言葉で、「創造」を神格化した神であるというが、高木神(タカギノカミ)、それは「無から糸を算出する蚕の化身」のことではないだろうか。
ふと、そんなことを思った。』(抜粋終わり)
公民館の前でのこと、日が暮れてしまってよく文字が読めないが、「○祖神」と書いた大きな石碑が立っていた。(写真TS393489参照)
近づいてよく見れば、「蠶祖神」と刻んでいる。
「蠶」の字は「蚕」の古い字体だそうだ。
この地が養蚕業が盛んな地域だったということだ。
あとで別の街道ブログ記事で調べてみると、この大きな「蠶祖神」の石碑には「通商産業大臣椎名悦三郎」の名前が刻んであるそうだ。
日本の通産省と奥州藤原氏の養蚕業と、一体どういう関係にあるのだろうか。
日本国誕生秘話に含まれる「蚕の話」を抜粋する。
『カイコを巡る伝説 日本
日本にカイコから糸を紡ぐ技術は、稲作などと相前後して伝わってきたと言われているが、古来においては様々な言い伝えがあり、日本神話が収められている『古事記』や『日本書紀』の中にもいくつかが収められている。
『古事記』上巻にて高天原を追放されたスサノオ(須佐之男命)が、食物神であるオオゲツヒメ(大気都比売神)に食物を求めたところ、オオゲツヒメは、鼻や口、尻から様々な食材を取り出して調理して差し出した。
しかし、スサノオがその様子を覗き見て汚した食物を差し出したと思って、オオゲツヒメを殺してしまった。
すると、オオゲツヒメの屍体から様々な食物の種などが生じた。
頭に蚕、目に稲、耳に粟、鼻に小豆、陰部に麦、尻に大豆が生まれたという。
『日本書紀』神産みの第十一の一書にてツクヨミ(月夜見尊)がアマテラス(天照大神)の命令で葦原中国にいるウケモチ(保食神)という神を訪問したところ、ウケモチは、口から米飯、魚、毛皮の動物を出し、それらでツクヨミをもてなした。
ツクヨミは口から吐き出したものを食べさせられたと怒り、ウケモチを斬ってしまった。
これを知ったアマテラスがウケモチの所にアメノクマヒト(天熊人)を遣わすと、ウケモチは既に死んでいた。
ウケモチの屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。
アメノクマヒトがこれらを全て持ち帰ってアマテラスに献上した。
また、日本書紀における神産みの第二の一書にて火の神カグツチ(軻遇突智)を生んだために体を焼かれたイザナミ(伊弉冉)が亡くなる直前に生んだ土の神ハニヤマヒメ(埴山媛)は後にカグツチと結ばれてワクムスビ(稚産霊)を生むが、出産の際にワクムスビの頭の上に蚕と桑が生じ、臍の中に五穀が生まれたという説話がある。
これらの神話はいずれも食物起源神話と関連している事から戦前の民俗学者である高木敏雄は、これは後世においてシナ(中国)の俗説に倣って改竄したものであり、植物から作られた幣帛を用いる日本の神道には関わりの無い事であり、削除しても良い位だと激しく非難している。
だが仮にこの説を採るとしても、『古事記』・『日本書紀』が編纂された7世紀の段階で養蚕が既に当時の日本国家にとって重要な産業になっているという事実までを否定する事は出来ないと言えよう。
なお、蚕は『古事記』下巻の仁徳天皇記に再び登場し、韓人(百済からの帰化人)奴理能美(ぬりのみ)が飼育していた「一度は這う虫になり、一度は鼓になり、一度は飛ぶ鳥になる奇しい虫」(蚕)を皇后磐之媛命に献上する逸話が語られる。
三代実録によれば、仲哀天皇4年(195年)に奏の始皇11代の孫功満王(こまおう)が渡来して日本に住みつき、珍しい宝物である蚕(かいこ)の卵を奉献したとされ、豊浦宮(現在の忌宮神社)が蚕種渡来の地とされる。忌宮神社では毎年3月28日に、蚕種祭が行われ、昭和56年(1981年)から毎年、生糸つむぎと機織りの実演が披露されている。』
(「カイコ」(Wikipedia)より抜粋)
『7世紀の段階で養蚕が既に当時の日本国家にとって重要な産業になっている』ことは、古代の常識だったようである。
日本人の末裔である私たちは、あまりそのことを知らないようである。
TS393489中里公民館「蠶祖神」(柏原清左衛門末裔屋敷跡が公民館)
陽もとっぷり暮れた街道筋に、立派な屋敷があったが、景色はよく見えない。
中里公民館前の門の入り口に、史跡標柱「照井堰改修の先覚者・柏原清左衛門末裔屋敷跡」と書いた白い木柱が目立っている。
柏原清左衛門という人物の末裔の屋敷であるが、照井堰改修という治水工事で貢献した人物のようである。
二宮金次郎の薫陶を受けた人であろうか。
『柏原文書その2
