バルトロメオ大村純忠の眼差し~長州(100) [萩の吉田松陰]

SH3B0409.jpgSH3B0409天野元信殉教碑

写真は熊谷元直とともに殺されたキリシタン藩士天野元信の殉教碑である。
その前で私は考えている。

ここ萩キリシタン殉教者記念公園は、私が事前に想像したものとはかなり異なったものだった。

村田清風居宅に近い位置に住むキリシタンがいたと想像していたのだが、彼らは江戸時代中期に迫害にあい、阿武郡の山の中に逃げて隠れ住んでいた。
幕末には萩城下には住んでいなかった。

ここのキリシタンは長崎の浦上崩れによりその一部が萩へと送られてきたものだということがわかった。

しかし、その記述の中で外国からキリシタン迫害を非難され、新政府が官吏を派遣し実態を調査したことが書いてあった。

調査のあとで、萩だけは一層待遇が悪化したという下りには妙にひっかかるものがある。
その他の藩では、あとで待遇が改善しているのである。

外国からの圧力をはねつける力が明治初年の長州藩内にはあったということだ。

『中略。

彼らが収容されたのが、岩国屋敷という場所でした。
広い敷地内に建物はありましたが、馬小屋に住まわされたり、光も差さない勘弁小屋に入れ、20~30日もの間食物を全く与えないということが、日常的に行われていました。

浦上キリシタンの碑
明治4(1871)年諸外国からの非難を受け、楠本正隆が実態を調査するため岩国屋敷を訪問しました。
巡察後他の地域では待遇が良くなったのに、ここではより悪くなったと証言されています。

明治5(1872)年帰村が許されると、改心していた者たち26名が早速改心を取り消し、翌年に長崎に帰るまで草鞋を作るなどの内職をしました。

明治6(1873)年、ようやく長崎に向けて出発できるようになりましたが、それまでに43名の命が失われていました。
以下略。』(「萩キリシタン殉教者記念公園」より)
http://tenjounoao.web.fc2.com/mysite1/place/yamaguti/hagijunkyousya.html

キリシタン迫害の実態を調査したのは楠本正隆である。
大久保利通の片腕となっていた人物で、長崎大村藩の生まれである。

「旧楠本正隆屋敷」という観光案内にこう書いている。
http://www.jalan.net/ou/oup2000/ouw2001.do?spotId=guide000000164657
『旧楠本正隆屋敷から約4.1km

大村純忠は,日本最初のキリシタン大名。洗礼名バルトロメオ。
長崎開港,南蛮貿易,キリスト教保護の外交政策を展開し,天正10年にはローマ法王へ少年使節を派遣。
ここは純忠が最晩年隠居してすごした場所である。』

有名なキリシタン大名であるバルトロメオ大村純忠の晩年の隠居部屋は、旧楠本正隆屋敷から約4.1kmのところにあるという意味である。

大久保は大村藩がキリシタン信仰に篤い藩であることから、事情に詳しい楠本を浦上事件の調査担当に命じたのである。

その調査があったあとで、なぜ萩藩だけはキリシタンへの迫害に激しさを増していったのか、大いなる謎である。

神経戦のような「いやらしさ」を感じるのは私だけだろうか。

新政府の要人となっていた井上馨、木戸孝允、伊藤博文などの元長州藩士たちが、萩にキリシタン改宗のための信者預かりを受け入れた理由も同じものであろう。

この国でキリスト教が普及するのを好ましく思わない宗教家がいて、それが革命にも深く関与していて、革命成就後に長州藩内で発言力を増していたのであろう。

松陰自身は儒教に基づく尊王の精神が旺盛で、神道を重んじていたが、他の宗派を攻撃するような考え方はしていなかったと思う。

自然と私には、月性と三条実美の顔が浮かんでくるが、あるいは岩倉の上に立つ公家か皇族かも知れない。

公家や皇族の中にも隠れキリシタンはいたであろうから、それらの中の権力闘争と関係があったのかも知れない。

関が原のあと安芸の毛利氏が萩へやってきたとき、萩に居住していた元山口のキリシタンたちと同じくキリシタンであった安芸熊谷氏が結びつこうとした。
結果的に安芸熊谷氏一族は殺害され葬りさられた。

政権内の基盤変化によって複数の特定宗教集団が結合するときに、ある脅威が発生する。

明治維新でもキリスト教集団が結束し膨張する脅威が具体化してきていたのだろうか。
とくに武器を大量に輸入していた長崎では商業を通じてか隠れキリシタンが実力財力を身につけていたことは容易に想像できる。

グラバーもシーボルトも彼らの勢力伸張を応援してくれたはずだ。

それを潰す目的でわざとバテレンを来日させたとすれば、浦上崩れは相当な謀略家の仕業である。
外国の要請による調査のあとで、更に待遇を悪化させるという手段も同じ根に発している。

大化の改新の際に中臣鎌足が暗唱するほど読み込んでいたという『六韜』(りくとう)の世界を思い出させてくれる。

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