アヘンの大和接近~長州(33) [萩の吉田松陰]

SH3B0104.jpgSH3B0104高杉晋作の墓(行年29歳)
SH3B0105.jpgSH3B0105晋作の墓から松陰の墓と楓を見下す
SH3B0106.jpgSH3B0106秋11月に訪れれば、真っ赤な楓の葉の下に松陰の墓を見出すだろう

『松蔭の登場:第一の条件
中略。

世界的にも、民族が爆発的にその力を発揮するには、第一に長い休眠期と居心地の悪い環境にあることを歴史が示している。
そのいずれもが江戸末期の西国の諸藩の多くを幕末に飛躍する適格者にしたのである。

松蔭の登場:第二の条件
1838年の春、アヘンの密貿易に手を焼いた清の道光帝は全国から有能な人材を登用した。その一人であった林則徐は皇帝の信頼を受けてアヘンの禁止に乗り出す。
相手になる商人はイギリスを中心とするヨーロッパのアヘン船であった。

林則徐の強力なアヘンの取り締まりは当然、アヘンで利権を得ていた人々との間に様々なトラブルを呼び、遂にアヘン擁護側のイギリス艦隊の出撃となる。

イギリス政府は、アヘン貿易を守るという大義名分の立たない戦争に乗り気ではなかったが、それでも結局、イギリス商人の利害を守るために艦隊の派遣を決意した。

その出陣決定の直前、イギリス下院では青年代議士グラッドストーンが政府の批判演説を行う。

「清国にはアヘン貿易を止めさせる権利がある。それなのになぜこの正当な清国の権利を踏みにじって、わが国の外務大臣はこの不正な貿易を援助したのか。
これほど不正な、わが国の恥さらしになるような戦争はかつて聞いたこともない。

大英帝国の国旗は、かつては正義の味方、圧制の敵、民族の権利、公明正大な商業の為に戦ってきた。

それなのに、今やあの醜悪なアヘン貿易を保護するために掲げられるのだ。
国旗の名誉はけがされた。

もはや我々は大英帝国の国旗が扁翻と翻っているのをみても、血湧き肉おどるような感激を覚えないだろう。」

蒸気機関と鐵の生産力で有頂天になっていた当時のイギリスにもグラッドストーンの様な正義の人もいたが、結局イギリスは政府の決定通り遠征軍を極東に送った。

戦争は約2年に及んだが、最後の決戦は1841年、4月から5月の作浦と鎮江で行われた。作浦の戦いでは、イギリス軍の戦死9名に対して、清軍は女子供を含み、イギリス軍の埋葬者だけで1000名を数えたと記録されている。

イギリス軍は好んで女性、子供の殺戮をしたわけではなかったが、戦いは圧倒的な火力を持つイギリス軍と貧弱な清軍である。
戦いと言えるものではなく、事実多くの女性子供が殺された。

また、鎮江ではイギリス軍の戦死者37に対して、1600の清軍が死亡した。
まさに圧倒的な火力を使っての中国人の虐殺と言えるものである。

8月には清は降伏し、香港の割譲、戦費など2000百万ドルの賠償を支払うことになった。勝てば官軍の時代である。
アヘン戦争のきっかけやその大義名分がどうであれ、勝った方が正しい。
だから、イギリスは香港を手に入れ、賠償金までもらうのだ。

他国にアヘンの貿易を迫り、アヘンの密輸を認めないと言うって戦争を仕掛け、圧倒的な力で虐殺し、その上国土の一部を取り上げ、金まで徒労というのだから、まさに世にも醜悪な江寧条約である。

しかしさすがに戦争のきっかけとなったアヘンについてはこの条約に何も触れられていない。

このとき割譲された香港は今年返還の時を迎える。
テレビで伝えられる香港の返還は何かわれわれにも華やかなものが感じられ、返還の式典にイギリス元首相が列席して愛嬌を振りまいている。

式典に参加する中国人はどう感じているのであろうか。

香港返還の式典こそ、ヨーロッパ列強が今から150年前、世界を力で支配した醜い歴史の証拠であり、イギリスの国旗の下で行われた恥を晒すことになるのである。

それはともかくこの理不尽なヨーロッパの行為は隣国日本に衝撃を与えずには居られなかった。

当時、長崎でこのアヘン戦争についての詳報に接した吉田松陰は驚愕した。
平戸滞在中に松蔭が読んだとされる書物に「阿芙蓉彙聞」7冊があり、松蔭が必読書としてあげているものにも「阿片始末」がある。

