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あねはの松~奥州街道(4-156) [奥州街道日記]

TS393244.jpgTS393244街道右手の草むらに案内板
TS393243.jpgTS393243金成町姉歯地区史跡案内
TS393245.jpgTS393245三界万霊供養塔案内柱

旧街道を歩いていると、右手の民家の庭先というか、家の前の畑の草むらに案内板が見えた。

私的なものと公的なものが混在するおおらかさは、私には慣れないものである。
つまり公的な説明板を見るために、民家の庭先に入ることになり、近代の法によれば個人の宅地内への「不法侵入罪」を意識せざるを得ないからだ。

奈良、平安の時代のおおらかさはこういうものだったのだろうか。
あるいは大和族がこの国を支配する以前の、日本列島の原住民たちの暮らしがおおらかなものだったのだろうか。

おそらく後者であろう。
だからこそ、朝鮮半島を経由して日本列島に渡来してきたユダヤ人たちは、このおおらかな国を自分たちの儲かるほうへと誘導することも容易だったのである。

ユダヤ人といってもピンとこないだろうが、多くは公家であり、明治以降は貴族となってこの国の利権を支配してきた。

第2次世界大戦で敗戦してもその構造は破壊されることなく今も温存されている。

誰が総理になっても何も代わらないような仕組みにしているのは彼らの知恵による。

ついつい古代日本列島征服のうらみつらみが沸いてきてしまった。

「金成町姉歯地区史跡案内」の説明を読もう。
「かんなりちょうあねはちく」と読む。

『一、これより東に100メートル
姉歯横穴古墳群
一、これより東に580メートル
鷹の羽清水
一、これより東に600メートル
姉歯上館(古館)
一、これより東に1,500メートル
姉歯御倉跡
一、これより東に1,800メートル
姉歯下館(新館)
一、これより東に2,500メートル
姉歯地区集会所(旧姉歯分校)入口に上下両館の由来碑
姉歯下地区集会所西方瑞満寺に中世姉歯氏族板碑、廟及び姉歯武之進の墓碑等あり

一、これより東に2,700メートル
姉歯の松(伊勢物語記)

昭和62年12月

金成町教育委員会』(抜粋終わり)


ここから東の方にたくさんの史跡があるという主張である。

文面からみると、「中世姉歯氏族」に関する遺跡のようだ。

伊勢物語の在原業平が詠んだ歌にあねはの松が出ている。

「栗原や あねはの松の人ならば 都のつとに いさといまわしを」

平安朝物語文学でみちのくの歌枕となっているほど有名な松である。

姉歯で検索してみると、「耐震強度偽装問題で姉歯秀次元1級建築士の証人喚問を行った。」という記事が出てきた。

現代はこちらの宮城出身の姉歯氏のほうが有名になっている。

姉歯の松を述べている江戸時代の文章を見てみよう。
天明3年に三河を出奔して46年間漂泊の旅を続けた菅江真澄(すがえますみ)という人物が書いたものだ。

『いでその処にいかんとて、「都のつとに、いざといはましを、あねはの松の人ならば」といくたびもずんじかへして、おもふこころをいふ。

都人いさてふこともなかなかに絶えてあねはのまつそひさしき

此の松のことは、用明天皇の御時、気仙の郡高田という処より、たれのむすめならん、都に行とて、此里にて死たり。

其しるしに植たる松を、又妹都へ行とて、あがあねのはか松なりとて、いたくなきて行がてに、なみだをぬくひしふところ紙の、ここらありとて、今紙下坂(カミヨリ)といふゆへやあいけん。

そが姉のはか松とも、又松浦佐用姫のあね、うつみしともいへり。

又義経、かみの郡に掛りて、いちの関を越へて、宮城野の原、つつぢが岡、ちかのしほがま、松ヶ浦島と申、名所名所見給ひて、三日横道にて候、かなよりの地蔵堂、瓶破山を越ては、昔、出羽郡司か娘、小野小町と申者の、すみ候ける、玉造むろの里とも申ところ、又小町が、関寺に候ける時、業平中将吾妻へくだり給ひけるに妹のあねはがもとへ、文かきて、ことづてしに、中将くだり給ひて、あねはを尋ねたまへば、空しくなりて年久しくなりぬと申せば、あねはがしるしはなきかと仰せられければ、ある人、墓にうへたる松をこそ、あねはの松とは申候へと申ければ、中将あねはが墓に行て、松の根にふみを埋めて、よみ給ひける歌

栗原やあねはの松のひとならは都のつとにいさといはましものを

とよみ給ひける。

名木を御覧じては、松山ひとつ越めれば、秀衡かたち近く候、とも書たり。

又、まちまちにいへりける、いにしへ、みやこより、松護山龕倉寺といふ御寺を、建給ひしなどいひ伝へたり。祐誉(タカ)のいへらく、

かくはかりとしてつもりぬる我よりも姉歯の松は老ぬらんかし

秀能朝臣は

くりはらや姉歯のまつをきそひても都はいつとしらぬ袖かな

と聞え給ひぬ、』(「菅江真澄全集・第十二巻」より)
http://www.st.rim.or.jp/~success/kasumu_12.html

「信州・東北から蝦夷地にいたる長い旅を重ねる。
享和元年(1801年)に再度の秋田入りをした際には白井真隅と名乗ったが、文化7年(1810年)の日記『氷魚の村君』(ひおのむらぎみ)からは菅江真澄を名乗っている。」(菅江真澄(Wikipedia)より)


先の案内板が遺跡が多くあるよと主張している東の方向を見る。

狭いアスファルトの車道とその右手に広い稲田が広がっている。
何百メートルも先に何があるかなどは私の目では見えない。

旅の途中のこの足で寄り道できる距離ではない。
民家の入口に立っている三界万霊供養塔だけお参りすることにした。

その他の遺跡を見たい人は、下記サイトに写真で解説されているのでお勧めする。
「栗原市金成」
http://homepage1.nifty.com/akabeko/kannari.htm

三界万霊供養塔の案内となる木柱にはこう書かれていた。

『江戸時代後期には、天候異変によりこの地方でもしばしば飢饉に見舞われました。
そのため食料の収穫も乏しく、多くの人々が犠牲になりました。
供養塔は、犠牲となった人々の供養のために建立されました。』

年貢(税金)で半分幕府に召し上げられていただろうから、納税免除してあげれば相当数の人が生き延びることができただろう。
朝廷や幕府の贅沢のために多くの人が死んでいったということだ。

就職難で生活苦の多い国民がいる中で、事業仕分けでさえも逃げ切れて贅沢を継続している独法や特殊法人がいる。
構造は中世とあまり変わっていない。


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