石田光成発「家康の叔父さん殺害命令」 [奥州街道日記]
源太郎史観(続々)である。
関が原の前の出来事である。
小山評定(会議)は、これからの戦争で「家康につくか、秀吉につくか」、上杉征伐に従軍した大名たちに家康が覚悟を求めるものだった。
秀吉恩顧の家臣で秀吉とも血縁がある福島正則が最初に家康につくといった。
ここまでは、事前に家康が説得して仕掛けたシナリオだった。
山内一豊が「城を空けて全員で家康の味方をする」と発言し、「われもわれも」と皆がついて来た。
このとき関ヶ原の勝負がついたと井沢元彦氏はいう。
これは家康の用意した仕掛けではなかったために、家康自身もおおいに驚いたという。
実は一豊のその発言は、評定場にいく途中に同行した20歳代の若い武将堀尾忠氏(ただうじ)からこっそり聞いた覚悟をパクったものだ。
海音寺潮五郎はそのことをこう言う。
「一世一代の(一豊の)ズルがあたりにあたった。」
「これを狡猾と言ってはなるまい。先を越されるのが阿呆なのだ。いいプランやアイデアはめったに口外してはならないのだ。」(逆説の日本史12より)
小山(おやま)に従軍していた堀尾忠氏の父吉晴(隠居していて大阪に残る)が山内一豊(五十代半ば)の同僚だった。
友人の息子の覚悟のほどを聞いて、それをパクったのだ。
いつの世にもそういう輩(やから)はいる。
特許出願していればよかったアイデアだった。
井沢氏は堀尾忠氏側が後世作り出した「つくり話」だという仮説も検討している。
もしこれが作り話ならば、成功して土佐の大大名になった山内一豊にとって不利になるようなものに山内家がしないだろう。
もし堀尾忠氏側が何かの手柄でのちに出世しお家を持続できていて立場が逆だったら、そういうつくり話を作ることの意味があるだろうが、実は江戸時代になって堀尾家は断絶している。
評定所であの発言を忠氏が最初に言ったとすれば、手柄第一と家康に認められ、後日お家断絶の危機に際して幕府側のお目こぼしだってあっただろう。(と井沢氏は言っている。)
江戸時代の新井白石(はくせき)も、この話を「事実」と理解していたようだ。
秀吉につくか家康につくか、これからの戦は天下分け目の戦いとなる。
どちらにつくかで、自分のみならず家族や家臣たちの生死が決まるのである。
山内一豊も一晩悩んだことだろう。
一豊は気持ちを整理できないままに朝を迎えたのだ。
忠氏はかなり前から覚悟は固まっていたはずだ。
少なくともあとで述べる事件、つまり父吉晴が負傷しながらも光成の放った刺客を殺した事件の顛末を聞いたときに、忠氏は家康につくことを決めたのではないだろうか。
堀尾吉晴と山内一豊は戦国時代をともに戦ってきた同僚だった。
しかし、上杉征伐では堀尾吉晴は大阪に残り、息子若い忠氏を従軍させていた。
親子が両軍に分かれることで、どちらが勝っても血統は維持できるという手法は多くの戦国大名たちが使った手である。
堀尾吉晴にそういう思いが腹中にあったかどうか、一豊は探りを入れたかったのかも知れない。
もし、そういう思いで吉晴が息子の出陣を見送っていたのであれば、息子に万が一があったときは真っ先に家康公に御味方すると言えと父は教えていたであろう。
若者がいざというとき家族のことも配慮しつつ意思を決定することは難しい。
父親は自分を含め家族を家康の人質にしてもかまわないから、自藩のすべての兵を家康側に賭けよと教えていたのである。
小山評定の場へ向かう途中でも、まだ一豊の意思は固まっていなかった。
「どうしたらいいものかなあ」と、、騎馬で向かう途中で一豊は忠氏に尋ねた。
父から教えられた秘策だったが、忠氏は迷わず父の同僚に打ち明けた。
おそらく一豊は、吉晴が決断力のしっかりした人物だということを知っていたのであろう。
忠氏の決断には父吉晴の決断が含まれているはずだ。
「一世一代の(一豊の)ズルがあたりにあたった。」
「これを狡猾と言ってはなるまい。先を越されるのが阿呆なのだ。いいプランやアイデアはめったに口外してはならないのだ。」(海音寺潮五郎)
