松門四天王~萩の吉田松陰(8) [萩の吉田松陰]

SH3B0023.jpgSH3B0023井上剣花坊
SH3B0024.jpgSH3B0024「百までも生きて百度の大晦日」剣花坊

萩駅を出るときロータリー内に井上剣花坊の説明板と川柳を刻んだ石碑があった。

『井上剣花坊(1930年撮影)井上 剣花坊(いのうえ けんかぼう、明治3年6月3日(1870年7月1日) - 昭和9年(1934年)9月11日)は、日本の川柳作家。名は幸一。

生涯
明治3年(1870年)6月3日、山口県萩に生まれた。独学で小学校代用教員となり、のちに新聞記者となり、1903年7月、新聞「日本」によって剣花坊の名で新川柳の選者となり、奥義に達し、1905年結成の柳樽寺派の先達として活躍した。』(井上剣花坊(Wikipedia)より)

井上剣花坊の本名は井上幸一であり、どうやら井上勝とは関係はなさそうである。

井上勝は鉄道の父だった。
その父は与四郎である。

井上与四郎は、私が知っている明治維新劇の中では陽には登場してこない藩士である。

しかし、与四郎の役割は、松下村塾関係者の間では特に重かったようだ。
与四郎が松下村塾関係者かどうかはわからない。

松下村塾関係者の主だったものたちが、与四郎の自宅へ集まったことがある。
集まったというよりも、「押しかけた」という。

それは前の記事でも紹介したが、大事な記事だと直感するので再掲する。

『松陰に入獄の沙汰が下ったことに対し、(吉田)稔麿ら塾生8人と松陰の友人3人が井上与四郎の宅へ押しかけた。

そのことにより彼らにも自宅謹慎が申しつけられたが、身分の低かった入江九一、品川弥二郎及び稔麿は残りの5人よりも遅くまで謹慎を解かれなかった。』
(「若獅子絵巻」より)
http://sacrificio927.blog72.fc2.com/blog-category-20.html

やはり押しかけたのであるから、井上与四郎は松陰を入獄させた藩政府側の人物であろう。

「入獄の沙汰が下った」時期を見てみよう。

『獄中の松陰は、獄舎改善のみに終始していたのではない。
読書家・松陰としての本領も十分に発揮しているのである。

安政元年(1854年)の十月二十四日、入獄と同時に書き始められた彼の「野山獄読書記」をみると、その読書欲は、以前にも増しておう盛となり、入獄からその年の年末までに百六冊、年が明けての一月に三十六冊、二月が四十四冊、三月が四十八冊といった調子で、出獄までの約一年二ヵ月の間で、実に五百五十四冊を読破しているのである。』
(「吉田松陰 その31 野山獄中の日々に」より)
http://www.rekishi.info/library/syoin/scrn2.cgi?n=1031

この記述から、「松陰の入獄日」とは、それが野山獄を指すとすれば、安政元年(1854年)10月24日である。

『安政元年(1854年)にペリーが日米和親条約締結の為に再航した際には金子と二人で停泊中のポーハタン号へ赴き、乗船して密航を訴えるが拒否された(一説ではペリーの暗殺を計画していたともいわれる)。

松陰は乗り捨てた小舟から発見されるであろう証拠が幕府に渡る前に奉行所に自首し、伝馬町の牢屋敷に送られた。
この密航事件に連座して佐久間象山も投獄されている。

幕府の一部ではこのときに佐久間、吉田両名を死罪にしようという動きもあったが、老中首座の 阿部正弘が反対したため、助命されて長州へ檻送され野山獄に幽囚される。
獄中で密航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に著す。』(吉田松陰(Wikipedia)より)

その野山獄入牢の知らせを受けて、吉田稔麿ら塾生8人と松陰の友人3人が井上与四郎宅へ集結したのである。

侍たちの談判である。
松陰の解放、救命を要求する団体交渉だったのであろう。

のちに松陰の関係者たちは藩から謹慎を言いつけられているから、井上与四郎は長州藩政府側の立場の人物のようである。

この松下村塾関係者の中に、入江九一、品川弥二郎がいた。

吉田稔麿(としまろ)は久坂、高杉と並ぶ松陰の弟子のトップ3である。

『久坂玄瑞、高杉晋作、そしてこの吉田稔麿を称して松陰門下の三秀という。(入江九一を入れて松下村塾四天王ともいう)

