日本征服か、唐(から)入りか [奥州街道日記]

nobunaga.jpg写真 織田信長(Wikipedia)より引用

街道を旅しながら、吉田松陰の足跡や蝦夷の事跡などを見て歩いている。

街道歩きの前に抱いていた白河以北の蝦夷のイメージは大きく変わってきた。
実は平和な日本原住民たちである。

海外から渡来してきた外国人勢力を利用した大和族による日本国支配のために、僻地へと追いやられ、次第に大和族との混血により
同族化していったものだろう。

歩くなどして体験して学ぶ歴史には限りがある。
どういう資料や本を読むかで人間の歴史観、つまり「史観」は変わる。
そして同じ本を読んでも、どう感じ取るかは人それぞれ違う。


「歴史」といえば、日本サッカーは先日のワールドカップで歴史を作った。

「歴史というのは民族の貴重な教訓なのである。それから目をそむけることは、結局自己をごまかすということであり決して良い結果にはつながらない。」

これは愛読中の「逆説の日本史11」のp392にある言葉である。
日本人と遺伝子が最も近い外国の歴史観を指した言葉だ。

日本サッカーに対する日本のメディアにも教えたい言葉である。

パラグアイに負けて帰った代表を、ただ褒めるだけの歴史しか日本メディアは作らなかった。


司馬遼太郎の歴史観を司馬史観と呼ぶ。

学校でならった歴史によって私の脳に作られた歴史観は「源太郎(ペンネーム)史観」となろうか。

井沢元彦著「逆説の日本史」シリーズを読みはじめてから、かなり「源太郎史観」は変わった。

それ以前に読んだ本も私の史観形成に関係しているが、「逆説の日本史」を読んで知った事実の量が遥かに多い。
同じ本を読んでも、人の脳が感じる歴史観は違ってくるものだろう。

原爆を実体験した人が小説「黒い雨」を読んで感じるものは、原爆を体験していないものが読むそれとはまったく違うものとなるからだ。

若いみなさんには「逆説の日本史」を読んで「自分史観」を確立することを薦めたい。

ちなみに豊臣秀吉については、過去の源太郎史観では「秀吉は金ピカ好みの狂った朝鮮侵略者」だったが、「逆説の日本史」を読んでからは「アジア征服を企画した偉大な戦国の英雄」に変わった。

これは驚くべき変化である。
日本の学校がにいい加減な教科書と教師たちを使って不正確な教育を行っているかを物語る。


「逆説の日本史11」を読んでなぜ私の頭は「秀吉を英雄」と思い始めたか?

主な根拠を一部抜粋しよう。
p457にイスラム教徒の国グラナダを陥落させた1492年にカトリック国スペインはコロンブスを出航させたとある。
スペイン国内からイスラム教を駆逐したあと大航海時代が始まる。

大航海時代といえば聞こえがよいが、カトリック教国スペインによる地球侵略計画の実行の始まりである。
それは現在もカトリック教国アメリカによって継続されていることだという認識をしておくべきだろう。

イラクもアフガニスタンもその現在進行形であり、同盟国となっている私たちも無縁では済まないことなのだ。

「デマルカシオン」とは地球分割計画(子午線で縄張りをスペインとポルトガルで縦割り)のことで、ローマ法王アレクサンドル六世の大勅書で保証していた。
信長の時代は、日本や中国はポルトガルの縄張り下にあったから、ポルトガルは中国侵略を、そしてポルトガル船に乗って日本へやってきたザビエルも中国布教を目指していた。 中国上陸直前にザビエルは病死してしまった。

日本布教もそこそこに中国へ向かったザビエルの行動が不思議に思えていたが、「逆説の日本史11」を読んでその理由が理解できた。
ザビエル書簡集全巻、フロイスの日本史全巻を読んでもわからなかったことがわかったのである。
おそらくアジア(日本や中国の)植民地化計画のことが露骨に書かれている部分は、意図的に割愛していたものと思われる。

ザビエル以来、カトリック教国は中国への布教を優先する傾向があった。
当時の「布教」とは「侵略、征服」と一体だった。

それは南米のインカ帝国がほとんどカトリック教国に変わっていったことを見れば彼らのやり方は自明である。
スペインも秀吉と同じく「唐入り」(中国侵略)を目指していたのである。