=平泉高舘の霜月田屋敷御百姓柏原清左衛門北堰開鑿完成万治元年より3~4年要す=
北照井堰完成までは、五串村・達谷村・平泉村・高舘村・中尊寺村の五邑は用水不足が激しく、不作の年が連綿と続き離村する者後を絶たずと云うほどであった。(近世日本農村経済史論より)
そのため生活は困難を極め5人組帳前書きは着る物や嗜好品、米食の制限、身分等細かく規制されていた時代であった。
その時柏原清左衛門は私財を投じ磐井川の水を笹辺良で照井堰から分水し、穴堰にて太田川に合水する計画を立て、現在の猿鼻隧道580間を開鑿したのであった。
その中間には35間毎に斜坑を掘り、年々の泥上げ等の用心坑としたので計6箇所設置されている。
その他に8箇所の隧道があり、その計はおよそ880間に及ぶと云う。
太田川に合水された用水は下流髢石で日向堰に、さらに下萱で西風堰に分水されている。
髢石で分水された日向堰は毛越寺の裏を流れ、中尊寺坂下より衣川に注ぐ。またもう一つの下萱より分水された西風堰は平泉村高田に達し上照井堰と合流する。
さらに文久3年柏原清左衛門の後裔新十郎が私財を投じ五串穴堰48間の堀接を行う。
同年秋、花館の穴堰が崩壊したので更に千葉半右衛門と共に私財を投じて44間の堀更を完工した。』(【忘れては成らぬこと..】より抜粋)
http://www.terui1170.com/aisatu(wasurenai).html
注)万治年間とは?
万治(まんじ)は、日本の元号の一つ。明暦の後、寛文の前。1658年から1660年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。(Wikipediaより抜粋)
二宮尊徳(金次郎)は1787年9月4日の誕生であるから、柏原清左衛門の方が百年以上も昔の大先輩であった。
以上は、江戸後期にあった照井堰改修の美談であるが、そもそも「照井堰」とは誰がいつ作ったものだろうか。
実は、源義経の時代の「照井さんが施工した堰」なのである。
この国の「二宮金次郎」は、源平の時代から存在していたことになる。
源氏物語を作り、照井堰を施工する日本民族とは一体どこからやってきたのであろうか。
1000年も前に、この国土に治水技術、水工土木技術を有していたのである。
その人物とは、藤原秀衡の家臣照井太郎高春である。
『一関市は栗駒岳に水源をもち東流する磐井川は北上川に合流するまでの流域です。
江戸時代には、仙台藩の支藩である田村三万石大江堰流域に成立し、照井堰流域の仙台本藩蔵入地とともに穀倉地帯として栄え明治維新を迎えます。
この地域の用水は、磐井川から取水する照井堰と大江堰に依存しており、平泉町および一関市の穀倉地帯を潅漑しています。
取水口は厳美渓五串(イツクシ)の滝を2.8㎞ほどさかのぼった小河原に大〆切頭首工にあります。
伝承では藤原秀衡の家臣照井太郎高春が用水路の開削に着手し、その子孫高安が萩荘荘司大江氏と結んで造り上げたと言います(西磐井大肝入大槻久右衛門書上)。
また藤原氏滅亡で主を失った照井氏は秋田に逃れ、数代を経て照井隆春・隆定は、先祖の地で身をたてるために平泉に向かい、隆定は千手院に引き取られ、隆定の孫掃部左衛門は先祖の偉業を知り、承応元年(1652)に堰を改修するために工事に乗りだしました。
しかし工事人足の支払いに藩のお救い米50石を流用し、このことが咎められ太田川に架かる橋のたもとで死刑に処せられたと伝えられています。
ともあれ「照井堰」「大江堰」の名称はこれらの伝承をもとにしていると思われます。』(「照井堰・大江堰」より抜粋)
http://www42.tok2.com/home/kaidoumiyagi/terui.htmll.htm
奥州藤原氏は、陸奥(後の陸中国)平泉を中心に出羽を含む東北地方一帯に勢力を張った一族で、天慶の乱を鎮めた藤原秀郷の子孫を称する豪族である。
照井太郎高春の主人である藤原秀衡は奥州藤原氏第3代当主であり、源氏の御曹司義経を匿って養育した人物である。
先祖の藤原秀郷は、近江三上山の百足(むかで)退治の伝説で有名な俵藤太である。
田原藤太とも書き、読みは「たわらのとうだ」或いは「たわらのとうた」)である。
奥州街道を歩いていると、何度も遭遇する謎の古代人である。
どうやら炭焼きや金鉱堀、製鉄業などを得意としていたエキゾチックジャパンな俵藤太から、奥州藤原氏は治水や水理測量などの知識や技能を承継していたように思われる。
俵藤太がエジプトから日本へ移住してきたのであれば、技術の流れは納得できるが、突然平安時代に縄文人が発明したと言われても納得いかないものである。
