上海旅行で晋作に点火~長州(32) [萩の吉田松陰]

SH3B0103.jpgSH3B0103松陰二十一(回孟士)の墓碑銘、その後方1段上に高杉晋作の墓

「松陰二十一……」の墓碑が見える。「……」は供えられた樹木の葉でさえぎられて見えない。
しかし、それは「松陰二十一回孟士之墓」の墓碑銘であることは自明である。
その右隣に義父吉田大助の墓がある。

『天保5年(1834年)6歳の時に叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となるが、天保6年(1835年)に大助が死去したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。
11歳の時、藩主・毛利慶親への御前講義の出来栄えが見事であったことにより、その才能が認められた。』(吉田松陰(Wikipedia)より)

その後方1段上から、やや右斜め下に松陰を見下ろすような位置に高杉晋作の墓が見える。
晋作は松下村塾では松陰の弟子でありながら、長州藩での身分は松陰よりはるかに高い上士であった。

父杉百合之助は家禄わずか26石の萩藩士であった。
養子に行った吉田家は山鹿流兵学師範であり家禄は57石余。

一方、高杉家は「馬廻り役」で家禄は200石である。
戦になった場合に主君の馬の廻りを護衛する大事な役目を担う。

だから晋作の墓が一段高い位置にあっても萩の人々にとっては不思議ではない。
しかし、明治維新革命は一体誰によって実効支配されたか、後世の歴史研究者たちは松陰の功績が大なることをよく知っているし、その教えに弟子の高杉晋作はよく応えたこともよく知られている。

ならば、師匠松陰の墓の下段に晋作は位置するべきだろう。

世田谷の墓所では墓石に高低差は殆どついていない。
ほぼみな平等の大きさの墓石であり、それは松陰の万民平等の思想をよく晋作らが配慮して設計したものに見える。

一見して松陰の墓を見出せるようになっていない。
正面中央付近にある墓が松陰であることが、近づいてみてあとでわかる。

しかし、ここでは晋作が上段に座り松陰の行動を見張っているかのようにも見える。

萩の高杉晋作の役割は、当初は松下村で塾を主催している松陰の見張り役だったのではないだろうか?
ミイラ取りが結局ミイラにされてしまった姿が、奇兵隊総督の晋作ではなかったか。

今こそ国のために立てと獄中から松陰が晋作に檄を飛ばすものの、優柔不断でなかなか決行に踏み切れなかった。

晋作に、上海洋行を薦めたのは松陰ではなかったか。
松陰は平戸滞在の間に上海での出来事を詳細に学んでいるから、行ったことがなくても中国で起きていることはよく知っていたはずだ。

松陰が説く国家の危機は、上海に実際行って見聞しなければわからないだろう。

上海から帰国後の晋作は超過激行動を連続して起こしている。

拙著記事から抜粋する。

『晋作は上海に2ヶ月間滞在後、帰国(1862年7月)して5ヵ月後に品川御殿山のイギリス公使館を焼き討ち(12月)している。

年が明けて翌月(1863年1月)に高杉・伊藤らは南千住の回向院へ向かった。
泥にまみれたまま士分を剥奪された上に斬首された松陰の遺骸を清め、士分に名誉を回復してから世田谷に改葬している。

上野で徳川将軍専用の御成橋を馬に乗って逆走し、松陰の偉大さを大衆へデモンストレーションしている。

そして3月には江戸の藩主に「十年間の暇方」を請い、許されている。
今風に言えば、「社長!私は10年間休職します。」と願い出たのに近い。

これは辞表と同じであるが、なかなか踏み切れない晋作の心境がユーモアを伴いうかがえる。

その翌月(1863年4月)に萩へ戻り、この松本村の草庵に入居している。
中略。

わずか3ヶ月前に晋作は江戸で松陰の白骨化した遺骸を改葬したばかりである。
手ぶらで松本村へ戻ってくるはずがないではないか!
おそらく晋作は遺骨の一部を松陰のご両親の住む萩松本村の生家に届け、隣のこの草案に暫く住み着いて喪に服したのであろう。

