マリアとグラバー [奥州街道日記]

343px-Oura_Church.jpg大浦天主堂と2本のシュロの木(大浦天主堂(Wikipedia)より引用)

大浦天主堂は長崎県長崎市にあるカトリックの教会堂で、日本最古の現存するキリスト教建築物だという。

大浦天主堂の前には、大きな2本のシュロの木が聳(そび)えたっている。
あるいはナツメヤシかも知れない。

このブログのサブテーマである「シュロの木」である。

ユダヤ人預言者モーセがエルサレムで神を祝うのにナツメヤシの枝で祝えと定めた木である。
それは紀元前13世紀のことだった。

起源ゼロ年はイエスキリスト生誕の年である。
イエスが十字架にかけられたときの年齢は33歳だといわれているが、諸説あるようだ。

死の数日後にイエスは復活する。

『それら福音書の記述は、キリストの処刑後第三日、すなわち日曜日の早朝、女たちが墓をたずねていくと、墓が空になっていたと述べるが、その後の記述はかならずしも相互に一致してはいない。

『キリストの復活』
18世紀・ポーランド伝統的教会は、この矛盾を復活のキリストが時間と空間を越えた存在(光栄の主)になっていたためであるとする。
またマリヤという名前の登場人物が別の2名であったとして合理的に理解できるという解釈もある。

一方、近代以降の啓蒙主義の合理主義の影響を受けた自由主義神学に立つ解釈では、この矛盾を、復活は歴史的事実ではなく信者の心のなかにキリストがとどまりその印象が強化されたことを意味しており、したがって復活の記述はこの信仰の表現として創造せられたためと考える。』(復活(Wikipedia)より)

カトリック教会では復活の日を「枝の主日(しゅじつ)」と称して、ナツメヤシの枝を飾ってイエスの再生を祝う。

日本の戦国時代に、パリで創始されたイエズス会はカトリック教徒がアジア南米などの新世界での布教を目指す先遣団として生まれた。
日本へやってきたザビエルは創始者のうちの一人である。

インドマラッカ地方で日本渡航の準備をしているとき、元薩摩藩士のヤジロウ他2名の日本人が聖書の翻訳を手伝っている。
そのとき、ナツメヤシは「シュロ」として和訳されたものと思われる。

日本のカトリック教会の庭によくシュロの木を植えているのを見かける。
私はカトリック教会の尼さんにシュロの枝の使い方を尋ねたことがある。

復活祭のときには花屋に行ってシュロの枝を買ってきて、私たち日本人が神棚に榊(さかき)を供えるようにしてシュロの枝をイエスに供えるという。

イエス生誕後に生まれた新約聖書では、シュロの枝で「イエスの復活を祝う」ということになっているようだ。

モーセは「神」を祝えといい、カトリックではイエス復活を祝うということだ。

シュロ(ナツメヤシ)にかかわる新約聖書の記述をまだ私は見たことがないので、そう書かれているかどうかはわからない。
旧約聖書には「ホサナー、ホサナー(万歳の意味か)」と神を称える民衆たちが手に手にナツメヤシの枝を持って叫んでいたという記述がある。

そのシュロの木が大浦天主堂の正面前に2本立っている。

今日(7月25日)のNHK大河ドラマ龍馬伝のカメラワークは大変面白かった。
それを仕掛けたのが原作者なのか、プロデューサーなのかは私にはわからない。


踏み絵で長崎奉行所でマリアを描いた和紙の絵を足で踏む長崎丸山の芸者お元の姿。
踏み絵は、その人物が禁制のキリシタンではないことの証明行為である。

その後お元はある教会へ行き、マリア像の前で涙ぐみつつマリア様に謝罪の言葉を述べる。

お元の顔が祈祷室の蝋燭の灯りにかすかに揺れる。

カメラはそのまま蝋燭を大きく写す。

やがてカメラを引いていくと、同じ蝋燭の灯りではあるが、そこはグラバー邸の応接室だった。
このことから逆に芸者お元が駆け込んだ教会はグラバー邸の隣にある大浦天主堂の地下であることが推察できた。

隠れキリシタンであるお元は、長崎奉行所へ送り込まれたスパイとして描かれている。
奉行所では攘夷志士たちの取り締まりに協力をしている。

薩摩の小松帯刀がグラバーにミニエー銃一万丁を発注しようとするが、サトウキビ(砂糖)と武器の交換比率が不満だとしてグラバーから取引を拒絶される。

砂糖相場の先行きに不安があるから、グラバーが交換比率に不満を述べたものだろう。
現代なら、リスクのあるデリバティブ取引の現場に相当するシーンだ。

その日のドラマが終了して、それから5分程度「現在の旧グラバー庭園」などの光景が紹介される。

最後に交通アクセスが表示された。

「旧グラバー邸 大浦天主堂下下車」と大きく表示されていた。

私は以前長崎ハウステンボスに行った帰りにグラバー邸を訪ねたことがある。
そしてそのまま東京へ帰った私であるが、グラバー邸は知っているが、大浦天主堂は知らないままである。

しかし、このアクセス案内によれば、大浦天主堂下のバス停(あるいは路面電車の停車場かも)のすぐ傍がグラバー邸であるということを示している。

別の資料を読むと、「グラバー庭園を散策していると、いつのまにか大浦天主堂の敷地内に入り込む」という記述があった。

つまり、カトリック教会、当時のイエズス会の長崎布教の拠点が、グラバー邸と一帯の敷地にあったということだ。

長崎滞在中の龍馬は、薩摩の西郷と長州の高杉晋作との橋渡しをすることを決心する。

その3人の間に、イエズス会の日本国支配の戦略が介在していなかったのであろうか。

介在していると仮定すれば、カトリック教徒が多かったであろうと思われる長崎商人の集団が、日本の幕府転覆、日本の民主化を狙って薩長連合を仕掛けた可能性があるかも知れない。

