「この花の」~長州(36) [萩の吉田松陰]
SH3B0115この花の 松陰を生み 志士を生む
SH3B0116あたりに花は見当たらない
SH3B0117二人の銅像
芍薬(Wikipediaより引用)
松陰の墓所の隣、高杉の草庵の道路向かいの斜面の上に、二人の銅像がある。
大方の銅像は一人であるが、この銅像は二人で人セットだ。
長い階段があり暑い最中に登るのをためらいたくなる。
階段上り口に石碑がある。
自然石の正面一部のみを平らにして、そこに文字を刻んだものだが、苔むしている。
「この花の 松陰を生み 志士を生む」
作者の名が書かれているが、崩して書いてあるので私には読めない。
私は日本人なのに、旧日本語体を読めない。
そばにある案内板に著者名と略歴がかれていた。
『伊藤柏翠(勇)(1911~1999)
高浜虚子に師事。俳人。
俳諧「花鳥」主宰。
日本伝統俳句協会副会長。
東京都浅草生まれ。
福井市在住。
昭和7年鎌倉にて病気療養中より作句現在に至る。
昭和56年より毎年来萩。
萩花鳥句会を指導。
句集「虹」「越前若狭」他』(抜粋終わり)
高浜虚子の弟子で俳人である。
俳諧「花鳥」主宰というから、松陰が俳句でもやっていたのだろうか。
いやいや、正岡子規は松陰の後の人で、高浜虚子はその弟子である。
強いて言えば、松尾芭蕉の俳句を松陰は好んでいたのだろうか。
あまりその手の話は聞かない。
石碑の周囲を見渡しても、「この花」らしき花は見当たらない。
私の目に見えるのは、羊歯(しだ)類の葉と、蕗(ふき)の葉と苔むした岩くらいである。
句碑に「松陰を生み」とあるが、松陰虎之助を生んだのは杉滝子である。
また、松陰を育てたのは玉木文之進である。
決して「花」ではない。
しかし、伊藤柏翠(勇)は、松陰や志士を生んだのは「この花」であるという。
神様の名に、それに似た名前がある。
「コノハナサクヤヒメ」である。
しかも、「サクヤヒメ」という花は存在する。
『サクヤヒメ
サクヤヒメ (咲耶姫 学名P. ×yedoensis Matsum. cv. Sakuyahime )はバラ科サクラ属の植物。
ソメイヨシノの実生種から作られたとされる桜。
名前はコノハナサクヤビメに因んでつけられた。
特徴
花は八重咲きで五枚の花弁が2~3重になる。
白から薄い桜色であり、中心部が若干赤い。
花が咲いているうちから葉が出てくる。
また葉の形はオオシマザクラに似る。』
「花が咲いているうちから葉が出る」のは、私が知っているものとしては山桜の特徴である。
あせって葉がすぐに出るから、山桜は「出っ葉」などと馬鹿にされるものであるが、「八重咲きで五枚の花弁が2~3重」とあるから、サクヤヒメは豪華さのある桜花で、山桜とは異なるようだ。
その名前は日本の神「コノハナサクヤビメ」からつけられたという。
桜花のサクヤヒメが松陰を生んだのか、或いは「コノハナサクヤビメ」が松陰を生んだのか。
俳句の名人は何を思い浮かべてこの句を詠んだのだろうか。
案内板の最後の方に書かれている句集名らしきもの、「越前若狭」を見たとき、私はふと梅田雲浜のことを思い浮かべた。
安政の大獄の捕縛者第1号である。
また伊藤も一時期越前福井に住んでいた。
鎌倉の療養所で知り合った森田愛子が福井港と東尋坊の間を南に注ぐ九頭竜川(くずりゅうがわ)の河口にある坂井市三国町の出身であり、昭和20年の戦争疎開のためにそこに住んでいた。
越前で伊藤柏翠は、松陰と梅田雲浜の関係の深さを知ったことだろう。
雲浜は松陰が目指した革命の経済的支援者であったということも。
井伊直弼は真っ先に雲浜を捕らえ、恐らくは毒殺し、そして松陰を斬首した。
倒幕の火を根絶やしするために、この二人はまずもって消さねばならなかったのだろう。
雲浜が安政の大獄捕縛第一号であることで、大老井伊直弼から見て、或いは徳川幕府から見て、最も危険な人物だったことがわかる。
