観レバ自ニ在リ菩薩カナ~奥州街道(4-183) [奥州街道日記]

TS393351.jpgTS393351鳥居に「観世音菩薩」の字!
353px-Kano_White-robed_Kannon%2C_Bodhisattva_of_Compassion.jpg白衣観音図(狩野元信・画) (観音菩薩(Wikipedia)より引用)
TS393353.jpgTS393353『奥州三十三観音霊場』観音寺

有壁宿の町並みを楽しみながら北の方へ歩くと、すぐに宿場外れの雰囲気になる。
左手に大きな鳥居があるが、鳥居の上部には「観世音菩薩」と大書した扁額が掲げられている。

「観世音菩薩」とは確かインドの僧侶である鳩摩羅什(くまらじゅう)が般若心経を中国語訳したときの冒頭句「観世音菩薩」だったと思う。

釈迦の言葉がなぜ神社の鳥居に書かれているのだろうか?
鳥居の右下に細い石柱が立っている。

『奥州三十三観音霊場第二十一番札所』と読める。
これはお寺である。

鳥居があるから神社だと思い、奇妙な印象を持ってしまったのだが、霊場の札所ならばお釈迦様の教えを祀る寺である。

寺名は「観音寺」という。
私は街道に立って、小高い丘にある僧坊を見上げているだけなのだが、それでも大きなお寺であることがわかる。

有壁のこの寺について詳しく書いてある記事を見つけたので、それにより紹介したい。
街道歩きの先達の記事だと思われる。

『有壁の歴史は古く、町並みの最後尾にある観音寺(奥州三十三観音霊場第二十一番札所)は大同2年に坂上田村麻呂が三上大明神本地観音を建立し伝教大師を開山したと伝えられています。

一時は坊舎が24坊を数える大寺院でしたが衰退し、中世一帯を支配した菅原長尚が弘治3年に中興開山します。

近世に入り奥州街道が整備されると、有壁は峠前という地理的の要所という事で、元和5年(1619)に宿場町と整備され、有壁本陣を始め脇本陣、74軒にも及ぶ旅籠などがありました。

現在は有壁本陣や萩野酒造の土蔵などの古建築があり、町割りや敷地割りなどが大幅に変わっていない為、宿場町としての雰囲気を保っています。

特に新しく建替えられた住宅も瓦葺きの寄棟の建物が多く統一感を感じ、水場なども良く管理されています。 』
(「栗原市金成: 有壁宿町並み」より抜粋)
http://www.miyatabi.net/miya/kannari/arikabe.html 

「伝教大師を開山した」という表現がわからない。
伝教大師が開山したというのならわかる。

寺を開山するというが、人物を開山するとは言わないからだ。

おそらく伝教大師の許しを得て天台宗寺院として当初は開山したということだろう。

「菅原長尚が弘治3年に中興開山」とあるのは、廃れていた寺を再興したということだ。

弘治(こうじ)3年(15557)にはこういう出来事があった。

『信濃国川中島において甲斐国の武田晴信(信玄)と越後国の長尾景虎(上杉謙信)の軍勢が衝突(第三次川中島合戦)
この時代の天皇は後奈良天皇、正親町天皇。室町幕府将軍は足利義輝。』
(弘治 (日本)(Wikipedia)より)

比叡山延暦寺の僧「最澄(さいちょう)」のことを伝教大師(でんぎょうだいし)と呼ぶ。

『法名 最澄
法号 福聚金剛
諡号 伝教大師(傳敎大師)
宗派 天台宗

最澄(さいちょう)は、平安時代の僧で、日本の天台宗を開く。
近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。
生年に関しては天平神護2年(766年)説も存在する。

先祖は後漢の孝献帝(こうけんてい)に連なる登萬貴王(とまきおう)で、応神天皇の時代に日本に渡来したといわれている。』

最澄は中国からの渡来人だったのか。
今でいう帰化した外国人である。

遣唐使として中国にわたり、最澄は旧約聖書の漢字訳を持ち帰った。
しかし、キリスト生誕以降のことを書いてある新約聖書は空海がもち帰り、高野山に納めてしまった。

あとで密教の経典として大事な新約聖書がないことに気づいた最澄は、空海に新約聖書の貸し出しを求めるが拒絶される。

弟子にならないと教えることはできない。

ならばということで最澄は高野山に出かけて空海の下に弟子入りして新約聖書を見せてもらった。

これを今風に言えばこうなる。

密教だと思って最澄が日本の比叡山に持ち帰った経典がユダヤ教の聖典だった。
カトリックの新約聖書は空海が持ち帰っていたのだ。
あわてて最澄は聖書の借用を願ったが、信者でないものには見せないとにべもなく断られた。

よって最澄は高野山で空海から洗礼をさずかり、新約聖書を読ませてもらった。

以上は私の空想である。

だが、これは本当のことらしい。
高野山には秀吉に国外追放されたキリシタン大名高山右近の十字架付の兜が保管されている。
また高野山の僧侶は早朝のお経を読み上げる前に袈裟の胸元で手で十字を切るという。

