三界万霊牌~奥州街道(4-157) [奥州街道日記]
TS393246姉歯地区の風景
TS393247三界万霊供養塔の説明板
TS393248三界万霊供養塔
先に紹介した江戸時代の旅行家「菅江真澄」の文章には、ここを通った妹が「あがあねのはか松」と言ったと書かれている。
「あが」は「あれが」という意味。
「あねのはか松」とは「姉の墓松」である。
妹よりも先だって京都へ旅立った姉が病でこの地で死んだ。遺骸を埋めた場所を示すために松を植えたのであろう。
数年後に妹が京都へ向かう折にここを通った。
「あの松が姉の墓の松ですよ。」と言ったのだろう。
「あねのはか」が「あねのは」となり「姉歯」と転じたのかもしれない。
朝廷が地方の豪族に女官を差し出せと命令し、豪族の娘の中から綺麗なものを京都へと送り込んでいたのであろう。
女官といえば聞こえがいいが、女奴隷、性の奴隷として使われた可能性もある。
地元の人々にとって悲しみを共有できる姉の死だったに違いない。
だから後世にまでその悲しみを継承しているのであろう。
表面立って朝廷へはむかうことなどできないから、こうやって昔の悲しみをただ綿々と伝えているだけなのだろう。
私有地内に説明版がたっているのもそういうことがあるのかもしれない。
大和族の公有地には、蝦夷の豪族の娘の悲しみを記念する場所などないからだ。
蝦夷の悲しみは蝦夷の敷地で慰めるという意地でもあろう。
ここの三界万霊牌は、天明6年(1786)の大飢饉の死者の供養碑である。
説明板より抜粋する。
『姉歯の門屋敷前に「三界万霊供養塔」が建っている。
文化15年(1818)初夏の仏縁日の33回忌に姉歯馬場屋敷菅原三郎兵衛が建立したものである。
これは天明6年(1786)江戸時代後期には、しばしば飢饉が起り享保、天明、天保は近世の三大飢饉といわれ、惨状がはなはだしかった。
天明3年諸国飢饉、東北地方は最も被害甚大で、米麦は勿論雑穀の収穫も皆無に等しいので、牛、馬、鶏、犬の肉はもとより、雑草、樹皮まで食ったという。
また道路に倒れて死んでいく者、その数も知らず、始めは個々に埋めていたが後には誰もがかえりみる者もなく、屍は犬やからすの餌になったと記されてある。
当時の農民の飢饉の資料を全慶寺過去帳から天明6年死者55人、同7年23人、同8年61人、同9年19人、同10年には10人となっている。
全慶寺の檀家には当時沢辺の町だけだから150戸くらいであったろう。
これからみると天明8年には40%の家で死亡者が出たことになる。
一家で4人も死亡した例もある。
過去帳にあるのは葬式弔いのあった家のみだろうから、貧農で飢饉に堪えかねて知らぬ土地に行き野たれ死した者も相当あったと想われる。
平成5年3月
金成町教育委員会』(抜粋終わり)
三界万霊牌とは全国にあるものだ。
『寺には三界万霊牌がある。
境内に三界万霊牌の石塔のある寺も少なくない。
三界とは私どもが生まれかわり死にかわりするこの世界のことであり、万霊とはありとあらゆる精霊のことであるから、三界万霊牌はこの世のありとあらゆる精霊を合祀した位牌のことである。
どの寺でも三界万霊牌を祀っているということは、我が家の先祖だけでなく自地平等、すべての精霊に供養することの大切さを教えるものである。
私どもの先祖は二十代溯ると実に百万人を超すのである。
それだけ多くの先祖の方々がこの世に生存していた間、現に私どもがそうであると同じように、数多くの人々と親しい交流をもたれたことであり、その数は数え切れないものであろう。
これらの、我が家の先祖と親しい間柄にあった方々のすべてが子孫に恵まれておればよいのだが、すでに子孫が絶えて供養してもらえない精霊の数は実に多いのである。
そうした恵まれない精霊を先祖と親しい間柄にあったご縁をもって供養してあげることは人間的にみて誠に奥床しいことである。
それだけではなく、仏教では怨念平等といって敵味方共々に平等であるという立場から戦争の時など敵味方のわけへだてなく供養し、供養塔を建てたのであるが、残念ながら今日はそうしたおおらかさがなくなった。
せめて先祖供養と共に有無両縁の精霊に供養する施餓鬼の意義を忘れないでほしいものだ。』
(「第九十六話 三界万霊」より)
http://www.jtvan.co.jp/howa/Sato/houwa096.html
TS393247三界万霊供養塔の説明板