その雲浜は、越前若狭国の生まれなのである。
伊藤柏翠の句集名「越前若狭」には、そういう意味も含まれているだろう。
『雲浜の号は、若狭国小浜海岸からの由来で名づけたという。
小浜藩藩士・矢部義比の次男として生まれ、藩校・順造館で学んだ。
天保元年(1830年)、藩の儒学者・山口菅山から山崎闇斎学を学び、その後、祖父の家系である梅田氏を継いだ。
小浜で学んだ知識をもって、大津に湖南塾を開いている。天保14年(1843年)には京都へ上京して藩の塾である望楠軒の講師となる。
しかし嘉永5年(1852年)、藩主・酒井忠義に建言したのが怒りに触れて、藩籍を剥奪された。
翌年、アメリカのペリーが来航すると条約反対と外国人排斥による攘夷運動を訴えて尊皇攘夷を求める志士たちの先鋒となり、幕政を激しく批判した。
しかしそれが時の大老・井伊直弼による安政の大獄で摘発され、二人目の逮捕者となってしまった。』
(梅田雲浜(Wikipedia)より)
私が調べた限りでは、この記事だけが「二人目の逮捕者」と書いていた。
もう一人雲浜の前に逮捕されたものがいることを匂わせているが、それはあとで述べる。
また、このWikipedia記事には、「幕政を激しく批判」したから雲浜は逮捕されたと書いている。
そんな生易しい罪名ではなかろう。
しかし、雲浜の最大の罪は、長州藩財政の重要な収入源を確立し経済支援をしていたことである。
藩主・酒井忠義の怒りに触れて、藩籍を剥奪されて浪人となった雲浜であるが、その後攘夷運動に傾倒し、当然のことながら尊王藩である長州・萩を訪ねている。
『弘化元年(1844)村田清風が退くと政権を担い、公内借捌の法により藩士の負債を軽減させたが、かえって藩財政の赤字が増大したことにより、責任を追及されて隠退する。
村田派の周布政之助による改革後、安政2年(1855)坪井の後継者である椋梨藤太とともに藩政に復帰し、藩政改革に着手する。
産物取立政策を実施し、のちに萩を訪れた梅田雲浜の意見を受け入れ、上方との交易を開始する。
その後、周布派の反対にあって羽島に流され、結党強訴の罪名により野山獄で処刑された。』
(「坪井九右衛門旧宅」より)
http://blogs.yahoo.co.jp/shingoroad/38298565.html
長州藩では坪井九右衛門(つぼい くえもん)が、梅田雲浜の京都・大阪物産販売行を担当していた。
この人は経歴から見れば村田清風派(つまり松陰、晋作と同じ)だが、村田清風亡きあとは周布政之助と対立した構図の中に身をおいているように見える。
坪井の後継者が俗論党の椋梨藤太であることから、周布派により処刑されてしまった。
雲浜とともに、まずは長州の貿易を振興し、倒幕のための経済基盤を強化する仕事をしていた人物である。
どこかで長州藩内に「政治的なねじれ」が生じていたのではないか。
坪井の処刑は文久3年10月28日(1863年12月8日))である。
松陰の処刑がその4年前である。(安政6年10月27日(1859年11月21日))
さらにその4年前に村田清風が病死している。(安政2年(1855年))
しかし、晋作は慶応3年4月14日(1867年5月17日)の病没だから、まだ坪井の処刑時は生きていた。
松陰であれば抑えきれていた「もの」が、松陰亡きあとの晋作では抑えきれない「もの」が、萩に存在していた。
松陰の存在とは、それほどまでに大きかったのか。
いや、そうではあるまい。
松陰は「この花」が生んだのである。
「生まれた」のではない。
「杉滝子」からは、松陰は生物的に「生まれた」と言っていい。
しかし、松陰は「この花」が生み出したのである。
つまり、「この花」が作った機械ロボットに過ぎない。
「この花」が松陰を生んだのは、国家の大混乱を起こすためだった。
大混乱の中でなければ、「この花」の抱く野望は決して達成できないからである。