お経とは、釈迦の語った言葉を弟子たちが代々口伝で伝えてきたものである。
その「言葉」をインドの古代文字サンスクリット語で書いたものがインドにある「釈迦の経典」である。

中国へ伝来させるには、サンスクリット語で書いたお経を漢文に翻訳することが必要となる。

鳩摩羅什は「般若心経」を訳すときに、最初の句を「観世音菩薩」と漢訳した。

『350年 インド出身の鳩摩炎(サンスクリット:Kumārayana)を父に、亀茲国王の妹のジーヴァカ(サンスクリット:Jīva)を母として亀茲国に生まれる。
356年 母と共に出家。
360年代 原始経典や阿毘達磨仏教を学ぶ。
369年 受具し、須利耶蘇摩と出会って大乗に転向。主に中観派の論書を研究。
384年 亀茲国を攻略した後涼の呂光の捕虜となるも、軍師的位置にあって度々呂光を助ける。
以降18年、呂光・呂纂の下、涼州で生活。
401年 後秦の姚興に迎えられて長安に移転。
402年 姚興の意向で女性を受け入れて(女犯)破戒し、還俗させられる。以降、サンスクリット経典の漢訳に従事。
409年 逝去。

臨終の直前に「我が所伝(訳した経典)が無謬ならば(間違いが無ければ)焚身ののちに舌焦爛せず」と言ったが、まさに外国の方法に随い火葬したところ、薪滅し姿形なくして、ただ舌だけが焼け残ったといわれる(『高僧伝』巻2)。 』
(鳩摩羅什(Wikipedia)より)

インド人の父を持つ鳩摩羅什は亀茲国王の妹であるお母さんの影響で出家したようだ。
今風に言えばインド人とペルシャ人のハーフということになろう。

『亀茲(キジ)国とは、古代にクチャを中心に栄えたオアシス国家名の漢字表記である。

7/14付け毎日には、1世紀昔にその一帯を探査した大谷探検隊を、「阿弥陀が来た道15-クチャに広がる石窟群」と言う見出しで紹介していた。

近畿日本ツーリスト編:「クラブツーリズムの旅 保存版」、'02/7/10号には、「西域シルクロードとタクラマカン砂漠縦断の旅10日間」と言う企画が載っていて、この砂漠周辺に点在する、クチャを含めた旧オアシス国家群の古跡を歴訪するグループ・ツアーを募集していた。』
(「亀茲国」より抜粋)
http://www005.upp.so-net.ne.jp/shigas/HOMPG580.HTM

これによれば、鳩摩羅什がサンスクリット経典の漢訳に従事したのは402年のことである。

日本では第17代履中(りちゅう)天皇の時代である。(336年~405年)
履中は、仁徳天皇の第一皇子で母は葛城襲津彦の女・磐之媛(いわのひめ)である。

日本では古事記に記載されているような「神代の時代」に、鳩摩羅十は既に知的な翻訳作業に従事していたのだ。

四国のお遍路さんたちが霊場に到着してからすぐにお経をあげているが、それが「般若心経」である。

しかし、現在のお遍路さんたちが読んでいる般若心経の出だしの句は「観世音菩薩」ではない。
「かんじーじざいぼーさつ」と大きな声で唱えている。

「観自在菩薩」である。
これはインドに旅をした唐人僧「玄奘(げんじょう)」の漢訳である。

私たちは孫悟空の傍にいつもいる美しいお坊さんの「三蔵法師」として、玄奘の空想上の姿を思い浮かべることができる。

645年1月に生死を賭けた厳しい旅の末に657部の膨大な経典を唐の都長安に持ち帰っり、翌月から漢訳を開始したものだ。

現代日本人が接することができるお経は、玄奘の翻訳書を原点としているといってもいい。

ところがここ有壁の観音寺の鳥居扁額には鳩摩羅什の「観世音菩薩」が書かれている。

「かんぜーおほぼーさつ」という読み方のほうが、「かんじーざいぼーさつ」というよりも、やや優しい響きがある。

母に手を引かれて仏道に入った鳩摩羅什の暖かさのようなものがあるのだろう。
これに対して玄奘の観自在菩薩は学者や哲学者のような厳格な雰囲気を感じる。

世の中の音を観る(=聞く)ということは、世相を見るという意味であろうか。

『鳩摩羅什(くまらじゅう)の旧訳では観世音菩薩と言い、当時の中国大陸での呼称も、観世音菩薩であった。
これには、観音経(妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五)の趣意を取って意訳したという説がある。

中央アジアで発見された古いサンスクリット語の『法華経』では、「avalokitasvara」となっており、これに沿えばavalokita(観)+ svara(音)と解され、また古訳では『光世音菩薩』の訳語もあることなどから、異なるテキストだった可能性は否定できない。

さらに、「世」の文字が唐の二代皇帝太宗李世民の名(諱)の一部であったため、避諱の原則により、唐代は「世」の文字は使用出来なくなった。
そのため、「観音菩薩」となり、唐滅亡後も、この名称が定着した。』(観音菩薩(Wikipedia)より)

