瑠璃光と松陰~奥州街道(4-134) [奥州街道日記]

TS393147.jpg TS393147 双林寺の座禅堂と曼珠沙華(マンジュシャゲ)

吉田松陰は東北旅行の帰り道、奥州街道を南下した。
もし彼がここ瑠璃殿に立ち寄ったならば、きっと大内義隆のことを思ったに違いない。

薬師霊場の本堂は瑠璃光(るりこう)殿(でん)(あるいは瑠璃殿)と呼ばれている。

「三省堂 大辞林」によれば、「瑠璃光浄土」とは、 『薬師如来の仏国土。東方浄瑠璃世界。』のことであるという。

浄瑠璃という言葉は瑠璃光浄土から来ていたのか!
「東方浄瑠璃」とは、「薬師如来のいる世界。」のことである。

「光」は世界をさすのであろう。
つまり瑠璃光は「薬師のいる世界」となろう。

薬師がいれば病気にはならない。
つまり不老長寿の夢の国であろうか。

今は瑠璃殿は曹洞宗寺院の境内にある。
だから境内には座禅堂があった。
そのお堂の斜面いっぱいに真紅の曼珠沙華が咲いていた。

『ヒガンバナ(彼岸花、学名:Lycoris radiata)は、ヒガンバナ科ヒガンバナ属の多年草。
クロンキスト体系ではユリ科。
リコリス、曼珠沙華(マンジュシャゲ、またはマンジュシャカ サンスクリット語 manjusaka の音写)とも呼ばれる。
学名の種小名 radiata は「放射状」の意味。』(ヒガンバナ(Wikipedia)より)

あまり知られていないが「綺麗な花」には毒があるという通り、彼岸花には毒がある。

『有毒性
全草有毒で、特に鱗茎にアルカロイド(リコリン)を多く含む有毒植物。誤食した場合は吐き気や下痢、ひどい場合には中枢神経の麻痺を起こして死にいたる。

水田の畦(あぜ)や墓地に多く見られるが、これは前者の場合ネズミ、モグラ、虫など田を荒らす動物がその鱗茎の毒を嫌って避ける(忌避)ように、後者の場合は虫除け及び土葬後、死体が動物によって掘り荒されるのを防ぐため[1]、人手によって植えられたためである。

ただしモグラは肉食のため、ヒガンバナに無縁という見解もあるが、エサのミミズがヒガンバナを嫌って土中に住まない。
そのためにこの草の近くにはモグラが来ないともいう。』(同上)

孝謙天皇が寵愛したのは弓削(ゆげ)道鏡だった。

『生涯独身女帝の男僧への「寵愛」』と書くと、週刊誌の見出しのようになるが、実はそういうことではなかったようだ。

あくまで道鏡の政治能力、国家鎮護の力がすぐれていることを孝謙天皇は買ったのである。

藤原氏が歴代の天皇の側女に藤原家の女性を送り込み、生まれた子を天皇とし藤原氏が外祖父として政治実権を振るう時代に決別しようとしたのである。

つまり、孝謙天皇は律令政治を元の正しい姿に戻したいと願っていたのである。
藤原氏の政治は国家の私物化であり、その結果、国民の生活は疲弊していくのである。

孝謙天皇の病の快癒を祈ってこの薬師霊場を建立したのは、道鏡ではなかったのか?

そう思って調べてみたが直接道鏡とここ奥州薬師霊場との関係を語るものは見出せなかった。

「道鏡ゆかりの地」というサイトにはこの薬師霊場(現在の曹洞宗双林寺)のことは載っていなかった。
http://www18.ocn.ne.jp/~doukyou/shiryou/yukarinoti/yukari.html

称徳天皇(孝謙天皇)に流罪に処せられた道鏡は、それが藤原氏によるたくらみのせいであることは見抜いていたことだろう。

朝廷からの命令で島流しになっている以上、病に伏した孝謙天皇のご回復を祈ることはできなかっただろう。

私は道鏡による病気平癒の祈祷が、都から遠く離れた奥州でひっそりと行われていたと考えたい。

病気を治してくれる「薬師如来」とはどういう仏様であろうか。

『薬師瑠璃光如来・大医王佛などと言い梵語名Bhaioajya‐guru-vaidurya-prabha(バイシャジャ・グル・ブアイドーリャ・プラバ)の意訳である、瑠璃光浄土のguru即ち教主と医者集団のグルとに解釈される。