村田清風派であった坪井九右衛門は、「この花」の望むように大混乱の中で元の仲間たちから処刑されていた。
坪井九右衛門の最後を「Wikipedia記事」で見てみよう。
山口県選出の衆議院議員で、歴代総理や大臣の要職を継いで来ている岸信介、佐藤栄作兄弟、安部晋太郎、晋三親子と坪井九右衛門は血の濃い親戚である。
岸信介、佐藤栄作の父方の伯父に当たるのではないか。
『坪井 九右衛門(寛政12年(1800年)- 文久3年10月28日(1863年12月8日))は、日本の武士・長州藩士。名は正裕。子寛。号は顔山。
佐藤家(内閣総理大臣・岸信介、佐藤栄作兄弟の実家)に生まれ、幼少時に坪井家の養子になった。
経歴
村田清風の藩政改革に協力して功を挙げた。
清風と共に藩政改革の建白書を毛利敬親に提出している。
しかし清風の2回目の藩政改革は、清風の政敵である椋梨藤太の台頭で失敗し、しかも清風は安政2年(1855年)に中風が原因で他界。
このため、坪井は椋梨により失脚を余儀なくされる。
後に椋梨の失脚により、再び藩政に参与したが、坪井は尊王攘夷よりも佐幕派を支持したため、過激な尊王攘夷派が多い長州藩内部で孤立してしまい、文久3年(1863年)にその過激な一部の尊王攘夷派によって萩城下の野山獄で処刑された。享年64。』
(坪井九右衛門(Wikipedia)より)
「過激な一部の尊王攘夷派」が坪井を殺害している。
「この花」が生み出した「志士たち」である。
「この花」は、村田清風や松陰が生んだのではない「過激な志士」を萩に生んだ。
さて、この幕末の大混乱の首謀者の第一人者は、安政の大獄の第一号捕縛者とも言えよう。
しかし、大方の資料ではそれは梅田雲浜だと書いてある。
私が見た限りでは、Wikipedia記事だけが「雲浜は第2番目の逮捕者」だと書いていた。
Wikipedia記事のいう「第一番目」とは誰だったのか?
雲浜を指導した人物がいた。
『梁川 星巌(やながわ せいがん、寛政元年6月18日(1789年7月10日)~安政5年9月2日(1858年10月8日))は、江戸時代後期の漢詩人である。
名は「卯」、字は「伯兎」。
後に、名を「孟緯」、字を「公図」と改めた。通称は新十郎。星巌は号。
人物 [編集]
美濃国安八郡曽根村(現在の岐阜県大垣市曽根町)の郷士の子に生まれる。
文化5年(1808年)に山本北山の弟子となり、同3年(1820年)に女流漢詩人・紅蘭と結婚。
紅蘭とともに全国を周遊し、江戸に戻ると玉池吟社を結成した。
梅田雲浜・頼三樹三郎・吉田松陰・橋本左内らと交流があったため、安政の大獄の捕縛対象者となったが、その直前(大量逮捕開始の3日前といわれる)にコレラにより死亡。
星巖の死に様は、詩人であることに因んで、「死に(詩に)上手」と評された。
妻・紅蘭は捕らえられて尋問を受けるが、翌安政6年(1859年)に釈放された。
出身地・岐阜県大垣市曽根には梁川星巌記念館があり、近くの曽根城公園に妻・紅蘭との銅像がある。
かつて学問の街といわれた大垣であるが、現在の大垣の代表的文人とされている。
なお、大垣市立星和中学校の校名は、彼の名前に由来するものである。
星巌と妻紅蘭
星巌とその妻紅蘭はまたいとこにあたる。
江戸から故郷に帰った星巌は、村の子供たちを集めて、「梨花村草舎」と称する塾の様なものを開いた。
そこに通っていた中に紅蘭もいた(当時14歳)。
紅蘭は星巌の才学、人となりを慕って、進んで妻になることを父に請うたと言われている。 星巌32歳、紅蘭17歳の年に結婚をする。
ところが結婚後すぐに星巌は、「留守中に裁縫をすること、三体詩を暗誦すること」を命じて旅に出てしまう。
それから三年後、帰ってきた星巌を迎えた紅蘭は、命ぜられた三体詩の暗誦をやってのけたばかりでなく、一首の詩を詠んでいる。
階前栽芍薬。堂後蒔當歸。
一花還一草。情緒兩依依。
訳
きざはしの前には芍薬を植え、座敷のうしろには當歸をまきました。