萩藩松本村新道に足軽吉田清内の嫡子として生まれる。
無駄口を利かず、謹直重厚な人物であったといわれる。

宝蔵院流の槍術と柳生新陰流の剣術を修める。
雅号は風萍軒(ふうひょうけん)。

吉田松陰の松下村塾に入門し、兵学を究める。
松陰は稔麿を評価した評を残している。

安政5年(1858年)に松陰に下獄の命が下されると、親族一門を守るために師の元を一時離れる。

が、翌年松陰が江戸に送られる際には隣家の塀の穴から見送ったとの逸話が残されている。

万延元年(1860年)10月に脱藩するも、文久2年(1862年)には脱藩の罪を許される。
また、同年10月には松陰の慰霊祭に初めて参加した。

文久3年(1863年)6月、高杉晋作の創設した奇兵隊に参加。
7月に屠勇隊を創設。
8月の朝陽丸事件では烏帽子・直垂姿で船に乗り込み、説得に成功する。

元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件では吉田も出席していたが、一度屯所に戻るために席を外す。

しばらくして戻ると新撰組が池田屋の周辺を取り囲んでいて、吉田は奮闘の末、討ち死にする。

最近の説では、長州藩邸に戻っていた吉田が脱出者から異変を聞き、池田屋に向かおうとするも加賀藩邸前で会津藩兵多数に遭遇し討ち死にした、とされている。

また別の説として、池田屋で襲撃を受け、事態を長州藩邸に知らせに走ったが門は開けられる事無く、門前で自刃したという話もある。享年24。

後年、松下村塾の同門生で後の明治の元勲にもなった品川弥二郎(子爵)が「稔麿が生きていたら総理大臣になっただろう」と語ったとされる。』
(吉田稔麿(Wikipedia)より)

『文久3年(1863年)には長州藩の外国船砲撃について使節団を現地へ輸送したが、長州藩兵の攻撃を受けて一時占拠される事態となった(朝陽丸事件)。』
(朝陽丸(Wikipedia)より)

朝陽丸事件で烏帽子・直垂姿で船に乗り込む吉田稔麿は、まるで南朝方の使いのようである。

松陰が江戸に送られる際には隣家の塀の穴から見送ったという姿は臆病もののように見えるがそうではない。

危険な思想を持つ新興宗教や学生運動に肩入れした子息を必死で引き離そうとする両親の存在があった。

やむなく一時松陰と距離を置くことになったが、稔麿自身の決意は終始変わらなかった。

『松門四天王の一人吉田稔麿は天保12年、足軽清内の子として生まれた。
名を栄太郎といい稔麿と改めたのは文久三年に士分になってからである。

吉田姓は自称である。
家は借金が多く、13歳で江戸藩邸に小者として働きだした。

3年後、萩に帰ってきた栄太郎は近所ということもあり松下村塾へ通いだした。
安政3年11月25日の松陰の日記に「栄太初めてくる」と記されている。

中略。

稔麿に対する人物評として「陰頑」という言葉を使っている。
頑固で陰気くさく閉鎖的ということである。』
(「松陰に愛された松下村塾「四天王」の一人」より)
http://www5b.biglobe.ne.jp/~tjk/shiseki/ji/toshimaro/index.htm

吉田稔麿は、吉田松陰の第一等の弟子と言っていいはずだが、意外に松陰による稔麿評価は冷たく、突き放した感がある。

「吉田」姓が自称だというから、元の身分は「姓」を持たないほどに低かったようだ。

松陰は吉田稔麿に「無逸」の字(あざな)を贈っている。

字は諱(いみな=忌み名)を呼ばないために使うものである。
昔は本名で人物を呼ばなかったのである。

松陰が吉田稔麿に向かって、「無逸(むいつ)」と呼んだり、書いたりしていたのだ。

塙保己一により編纂された「史料」を基礎とした大日本史料の中に、「無逸」という明の僧侶の名が見える。

『1895年(明治28年)に帝国大学文科大学に史料編纂掛(現・東京大学史料編纂所)が設けられて歴史書の編纂が始まった。
当初は通史の記述を考えていたが、結局史料集を編纂することになった(明治政府の修史事業参照)。

江戸時代に塙保己一が開設した和学講談所で編纂された「史料」を基礎とした。「史料」は宇多天皇から後一条天皇(1016年~1036年在位)までが対象である。』

その大日本史料の中に、「無逸」が登場する。

『また、この年には、外交上にも重要な事件が起きている。
すなわち、五月に明使の仲猷祖闡と無逸克勤が来朝したことである(是歳条)。

これは明の皇帝朱元璋が杭州臨安府天寧寺の禅僧仲猷と瓦官教寺の天台僧無逸とを、日本からの留学僧椿庭海寿・権中中巽を案内人としてわが国に遣わし、倭寇の禁止と通商の再開とを求めてきたものである。

