元祖「松下村塾」~長州(16) [萩の吉田松陰]
SH3B0052「玉木文之進舊宅(=旧宅)」の石柱
SH3B0054茅葺屋根は玉木文之進の旧宅だった
SH3B0055勝手口と自転車3台
写真 (乃木希典(Wikipedia)より引用)
自己主張していたあの茅葺屋根は、玉木文之進の旧宅だった。
松陰の生家ではなかった。
幼い頃の松陰を過激なまでに鍛えた実の叔父さんの家である。
あまりに過酷な幼児虎次郎(松陰)への教育指導に見かねた松陰の母はこう叫んだそうだ。
「虎や、死んでおしまい!」
母性を持つ母親が、幼稚園児や小学生ほどのわが子に向かって言う言葉ではない。
「いっそ死んでくれたほうが、わが子が楽になる」とまで思ったのであろうか。
それほど玉木文之進の松陰に対する教育指導は過酷なものだったようだ。
文之進は松陰の実父の弟に当たる。
杉家から玉木家に養子に行き、玉木姓を名乗っている。
松陰もまた杉家から吉田家へ養子に行っている。
玉木家は、「環(たまき)」家であって、大内義隆の遺児の末裔だという説をネット記事で見たことがある。
作者は玉木家の末裔を自称していた。
ことの信憑性はわからないが、記事には妙な説得力が感じられたことを記憶している。
茅葺屋根の勝手口は開け放されており、外に自転車が3台あった。
私は玉木家の階段を下りて、やや低い敷地へ降り、開いていた勝手口から中へ入った。
若い女性の観光客が座敷の間に立って中年夫人の説明を聞いていた。
その様子が納戸の土間にいる私の左手奥に見えた。
この土間は暗いけれど、座敷の間には太陽が当たっており、座敷の光景が浮き上がって見える。
応対者は中年のご夫人一人だけのようで、勝手口の受付の座椅子は無人となっている。
扇風機だけが静かに首を回していた。
私は声をかけるのを遠慮して、その家屋から外へ出た。
この時点では、ここが玉木の家であることしか私は知らない。
旧宅の玄関先に当たる道端に説明板があった。
『玉木文之進(たまき ぶんのしん)旧宅
玉木文之進(1810~76)は、吉田松陰の叔父にあたり、杉家を出て玉木家(大組40石)を継いだ。
生まれつき学識に優れ、松陰の教育にも大きな影響を与えたほか、付近の児童を集めて教授し松下村塾(しょうかそんじゅく)と名付けた。
この塾の名称は後に久保五郎左衛門が継ぎ、安政2年(1855)には松陰が継承して、名を天下にあげるに至ったことから、この旧宅は松下村塾発祥の地といえる。
建物は木造茅葺き平屋建てで、8畳の座敷のほか4畳の畳部屋・3畳半の玄関・4畳半の板間と土間の台所があり、別に湯殿・便所がある。』(抜粋終わり)
ここが元祖松下村塾であることを、このとき初めて知った。
今まで私は文之進を「ふみのしん」と読んでいたが、「ぶんのしん」と読むのが正しいことも理解できた。
『玉木 文之進は、日本の武士・長州藩士・教育者・山鹿流の兵学者。
松下村塾の創立者。
吉田松陰の叔父に当たる。諱は正韞であるが、玉木文之進が一般的。
家格は大組。石高40石。
文化7年(1810年)9月24日、長州藩士で無給通組・杉常徳(七兵衛)の3男として萩で生まれる。
文政3年(1820年)6月、家格では杉家より上にあたる大組士、40石取りの玉木正路(十右衛門)の養子となって家督を継いだ。
天保13年(1842年)に松下村塾を開いて、幼少期の松蔭を厳しく教育した。また乃木希典も玉木の教育を受けている。
中略。
玉木家は乃木傳庵の長男である玉木春政が、母の玉木の勲功で母の雅号を家名として分立し成立した家であるため、乃木家とは代々交流があった。
加えて乃木希典の父である希次とは歳が近い上に、性格も似ていたので平素互いに推服していたという。
このためか、実子の彦助が死去すると希次の子が文之進の養子となるがこれが玉木正誼である。』(玉木文之進(Wikipedia)より)
玉木と松陰の共通点は「山鹿流」である。
5年前に山鹿素行の墓を訪ねたときのことである。
東京・新宿区の曹洞宗宗参寺にある山鹿素行の墓のすぐ側には、屋根より高いシュロの木が3本聳え立っていた。
玉木姓の説明の下りに、『母の玉木の勲功で母の雅号を家名として分立し成立した家である。』という表現があるが、意味深長である。
女性の社会的地位が低かった時代のことである。
どれほどまでに高貴な母の雅号だったか、ということが大きな問題となるだろう。
母が乃木傳庵と結婚しても、元の玉木姓を号として保ち、息子の誕生を得て再び玉木家を再興した可能性もその表現からは感じられる。