花には私の姿をうつし、草には私の心を込めて。
ああ、私の想いは、この花とこの草に離れたことはありませぬ。
星巌の放浪癖はその後も変わらなかったものの、これ以降は当時としては珍しく、妻を同伴して旅をする様になったという。』
梁川星巌(Wikipedia)
梁川星巌の名は「卯」、字は「伯兎」である。
幼い頃の素直な気持ちでこれを眺めれば、日本人の脳内には因幡の白ウサギが浮かんでくる。
妻・紅蘭は
階前栽芍薬。堂後蒔當歸。
一花還一草。情緒兩依依。
「芍薬を植え、うしろに當歸をまきました。」
「花には私の姿をうつし、草には私の心を込めて。
ああ、私の想いは、この花とこの草に離れたことはありませぬ。」
そういえば、石碑の左手前には蕗(ふき)の葉があった。
ならば私が立つ石碑の表面が紅蘭の言う庭の「うしろ」になる。
すると私から見て石碑の裏側に芍薬の花があったのだろうか。
梁川星巌夫妻と伊藤柏翠夫妻に相似形が見られる。
根拠はないのだが、私には両夫婦が血縁者か思想的近親者であるように見える。
以下は私の推理だが、「この花」が最初に生んだのは「因幡の白ウサギ」であって、この梁川星巌だったのではないだろうか。
いや因幡の白兎ではなく、「稻羽之素菟」(『古事記』の表記の方が似合う。
素菟(しろうさぎ)の「素」は「ただの」という意味と、「裸の」という意味がある。
ただの人は素人であり、ただの兎は「普通の兎」である。
日本古来の野生のノウサギは白くなることはない。
白い兎とは外来種なのである。
人間に例えれば、ノウサギが古事記の時代からこの国に住む原始日本人である。
白兎は、帰化人になる。
しかし、海に浮かぶワニは何を意味するのだろうか。
海賊、つまり古代の倭寇集団のようなものがあったのであろう。
白い兎(日本にとっては外来)はワニを利用して島(日本列島)に渡ったが、裏切られて皮をはがれてしまったということにも見える。
渡来人には中国人、朝鮮人のほかに、ユダヤ人、ペルシャ(イラン、イラク)人などもいたはずだ。
シルクロード終点が奈良であることは異種文化の交流の中で日本文化が生まれたことを語ってくれるが、日本人という民族も、それらの混血の過程で作られていったのである。
萩・松本村に隠棲していた多々良氏つまり百済の琳聖太子の後裔たちが「この花」だったのではないかと思う。
以前この記事に私はこう書いた。
『大内義隆の先祖である大内氏の本姓は多々良氏である。
彼ら自身は、百済の琳聖太子の後裔であることを自称していた。
松陰にとって、毛利氏は本来の主ではなかったはずだ。』
松陰は「百済の琳聖太子の後裔」の家臣であったはずだ。
それは松陰の生誕地、杉百合之助の住居跡から眺める景色からわかる。
棕櫚の木のそばから指月山を毎日見つめることの意味は、「仇討ち」と「復権」である。
毛利氏と、その主君である徳川将軍を滅ぼし、この国の覇権を取り戻すことである。
若き日の松陰自身は毛利氏を主君と思っていただろうが、脱藩して東北遊行に出発した頃の松陰は既に毛利氏を主君とは考えなかっただろう。
伝馬町牢屋敷の29歳の松陰の目には、はっきりと「本当の主君」の顔が見えていただろう。
「この花」の顔が、見えていたのである。
「この花」が生み出した第一号は梁川星巌だったと私は思っている。
しかし、幕府の追及の手が及ぶと、星巌はあっさりと服毒したのだろう。
仕方なく、井伊直弼はその弟子の雲浜を捕縛した。
第一号捕縛者と第二号捕縛者の冠の両方を梅田雲浜が受け取っている理由は、そういうことではなかったのだろうか。
「この花の 松陰を生み 志士を生む」
この階段を上っていけば、そこに二人の銅像が見える。
その二人は、「この花」が生んだ「松陰ともう一人の志士」なのだろう。
この句がここにある意味は、とてつもなく大きい。
正岡子規の流れを汲む伊藤柏翠ならではの歌である。
SH3B0116あたりに花は見当たらない
SH3B0117二人の銅像
