我思う、ゆえに我あり~奥州街道(4-184) [奥州街道日記]

山が間近に迫ってきているので、そろそろ有壁宿は終わりに近い。
宿場街を歩きながら「観世音」の意味を考えている。
「世の中を観て聞く」という意味ではないだろうか。
世の中のあらゆるもの、富んだ人や貧しい人、それぞれに菩薩が内在しており、菩薩の働きにより人は生きている。
今風に言えば、遺伝子の構造そのものを知恵の集大成をしたものとしての「菩薩」と表現したのであろう。
それは人間に限らず、世のすべてに通じる。
小さな野菊にも菩薩があり、その働きの妙(みょう)により、生命が育まれている。
花の色、葉の形、大きさなどを子々孫々に伝えている。
それは菩薩の働きであり、遺伝子のなせるわざである。
遺伝子工学などない紀元前6世紀に、釈迦はそのことに思い至ったのである。
すばらしい洞察力である。
観ることと聞こと(=音を感じること)を「世」にかけることで、世のあらゆるものに対してフィーリングを働かせるということを表している。
般若心経の中に釈迦の「無眼耳鼻舌身意」という言葉がある。
これらは人間の働きの総称であるが、それらはすべてが「無」であるという。
耳も鼻も体も意識さえも無いという。
確かに、30年後の私は火葬によって骨と灰になっているはずだ。
しかし骨だけは残る。
だから釈迦は「骨」が無いとは言っていない。
しかしそれ以外は何も残らないのだと喝破した。
『無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法(むげんにびぜつしんい むしきしょこうみそくほう)とは、
眼も、耳も、鼻も、舌も、身体も、心もなく、形も、声も、香りも、味わいも、触覚も、心の対象もない。
迷いや邪念や妄想を起こすのは、人間に眼・耳・鼻・舌・身・意の六根(ろっこん)が備わっているからであるが、「六根」によって、次の「六境」色・声・香・味・触・法を認識する。
六根と六境すなわち主観と客観が、相互に交渉していくことを「十二処」という。
この処は、迷いと邪念を生じる根元の場所という意味。』
(「般若心経解読」より)
http://blog.goo.ne.jp/4126nk/e/07a79d9f179c55e8a2b5cd787b7ceb63
「むげんにびぜつしんい」の下りは、「むげんにびぜつしんにい」と言ってもよい。
形はあまり気にしないでよいだろう。
漢字の意味を感じながら、それに近い音(おん)を発すれば唱和したことになる。
お経の読み方の上手下手なども「無」である。
釈迦の教えに従えば、小さなことを気にしないでよいはずだ。
この解説によると、野菊の「色」さえも「無」だといっている。
しかし、これは哲学的結論なのであり、釈迦の教えはその反対をも意味している。
つまり、私の「眼も、耳も、鼻も、舌も、身体も、心もなく、形も、声も、香りも、味わいも、触覚も、心の対象も」実際は「ある」のである。
生きている間だけは、それらの働きによって喜怒哀楽を感じることができる。
死ねば喜怒哀楽は「無」になる。
それらの体の不思議な働きは遺伝子プログラムのコントロールのお蔭様なのであるが、それを釈迦は「菩薩の働き」だと洞察した。
駄目な人間だと悩む人に対しても、「心配ありませんよ、あなたの中にはちゃんと菩薩さまがおられるから安心して生きていきなさい。」と遠まわしに励ましている。
生きていることを楽しんでいない人に対しては、釈迦は厳しく教える。
「どうせいずれあなたも無になるのですよ。生きている今を精一杯楽しみなさい。」と。
玄奘の「観自在菩薩」も同じサンスクリット文字を漢字に訳したのだから、内包する意味は同じである。
「じーっと世の中のすべてのことを観察すれば、自然とそこに菩薩様が広く存在していることに気づくだろう。」
出家者に対しては厳しい修行を行うことを「観る」というのだろう。
私たち在家のものにとっては、「自らのことを深く見つめる」ことを指している。
「我思う、ゆえに我あり」ということだ。
いつもぼーっとしていて、自分自身の存在価値だとか、人間とは何かだとかの思索をしないものには菩薩が見えてこないこと教えてくれている。
奥州街道4日目の昼近くを迎えている。
私の足は半分痺(しび)れはじめているが、足の弱かった皮膚が角質化し変化を起こしているので豆はできていない。
初めての東海道歩きでは豆だらけで泣きながら歩いていたが、5年間の街道歩きによって菩薩様は私の「身」をまるっきり丈夫な「身」に変えてくれたようだ。
豆ができない体質に変えてくれたのも菩薩の働きだし、「そろそろ無理をしないで」というサインのとして神経を麻痺させているのも菩薩の働きである。
昼になってお腹がぐーっと鳴った。
これも菩薩による腹腔圧(あるいは腸内圧)制御の結果である。
すべての私の体の作用は、遺伝子プログラムにしたがって生じている。
確かに遺伝子プログラムという名の「近代的な菩薩」は私の中にちゃんとある。
それに気づいたなら、私は私の体のことをこれまで以上に大事にしていくことができるだろう。
2010-07-31 22:52
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