ここでポイントになる人物「堀尾吉晴」を見てみよう。
『堀尾 吉晴(よしはる)は安土桃山時代から江戸時代初期の武将・大名。
豊臣政権三中老の一人。
出雲松江藩の初代藩主。
父は、尾張国上四郡の守護代・織田信安に仕えた堀尾泰晴の嫡男。
通称は茂助(もすけ)。官位は従四位下、帯刀先生(たてわきせんじょう)。
正室は津田氏の娘。子は堀尾忠氏、堀尾氏泰(堀尾宗十郎の父と目される)と娘2人。 』(堀尾吉晴(wikipedia)より)。
堀尾家は出雲方だった。
どうやらこの国の歴史では、出雲方はいつの時代も損な役割を負わされているようだ。
堀尾家は「守護代・織田信安に仕えた」家系だが織田信安とはだれだろう?
『信長とはその(織田信安の)父信秀の時代においては縁戚関係を結んだこともあって比較的友好関係にあり、幼少の信長とは猿楽などを楽しんだ仲であったという。
しかし、信秀の死後、犬山城主の織田信清(信長の従弟)と所領問題で争い、そのこじれから信長とも疎遠となった。』(織田信安(Wikipedia)より)
つまり堀尾吉晴は信長、秀吉、家康という戦国の名将たちに付き従ってきた武将である。
時代の趨勢を見る目に間違いはなかったのである。
しかし息子が小山評定で発言する前に、山内一豊にその腹案をみなの前で披露されてしまった。
後から同じ発言をした堀尾氏に対して家康が特別に感謝することはなかった。
一豊の発言に刺激を受けて、他大名は「われもわれも」と従ったのである。
これによって一豊の石高は4倍増しになっている。
吉晴がなぜ大阪に残っていたのか、ということが気になる。
堀尾吉晴(Wikipedia)を見てみよう。
『慶長3年(1598年)の秀吉死後は徳川家康に接近し、老齢を理由に慶長4年(1599年)10月、家督を次男の忠氏に譲って隠居した。
その際、家康から越前府中に5万石を隠居料として与えられている。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。
本戦直前の7月、三河刈谷城主・水野忠重、美濃国加賀井城主・加賀井重望らと三河国池鯉鮒(愛知県知立市)において宴会中、重望が忠重を殺害した。
吉晴も槍傷を負ったが、重望を討った。
このため9月の本戦には参加できなかったが、代わって出陣した忠氏が戦功を賞され出雲富田24万石に加増移封された。
なお、吉晴は密かに近江、北国の情勢を家康に報せていたともされている。 』(堀尾吉晴(Wikipedia)より)
三河刈谷城主が美濃国加賀井城主に殺される現場に吉晴は居合わせていた。
吉晴は傷を負いながらも加賀井重望を討ち取っている。
吉晴は猛者であろう。
この事件よりも以前に、吉晴は家康につくと決めていたはずだ。
秀吉の死の後で、次は家康と決めていたのではないか。
三河といえば家康のお膝元である。
三河刈谷城で思い出すのは、トヨタ看板システムやジャストインタイムの発明者である大野耐一氏(元トヨタ副社長、故人)である。
大野家は代々刈谷藩の家老職を務めていた。
幕末には耐一氏の祖父は勤皇方に走った。
また三河は浄土真宗派の信者が多い。
三河一向一揆の地でもある。
トヨタを見ればわかるように、三河の人々が一致団結したときのパワーはすごいものがある。
それを家康の留守中に光成は混乱させようとしたのであろう。
関が原の戦いの前に三河刈谷城主と美濃国加賀井城主が殺し合いをしたのは、秀吉側につくか家康側につくかの諜報戦略の結果だろう。
息子は父が家康側について三河刈谷城主の敵討ちをその現場でやったこと、そこで負傷したことなどをしっかり聞いていたはずだ。
人が苦労して固めた決意を、当日の朝あっさり盗んだ一豊とはとんでもない奴であると同時に情報戦略では優れた諜報能力を持っていた人物でもある。
なにやら秀吉方の大物武将であった吉晴である。その息子の心中に大変な思い、覚悟が潜んでいるはずだと読んだのかもしれない。