薬師如来の脇侍として日光菩薩・月光菩薩が随い、さらに十二神将が守護する構成となる、
十二と言う数字は薬師如来のたてた誓願の数に由来するとされる(新薬師寺・東寺 等)、但し薬師如来の脇侍であるが「薬王薬上菩薩経」には二菩薩が脇侍として説かれている、
特に東寺の場合は不空訳の「薬師如来念誦儀軌」に忠実に造像されている。

薬師如来に関する代表的な経典に玄奘訳の「薬師瑠璃光如来本願功徳経」所謂「薬師経」と義浄訳(注9)の「薬師瑠璃光七佛本願功徳経」すなわち「七仏薬師経」等がある、

阿弥陀如来の四八と同様に菩薩時代に本誓(ほんぜい)すなわち十二の誓願をたてる事により如来となった。

その他薬師如来関連の漢訳経典は「灌頂経第十二抜除過罪生死得度経」・7世紀頃に達磨笈多(ぐつだ)訳の「薬師如来本願経」・8世紀義浄訳「薬師瑠璃光七仏本願経」の等がある、

近年5世紀頃と推定される梵語の写本も発見された、

また密教と関連付けされる経典に「薬師七仏供養儀軌如意王経」「薬師瑠璃光如来消災除難念誦儀軌」が言われている。

薬師如来の供養法として続命法が行われており薬師如来を信仰する衆生を十二神将が守護すると言われている、

最澄に薬師信仰に篤かった事から台密に於いては阿閦如来と同尊とする思考も見られるが無理が考えられる。

インドに於ける古代信仰に長寿・投薬を司る神々の信仰から派生したとされる、

また初期仏教に於いて仏陀を医王と呼称されたとの言われる、供養の代表とも言える四事供養(注3)に「湯薬」がありインドに於いても信仰は確認されている。

薬師如来の特徴は大乗仏教を更にデフルメした如来であり、深遠な哲学の探究は無く物的欲望を満たす仏である

、即ちご利益が直接的・具体的であると言うことである、

十二の大願を取り上げてみると・光明普照(浄瑠璃浄土で仏に成れる)・除病安楽(病を治す)・安立大乗(解脱に導く)・諸根具足(障害者を治す)・苦悩解脱(悩みを取り除く)・飽食安楽・美衣満足・施無尽仏・安心正見など至れり尽せりで他の如来のような精神的・哲学的なご利益などでは無く非常に実利的かつ菩薩的なご利益である、

また神仏融合の先駆け的如来でもある。』(「薬師如来」より) 
http://www10.ocn.ne.jp/~mk123456/yakun.htm

山口県に曹洞宗保寧山「瑠璃光寺 (るりこうじ)」という寺があり、五重の塔で有名である。

『この兵乱(著者注:陶晴賢の反乱)で、弘世以来二百余年のこの小京都は火のなかでほろんだ。
いまは大内文化の遺構というのは、ほとんどない。
わずかにいまからゆく瑠璃光寺の五重塔ぐらいのものであろうか。
中略。

応永の乱で討伐された大内義弘(1356~99年)の霊を祀るために弟の大内盛見(もりはる)が嘉吉2年(1442年)に建立した。』(「瑠璃光寺 山口」より)
http://www1.odn.ne.jp/~vivace/rurikoji/rurikoji.htm

大内氏最盛期の頃、京都の朝廷は荒れ果てていた。

鹿児島に上陸したザビエルは、当時の最大都市山口へと布教に向かったのである。

その頃の名残を山口の瑠璃光寺は持つという。

同じサイトには、大内氏とザビエルの関係を詳しく解説していた。
長くなるがこのブログの本質的なテーマである吉田松陰につながるので抜粋する。

『フランシスコ・デ・サビエルと山口

フランシスコ・デ・サビエル(Francisco de Xavier:1506~1552)はナバラ王国サビエル城で生まれた。

天文10年(1541年)、イエズス会宣教師としてキリスト教布教のために出発、途中インドのゴアを経て日本に到着したのは天文18年(1549年)8月15日のことである。

