宮城山 福松~奥州街道(4-206) [奥州街道日記]

TS393483.jpgTS393483二十九代横綱出生地の石碑
TS393484.jpgTS393484「第29代横綱 宮城山 福松」の説明板
TS393485.jpgTS393485横綱出生地の街道

これまで街道で100泊もテントで野宿したのだから、今はどこでもテントを張れる自信が付いている。
だから日が暮れてきても何も心配はない。

そう前の記事で書いたのだが、やはり日が暮れてくると心細くなる。

例えば4km先に芝生の公園があって、そこでテント泊可能だとわかっているとすると、ずいぶんと気持ちが楽になる。

今の状況は未知の地域へ向かう自分であり、夕暮れの中でこの先数kmの状況はわからない。

暗がりの中で見える川原や公園などの様子から宿泊可否を自ら判定するしかない。

暗くなりかけた街道に黒い大理石の碑がどしんと立っていた。
「二十九代横綱出生地」とあり、そばの説明板には「第29代横綱 宮城山福松」と書かれている。

宮城山福松のWikipedia記事(一部以下に抜粋)によれば、「岩手県一関市山ノ目町五代の生まれ」とあるから、ここは山ノ目町五代という地である。

岩手県生まれなのに宮城山とは、これ如何に?

『宮城山福松(みやぎやま ふくまつ、本名:佐藤 福松(さとう ふくまつ)、1895年2月27日-1943年11月19日は、大相撲の力士で、岩手県出身力士では唯一横綱まで昇進した。第29代横綱に公認されている。
現役時代の体格は173cm、113kg。

来歴
1895年(明治28年)2月27日、岩手県一関市山ノ目町五代に生まれる。

1910年(明治43年)出羽ノ海部屋に入門し同年6月場所、岩手川の四股名で初土俵。
1912年(明治45年)5月場所に三段目になり、床山に当時許されていた大銀杏を結ってもらい喜んでいるところに、幕下の九州山が来て殴られたため逃げ出し廃業。
その素質を惜しんだ常陸山の勧めで大坂相撲の高田川部屋に移籍し、宮木山(のち宮城山)を名乗り幕下から再スタートを切った。
後に1921年(大正10年)3月に行われた合併興行で九州山に勝ち、その後互いに昔の無礼を詫びて和解の握手をした。

四股名は最初は岩手川だった。
大坂加入後に宮木山、後に宮城山。
岩手県出身でありながら宮城山の四股名を名乗ったのは、出身地が仙台藩の領地だったからと言われているが、岩手県民からは反感を買ったという。

1922年(大正11年)に吉田司家から横綱免許を授与される。大坂相撲の横綱としては宮城山が4人目で、それ以前には若島、大木戸、大錦大五郎の3人がいる。これが結果として大坂相撲では最後の横綱になった。なお現存する大坂相撲時代の写真で大木戸と宮城山の両者が締めている横綱は縒り方が逆である(上記写真と比較参照[1])。東西合併後の宮城山の写真は現在の縒り方の横綱を締めている。

ところが横綱免許直後瘭疽を患ってしまいほとんど休場ばかり。特に1923年(大正12年)1月から1925年(大正14年)5月場所までの成績は7勝2敗1分50休という状況であった。大正時代も末期になると、関東大震災で国技館を失い苦しむ東京相撲との合併の話が持ち上がり、番付統合のために合併場所が開催された(1925~26年、計3回)。ここで大坂力士は力量が東京力士より劣ることが判明し、大坂大関の荒熊は平幕の9枚目、錦城山は平幕の10枚目になってしまった。唯一東京と互角に取れた真鶴は平幕の筆頭になった。宮城山の実力評価は小結と判定されたが、吉田司家が認めた正式な横綱であるため、格下げするわけにも行かず張出横綱の形で編入させた。

迎えた合併後初の本場所である1927年(昭和2年)1月場所には、横綱常ノ花には負けるが10勝1敗で幕内最高優勝。次の3月場所では千秋楽に常ノ花を倒して全勝を阻み大坂相撲の面目を保った。しかし持病の影響もあり1928年(昭和3年)10月場所に9勝2敗で2度目の優勝を最後に賜杯は抱けず、皆勤での負け越しも3回記録した。1931年(昭和6年)1月場所では初日から前頭7枚目藤ノ里・同3枚目新海・同6枚目玉碇・同筆頭山錦と4日連続で金星を献上し、3度目となる皆勤負け越し(5勝6敗)でこの場所が事実上取り納めとなった。金星配給数は29個で一場所平均にすると1.71個、一場所11番の時代だったことを考えればきわめて多いといえる。このため晩年には土俵入りで「弱い横綱」との罵声まで出たという。以下略。』(宮城山福松(Wikipedia)より)


明治28年生まれの佐藤福松は、出身地が仙台藩の領地だったために宮城山を名乗ったということだった。

戊辰戦争の記憶がまだ残る時代の東北の人々にとっては、出身地の名乗りで生死が分かれるという印象が色濃くあったのであろう。
歴史は相撲人生にも大きく影響を及ぼしていた。

デビュー当時の最初の四股名(しこな)「岩手川」こそ、当人の素直な気持ちから生まれた相撲名であったと言える。
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Lesuphome

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by Lesuphome (2020-02-06 20:34) 

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