芍薬(Wikipediaより引用)
松陰の墓所の隣、高杉の草庵の道路向かいの斜面の上に、二人の銅像がある。
大方の銅像は一人であるが、この銅像は二人で人セットだ。
長い階段があり暑い最中に登るのをためらいたくなる。
階段上り口に石碑がある。
自然石の正面一部のみを平らにして、そこに文字を刻んだものだが、苔むしている。
「この花の 松陰を生み 志士を生む」
作者の名が書かれているが、崩して書いてあるので私には読めない。
私は日本人なのに、旧日本語体を読めない。
そばにある案内板に著者名と略歴がかれていた。
『伊藤柏翠(勇)(1911~1999)
高浜虚子に師事。俳人。
俳諧「花鳥」主宰。
日本伝統俳句協会副会長。
東京都浅草生まれ。
福井市在住。
昭和7年鎌倉にて病気療養中より作句現在に至る。
昭和56年より毎年来萩。
萩花鳥句会を指導。
句集「虹」「越前若狭」他』(抜粋終わり)
高浜虚子の弟子で俳人である。
俳諧「花鳥」主宰というから、松陰が俳句でもやっていたのだろうか。
いやいや、正岡子規は松陰の後の人で、高浜虚子はその弟子である。
強いて言えば、松尾芭蕉の俳句を松陰は好んでいたのだろうか。
あまりその手の話は聞かない。
石碑の周囲を見渡しても、「この花」らしき花は見当たらない。
私の目に見えるのは、羊歯(しだ)類の葉と、蕗(ふき)の葉と苔むした岩くらいである。
句碑に「松陰を生み」とあるが、松陰虎之助を生んだのは杉滝子である。
また、松陰を育てたのは玉木文之進である。
決して「花」ではない。
しかし、伊藤柏翠(勇)は、松陰や志士を生んだのは「この花」であるという。
神様の名に、それに似た名前がある。
「コノハナサクヤヒメ」である。
しかも、「サクヤヒメ」という花は存在する。
『サクヤヒメ
サクヤヒメ (咲耶姫 学名P. ×yedoensis Matsum. cv. Sakuyahime )はバラ科サクラ属の植物。
ソメイヨシノの実生種から作られたとされる桜。
名前はコノハナサクヤビメに因んでつけられた。
特徴
花は八重咲きで五枚の花弁が2~3重になる。
白から薄い桜色であり、中心部が若干赤い。
花が咲いているうちから葉が出てくる。
また葉の形はオオシマザクラに似る。』
「花が咲いているうちから葉が出る」のは、私が知っているものとしては山桜の特徴である。
あせって葉がすぐに出るから、山桜は「出っ葉」などと馬鹿にされるものであるが、「八重咲きで五枚の花弁が2~3重」とあるから、サクヤヒメは豪華さのある桜花で、山桜とは異なるようだ。
その名前は日本の神「コノハナサクヤビメ」からつけられたという。
桜花のサクヤヒメが松陰を生んだのか、或いは「コノハナサクヤビメ」が松陰を生んだのか。
俳句の名人は何を思い浮かべてこの句を詠んだのだろうか。
案内板の最後の方に書かれている句集名らしきもの、「越前若狭」を見たとき、私はふと梅田雲浜のことを思い浮かべた。
安政の大獄の捕縛者第1号である。
また伊藤も一時期越前福井に住んでいた。
鎌倉の療養所で知り合った森田愛子が福井港と東尋坊の間を南に注ぐ九頭竜川(くずりゅうがわ)の河口にある坂井市三国町の出身であり、昭和20年の戦争疎開のためにそこに住んでいた。
越前で伊藤柏翠は、松陰と梅田雲浜の関係の深さを知ったことだろう。
雲浜は松陰が目指した革命の経済的支援者であったということも。
井伊直弼は真っ先に雲浜を捕らえ、恐らくは毒殺し、そして松陰を斬首した。
倒幕の火を根絶やしするために、この二人はまずもって消さねばならなかったのだろう。
雲浜が安政の大獄捕縛第一号であることで、大老井伊直弼から見て、或いは徳川幕府から見て、最も危険な人物だったことがわかる。
その雲浜は、越前若狭国の生まれなのである。
伊藤柏翠の句集名「越前若狭」には、そういう意味も含まれているだろう。
『雲浜の号は、若狭国小浜海岸からの由来で名づけたという。