これよりさき二年ほどの間に、明は使者を三回も日本に遣わしたが、いずれも関西天皇(懐良親王)が信書を自ら納めてしまった。

このために、明の皇帝はその意向を北朝の持統天皇(後光厳天皇)に伝えることができなかった。

そこで、懐良親王が明に遣わした祖来を護送しながら、三たび明使を日本に送ったわけである。

こうして、いよいよ仲猷・無逸が来朝するにあたって、天界寺の季潭宗〓はその餞偈をつくり、朱元璋またこれに韻を和し、さらに、宋景濂はその跋文を作っている。』

『建武の新政が崩壊した後、後醍醐天皇は各地に自分の皇子を派遣し、味方の勢力を築こうと考え、延元元年/建武3年(1336年)(時期については諸説あり)にまだ幼い懐良親王を征西大将軍に任命し、九州に向かわせることにした。

親王は五条頼元らに補佐されて四国伊予国忽那島(愛媛県松山市)へ渡り、当地の宇都宮貞泰や瀬戸内海の海賊衆である熊野水軍の援助を得て数年間滞在した。』(懐良親王(Wikipedia)より)

無逸は中国天台宗の僧で、洪武帝の外交使節として仲猷祖闡(ちゅうゆう そせん)とともに応安5=文中元年(1372)に博多に来着した人物である。

北朝方天皇への明からの使者であった。

松陰は、吉田稔麿に北朝方の天皇、つまり当時は孝明天皇への使いの役目を託したのであろうか。

では、一体誰が派遣する使者なのか。

あくまで私見であるが、応仁の乱以降、京都へ戻ることが適わず、止む無く長州に住み着いた南朝方遺臣たちの末裔が北朝方へ発した使者ではなかったか。

池田屋事件で「吉田稔麿は、加賀藩邸前で会津藩兵多数に遭遇し討ち死にした。」とある。

『後の日本国総理大臣候補』を会津藩士たちがめった斬りしたことになる。

それが事実ならば、そのときに木戸孝允が会津藩に対して持った恨みは相当なものがあったはずである。

木戸孝允(Wikipedia)の記事には「木戸は吉田松陰の弟子」と書かれているが、事実はそうではない。

司馬遼太郎著『世に棲む日日』の中で、明治まで生き延びた品川弥二郎が萩の人に語ったという言葉が紹介されている。

「あれは松陰の門人ではない。世間の人は間違っている。」というのである。

萩の明倫館で兵学教師をしていた松陰から木戸孝允は兵学を学んでいる。
一度は教えを乞うたことがあるから、だから「松陰の弟子」であると言える。

しかし、木戸孝允は松下村塾の塾生ではない。

井上与四郎宅へ馳せ参じた「松陰の友人3名」の中の一人は、木戸孝允であろう。

久坂、高杉がこの塾生の中にいたかどうか、前述の記述だけではわからないが、稔麿と入江の「松下村塾四天王」のうちの二人が集まっていた。
おそらく久坂も高杉も塾生8名の中に含まれていただろう。

この井上与四郎(與四郎)宅には、当然であるが与四郎(旧表記では與四郎)の長男壮太郎がいた。

この人は松下村塾の門下生となっている。

『(井上壮太郎は、』長州藩士井上與四郎の嫡男で、與四郎は御用談役という要職に就いていたこともあり、松陰の父執(父の友人)であった。

壮太郎は明倫館に学び、嘉永2年9月松陰の兵学門下となる。
3年9月酒狂により逼塞(外へ出ないで謹慎させる)を命ぜられ、翌年3月撃剣修業のために松陰等と共に江戸遊学へ上る。

與四郎の懇願もあり、松陰は特に壮太郎の修学については注意し、よき勧告者であった。

江戸では剣術の外に鳥山新三郎・江幡五郎等に就いて学び、同年末松陰亡命のことに関係ありとして、逼塞を命ぜられる。

5年5月一旦帰国し、翌年再び江戸に上り砲術を学ぶ。
翌年松陰の下田踏海後も身辺を警戒された一人である。

安政5年末頃より松陰と意見が合わなかったが、後奥番頭となる。』
(「井上壮太郎 (松楓会 松陰関係人物略伝)」より)
http://www9.ocn.ne.jp/~shohukai/syouinkankeijinnbuturyakuden/kankeijinbutu-a.htm

吉田松陰の実父である萩藩士杉百合之助と井上与四郎は友人だった。
その子らも親友となっていった。

林三雄著「長州藩の経営管理」によれば、壮太郎が就任した「奥番頭」という役職は、「藩主の側に出入りできる秘書の職で、殿中の諸事一切を統括する。実権が手廻頭より移ってきた。」というものである。