ことが成ってから、貿易の中心は横浜へと移っていった。
商人は利権を求めて当然横浜へと移動したであろう。

「薩長連合の仕掛けの意味」をよく理解していた坂本龍馬の存在は、幕府の大政奉還が成立した後では煙たいものになってしまったのではないだろうか。

知りすぎた土佐の商人坂本龍馬を消さねば、利権は土佐にごっそりと持っていかれるかもしれない。

龍馬が暗殺されてもなお、龍馬の小間使い役に過ぎなかった岩崎弥太郎が龍馬から遺産を引き継ぐ。
それが三菱財閥として大きく成長しているのだ。

もし、龍馬が生存していれば、もっと巨大な日本大財閥の登場となったことであろう。

長崎商人たち、後の横浜商人たちは、「それだけは何とか阻止した」ということではなかったか。

グラバーとその息子の物語もNHKBS特集で拝見した。
息子はトーマス・アルバート・グラバー(Tomas Albert Glover)という。

『英国人貿易商トーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover)と日本人ツルの間に2人姉弟の第2子、長男として1871年1月28日(明治3年12月8日)、長崎に生まれる。』(倉場富三郎(Wikipedia)より)

父へ当てた息子の手紙の内容を読むと、忠実な父の僕(しもべ)としてまじめにグラバー邸の財産管理をしていた様子がわかる。

おそらく息子も隣の大浦天主堂で洗礼を受けたであろう。

息子も水の合う長崎で商業を営むが、父ほどの才覚はなかったようだ。
やがて父も死に、長崎で老年期を迎えた富三郎に第2次世界大戦の災いが押し寄せてくる。

1945年8月9日午前11時2分、長崎市に原子爆弾が投下された。
爆心地から約5キロの大浦天主堂は焼失を免れたようだが、それでも大きな被害を受けたという。

原爆の直撃を受けたカトリック教会があった。
祈りに来ていた全員が死亡した浦上天主堂である。

『1895年(明治28年) 大聖堂の建設を始める。
これは、大浦天主堂にも負けない東洋一の聖堂を目指して建設されたもので、完成までに19年の年月を要した。
中略。

1945年(昭和20年) 8月9日、長崎への原爆投下により、爆心地から至近距離に在った浦上天主堂はほぼ原形を留めぬまでに破壊された。

投下当時、8月15日の聖母被昇天の大祝日を間近に控えて、ゆるしの秘跡(告解)が行われていたため多数の信徒が天主堂に来ていたが、原爆による熱線や、崩れてきた瓦礫の下敷きとなり、主任司祭・西田三郎、助任司祭・玉屋房吉を始めとする、天主堂にいた信徒の全員が死亡している。

後に浦上を訪れた俳人、水原秋桜子は、被爆した天主堂の惨状を見て「麦秋の中なるが悲し聖廃墟」と詠んでいる。 』(浦上教会(Wikipedia)より)

74歳の倉場富三郎は、原爆投下から17日後に自殺している。
おそらく彼は敬虔なカトリック教徒の一人としてカトリック教徒が建国したアメリカ軍によって破壊された「悲しき聖廃墟」を見に行ったであろう。

倉場富三郎が戦後の日本人からの迫害を恐れて自殺したとは思えない。
長崎でハーフではあるが、同じ商人として人々と親しく付き合って暮らしてきた人物である。

長崎の人々の被爆の痛みは、倉場富三郎自身の心の痛みでもあったはずだ。

神の命令だとして日本人カトリック教徒たちを皆殺しするアメリカという国の「本当の狙い」に気づいたのではないか。

日本人カトリック信者倉場富三郎として彼の脳は激しく活動をしたであろう。

戦艦武蔵を建造する長崎三菱造船所の破壊が重要な軍事戦略であることも倉場富三郎は知っていたはずだ。
敵国の軍事基地への攻撃はどの国でも必要なことである。

教会で祈る日本人カトリック信者が爆心地の教会にいることもアメリカは承知のはずである。

広島にも爆心地最寄にカトリック教会があった。
そこは直接の被災は免れている。

但しそこの神父たちは運良く?当日は出かけていて教会付近にはいなかったようだ。
直接被爆はしていないと何かで読んだ。

広島のカトリックは「情報」を入手できていたのだろうか。

下記は原爆投下から5ヵ月後の浦上教会の鐘である。

800px-UrakamiTenshudoJan1946.jpg浦上天主堂の鐘(1946年1月7日) (浦上教会(Wikipedia)より)

日本人のカトリック信者となると英米人の信者と扱いが異なるということを、原爆被災地を見て日英混血児の富三郎は確信し、そして失望したのではないだろうか。

『第二次世界大戦開始後、英国人の父と日本人の母との混血児だった富三郎はスパイ嫌疑をかけられ国の監視の中で厳しい生活を送ることを強いられた。

終戦直後の1945年8月26日に自殺。遺体は長崎市の坂本国際墓地に妻とともに埋葬されている。』(倉場富三郎(Wikipedia)より)

自殺の方法はわからないが、せめて英国人らしく拳銃自殺する方法を父から教えてもらっていたと思いたい。
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