この小山評定での顛末を知って、私は山内一豊は男らしくないという印象を持った。
内助の功で有名な山内一豊だが、だんなは意外と気が小さかったのかも知れない。
ならば妻がしっかりせねば・・ともなろう。
もし「いざというときには堀尾家の覚悟を聞いておくように」と妻が夫にアドバイスしていたとすれば、それは内助の功としては完璧であるのだが、そういう話はあまり聞こえない。
土佐24万石の大名になってからも、一豊の政治手腕はとても小さいのもに見える。
長宗我部家の家臣を郷士と定めて差別政策を採った。
多くの戦国大名は敵の遺臣を自分の家臣に登用して自藩の体制を固める手法をとっていた。
滅ぼした甲斐武田の遺臣を、桑名井伊藩に抱えさせた家康はその代表である。
しかし、土佐に移った一豊は内向きに固まったように見える。
所詮、軍事にも政治にもさほどの能力はない男だったのだろう。
内向きでかつ差別主義というところに、「女性特有のアドバイス」が生きていたのかも知れない。
内助の功の災いでもあろう。
その程度の男が、なぜ土佐藩主にまで出世したのか?
海音寺潮五郎は 「一世一代の(一豊の)ズルがあたりにあたった。」 と言い当てた。
今度は、堀尾吉晴に殺された加賀井重望の立場を見てみよう。
『はじめ織田信長に仕え、その没後は次男の織田信雄に仕えて天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは父と共に織田方として戦い、武功を挙げた。
しかし加賀井城は豊臣軍によって落とされ、父は秀吉に仕えることを潔しとせずに隠棲したが、重望は秀吉に使番として召しだされ、1万石を与えられた。
中略。
武勇に優れ、加賀井城が豊臣の大軍に包囲されたときも徹底抗戦を貫いた。
戦後、秀吉はその武勇を賞して、大名に取り立てたという逸話がある。
関ヶ原直前の不審な行動の背景には、西軍首脳の一人である石田三成から東軍の事情を探り、あるいは要人を暗殺する密命を帯びていたためともされている
(忠重は徳川家康の叔父で、吉晴は東軍の有力武将の一人である)。
ただし、この説は徳川実記のみに記されている。 』(加賀井重望(Wikipedia)より)
加賀井重望の父は織田方であることを貫いたが、子の重望は秀吉方についた。
秀吉は小牧・長久手で敵方として活躍した加賀井重望を取り立てた。
この辺りの作戦は秀吉らしいが、実は信長が『能力最優先』で人材登用をしていたことの「猿真似」である。
加賀井重望は、石田三成から要人暗殺の密命を帯びていたという説を私は信じたい。
「東国に出陣中の家康のお膝元を荒らす」というゲリラ作戦である。
殺された水野忠重は徳川家康の叔父であるから、家康は東国の旅先で親戚殺害の報告を聞いたことだろう。
家康に精神的圧力を加える事が石田光成の狙いだったようだ。
水野の三河刈谷城下にある知立宿は東海道の宿場町でもある。
東西情報ルートの要衝を押さえて、家康と西国大名との通信を遮断し盗聴する狙いもあっただろう。
山内一豊が堀尾忠氏のアイデアをパクッて大出世したという話題だった。
忠氏の父吉晴は家康の叔父水野忠重の敵討ちを果たしたから家康の味方であった。
その子は当然小山評定で家康方に着くということは明らかであっただろう。
明らかなことをどうして一豊はわざわざ忠氏に聞いたのだろうか。
家康に味方をするといっても、やり方にはさまざまな方法がある。
半分腰を引いて御味方するという態度もあるだろう。
吉晴が息子の忠氏に指示した「家康支援方法の中身」を一豊は知りたかったのであろう。
そしてそれをまんまと「自分のオリジナルな覚悟」として利用した。
天正13年(1585年)のころ、田中吉政・中村一氏・山内一豊・一柳直末らとともに、堀尾吉晴は豊臣秀次付の宿老に任命されていた。
そして近江国佐和山(滋賀県彦根市周辺)に4万石を与えられていたという。
佐波山は近江出身の石田光成のお膝元ではないか。
忠氏が果たして秀吉の恩や光成との関係を裏切れるのか?