TS393248三界万霊供養塔
先に紹介した江戸時代の旅行家「菅江真澄」の文章には、ここを通った妹が「あがあねのはか松」と言ったと書かれている。
「あが」は「あれが」という意味。
「あねのはか松」とは「姉の墓松」である。
妹よりも先だって京都へ旅立った姉が病でこの地で死んだ。遺骸を埋めた場所を示すために松を植えたのであろう。
数年後に妹が京都へ向かう折にここを通った。
「あの松が姉の墓の松ですよ。」と言ったのだろう。
「あねのはか」が「あねのは」となり「姉歯」と転じたのかもしれない。
朝廷が地方の豪族に女官を差し出せと命令し、豪族の娘の中から綺麗なものを京都へと送り込んでいたのであろう。
女官といえば聞こえがいいが、女奴隷、性の奴隷として使われた可能性もある。
地元の人々にとって悲しみを共有できる姉の死だったに違いない。
だから後世にまでその悲しみを継承しているのであろう。
表面立って朝廷へはむかうことなどできないから、こうやって昔の悲しみをただ綿々と伝えているだけなのだろう。
私有地内に説明版がたっているのもそういうことがあるのかもしれない。
大和族の公有地には、蝦夷の豪族の娘の悲しみを記念する場所などないからだ。
蝦夷の悲しみは蝦夷の敷地で慰めるという意地でもあろう。
ここの三界万霊牌は、天明6年(1786)の大飢饉の死者の供養碑である。
説明板より抜粋する。
『姉歯の門屋敷前に「三界万霊供養塔」が建っている。
文化15年(1818)初夏の仏縁日の33回忌に姉歯馬場屋敷菅原三郎兵衛が建立したものである。
これは天明6年(1786)江戸時代後期には、しばしば飢饉が起り享保、天明、天保は近世の三大飢饉といわれ、惨状がはなはだしかった。
天明3年諸国飢饉、東北地方は最も被害甚大で、米麦は勿論雑穀の収穫も皆無に等しいので、牛、馬、鶏、犬の肉はもとより、雑草、樹皮まで食ったという。
また道路に倒れて死んでいく者、その数も知らず、始めは個々に埋めていたが後には誰もがかえりみる者もなく、屍は犬やからすの餌になったと記されてある。
当時の農民の飢饉の資料を全慶寺過去帳から天明6年死者55人、同7年23人、同8年61人、同9年19人、同10年には10人となっている。
全慶寺の檀家には当時沢辺の町だけだから150戸くらいであったろう。
これからみると天明8年には40%の家で死亡者が出たことになる。
一家で4人も死亡した例もある。
過去帳にあるのは葬式弔いのあった家のみだろうから、貧農で飢饉に堪えかねて知らぬ土地に行き野たれ死した者も相当あったと想われる。
平成5年3月
金成町教育委員会』(抜粋終わり)
三界万霊牌とは全国にあるものだ。
『寺には三界万霊牌がある。
境内に三界万霊牌の石塔のある寺も少なくない。
三界とは私どもが生まれかわり死にかわりするこの世界のことであり、万霊とはありとあらゆる精霊のことであるから、三界万霊牌はこの世のありとあらゆる精霊を合祀した位牌のことである。
どの寺でも三界万霊牌を祀っているということは、我が家の先祖だけでなく自地平等、すべての精霊に供養することの大切さを教えるものである。
私どもの先祖は二十代溯ると実に百万人を超すのである。
それだけ多くの先祖の方々がこの世に生存していた間、現に私どもがそうであると同じように、数多くの人々と親しい交流をもたれたことであり、その数は数え切れないものであろう。
これらの、我が家の先祖と親しい間柄にあった方々のすべてが子孫に恵まれておればよいのだが、すでに子孫が絶えて供養してもらえない精霊の数は実に多いのである。
そうした恵まれない精霊を先祖と親しい間柄にあったご縁をもって供養してあげることは人間的にみて誠に奥床しいことである。
それだけではなく、仏教では怨念平等といって敵味方共々に平等であるという立場から戦争の時など敵味方のわけへだてなく供養し、供養塔を建てたのであるが、残念ながら今日はそうしたおおらかさがなくなった。
せめて先祖供養と共に有無両縁の精霊に供養する施餓鬼の意義を忘れないでほしいものだ。』
(「第九十六話 三界万霊」より)
http://www.jtvan.co.jp/howa/Sato/houwa096.html
2010-07-11 13:00
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