女帝孝謙天皇~奥州街道(4-134) [奥州街道日記]

TS393143.jpgTS393143小さなお堂
TS393144.jpgTS393144なんだか古代民族の懐かしさを感じる建築構造
TS393145.jpgTS393145祠には「鐘」、孝謙天皇の健康を祈ったのだろうか


先の記事で紹介した「薬師霊場の御由来」に、「天平宝字四年(奈良時代西暦760年)に第四十六代孝謙天皇が開創された勅願霊場であります。」とあった。

その由来にあった孝謙天皇とは、さまざまな歴史的な議論を持つ女帝である。

『天平宝字4年(760年)、光明皇太后が死去。翌年、病に伏せった孝謙上皇は、看病に当たった弓削氏の僧・道鏡を寵愛するようになるが、それを批判した淳仁天皇と対立する。天平宝字6年(762年)に孝謙上皇は平城京に帰還し、5月23日(6月23日)に法華寺に別居、その10日後、尼僧姿で重臣の前に現れ、淳仁天皇から天皇としての権限を取り上げると宣言した。
中略。

称徳天皇
光明皇太后の後見を無くした仲麻呂は天平宝字8年(764年)9月に挙兵(藤原仲麻呂の乱)するが敗れ、同年10月淳仁天皇を追放して孝謙上皇が重祚し、称徳天皇となった。即位後、道鏡を太政大臣禅師とするなど重用した。

また下級官人である吉備真備を右大臣に用いて、左大臣の藤原永手とのバランスをとった。
天平神護元年(765年)には墾田永年私財法によって開墾が過熱したため、寺社を除いて一切の墾田私有を禁じた。

神護景雲3年(769年)、大宰府の主神(かんづかさ)中臣習宜阿曾麻呂が「道鏡が皇位に就くべし」との宇佐八幡の託宣を報じた。これを確かめるべく、和気清麻呂が勅使として宇佐八幡に送られたが、この託宣は虚偽であると復命した。

これに怒った道鏡は清麻呂を因幡員外介として左遷し、さらに称徳天皇は清麻呂を除名し大隅国へ配流した(宇佐八幡宮神託事件)。
その後、道鏡の故郷である河内国に由義宮を造営した。

しかし翌年、称徳天皇は河内の由義宮に行幸し同地を西京とする旨を宣したのち、病臥、100日余で崩御した。

このとき、看病の為に近づけたのは宮人(女官)の吉備由利(吉備真備の姉妹または娘)だけで、道鏡は崩御まで会うことはなかった。
病気回復を願う祈祷が行われたとの史料がないことから、医療行為を施されず見殺しにされたとの主張(祈祷は現代では迷信だが、当時は立派な医療行為のひとつであり、当時の人間の主観としては祈祷を行わなかった事は、医療行為をせず見殺しをしたに等しい/井沢元彦の主張・逆説の日本史)や、さらに踏み込んで暗殺説もある。

称徳天皇は皇位継承者であったことから生涯独身を余儀なくされ、子をなすこともなかった。

また、それまでの権力闘争の結果、兄弟もなく、父聖武天皇にも兄弟がなく、他に適当な天武天皇の子孫たる親王、王が無かったため、藤原永手や藤原百川の推挙によって天智天皇系の白壁王(光仁天皇)が即位した。

また、道鏡は失脚して下野国に配流され、彼女が禁じた墾田私有は再開された。』(孝謙天皇(Wikipedia)より)

藤原仲麻呂との確執、僧道鏡を皇帝にしようとしたこと、天武系最後の天皇であること、オクリナに「徳」の文字を持つ天皇(怨霊鎮魂の語)などである。

オクリナに徳を持つ人物は暗殺されて恨みを抱いて死んでいった可能性がある。
だから「徳」をおくるのである。

祟徳上皇、聖徳太子も同じ意味を持つオクリナ(死後の呼び名)である。

彼女が禁じた墾田私有が死後再開されたが、これが律令政治(土地はすべて国有)を崩壊させ、武士の軍事力を増強し、後に武家政権を作ることへとつながる。


nice!(0)  コメント(1)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 1

Cialis purchasing

沒有醫生的處方
acquisto online cialis http://kawanboni.com/ Cialis canada
by Cialis purchasing (2018-04-14 07:46) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。