つまり玉木家が大事なのであって、乃木は玉木から見れば養子に過ぎない。
男子の誕生を持って堂々と玉木家を再興したのかも知れない。
母の玉木が大名大内義隆の直系子孫だと仮定すれば、その説明は付く。
松陰も乃木も、結果的に明治天皇に近い存在となっていく。
松陰は若くして斬首刑に遭ったために明治天皇のお側にいることはできなかったが、松下村塾出身者の中で生き残った伊藤利助(博文)は総理大臣となって長く明治天皇のお側に仕えていた。
もし生きていれば、松下村塾四天王の一人であった吉田稔麿が総理大臣になって、明治天皇のお側に付いていたはずである。
明治になってからの品川弥二郎の証言がある。
もし松陰さえも明治まで生きていれば、明治天皇と総理大臣吉田稔麿の間に位置したはずである。
乃木希典は江戸の長府藩上屋敷、現在の六本木ヒルズの場所で誕生したが、本藩の長州ではここ玉木家で教育を受けていたのである。
明治天皇の大葬の日、皇居から天皇が出棺される旨を告げる弔砲の音を聞き、乃木希典は妻静子とともに自宅で自刃している。享年62歳。
大正元年(1912年)9月13日夜のことであった。
旧乃木邸は、乃木坂の乃木神社本殿の隣地にある。
数年前に私はそこを訪ねて、その庭園を散策した。
庭園を歩きながら邸宅の内部をガラス戸越しにのぞくことができるようにしてある。
外からながめるだけで、夫婦の殉死の様子をある程度推測することができた。
『乃木希典と「殉死」』に、『その日』の夫婦の様子が詳しく記述されていた。
http://www.sakanouenokumo.jp/nogi/self_immolation.html
ここ萩の玉木家座敷に先客の女性二人が上がっている。
納戸の受付も無人のままである。
私は帰りにもう一度この玉木家に寄ろうと決心し、松陰の生家の方へ続く坂を上っていくことにした。
ここが元祖「松下村塾」なのである。
幼い頃の松陰、つまり杉虎之助が通った塾がここである。
「虎や、死んでおしまい」と母に言わせたほどの過酷な修行は、ここで行われていたのである。
そしてまた、乃木希典もここに通っていたのであった。
SH3B0054茅葺屋根は玉木文之進の旧宅だった
SH3B0055勝手口と自転車3台
写真 (乃木希典(Wikipedia)より引用)
自己主張していたあの茅葺屋根は、玉木文之進の旧宅だった。
松陰の生家ではなかった。
幼い頃の松陰を過激なまでに鍛えた実の叔父さんの家である。
あまりに過酷な幼児虎次郎(松陰)への教育指導に見かねた松陰の母はこう叫んだそうだ。
「虎や、死んでおしまい!」
母性を持つ母親が、幼稚園児や小学生ほどのわが子に向かって言う言葉ではない。
「いっそ死んでくれたほうが、わが子が楽になる」とまで思ったのであろうか。
それほど玉木文之進の松陰に対する教育指導は過酷なものだったようだ。
文之進は松陰の実父の弟に当たる。
杉家から玉木家に養子に行き、玉木姓を名乗っている。
松陰もまた杉家から吉田家へ養子に行っている。
玉木家は、「環(たまき)」家であって、大内義隆の遺児の末裔だという説をネット記事で見たことがある。
作者は玉木家の末裔を自称していた。
ことの信憑性はわからないが、記事には妙な説得力が感じられたことを記憶している。
茅葺屋根の勝手口は開け放されており、外に自転車が3台あった。
私は玉木家の階段を下りて、やや低い敷地へ降り、開いていた勝手口から中へ入った。
若い女性の観光客が座敷の間に立って中年夫人の説明を聞いていた。
その様子が納戸の土間にいる私の左手奥に見えた。
この土間は暗いけれど、座敷の間には太陽が当たっており、座敷の光景が浮き上がって見える。
応対者は中年のご夫人一人だけのようで、勝手口の受付の座椅子は無人となっている。
扇風機だけが静かに首を回していた。
私は声をかけるのを遠慮して、その家屋から外へ出た。
この時点では、ここが玉木の家であることしか私は知らない。
旧宅の玄関先に当たる道端に説明板があった。
『玉木文之進(たまき ぶんのしん)旧宅
玉木文之進(1810~76)は、吉田松陰の叔父にあたり、杉家を出て玉木家(大組40石)を継いだ。
生まれつき学識に優れ、松陰の教育にも大きな影響を与えたほか、付近の児童を集めて教授し松下村塾(しょうかそんじゅく)と名付けた。