そして「武力侵略」は当時の世界の常識であった。
秀吉も常識に従ったのである。


「日本は貧しいが軍事的には強大なので征服しにくい。中国は豊かでしかも軍事的には弱体であり征服しやすい。」
当時のスペインやポルトガルはこうアジアを見ていた。

ここでは「逆説の日本史11」の中の文を利用しているが、それは主に「キリシタン時代の研究」(高瀬弘一郎著、岩波書店刊)より 引用した下りである。

秀吉の時代は全世界はスペインのものになっていた。
フェリーペ二世がポルトガルを征服併合したからだ。

カトリック国フィリピンはフィリピン・インド総督の王子時代の名前「フェリーペ」にちなんだものである。

以下は私見を交える。

秀吉の時代に日本が軍備を解体し戦争を放棄していたらどうなったか。
スペインのものになってカトリック国フェルナンドとかプジョルとかイニエスタとかいう国名が付けられていたかも知れない。

秀吉軍30万人の存在と「唐入り」がそれを防いだのである。

日本史では「狂った老人秀吉が朝鮮を侵略しようとし失敗した」として矮小化している。
家康の時代に構築された歴史観だから、秀吉を矮小化し家康を神格化しようという意図がその背景にある。
海外進出を間違いとし鎖国政策を良とする思惑もあるだろう。

実は秀吉はスペインの先を行き、中国やインドを領有しようとした。
補給路を朝鮮で断たれて計画が失敗したのは事実だが、秀吉の構想の存在までを抹殺してはいけない。

もっとも唐入り構想は「信長のオリジナルな発想」であって、猿(秀吉)はそれを継承したかあるいはパクったかしたものだ。

信長自身は、ザビエルかその後継者たちから「ポルトガルによる中国やインド布教(=侵略)計画」と合体したイエズス会の世界支配構想を聞き、それを自分の軍事・政治目標に定めたものだろう。

「逆説の日本史11」のp461に、スペインの日本征服断念とシナ侵略に日本軍の行動を利用する思いが語られている。
日本巡察使バリニャーノがフィリピン総督へ宛てた手紙である。

「シナにおいて陛下(フィリピン総督)が行いたいと思っていることのために、日本は時とともに、非常に益することになるであろう」
これは「日本は土地が不毛で軍事力が強いから征服はあきらめた方がいい」と書いたあとの言葉である。

秀吉は次のように考えてから「唐入り」を決意しただろうと作家(村岡剛)は推理している。

「シナ大陸が白人の支配下に落ちれば、日本自体の安全が危険にさらされる」(「醒めた炎」村岡剛著)より

巡察使バリニャーノは日本の大名の軍事力を冷静に評価し、日本征服をあきらめていたが、そう思わないものも当然いた。

日本準管区長コエリョである。
スペインに征服併合されたポルトガル人だったことも、彼の無理な判断を後押ししていたかもしれない。

『ガスパール・コエリョ(Gaspar Coelho、1530年-1590年5月7日)はポルトガル出身で戦国時代の日本で活動したイエズス会司祭、宣教師。
イエズス会日本支部の準管区長をつとめた。

ポルトガルのオポルト生まれのコエリョは1556年にインドのゴアでイエズス会に入会した。
同地で司祭に叙階され、1572年に来日。
九州地方での布教活動にあたった。

1581年に日本地区がイエズス会の準管区に昇格するとアレッサンドロ・ヴァリニャーノによって初代準管区長に任命された。
1586年には地区責任者として畿内の巡察を行い、3月16日に大坂城で豊臣秀吉に謁見を許され、日本での布教の正式な許可を得た。

しかし翌年1587年、九州征伐を終えた秀吉は、ポルトガル商人が日本人を奴隷等として海外に売っていた事(奴隷貿易が行われていたこと)を知ると、バテレン追放令を発布、布教責任者であるコエリョを召喚して叱責した。

これを受けたコエリョは全国のイエズス会員たちを平戸に集結させ、公然の宣教活動を控えさせることにした。
困難な状況の中で布教活動の責任者として重責をになったコエリョは1590年に肥前国加津佐で没した。』(ガスパール・コエリョ(Wikipedia)より)

高山右近をはじめとするキリシタン大名を利用することで日本征服は可能だとコエリョは考えたのだ。

彼は亡国ポルトガルの血と、スペインは世界を支配できるというカトリックの強い信仰を持っていたようで、「唐入り」の準備で博多にいる秀吉の前で火砲を噴かせて威嚇した。
秀吉が火砲を持つスペインにビビルと読んだのである。