父親の吉晴は水野忠重の敵を討つことで堀尾家が「家康方である」ことを刀で証明した。
しかし、息子が家康方につくかどうかまだわからない。
つまり吉晴自身は家康方であることは自明になったが、子孫存続のために息子忠氏を秀吉方に置くという可能性もあったのである。
吉晴と同じ宿老仲間だった一豊は、吉晴の考え方を息子を通じて聞いたのでる。
つまり堀尾親子は一枚岩になって家康に味方するということだ。
吉晴が息子に授けた策は、「城を明け渡し家族を家康に人質として預け、全軍で関が原へ駆けつける」というとても過激な決断だった。
福島正則の家康支援の発言のあとで、誰よりも早く「城を捨てて掛川藩全員で家康についていく」と発言した一豊は、家康を大変驚かしたのである。
家康以上に驚いたのは、堀尾忠氏自身であっただろう。
NHKアナウンサーだった堀尾氏は、堀尾吉晴の家系であると主張しているようだが、堀尾家末裔はそれを認めていないという。
関が原の前の出来事である。
小山評定(会議)は、これからの戦争で「家康につくか、秀吉につくか」、上杉征伐に従軍した大名たちに家康が覚悟を求めるものだった。
秀吉恩顧の家臣で秀吉とも血縁がある福島正則が最初に家康につくといった。
ここまでは、事前に家康が説得して仕掛けたシナリオだった。
山内一豊が「城を空けて全員で家康の味方をする」と発言し、「われもわれも」と皆がついて来た。
このとき関ヶ原の勝負がついたと井沢元彦氏はいう。
これは家康の用意した仕掛けではなかったために、家康自身もおおいに驚いたという。
実は一豊のその発言は、評定場にいく途中に同行した20歳代の若い武将堀尾忠氏(ただうじ)からこっそり聞いた覚悟をパクったものだ。
海音寺潮五郎はそのことをこう言う。
「一世一代の(一豊の)ズルがあたりにあたった。」
「これを狡猾と言ってはなるまい。先を越されるのが阿呆なのだ。いいプランやアイデアはめったに口外してはならないのだ。」(逆説の日本史12より)
小山(おやま)に従軍していた堀尾忠氏の父吉晴(隠居していて大阪に残る)が山内一豊(五十代半ば)の同僚だった。
友人の息子の覚悟のほどを聞いて、それをパクったのだ。
いつの世にもそういう輩(やから)はいる。
特許出願していればよかったアイデアだった。
井沢氏は堀尾忠氏側が後世作り出した「つくり話」だという仮説も検討している。
もしこれが作り話ならば、成功して土佐の大大名になった山内一豊にとって不利になるようなものに山内家がしないだろう。
もし堀尾忠氏側が何かの手柄でのちに出世しお家を持続できていて立場が逆だったら、そういうつくり話を作ることの意味があるだろうが、実は江戸時代になって堀尾家は断絶している。