つまり藩主の決定を如何様にも細工できる立場である。
毛利藩主は「そうせい、そうせい」と言うので、「そうせい侯」という異名を持つ。

「殿! そろそろ幕府を倒しましょうか?」
「そうせい、そうせい。」

『手廻頭とは藩主側近諸役や記録役、奥番頭、小姓等を統理する重職で、千石以上の寄組の士が任ぜられた。

藩主護衛のため、設けられたのが始まりであるが、殿中枢要事務を処理する秘書長の職になった。

実権が奥番頭に移ってからは、礼儀作法を司る名目役になった。』(同上抜粋)

どうやら、幕府に反抗し日本転覆を決心してからの長州藩は、藩政治を手廻頭から奥番頭の手に移管したように見える。

300年の眠りを経て、「いざ、打倒幕府」の掛け声はいよいよ脈動し始めるのである。

井上与四郎とその嫡男壮太郎は、長州藩の命運を左右する実権を握っていた人物であった。

父の与四郎は松陰を投獄する側だったが、その子の壮太郎は松陰門下生となり、幕末の倒幕行動を殿中で藩主の側にいて補佐する役割に変じていた。

萩駅に顕彰されていた「長州ファイブ」の一人、後に「鉄道の父」となった井上勝とは、与四郎の子で、壮太郎の実弟である。

壮太郎は、酒狂であった。

『親友井上壮太郎も血気にもとづく失敗を犯して国許に追下しの藩命に接し、この日帰国の途についたが、同病相憐れむ立場において、松陰は彼を送るの一文を作ったが、そのうちに、互いに罪余の身のあゆむべき将来の決意を述べて、

「前罪は已追ふべからず、但だ一身の力を尽くし、これを継ぐに死を以てし、勉めて後の功を立て以て之を贖ふものあるのみ。

苟(いやしく)も能く卓然自立し、俗流を顧みずして直ちに古の大丈夫を以て師とし、毀誉利害毫も以て吾が心を動かすに足らずとするときは則ち庶機(ちか)かるべけん」と言った。

ところが数日の後には突如として松陰にも帰国の命が下ったのである。

邸吏に一杯喰わされたと知ったとき、帰邸をすすめた友人もいまさら憮然として、松陰を慰める言葉もなく、中には、彼が心中決するところありはせぬかを心配して、帰国の途中より隙を見て亡命しろ、決して途で屠腹するようなことのないようにと勧めるものもあったのであるが、彼は毅然として、

「匹夫匹婦すら尚ほ能く引決す、大丈夫は誠に死を重んず。知、人に売られしを知る能はず、売らるるに至って又苟も免かれんことを求むるは、益々其の拙なるを見る。

且つ吾が計数々(しばしば)蹶(つま)づけり、而して志は則ち益々壮なり、志壮ならば安んぞ往くとして学を成すべからざらんや」とみずから不撓の精神士気を示して、いさぎよく故郷に帰ることにしたのである。』
(「杳路庵摘録日乗 松下村塾の指導者」より)
http://youroan.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/index.html

松陰が壮太郎を励まして言った言葉「俗流を顧みずして直ちに古の大丈夫を以て師とし、云々」とある「古の大丈夫」とは一体誰のことだろうか?

松陰は「人古今に通ぜず 聖賢(せいけん)を師とせずんば 即ち鄙夫(ひふ)のみ」とも言っているから、師匠とすべきは「古(いにしえ)の聖賢(せいけん)」であると言えるだろう。

聖賢とは、聖人と賢人を指すが、問題は「聖人」の意味である。
「聖人」の読みは二通りある。

『しょうにん
(1)仏・菩薩のこと。
(2)仏教の基本的真理である四諦(したい)を理解して、悟りの道へ進む人。
見道(けんどう)以上の人。聖者。
(3)高僧の尊称。上人(しようにん)。ひじり。
(4)浄土宗で法然、浄土真宗で法然と親鸞(しんらん)、日蓮宗で日蓮に対する敬称。

せいじん
(1)人格・徳行にすぐれ、理想的な人物として尊崇される人。特に儒教で、尭(ぎよう)・舜(しゆん)・孔子などをいう。

(2)〔Saint〕信徒の崇敬の対象とするため、カトリック教会などが与える称号。すなわち、殉教や徳行によって列聖された人物。聖徒。

(3)清酒の異名。濁酒を賢人というのに対する。』
(「三省堂 大辞林」より)
http://www.weblio.jp/content/%E8%81%96%E4%BA%BA

聖人を「しょうにん」と読んでも、「せいじん」と読んでも、宗教色が付きまとう。

陽明学、朱子学を学んだ松陰が、聖人と仰ぐのは儒学の中の聖人なのであろうが、おそらくこの国の神道の神々も含まれるであろう。

根拠はまったくないのだが、私の気分としてはカトリックの聖人のニュアンスも同時に受けるのである。

それは、私だけの「気のせい」かも知れない。

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