サビエルは日本人は礼儀正しく知識欲も旺盛な人種としてかねてより高く評価しており、イスラム教やユダヤ教の流布していない新天地で神の国の樹立を目指したのであった。

鹿児島到着後、日本での布教の許可を得るために京へのぼることを意図していたサビエル一行は、天文19年(1550年)10月、日本語を理解できるようになったフェルナンデス修道士と鹿児島で受洗したベルナルドを伴って鹿児島を出立し、都へと向かった。


瑠璃光寺
大内氏と大内文化
雪舟と周防
フランシスコ デ サビエル

山口を訪れたのは天文19年(1550年)11月のことである。
ヨーロッパ人宣教師の目に当時の日本は、神聖ローマ帝国を頂点とするヨーロッパと類似している様相を呈していると移ったようである。

京の都には日本を統一する天皇がいるが中央政府には求心力が無く、力ある地方大名が地域を分割して統治し、その勢力圏を拡大するために絶えざる戦いを繰り返している・・・
全くヨーロッパと同じではないかと宣教師達は判断し、島津氏を薩摩の王、大友氏を豊後の王、大内義隆を山口の王と見なした。


豪華な築山御殿を中心に武家屋敷、町人・商人の家並みが整然と並ぶ「西の京」山口には一万世帯が居住していたと伝えられる。

しかし山口には既に頽廃の兆しが濃く、政治・軍事から手をひいた義隆は詩歌・管弦・快楽に溺れ、一般にも道徳の乱れが顕著で、サビエルや随行者達を唖然とさせた。

サビエルが訪れた頃の山口をルイス・フロイスは次のように述べている。

・・・数日にわたる困難な旅行を終えて、彼らは、周防国の主都で、きわめて人口の多い、富貴な町山口に着いた。その町の王は大内殿といって、当時日本の最も有力な王であり、その侍臣や御殿の豪華さや経費はすべての他の殿にまさるものがあり、その放恣(ほうし)な振舞いと奔放な邪欲とに耽っているうえに、彼は自然に反するかの恥ずべき罪にも身をやつしていた。・・・
ルイス・フロイス「日本史」

到着した山口の様子はサビエルの書簡から推し量ることも出来る。

・・・ファン・フェルナンデス、(鹿児島で信者になったベルナルド)と私とは日本(で最強)の領主(大内義隆)がいる山口と呼ばれる地に行きました。
この町には1万人以上の人びとが住み、家はすべて木造です。
この町では武士やそれ以外の人々多数が私たちの説教する教えがどんな内容のものか、知りたがっていました。
・・・・・中略・・・・・

このようにして私たちが家いえに(招かれたり)街頭に立って説教して宣教する幾日かが過ぎた後、その町に住んでいる山口の領主は、私たちを招くように命令され、種々さまざまなことをお尋ねになりました。

どこから来たのか、どのようなわけで日本に来たのか、などと尋ねられました。

私たちは神の教えを説くために日本に派遣されたもので、神を礼拝し、全人類の救い主なるイエズス・キリストを信じなければ誰も救われる術はないと答えました。

領主は神の教えを説明するように命じられましたので、私達は(信仰箇条の)説明書の大部分を読みました。
読んでいたのは1時間以上にも及びましたが、そのあいだ、領主はきわめて注意深く聞いておられました。

その後私達は(御前を退出し)領主は私達を見送って下さいました。

私達はこの町に幾日も逗留して、街頭や家の中で説教しました。・・・・

「聖フランシスコ・ザビエル全書簡」より
( )内は注

道徳の乱れを正すために山口に立ち寄ったサビエル一行が家々に招かれて、教えを説いた様子が書かれている。

当時山口には多くの文人墨客が訪れ、こうした人々を家に招いてもてなし、話を聞くことが流行であったようである。
サビエル一行を畏敬をもって招いたのは大内家の重臣、内藤興盛と嫡子・隆春で、内藤氏の斡旋によってサビエルは大内義隆に謁見することができた。

謁見の様子は上記サビエルの書簡では義隆が一行を受け入れたように書かれているが、同行のフェルナンデス修道士の記述によれば、彼らが日本人の偶像崇拝、日本人の悪習、男色の罪等を非難すると、大内義隆は激昂し、彼らに立ち去るように命じたとある。

1ヶ月あまり山口での布教を続けた一行は12月、京へ向かって旅立ったが、戦乱の京で貧しいみなりで、しかも天皇への献上品を持たない一行は省みられることなく、11日間の滞在の後、再び京を離れ、平戸へ戻った。