評定所であの発言を忠氏が最初に言ったとすれば、手柄第一と家康に認められ、後日お家断絶の危機に際して幕府側のお目こぼしだってあっただろう。(と井沢氏は言っている。)
江戸時代の新井白石(はくせき)も、この話を「事実」と理解していたようだ。
秀吉につくか家康につくか、これからの戦は天下分け目の戦いとなる。
どちらにつくかで、自分のみならず家族や家臣たちの生死が決まるのである。
山内一豊も一晩悩んだことだろう。
一豊は気持ちを整理できないままに朝を迎えたのだ。
忠氏はかなり前から覚悟は固まっていたはずだ。
少なくともあとで述べる事件、つまり父吉晴が負傷しながらも光成の放った刺客を殺した事件の顛末を聞いたときに、忠氏は家康につくことを決めたのではないだろうか。
堀尾吉晴と山内一豊は戦国時代をともに戦ってきた同僚だった。
しかし、上杉征伐では堀尾吉晴は大阪に残り、息子若い忠氏を従軍させていた。
親子が両軍に分かれることで、どちらが勝っても血統は維持できるという手法は多くの戦国大名たちが使った手である。
堀尾吉晴にそういう思いが腹中にあったかどうか、一豊は探りを入れたかったのかも知れない。
もし、そういう思いで吉晴が息子の出陣を見送っていたのであれば、息子に万が一があったときは真っ先に家康公に御味方すると言えと父は教えていたであろう。
若者がいざというとき家族のことも配慮しつつ意思を決定することは難しい。
父親は自分を含め家族を家康の人質にしてもかまわないから、自藩のすべての兵を家康側に賭けよと教えていたのである。
小山評定の場へ向かう途中でも、まだ一豊の意思は固まっていなかった。
「どうしたらいいものかなあ」と、、騎馬で向かう途中で一豊は忠氏に尋ねた。
父から教えられた秘策だったが、忠氏は迷わず父の同僚に打ち明けた。
おそらく一豊は、吉晴が決断力のしっかりした人物だということを知っていたのであろう。
忠氏の決断には父吉晴の決断が含まれているはずだ。
「一世一代の(一豊の)ズルがあたりにあたった。」
「これを狡猾と言ってはなるまい。先を越されるのが阿呆なのだ。いいプランやアイデアはめったに口外してはならないのだ。」(海音寺潮五郎)
ここでポイントになる人物「堀尾吉晴」を見てみよう。
『堀尾 吉晴(よしはる)は安土桃山時代から江戸時代初期の武将・大名。
豊臣政権三中老の一人。
出雲松江藩の初代藩主。
父は、尾張国上四郡の守護代・織田信安に仕えた堀尾泰晴の嫡男。
通称は茂助(もすけ)。官位は従四位下、帯刀先生(たてわきせんじょう)。
正室は津田氏の娘。子は堀尾忠氏、堀尾氏泰(堀尾宗十郎の父と目される)と娘2人。 』(堀尾吉晴(wikipedia)より)。
堀尾家は出雲方だった。
どうやらこの国の歴史では、出雲方はいつの時代も損な役割を負わされているようだ。
堀尾家は「守護代・織田信安に仕えた」家系だが織田信安とはだれだろう?