松蔭が読んだ書の一文字一文字が心に刺さり、それが松蔭の口を通して弟子達に語られ、やがて日本を救うことなる。

第二の条件は、眠りについている民族が厳しいムチを打たれることである。
居心地の悪い環境にあっても、どうやら休んでいられるような場合には、人間は起きあがらない。

周囲の状態が予断を許さず、このままでは自分たちの生死が問われると言うことになって、人間は初めて起きあがるのである。
中略。

松蔭の登場 : 第三の条件
歴史の大きな転換期には、まるで歴史の流れを個人の体の中に取り込んでいるかの様な人物が現れるものである。
世界史の大きな舞台では、ローマのシーザー、蒙古のチンギス・ハーン、そしてフランスのナポレオン、日本では豊臣秀吉などのがその典型的な人物である。
もちろん、どの国にも数人以上のこの種の人物を捜すことができる。それぞれが偉大な人物ではあるが、多くは夜空に輝く流れ星のように、急激に光り輝き、そして不幸なうちにその人生を終える。

それは、その人物が歴史を動かしているようでもあり、あるいは、トルストイがその小説の中で書いているように、歴史がその人物を翻弄しているようでもある。

1858年、この年は吉田松陰にとっても特別な年であった
4月には反動派の井伊直弼が大老に就任し、9月には老中・間部詮勝が上京して志士の逮捕を始めた。
事態は急速に進み、松蔭の心は燃える。

11月には老中暗殺の計画を立てて、血判書を作り、資金の調達を計画する。

これにはさすがの松蔭の門弟も「やりすぎではないか」と後込みをする。
久坂玄端、高杉晋作、飯田正伯、尾寺新之丞、そして中谷正亮らの高弟の考え方は、いわゆる常識的なものである。

松蔭は無謀にも老中を殺害して幕府に打撃を与えようとしているが、時期が悪い。
いま倒幕の旗を揚げたにしてもそれは失敗に終わるだろう。
そのうちに混乱が来るからそのときを狙うのが上策である、というものである。

確かに、このような考え方は「普通の人」を納得させるには適当であるし、師を思ってかばう高弟達の思いは胸を打つ。

しかし、松蔭は違っていた。

「沢山な御家来のこと、吾が輩のみが忠臣に之れなく候。
吾が輩が皆に先駆けて死んで見せたら親感しておこるものあらん。
夫れがなき程では何方時を待ちたるとて時はこぬなり。
且つ今日の逆焔は誰が是を激したるぞ、吾が輩に非ずや。
吾が輩なければ此の逆焔千年経ちてもなし。
吾が輩あれば此の逆焔はいつでもある。

忠義と申すものは鬼の留守の間に茶にして呑むようなものではなし。
江戸居の諸友、久坂、中谷、高杉なども皆僕と所見違ふなり。
其の分かれる所は、僕は忠義をするつもり、諸友は功業をなす積もり」

今は時期ではない、というのは死んでも敵を打ち破る気概がなく、自分の立身出世も考えの中に入っているのじゃないか、何時死んでも良いのなら、今死んだらよい、という松蔭の言葉はそれが真実のものであるだけに、弟子の心をも貫く。

確かに、必要なものは必要なのである。
やらなければならないことは何時やっても同じで、どうせならすぐやるべきである。
人は多くいるのだから、自分が死んでもそれはかまわないではないか。
自分の身の危険と関係ない我々には理解できることでも、当事者には判らないことだ。

それは、自分の意見がいかにも最らしく見えてもその中には自分が大切であるという利己的な考えが入っているのである。それが渦中に居ても判ったのは松蔭、ただ一人である。

第三の条件は歴史をその体内に宿した人物の出現である。

居心地は悪いが長い眠りで爆発力をつけた民族、
生死にかかわるような急激な環境の悪化、
そして歴史そのものをその体内に宿した強力な個性を持った人物、

この三つが重なった地、それが幕末の萩であり、そして吉田松陰であった。

日本が植民地にならなかったのはなぜか?という問いに対する答えは既に与えられた。
それは、
「日本には吉田松陰という一人の英傑が存在した」ということ、一点なのである。

その点で、松蔭は近代日本の恩人であり、吉田松陰の前には、江戸末期の大秀才、老中阿部正弘や首相伊藤博文なども小さく見えるのはやむを得ない。
伊藤博文が松蔭の教えを充分に理解していなかったということも、いわば当然である。

松蔭の大きさの前には当時のどんな人を持ってきても格が違うのである。
そうだからといって伊藤博文を非難しては博文が可哀想と言うものである。』
(「恩人・吉田松陰 (2) 松蔭登場の三条件」より)
http://takedanet.com/2007/04/post_8d64.html

師の松陰は、敢えて主だった優れた弟子たちに対して「久坂、中谷、高杉なども皆僕と所見違ふ」と断定している。

「僕(松陰)はこの国と天皇と人民への忠義を実践するが、君らは自らの功績を追い求める。」と手厳しい。

「何時死んでも良いのなら、今死んだらよい。」

決起の前夜、湯田温泉の松田屋旅館の玄関先で太い楓の幹の皮を削ぎながら、晋作はこの師の言葉を思い出したことだろう。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。