うーん、いつもの事ながら仏教語の説明はわかりにくい。

聖書のように「誰が読んでも同じように理解できる言葉」でなぜ書かないのだろうか。
釈迦が実際に語った言葉は平易だったのではないかと思われるのだが、サンスクリット語が読めない私には想像するしかない。

ただ、『光世音菩薩』の訳語があることは、大変興味深い。
日本の歴史を大きく転換させた時代に「光」の文字を持つ人物が多く登場するのだ。

明智光秀、石田光成、将軍家光などである。
その気になって探せば、他にも重要人物が沢山浮かんでくるはずだ。

人名ではないが、攘夷の魁(さきがけ)となった下関「光明寺」なども興味深い。

観世音菩薩から「世」の文字が消えた理由はわかった。
中国では当時の皇帝の名前と同じ字は、一般の人が使ってはいけないことになっていたためだ。

「世」が消えて「観音菩薩」となったという。

『 「あなたはここにある白い紙の中に、ポッカリ浮かぶ白い雲が見えますか?」

ベトナムの僧侶、ティクナット・ハンさんの「般若心経〈ハート・スートラ〉」は、こんな書き出しで始まります。

「見えません。」とあなたは答えるでしょう。

ミルという言葉には、二つの漢字があります。
見る〈肉眼で〉と観る〈心眼で〉です。

白い紙の上に白い雲が、肉眼で見えたらすぐに眼科か精神科に駆け込んでください(笑!!)。

「観る」は観察するということです。
質問を変えると「白い雲なしに、この一枚の白い紙は存在することが出来ますか?」ということです。

あなたは「分かりません。」と答えます。

ではお答えしましょう。
一枚の白い紙は、紙になる前は木、樹木として存在していました。
樹木には水が欠かせません。
その水はどこから来ましたか?

そう、ポッカリ浮かぶ白い雲なしには、一枚の白い紙は存在しないのです。

でも実は、木を切る木こりのエネルギーなしには、運んでくるトラック運転手のエネルギーなしでは、太陽のエネルギーなしでは、一枚の紙はここに存在できないのです。

すべての物質は関わり合って、いまここに存在しています。
単独で勝手に存在しているものなどないのです。

それを「すべてはひとつ」と言うのです。

一枚の紙の中にさえも、さまざまなエネルギーが存在しているのです。
その存在の状態を仏教用語で一如〈一つのようなもの〉といいます。

この観察が出来る人のことを「観自在菩薩〈自由に観察できる人〉」と呼びます。

一如の世界とは真如〈本当の〉の世界なのです。 』
(「あなたも観自在菩薩」より抜粋)
http://mandalaya.com/kanji.html

「単独で勝手に存在しているものなどない」ということは、紙にも「人間」の上にも白い雲が見えるということだ。

鳩摩羅什の翻訳から240年後、中国の僧玄奘(げんじょう)は観自在菩薩と新しい翻訳を行った。

玄奘訳の「観自在菩薩」の解釈をわかりやすく説明した日本人がいる。
今その人物の名前を思い出せないが、たしか僧侶だったと思う。

「観(み)レバ自(じ)ニ在(あ)リ菩薩(ぼさつ)カナ」

「観れば自に在る菩薩なり」などと、多少振り仮名が違っているかもしれないが、概ねこういう七五の句にしていた。

じーっと自分の心の中を観察すると、自分の中にちゃんと観音様が座っていらっしゃるということがわかりますよという意味だ。

厳しい修行をして長い間悟りを捜し求めていた修行僧が、やっと見つけた観音様は実は自分の体の中にちゃんと座っておられたという意味である。

自分自身を観察すれば、観音様は自分の中におのずから存在するものだ。

すべての人間、一人一人がありがたいかけがえのない観音様なのだと教えている。
それは人間だけでなく、生きとし生けるものすべてが観音様だという教えでもある。

最初の五文字の解釈はそういうことであるが、字際に般若心経「262文字」を全部読んでみると、『自然と自分を大切にして、短い人生だけど明るく楽しく精一杯生きなさい』ということが書かれている。

おそらくお釈迦様は自身の哲学を、心経の最初の五文字に凝縮したのであろう。


ここ奥州金成の山奥にある観音寺の鳥居、そこにある文字が鳩摩羅什訳「観世音菩薩」となっていることに深い意味がある。

関東以西では、奈良時代以降新しい玄奘訳が輸入されており、その後「観自在菩薩」に統一されただろう。

ところが大昔に西方から(その昔はアジア大陸から)やってきた弥生人は当初はアイヌなど縄文人たちと仲良く暮らしていたのだが、「ある時代」から縄文人迫害が始まった。

やがて奥州は「蝦夷(えみし)」と大和族からさげすまれるようになり、文化程度の低い外国人としての差別扱いを受けることになる。

平安時代以降、いや桓武天皇の時代から、白河以北へは西からの新しい文化の伝来が停止されてしまったのではないか。

有壁宿の観音寺の鳥居の扁額を見あげつつ、古代日本における植民地化の流れを想像している。
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AddDync

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by AddDync (2018-04-24 18:58) 

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