『信長とはその(織田信安の)父信秀の時代においては縁戚関係を結んだこともあって比較的友好関係にあり、幼少の信長とは猿楽などを楽しんだ仲であったという。
しかし、信秀の死後、犬山城主の織田信清(信長の従弟)と所領問題で争い、そのこじれから信長とも疎遠となった。』(織田信安(Wikipedia)より)
つまり堀尾吉晴は信長、秀吉、家康という戦国の名将たちに付き従ってきた武将である。
時代の趨勢を見る目に間違いはなかったのである。
しかし息子が小山評定で発言する前に、山内一豊にその腹案をみなの前で披露されてしまった。
後から同じ発言をした堀尾氏に対して家康が特別に感謝することはなかった。
一豊の発言に刺激を受けて、他大名は「われもわれも」と従ったのである。
これによって一豊の石高は4倍増しになっている。
吉晴がなぜ大阪に残っていたのか、ということが気になる。
堀尾吉晴(Wikipedia)を見てみよう。
『慶長3年(1598年)の秀吉死後は徳川家康に接近し、老齢を理由に慶長4年(1599年)10月、家督を次男の忠氏に譲って隠居した。
その際、家康から越前府中に5万石を隠居料として与えられている。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。
本戦直前の7月、三河刈谷城主・水野忠重、美濃国加賀井城主・加賀井重望らと三河国池鯉鮒(愛知県知立市)において宴会中、重望が忠重を殺害した。
吉晴も槍傷を負ったが、重望を討った。
このため9月の本戦には参加できなかったが、代わって出陣した忠氏が戦功を賞され出雲富田24万石に加増移封された。
なお、吉晴は密かに近江、北国の情勢を家康に報せていたともされている。 』(堀尾吉晴(Wikipedia)より)
三河刈谷城主が美濃国加賀井城主に殺される現場に吉晴は居合わせていた。
吉晴は傷を負いながらも加賀井重望を討ち取っている。
吉晴は猛者であろう。
この事件よりも以前に、吉晴は家康につくと決めていたはずだ。
秀吉の死の後で、次は家康と決めていたのではないか。
三河といえば家康のお膝元である。
三河刈谷城で思い出すのは、トヨタ看板システムやジャストインタイムの発明者である大野耐一氏(元トヨタ副社長、故人)である。
大野家は代々刈谷藩の家老職を務めていた。
幕末には耐一氏の祖父は勤皇方に走った。
また三河は浄土真宗派の信者が多い。
三河一向一揆の地でもある。
トヨタを見ればわかるように、三河の人々が一致団結したときのパワーはすごいものがある。
それを家康の留守中に光成は混乱させようとしたのであろう。
関が原の戦いの前に三河刈谷城主と美濃国加賀井城主が殺し合いをしたのは、秀吉側につくか家康側につくかの諜報戦略の結果だろう。
息子は父が家康側について三河刈谷城主の敵討ちをその現場でやったこと、そこで負傷したことなどをしっかり聞いていたはずだ。
人が苦労して固めた決意を、当日の朝あっさり盗んだ一豊とはとんでもない奴であると同時に情報戦略では優れた諜報能力を持っていた人物でもある。
なにやら秀吉方の大物武将であった吉晴である。その息子の心中に大変な思い、覚悟が潜んでいるはずだと読んだのかもしれない。
この小山評定での顛末を知って、私は山内一豊は男らしくないという印象を持った。
内助の功で有名な山内一豊だが、だんなは意外と気が小さかったのかも知れない。
ならば妻がしっかりせねば・・ともなろう。
もし「いざというときには堀尾家の覚悟を聞いておくように」と妻が夫にアドバイスしていたとすれば、それは内助の功としては完璧であるのだが、そういう話はあまり聞こえない。
土佐24万石の大名になってからも、一豊の政治手腕はとても小さいのもに見える。
長宗我部家の家臣を郷士と定めて差別政策を採った。
多くの戦国大名は敵の遺臣を自分の家臣に登用して自藩の体制を固める手法をとっていた。
滅ぼした甲斐武田の遺臣を、桑名井伊藩に抱えさせた家康はその代表である。
しかし、土佐に移った一豊は内向きに固まったように見える。
所詮、軍事にも政治にもさほどの能力はない男だったのだろう。
内向きでかつ差別主義というところに、「女性特有のアドバイス」が生きていたのかも知れない。
内助の功の災いでもあろう。
その程度の男が、なぜ土佐藩主にまで出世したのか?