小浜藩藩士・矢部義比の次男として生まれ、藩校・順造館で学んだ。
天保元年(1830年)、藩の儒学者・山口菅山から山崎闇斎学を学び、その後、祖父の家系である梅田氏を継いだ。
小浜で学んだ知識をもって、大津に湖南塾を開いている。天保14年(1843年)には京都へ上京して藩の塾である望楠軒の講師となる。
しかし嘉永5年(1852年)、藩主・酒井忠義に建言したのが怒りに触れて、藩籍を剥奪された。
翌年、アメリカのペリーが来航すると条約反対と外国人排斥による攘夷運動を訴えて尊皇攘夷を求める志士たちの先鋒となり、幕政を激しく批判した。
しかしそれが時の大老・井伊直弼による安政の大獄で摘発され、二人目の逮捕者となってしまった。』
(梅田雲浜(Wikipedia)より)
私が調べた限りでは、この記事だけが「二人目の逮捕者」と書いていた。
もう一人雲浜の前に逮捕されたものがいることを匂わせているが、それはあとで述べる。
また、このWikipedia記事には、「幕政を激しく批判」したから雲浜は逮捕されたと書いている。
そんな生易しい罪名ではなかろう。
しかし、雲浜の最大の罪は、長州藩財政の重要な収入源を確立し経済支援をしていたことである。
藩主・酒井忠義の怒りに触れて、藩籍を剥奪されて浪人となった雲浜であるが、その後攘夷運動に傾倒し、当然のことながら尊王藩である長州・萩を訪ねている。
『弘化元年(1844)村田清風が退くと政権を担い、公内借捌の法により藩士の負債を軽減させたが、かえって藩財政の赤字が増大したことにより、責任を追及されて隠退する。
村田派の周布政之助による改革後、安政2年(1855)坪井の後継者である椋梨藤太とともに藩政に復帰し、藩政改革に着手する。
産物取立政策を実施し、のちに萩を訪れた梅田雲浜の意見を受け入れ、上方との交易を開始する。
その後、周布派の反対にあって羽島に流され、結党強訴の罪名により野山獄で処刑された。』
(「坪井九右衛門旧宅」より)
http://blogs.yahoo.co.jp/shingoroad/38298565.html
長州藩では坪井九右衛門(つぼい くえもん)が、梅田雲浜の京都・大阪物産販売行を担当していた。
この人は経歴から見れば村田清風派(つまり松陰、晋作と同じ)だが、村田清風亡きあとは周布政之助と対立した構図の中に身をおいているように見える。
坪井の後継者が俗論党の椋梨藤太であることから、周布派により処刑されてしまった。
雲浜とともに、まずは長州の貿易を振興し、倒幕のための経済基盤を強化する仕事をしていた人物である。
どこかで長州藩内に「政治的なねじれ」が生じていたのではないか。
坪井の処刑は文久3年10月28日(1863年12月8日))である。
松陰の処刑がその4年前である。(安政6年10月27日(1859年11月21日))
さらにその4年前に村田清風が病死している。(安政2年(1855年))
しかし、晋作は慶応3年4月14日(1867年5月17日)の病没だから、まだ坪井の処刑時は生きていた。
松陰であれば抑えきれていた「もの」が、松陰亡きあとの晋作では抑えきれない「もの」が、萩に存在していた。
松陰の存在とは、それほどまでに大きかったのか。
いや、そうではあるまい。
松陰は「この花」が生んだのである。
「生まれた」のではない。
「杉滝子」からは、松陰は生物的に「生まれた」と言っていい。
しかし、松陰は「この花」が生み出したのである。
つまり、「この花」が作った機械ロボットに過ぎない。
「この花」が松陰を生んだのは、国家の大混乱を起こすためだった。
大混乱の中でなければ、「この花」の抱く野望は決して達成できないからである。
村田清風派であった坪井九右衛門は、「この花」の望むように大混乱の中で元の仲間たちから処刑されていた。
坪井九右衛門の最後を「Wikipedia記事」で見てみよう。