平戸にはサビエル到着前にポルトガル船が来航し、サビエル宛にマラッカからインド総督からの手紙や献上品が届いていた。サビエルはこれらを携え、山口での布教を目指して再度、山口へ向かった。

今回のサビエルはインド総督使節として絹の服をまとい、インド総督とゴアの司教からの親書、珍しい献上品の数々を携えて大内義隆に謁見したので、義隆は返礼として廃寺となっていた大道寺を彼らに与えて布教を許可した。旧大道寺付近には現在「ザビエル公園」がある。

又、亀山公園のザビエル聖堂のステンドグラスにはサビエルの一生が描かれており、その内の1枚はサビエルが大内義隆に謁見している図である。

サビエルが義隆に差し出した献上品は望遠鏡、火縄銃、装飾時計、ガラス製品、オルゴール等、義隆が目にしたことがない品々ばかりであったという。

サビエルの書簡は次のように続く。

・・・神の聖教えを述べ伝えるためには、ミヤコは平和でないことがわかりましたので、ふたたび山口に戻り、持ってきたインド総督と司教の親書と、親善のしるしとして持参した贈り物を、山口候に捧げました。

この領主は贈り物や親書を受けてたいそう喜ばれました。
領主は私達に(返礼として)たくさんの物を差し出し、金や銀をいっぱい下賜されようとしましたけれど、私達は何も受け取ろうとしませんでした。

それで、もし(領主が)私達に何か贈り物をしたいとお思いならば、領内で神の教えを説教する許可、信者になりたいと望む物たちが信者となる許可を与えていただくこと以外に何も望まないと申し上げました。

領主は大きな愛情をもって私達にこの許可を与えてくださり、領内で神の教えを説くことは領主の喜びとするところであり、信者になりたいと望む者には信者になる許可を与えると書き、領主の名を記して街頭に布令を出すことを命じられました。
・・・・・「聖フランシスコ・ザビエル全書簡」より

こうして山口での布教活動が始められ、2ヶ月間に500名の信者を得ることができたと伝えられる。
この時の信者の中に元琵琶法師であったロレンソがいる。

天文20年(1551年)8月、ポルトガル船が豊後に入港したとの便りに、サビエルは9月半ばに山口を離れ豊後に向かい、豊後で領主・大友義鎮に丁重に迎えられた。
山口には代わりにトルレス神父が派遣された。

この間、山口では陶晴賢(すえはるかた)の反乱が起こり、大内義隆は自刃した。

トルレス神父とフェルナンデス修道士は内藤興盛の屋敷にかくまわれ難をのがれた。
サビエルは山口に戻ることなく、11月、2年3ヶ月の滞日を終え、日本を去った。
サビエルの後、トルレスが日本布教長として山口を根拠地として布教が続けられた。

大内義隆自刃後、陶晴賢は豊後の大友義鎮の弟で大内義興の甥・義長を領主とした。』(同上より引用)

大内義隆自刃後に大内家の人々がどうなったのかかかれていない。

一部子孫は逃亡し山口の2箇所に分かれて潜んで暮らしたという。
その片方が萩の玉木家である。

大内氏の子孫は環(たまき)家を名乗り、長い月日の経過をへて玉木家となった。

その家に養子に迎えられたのが吉田松陰の叔父、文之進だった。

玉木文之進は松陰を激しいスパルタで国家軍事を考える軍師として育てた。
その松陰が明治維新の長州藩の原動力となる青年たちを育てたのである。

ザビエルが山口で洗礼を授けた大内氏の家族や重臣たちとその家族、彼らは山口に潜伏したのである。

信仰を果たして捨てていたのだろうか。

救世主の教えとはそれほど簡単に捨てられるものではないだろう。

ザビエルの教えは山口の2箇所で百数十年間にわたっていき続けて、幕末に爆発したのではないだろうか。

奥州の薬師霊場、瑠璃殿にて、山口の瑠璃光寺を思っている。


読者の皆さんはお気づきであろうか。

大内氏、吉田松陰、ザビエル、平戸、平戸藩主松浦(まつら)氏、という歴史上の重要な点は、細いながらもしっかりと一本の線でつながっているのである。

その糸は、幕末においてザビエル上最初の陸地「薩摩」へと結んでいき、明治維新革命を起こすことになる。


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