海音寺潮五郎は 「一世一代の(一豊の)ズルがあたりにあたった。」 と言い当てた。
今度は、堀尾吉晴に殺された加賀井重望の立場を見てみよう。
『はじめ織田信長に仕え、その没後は次男の織田信雄に仕えて天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは父と共に織田方として戦い、武功を挙げた。
しかし加賀井城は豊臣軍によって落とされ、父は秀吉に仕えることを潔しとせずに隠棲したが、重望は秀吉に使番として召しだされ、1万石を与えられた。
中略。
武勇に優れ、加賀井城が豊臣の大軍に包囲されたときも徹底抗戦を貫いた。
戦後、秀吉はその武勇を賞して、大名に取り立てたという逸話がある。
関ヶ原直前の不審な行動の背景には、西軍首脳の一人である石田三成から東軍の事情を探り、あるいは要人を暗殺する密命を帯びていたためともされている
(忠重は徳川家康の叔父で、吉晴は東軍の有力武将の一人である)。
ただし、この説は徳川実記のみに記されている。 』(加賀井重望(Wikipedia)より)
加賀井重望の父は織田方であることを貫いたが、子の重望は秀吉方についた。
秀吉は小牧・長久手で敵方として活躍した加賀井重望を取り立てた。
この辺りの作戦は秀吉らしいが、実は信長が『能力最優先』で人材登用をしていたことの「猿真似」である。
加賀井重望は、石田三成から要人暗殺の密命を帯びていたという説を私は信じたい。
「東国に出陣中の家康のお膝元を荒らす」というゲリラ作戦である。
殺された水野忠重は徳川家康の叔父であるから、家康は東国の旅先で親戚殺害の報告を聞いたことだろう。
家康に精神的圧力を加える事が石田光成の狙いだったようだ。
水野の三河刈谷城下にある知立宿は東海道の宿場町でもある。
東西情報ルートの要衝を押さえて、家康と西国大名との通信を遮断し盗聴する狙いもあっただろう。
山内一豊が堀尾忠氏のアイデアをパクッて大出世したという話題だった。
忠氏の父吉晴は家康の叔父水野忠重の敵討ちを果たしたから家康の味方であった。
その子は当然小山評定で家康方に着くということは明らかであっただろう。
明らかなことをどうして一豊はわざわざ忠氏に聞いたのだろうか。
家康に味方をするといっても、やり方にはさまざまな方法がある。
半分腰を引いて御味方するという態度もあるだろう。
吉晴が息子の忠氏に指示した「家康支援方法の中身」を一豊は知りたかったのであろう。
そしてそれをまんまと「自分のオリジナルな覚悟」として利用した。
天正13年(1585年)のころ、田中吉政・中村一氏・山内一豊・一柳直末らとともに、堀尾吉晴は豊臣秀次付の宿老に任命されていた。
そして近江国佐和山(滋賀県彦根市周辺)に4万石を与えられていたという。
佐波山は近江出身の石田光成のお膝元ではないか。
忠氏が果たして秀吉の恩や光成との関係を裏切れるのか?
父親の吉晴は水野忠重の敵を討つことで堀尾家が「家康方である」ことを刀で証明した。
しかし、息子が家康方につくかどうかまだわからない。
つまり吉晴自身は家康方であることは自明になったが、子孫存続のために息子忠氏を秀吉方に置くという可能性もあったのである。
吉晴と同じ宿老仲間だった一豊は、吉晴の考え方を息子を通じて聞いたのでる。
つまり堀尾親子は一枚岩になって家康に味方するということだ。
吉晴が息子に授けた策は、「城を明け渡し家族を家康に人質として預け、全軍で関が原へ駆けつける」というとても過激な決断だった。
福島正則の家康支援の発言のあとで、誰よりも早く「城を捨てて掛川藩全員で家康についていく」と発言した一豊は、家康を大変驚かしたのである。
家康以上に驚いたのは、堀尾忠氏自身であっただろう。
NHKアナウンサーだった堀尾氏は、堀尾吉晴の家系であると主張しているようだが、堀尾家末裔はそれを認めていないという。
2010-07-18 13:44
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