この塾の名称は後に久保五郎左衛門が継ぎ、安政2年(1855)には松陰が継承して、名を天下にあげるに至ったことから、この旧宅は松下村塾発祥の地といえる。
建物は木造茅葺き平屋建てで、8畳の座敷のほか4畳の畳部屋・3畳半の玄関・4畳半の板間と土間の台所があり、別に湯殿・便所がある。』(抜粋終わり)
ここが元祖松下村塾であることを、このとき初めて知った。
今まで私は文之進を「ふみのしん」と読んでいたが、「ぶんのしん」と読むのが正しいことも理解できた。
『玉木 文之進は、日本の武士・長州藩士・教育者・山鹿流の兵学者。
松下村塾の創立者。
吉田松陰の叔父に当たる。諱は正韞であるが、玉木文之進が一般的。
家格は大組。石高40石。
文化7年(1810年)9月24日、長州藩士で無給通組・杉常徳(七兵衛)の3男として萩で生まれる。
文政3年(1820年)6月、家格では杉家より上にあたる大組士、40石取りの玉木正路(十右衛門)の養子となって家督を継いだ。
天保13年(1842年)に松下村塾を開いて、幼少期の松蔭を厳しく教育した。また乃木希典も玉木の教育を受けている。
中略。
玉木家は乃木傳庵の長男である玉木春政が、母の玉木の勲功で母の雅号を家名として分立し成立した家であるため、乃木家とは代々交流があった。
加えて乃木希典の父である希次とは歳が近い上に、性格も似ていたので平素互いに推服していたという。
このためか、実子の彦助が死去すると希次の子が文之進の養子となるがこれが玉木正誼である。』(玉木文之進(Wikipedia)より)
玉木と松陰の共通点は「山鹿流」である。
5年前に山鹿素行の墓を訪ねたときのことである。
東京・新宿区の曹洞宗宗参寺にある山鹿素行の墓のすぐ側には、屋根より高いシュロの木が3本聳え立っていた。
玉木姓の説明の下りに、『母の玉木の勲功で母の雅号を家名として分立し成立した家である。』という表現があるが、意味深長である。
女性の社会的地位が低かった時代のことである。
どれほどまでに高貴な母の雅号だったか、ということが大きな問題となるだろう。
母が乃木傳庵と結婚しても、元の玉木姓を号として保ち、息子の誕生を得て再び玉木家を再興した可能性もその表現からは感じられる。
つまり玉木家が大事なのであって、乃木は玉木から見れば養子に過ぎない。
男子の誕生を持って堂々と玉木家を再興したのかも知れない。
母の玉木が大名大内義隆の直系子孫だと仮定すれば、その説明は付く。
松陰も乃木も、結果的に明治天皇に近い存在となっていく。
松陰は若くして斬首刑に遭ったために明治天皇のお側にいることはできなかったが、松下村塾出身者の中で生き残った伊藤利助(博文)は総理大臣となって長く明治天皇のお側に仕えていた。
もし生きていれば、松下村塾四天王の一人であった吉田稔麿が総理大臣になって、明治天皇のお側に付いていたはずである。
明治になってからの品川弥二郎の証言がある。
もし松陰さえも明治まで生きていれば、明治天皇と総理大臣吉田稔麿の間に位置したはずである。
乃木希典は江戸の長府藩上屋敷、現在の六本木ヒルズの場所で誕生したが、本藩の長州ではここ玉木家で教育を受けていたのである。
明治天皇の大葬の日、皇居から天皇が出棺される旨を告げる弔砲の音を聞き、乃木希典は妻静子とともに自宅で自刃している。享年62歳。
大正元年(1912年)9月13日夜のことであった。
旧乃木邸は、乃木坂の乃木神社本殿の隣地にある。
数年前に私はそこを訪ねて、その庭園を散策した。
庭園を歩きながら邸宅の内部をガラス戸越しにのぞくことができるようにしてある。
外からながめるだけで、夫婦の殉死の様子をある程度推測することができた。
『乃木希典と「殉死」』に、『その日』の夫婦の様子が詳しく記述されていた。
http://www.sakanouenokumo.jp/nogi/self_immolation.html
ここ萩の玉木家座敷に先客の女性二人が上がっている。
納戸の受付も無人のままである。
私は帰りにもう一度この玉木家に寄ろうと決心し、松陰の生家の方へ続く坂を上っていくことにした。
ここが元祖「松下村塾」なのである。
幼い頃の松陰、つまり杉虎之助が通った塾がここである。
「虎や、死んでおしまい」と母に言わせたほどの過酷な修行は、ここで行われていたのである。
そしてまた、乃木希典もここに通っていたのであった。
2011-01-03 15:02
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