私たち日本人は、そのルーツである俵藤太の足跡に迫る必要があるが、遺伝子分析はきっとそれを可能とするであろう。
奥州藤原氏の遺骨や遺髪は大切に保管されねばならないだろう。
前の記事で私は主祭神の名から蚕を連想していたことを書いた。
『本来は高木の神格化されたものを指し、「産霊(むすひ)」は生産・生成を意味する言葉で、「創造」を神格化した神であるというが、高木神(タカギノカミ)、それは「無から糸を算出する蚕の化身」のことではないだろうか。
ふと、そんなことを思った。』(抜粋終わり)
公民館の前でのこと、日が暮れてしまってよく文字が読めないが、「○祖神」と書いた大きな石碑が立っていた。(写真TS393489参照)
近づいてよく見れば、「蠶祖神」と刻んでいる。
「蠶」の字は「蚕」の古い字体だそうだ。
この地が養蚕業が盛んな地域だったということだ。
あとで別の街道ブログ記事で調べてみると、この大きな「蠶祖神」の石碑には「通商産業大臣椎名悦三郎」の名前が刻んであるそうだ。
日本の通産省と奥州藤原氏の養蚕業と、一体どういう関係にあるのだろうか。
日本国誕生秘話に含まれる「蚕の話」を抜粋する。
『カイコを巡る伝説 日本
日本にカイコから糸を紡ぐ技術は、稲作などと相前後して伝わってきたと言われているが、古来においては様々な言い伝えがあり、日本神話が収められている『古事記』や『日本書紀』の中にもいくつかが収められている。
『古事記』上巻にて高天原を追放されたスサノオ(須佐之男命)が、食物神であるオオゲツヒメ(大気都比売神)に食物を求めたところ、オオゲツヒメは、鼻や口、尻から様々な食材を取り出して調理して差し出した。
しかし、スサノオがその様子を覗き見て汚した食物を差し出したと思って、オオゲツヒメを殺してしまった。
すると、オオゲツヒメの屍体から様々な食物の種などが生じた。
頭に蚕、目に稲、耳に粟、鼻に小豆、陰部に麦、尻に大豆が生まれたという。
『日本書紀』神産みの第十一の一書にてツクヨミ(月夜見尊)がアマテラス(天照大神)の命令で葦原中国にいるウケモチ(保食神)という神を訪問したところ、ウケモチは、口から米飯、魚、毛皮の動物を出し、それらでツクヨミをもてなした。
ツクヨミは口から吐き出したものを食べさせられたと怒り、ウケモチを斬ってしまった。
これを知ったアマテラスがウケモチの所にアメノクマヒト(天熊人)を遣わすと、ウケモチは既に死んでいた。
ウケモチの屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。
アメノクマヒトがこれらを全て持ち帰ってアマテラスに献上した。
また、日本書紀における神産みの第二の一書にて火の神カグツチ(軻遇突智)を生んだために体を焼かれたイザナミ(伊弉冉)が亡くなる直前に生んだ土の神ハニヤマヒメ(埴山媛)は後にカグツチと結ばれてワクムスビ(稚産霊)を生むが、出産の際にワクムスビの頭の上に蚕と桑が生じ、臍の中に五穀が生まれたという説話がある。
これらの神話はいずれも食物起源神話と関連している事から戦前の民俗学者である高木敏雄は、これは後世においてシナ(中国)の俗説に倣って改竄したものであり、植物から作られた幣帛を用いる日本の神道には関わりの無い事であり、削除しても良い位だと激しく非難している。
だが仮にこの説を採るとしても、『古事記』・『日本書紀』が編纂された7世紀の段階で養蚕が既に当時の日本国家にとって重要な産業になっているという事実までを否定する事は出来ないと言えよう。
なお、蚕は『古事記』下巻の仁徳天皇記に再び登場し、韓人(百済からの帰化人)奴理能美(ぬりのみ)が飼育していた「一度は這う虫になり、一度は鼓になり、一度は飛ぶ鳥になる奇しい虫」(蚕)を皇后磐之媛命に献上する逸話が語られる。
三代実録によれば、仲哀天皇4年(195年)に奏の始皇11代の孫功満王(こまおう)が渡来して日本に住みつき、珍しい宝物である蚕(かいこ)の卵を奉献したとされ、豊浦宮(現在の忌宮神社)が蚕種渡来の地とされる。忌宮神社では毎年3月28日に、蚕種祭が行われ、昭和56年(1981年)から毎年、生糸つむぎと機織りの実演が披露されている。』
(「カイコ」(Wikipedia)より抜粋)
『7世紀の段階で養蚕が既に当時の日本国家にとって重要な産業になっている』ことは、古代の常識だったようである。
日本人の末裔である私たちは、あまりそのことを知らないようである。
2010-12-27 18:20
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