呉服屋のシュロ~長州(101) [萩の吉田松陰]

SH3B0410.jpgSH3B0410一直線に城下町へ
SH3B0411.jpgSH3B0411女台場
SH3B0412.jpgSH3B0412キヌヤ菊が浜店のシュロ並木
SH3B0413.jpgSH3B0413シュロの壮観

キリシタン殉教地をあとにして、私は城から城下町へと下っていく。
このまっすぐな道は藩主が通った御成道(おなりみち)だろうか。

城下を国道に沿って東へと進む。
民宿「女台場」の看板があるが、このあたりを左折し海岸へ出ると、台場の跡があるという。
松陰が女たちに築かせた台場だと思って調べてみたが、そういう記事は見当たらない。

どうやら外国船に下関でこてんぱんにやられてから、あわてて毛利藩がやったもののようだ。

村田清風の言葉に攘夷をあらわすこういう詩があった。

「敷島の大和心を人とわば 蒙古の使い斬りし時宗」

鎌倉時代の外国人防御は防塁でよかったのだが、江戸末期に防塁で黒船を撃退できる訳がない。
松陰ならそれを気づいていたことだろう。

「無駄な労働をさせている」と。

萩市大字今魚店町付近にある菊ヶ浜台場跡がそれで、女台場公園として整備されている。

『文久三年(1853)5月10日の攘夷決行の日、下関の萩藩馬関砲台は関門海峡を通過する外国船に砲撃を加えたが、反撃を受け、大損害を被った。

これを機に萩藩は外国船の来襲に備えて菊ヶ浜に土塁の築造を住民に命じた。

土塁の築造に当たって、特に武士の妻や奥女中の功績が大きく、通称「女台場」と言われている。
また、山口県を代表する民謡「男なら」はこのときの作業唄として歌われたもの。
現在、高さ3メートル、幅12メートルの土塁が50メートルにわたって比較的よく旧態を保っている。 『菊ヶ浜台場跡案内板』より』
(「菊ヶ浜台場(女台場)跡」より抜粋)
http://www.siromegu.com/castle/yamaguti/kikugahamadaiba/kikugahamadaiba.htm

この防塁は、幼児、老人、女中など多くの住民によって築かれたという。
武士の妻や奥女中の功績が大きかったことは、松陰による兵学教授の功績でもあろう。

こういういざというときのために、武家は米を藩主から給付されて生きてきたのである。
「今働かないでいつ働くのか」という危機感が武士の家族にもあったのである。

あいにく女台場見物は予定にない。
私は野山獄へと歩いている。

途中、呉服屋スーパーの店沿いにすばらしいシュロの並木を見た。
写真でも7~8本は敷地内に確認できるから、10本以上あっただろう。

これは単なる植栽や飾りではないだろう。
明らかな信仰に基づいて大事に管理しているのだ。

奥州街道を歩いているとき、めったに見なくなった平泉以北で珍しくシュロを見たのもやはり呉服屋の玄関先だった。

呉服屋の前のシュロのことは、新興キリスト教を奥州街道で布教しながら自転車を漕いでいた外国人青年も知っていた。

古代から日本人がシュロを大事にしてきた理由はあの外国人青年にはわかならないだろう。
彼の母国でまだインディアンが生息していた時代の出来事だからだ。

私は天台真言密教の時代に、中国の景教(ネストリウス派キリスト教)が密教と習合して日本へ入ってきて、旧約聖書の教えにあるナツメヤシの枝で神を祝う習慣が根付いて、禅宗も密教の流れを汲んだものと推測している。

だから豪商や醸造業を営む商人がシュロを大事にするのは、彼らもその意味はよくわかっていないようだ。

密教とはそういう教えなのである。
一部の人しか事実を知らせていない。

シュロがいいといわれたからシュロを植えただけで、それ以上の意味がシュロの枝に宿っていることは教えられていない。

旧約聖書をよく読めば書いてあるが、それは漢字で書かれ漢字のお経本と混ざって高野山に納められている。
空海が唐から持ちかえってきた。

最澄はうかつにも新約聖書しか持ち帰らなかった。

それを見るために最澄は空海に弟子入りする必要があった。
自分の弟子にならなければ見せないと空海が言ったのである。

庶民は読む必要などないのである。

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