山口県選出の衆議院議員で、歴代総理や大臣の要職を継いで来ている岸信介、佐藤栄作兄弟、安部晋太郎、晋三親子と坪井九右衛門は血の濃い親戚である。
岸信介、佐藤栄作の父方の伯父に当たるのではないか。
『坪井 九右衛門(寛政12年(1800年)- 文久3年10月28日(1863年12月8日))は、日本の武士・長州藩士。名は正裕。子寛。号は顔山。
佐藤家(内閣総理大臣・岸信介、佐藤栄作兄弟の実家)に生まれ、幼少時に坪井家の養子になった。
経歴
村田清風の藩政改革に協力して功を挙げた。
清風と共に藩政改革の建白書を毛利敬親に提出している。
しかし清風の2回目の藩政改革は、清風の政敵である椋梨藤太の台頭で失敗し、しかも清風は安政2年(1855年)に中風が原因で他界。
このため、坪井は椋梨により失脚を余儀なくされる。
後に椋梨の失脚により、再び藩政に参与したが、坪井は尊王攘夷よりも佐幕派を支持したため、過激な尊王攘夷派が多い長州藩内部で孤立してしまい、文久3年(1863年)にその過激な一部の尊王攘夷派によって萩城下の野山獄で処刑された。享年64。』
(坪井九右衛門(Wikipedia)より)
「過激な一部の尊王攘夷派」が坪井を殺害している。
「この花」が生み出した「志士たち」である。
「この花」は、村田清風や松陰が生んだのではない「過激な志士」を萩に生んだ。
さて、この幕末の大混乱の首謀者の第一人者は、安政の大獄の第一号捕縛者とも言えよう。
しかし、大方の資料ではそれは梅田雲浜だと書いてある。
私が見た限りでは、Wikipedia記事だけが「雲浜は第2番目の逮捕者」だと書いていた。
Wikipedia記事のいう「第一番目」とは誰だったのか?
雲浜を指導した人物がいた。
『梁川 星巌(やながわ せいがん、寛政元年6月18日(1789年7月10日)~安政5年9月2日(1858年10月8日))は、江戸時代後期の漢詩人である。
名は「卯」、字は「伯兎」。
後に、名を「孟緯」、字を「公図」と改めた。通称は新十郎。星巌は号。
人物 [編集]
美濃国安八郡曽根村(現在の岐阜県大垣市曽根町)の郷士の子に生まれる。
文化5年(1808年)に山本北山の弟子となり、同3年(1820年)に女流漢詩人・紅蘭と結婚。
紅蘭とともに全国を周遊し、江戸に戻ると玉池吟社を結成した。
梅田雲浜・頼三樹三郎・吉田松陰・橋本左内らと交流があったため、安政の大獄の捕縛対象者となったが、その直前(大量逮捕開始の3日前といわれる)にコレラにより死亡。
星巖の死に様は、詩人であることに因んで、「死に(詩に)上手」と評された。
妻・紅蘭は捕らえられて尋問を受けるが、翌安政6年(1859年)に釈放された。
出身地・岐阜県大垣市曽根には梁川星巌記念館があり、近くの曽根城公園に妻・紅蘭との銅像がある。
かつて学問の街といわれた大垣であるが、現在の大垣の代表的文人とされている。
なお、大垣市立星和中学校の校名は、彼の名前に由来するものである。
星巌と妻紅蘭
星巌とその妻紅蘭はまたいとこにあたる。
江戸から故郷に帰った星巌は、村の子供たちを集めて、「梨花村草舎」と称する塾の様なものを開いた。
そこに通っていた中に紅蘭もいた(当時14歳)。
紅蘭は星巌の才学、人となりを慕って、進んで妻になることを父に請うたと言われている。 星巌32歳、紅蘭17歳の年に結婚をする。
ところが結婚後すぐに星巌は、「留守中に裁縫をすること、三体詩を暗誦すること」を命じて旅に出てしまう。
それから三年後、帰ってきた星巌を迎えた紅蘭は、命ぜられた三体詩の暗誦をやってのけたばかりでなく、一首の詩を詠んでいる。
階前栽芍薬。堂後蒔當歸。
一花還一草。情緒兩依依。
訳
きざはしの前には芍薬を植え、座敷のうしろには當歸をまきました。
花には私の姿をうつし、草には私の心を込めて。
ああ、私の想いは、この花とこの草に離れたことはありませぬ。
星巌の放浪癖はその後も変わらなかったものの、これ以降は当時としては珍しく、妻を同伴して旅をする様になったという。』