「1587年、九州征伐を終えた秀吉」が博多滞在中のときに、コエリョの持ち込んだ火砲が火を吹いたのであろう。

コエリョは秀吉を甘くみたようだ。

このときから秀吉はスペインと敵対する道を選ぶことになる。

高山右近に棄教を要求し、断られると国外追放した。

そのとき右近愛用の十字架のついた兜がなぜか、今は高野山金剛峰寺に保管されている。
密教が新約、旧約聖書を経典の中においていることを知ればそれも理解できることだが、無知ならば訳がわからない。

金剛峰寺に預けたのが高山右近の意思なのかどうか、わからない。
いつか調べてみたいことだ。

そして博多での秀吉の大きな戦略転換がこの街道ブログのサブテーマというか、実はメインテーマである「吉田松陰の死の謎解き」と深くかかわってくる。

高山右近は秀吉からの棄教命令を拒絶したため大名廃業となり加賀藩前田利家に保護されていたが、そこで右近は「お奈」(おなあ)と親しく付き合っている。
おそらくキリシタン信仰による思想的交際だったと思われる。

それが元でお奈は前田家から離縁される。(確か利家の甥の嫁となって前田家に嫁いでいたはずだ。)
お奈は朝鮮征伐(実は中国征服を狙った唐入り)の途上で病死したキリシタン大名(伊勢国岩手城主)牧村利貞の遺児で、前田利家が引き取り養女としたものだ。

離縁されたお奈はキリシタン大名蒲生氏郷の領した会津へ向かう。
会津で再婚したお奈のもとに浪人山鹿某夫婦が居候し、そこで山鹿素行が誕生する。

山鹿素行を育てたのは実質お奈であろう。

その山鹿素行の確立した兵学を江戸時代の末期に吉田松陰は学ぶことになる。

秀吉とコエリョの対立は、吉田松陰と確かにつながってくるのである。
その流れの中にはキリスト教信仰が微妙な感覚で見え隠れしている。

私は「逆説の日本史」を読んでから、「秀吉による牧村利貞毒殺の疑い」も浮上してきたと思っている。
これはおそらくまったくの新説であろう。

日本準管区長コエリョの強引な日本征服構想に武力とキリシタン大名追放、バテレン(宣教師滞在)禁止令で反発した秀吉だった。
しかし江戸時代のような庶民のキリスト教信仰まで禁止したものではない。

現在日本国が外国の宗教によって政治を支配されていない理由はこのときの秀吉の変節のお陰げである。

その秀吉は師匠の織田信長に指導を受け、信長の政治構想をそのまま真似したサルである。
よって私たち日本人は織田信長という英雄の登場に幸運を感じ、それに感謝しなければならないだろう。

また農民の出身でありながら、博多でコエリョの火砲の脅しにびびらなかった秀吉を立派だと理解してやりたい。
日本の植民地化を阻止した英雄として、信長、秀吉をセットで称えるべきであろう。

「源太郎史観」はこうしてずいぶん大きく変化を遂げている。

その史観をもって現代を眺めると、未来もよりよく見えてくる。

アフガニスタン侵攻はたまたまの出来事でっはない。

宗教戦争であり、侵略である。
どちらが悪いかは卵か鶏の議論になるだろう。

16世紀のカトリック教国により地球支配戦略は決してまだ終わっていない。
私たちはその歴史の延長上で生きている。
歴史の断絶は決してないのだから、歴史を間違って理解していると、未来も見誤る。

次期米国大統領選に「戦争したがり屋」で有名なキングリッチ氏が立候補の準備に入ったそうだ。
7月13日付産経新聞ネット記事に出ていた。

彼は米国内では「山本五十六海軍大将の真珠湾攻撃を日本の宣戦布告受領前に繰り上げた」ことを誇らしく語っている。

まんまと「卑怯な国日本」のイメージを米国民に植え付けることに成功したのだ。
日本は国際法に則って、攻撃前に宣戦布告したと思い込んでいる。

お人よしが諜報戦略では騙される。

つまり自国民を欺いてでも戦争をしたがるアメリカ人が現在もいるということだ。
その代表者といえる人物がオバマの後を狙っている。

2年後にアジアでまた「真珠湾攻撃」に似た出来事を企画しようとしている。

歴史の延長戦上に私たちは生きている。

日本の未来の選択を間違わないためにも、個々人が自分の「史観」をしっかり持っておくことが何よりも肝要である。


とくに日本の若者には若いときに逆説の日本史に書いてある事実を頭に叩き込んでおいてほしい。

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