戦国大名とキリシタン~長州(91) [萩の吉田松陰]

SH3B0366.jpgSH3B0365これより堀内
SH3B0366.jpgSH3B0366遊覧船乗り場に蘇鉄
SH3B0367.jpgSH3B0367萩城址入口信号

萩城近くにあるキリシタン殉教地のことを城下町の観光案内所の人たちもあまりはっきりとわからなかったようだ。
私が萩観光パンフレットにその名が書かれていることを告げると、地図を見てその場所なら城の近くだと教えてくれたのだ。

堀の外にある城下町には、一般の武士と庶民が住んでいた。
この橋を渡ると堀内といい、毛利氏の近親縁者など高貴な身分の武家が住むエリアとなる。

そこになぜキリシタン殉教碑があるのだろうか。

戦国大名とキリシタンの深い関係が浮かんでくる。

山口では、大内義隆の時代にザビエルに布教を許可したので、大名の家臣や家族に洗礼を受けたものが多い。

大名の多くは戦場に小姓を伴うので男色趣味があり、その趣味を辞めねば洗礼を受けられなかった。
高山右近はその趣味がなかったか、あるいは辞めたからキリシタン大名になれたのだ。

つまり、多くの戦国大名が「ホモ趣味」を捨てきれずに、先進国の文明と深いご縁を持てるはずの洗礼を受けることができなかった。

しかし、南蛮渡来の火薬と鉄砲は是非ほしい。
強いものが勝つ戦国時代である。

よって大名の家族や家臣をキリシタンにすることによって、宣教師を介してポルトガル商人から鉄砲・火薬などを大量に購入することが可能となった。

織田信長はその手を積極利用して勢力を伸ばしていった。

この堀内こそ昔の戦国大名やその家臣だったキリシタンたちが多く住んでいた可能性がある。
そう私は感じながら歩いている。

毛利が広島から萩へ移される以前に萩城に住んでいたのは、石見の国領吉見正頼や家臣であったが、正頼の正室が大内義隆の姉である。
周布家も石見の武将であった。

その周布政之助の顕彰碑は、山口のザビエル聖堂近くの坂道に来島又兵衛の碑とともにある。

ザビエルが萩へ足を運んだ可能性は高い。
彼はインドネシアの島々で布教のために人食い人種のいるジャングルへ単身入り込んでいったほどの人である。

大内義隆の姉が石見の大名の正室であるという貴重な人脈である。
ザビエルがそれを生かさないわけがない。

堀には石橋がかかり、そのそばに遊覧船乗り場があった。
観光客数人が船を待っていた。
その桟橋に大きな蘇鉄の葉が3つ風にそよいでいた。

島津藩主の居宅(別荘)磯亭の庭からもこの蘇鉄が見える。

蘇鉄とシュロ、ナツメヤシは、お互い葉の形が似ているようだ。

堀を渡ったのでここは堀内町となり、これから先は城に最寄の屋敷街となる。
萩城址入口信号を通る。

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FranPleFe

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by FranPleFe (2019-06-14 00:42) 

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