梁川星巌(Wikipedia)
梁川星巌の名は「卯」、字は「伯兎」である。
幼い頃の素直な気持ちでこれを眺めれば、日本人の脳内には因幡の白ウサギが浮かんでくる。
妻・紅蘭は
階前栽芍薬。堂後蒔當歸。
一花還一草。情緒兩依依。
「芍薬を植え、うしろに當歸をまきました。」
「花には私の姿をうつし、草には私の心を込めて。
ああ、私の想いは、この花とこの草に離れたことはありませぬ。」
そういえば、石碑の左手前には蕗(ふき)の葉があった。
ならば私が立つ石碑の表面が紅蘭の言う庭の「うしろ」になる。
すると私から見て石碑の裏側に芍薬の花があったのだろうか。
梁川星巌夫妻と伊藤柏翠夫妻に相似形が見られる。
根拠はないのだが、私には両夫婦が血縁者か思想的近親者であるように見える。
以下は私の推理だが、「この花」が最初に生んだのは「因幡の白ウサギ」であって、この梁川星巌だったのではないだろうか。
いや因幡の白兎ではなく、「稻羽之素菟」(『古事記』の表記の方が似合う。
素菟(しろうさぎ)の「素」は「ただの」という意味と、「裸の」という意味がある。
ただの人は素人であり、ただの兎は「普通の兎」である。
日本古来の野生のノウサギは白くなることはない。
白い兎とは外来種なのである。
人間に例えれば、ノウサギが古事記の時代からこの国に住む原始日本人である。
白兎は、帰化人になる。
しかし、海に浮かぶワニは何を意味するのだろうか。
海賊、つまり古代の倭寇集団のようなものがあったのであろう。
白い兎(日本にとっては外来)はワニを利用して島(日本列島)に渡ったが、裏切られて皮をはがれてしまったということにも見える。
渡来人には中国人、朝鮮人のほかに、ユダヤ人、ペルシャ(イラン、イラク)人などもいたはずだ。
シルクロード終点が奈良であることは異種文化の交流の中で日本文化が生まれたことを語ってくれるが、日本人という民族も、それらの混血の過程で作られていったのである。
萩・松本村に隠棲していた多々良氏つまり百済の琳聖太子の後裔たちが「この花」だったのではないかと思う。
以前この記事に私はこう書いた。
『大内義隆の先祖である大内氏の本姓は多々良氏である。
彼ら自身は、百済の琳聖太子の後裔であることを自称していた。
松陰にとって、毛利氏は本来の主ではなかったはずだ。』
松陰は「百済の琳聖太子の後裔」の家臣であったはずだ。
それは松陰の生誕地、杉百合之助の住居跡から眺める景色からわかる。
棕櫚の木のそばから指月山を毎日見つめることの意味は、「仇討ち」と「復権」である。
毛利氏と、その主君である徳川将軍を滅ぼし、この国の覇権を取り戻すことである。
若き日の松陰自身は毛利氏を主君と思っていただろうが、脱藩して東北遊行に出発した頃の松陰は既に毛利氏を主君とは考えなかっただろう。
伝馬町牢屋敷の29歳の松陰の目には、はっきりと「本当の主君」の顔が見えていただろう。
「この花」の顔が、見えていたのである。
「この花」が生み出した第一号は梁川星巌だったと私は思っている。
しかし、幕府の追及の手が及ぶと、星巌はあっさりと服毒したのだろう。
仕方なく、井伊直弼はその弟子の雲浜を捕縛した。
第一号捕縛者と第二号捕縛者の冠の両方を梅田雲浜が受け取っている理由は、そういうことではなかったのだろうか。
「この花の 松陰を生み 志士を生む」
この階段を上っていけば、そこに二人の銅像が見える。
その二人は、「この花」が生んだ「松陰ともう一人の志士」なのだろう。
この句がここにある意味は、とてつもなく大きい。
正岡子規の流れを汲む伊藤柏翠ならではの歌である。
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2011-01-10 10:47
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