49日の間、仲間らとともにここで軍事戦略を練ったとも考えられる。

中略。

そして松本村での喪があける49日ころの6月、晋作は奇兵隊を結成している。
晋作自身の心の決起までに、およそ49日を要したのであろう。

1863年6月6日、下関で奇兵隊を組織。
同年8月16日、教法寺事件が発生。』

地元の人々は両者の家禄の違いを良く知っているが、松陰や晋作の死亡当時には明治維新の歴史的背景や松陰の果たした役割などはまだよく知られていない。

僧侶と親族が集まって墓石の位置を決めたのであろうから、当時の力関係などが主な墓石位置の決定理由となったのではあるまいか。

舞台裏をほぼ知っている現代の我々から見れば、松陰よりも高く奥まっている晋作の墓の位置はちょっとおかしく見える。

晋作の上海旅行は1862年のことであるが、松陰はその12年も前に平戸で詳細な情報を入手していた。

『第4節 吉田松陰の西遊
 
嘉永3年(1850)、吉田松陰は21歳のとき、平戸の葉山鎧軒、山鹿高紹(万助)の教えを受けるために、9月平戸に来た。

浦の町の「紙屋」に投宿し、50余日間、勉学に励んだ。

先ず、鎧軒に「儒学」を学び、その高潔な博学に感銘を受け、おおいに啓発された。
また、山鹿高紹に教えを乞い、朝夕、清水川の山鹿家に出入りして、「山鹿兵学」の講義を受け、そのかたわら山鹿素行の著述を悉く読破した。

或る時は、藩士たちの夜学会に出席し、請われて「経学」を講義した。
豊島権平からは、海外事情や砲術のことを聞き、開眼啓発された。
松陰の『西遊日記』に詳しく述べられている。

彼が、平戸の土風を称揚したものの一節に、
「僕嘗て平戸に遊ぶ。
その士林をみるに家毎に必ず小舸を置く。
少しく余暇あれば洋に出でて魚を捕うるを楽しみと為す。
予が知るところの葉山左内なるもの、食禄五百石、藩中老に列す。
其齢亦既に六十余、官暇あれば出でて大洋に漁す。
常に日く、海島の土此の如くするにあらずんば事に臨んで用をなさずと。
西南諸国右より最も水戦に長ずと称す。
而て平戸今頗る古風を存す、蓋し由りて然る所あるなり云々」とある。

のちに、松陰が松下村塾を開いて、後輩を教育、激励し、勤王を唱えたのも、かつて平戸で修得した山鹿流によるものがあったのであろう。

松陰はこの西遊のとき、佐世保を発って平戸に向かう途中、江迎の庄屋に一泊した。
 
『一、十三日(九月)雨、早岐より佐世保浦へ二里、浦より中里へ八里、中里より江向(江迎)へ四里、共に八里。(一里は五〇町と言)
皆夜に入り江向に着し、庄屋の家に投宿す。是日の艱難実に遺忘すべからず。

一には八里の間、皆山坂嶺岨の地なり。
二には雨に依りて、途中傘を買い煩を添う。
三は独行、呼びて応うるものなし。唱えて和するものなし。
四は新泥滑々、行歩遅渋す。
五は夜に入り宿に至り、宿すべき家なく、徘徊周章し、終に庄屋の家に宿す。
其の他の艱難枚挙に勝えず。

江向は海浜の地なり。
是の夜、平戸の人某と同宿す。

昨夜二朱一片出して銅銭に代う、是亦極めて重し。
佐世保にて蓬杖を忘れ半程ばかり還る。
佐世保の一医僧の誤る所なり。

浦に入る。
江向を距てること一里半程の処で日暮る、是の夜平戸人に遭わずんば、其れ亦如何ぞや。天なるかな。
十四日晴、江向を発し、山坂を行くこと三里にして日野浦に至る。
舟行一里にして平戸城下に至る。』
(「第2節 新田開発」(江迎町公式ページ)より)
http://www.city.sasebo.nagasaki.jp/emukae/rekishi2/gaisetsu_07.html

見知らぬ平戸島の、草に埋もれそうな古道を、一人で歩いて旅をする松陰の姿が目に浮かんでくるようだ。

ここ平戸で松陰はイギリス政府による中国でのアヘン貿易の実態を把握している。

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