木戸孝允の家~長州(73) [萩の吉田松陰]

SH3B0270.jpgSH3B0270路地を歩く
SH3B0271.jpgSH3B0271シュロのある家(左手前方)
SH3B0272.jpgSH3B0272木戸孝允誕生地
SH3B0284.jpgSH3B0284現在は隣の敷地にシュロ

青木周弼旧宅を通り過ぎて北へ路地を歩く。
左手遠くにシュロの木が見える。

晋作の自宅からは東へ一本隣の路地である。

シュロの枝で神を祝うのは、一体どなたの屋敷であろうか。

玄関門脇に木戸孝允誕生地と石碑に刻まれていた。

よく見ると、シュロの木は隣地境界の隣地側に植えられていた。
隣のシュロである。

しかし江戸時代の武家屋敷は大きかったはずだ、晋作の屋敷も当時の半分の大きさになっていた。

あのシュロの木は、江戸時代の木戸の屋敷敷地内に植えられていた可能性もある。

敷地内には自由に入って見学できるという。

屋敷内では主婦らしき女性の話し声が聞こえる。

私は奥州街道を歩きながら、平和なうちの革命であるはずが、なぜ会津だけ悲惨な戦争になったのか考えてきた。

あのまま薩摩の黒田清隆、長州の品川弥二郎が奥羽鎮撫総督府下参謀として東北地方へ進軍していれば、仙台、会津の重臣たちと大人の話し合いの結果、恭順策がとられただろう。

二人は辞令を受けていながら敢えてそれを辞退し、代わりに大山と世良修蔵が参謀に任ぜられた。

世良を推薦したのがこの木戸孝允である。
敢えて仙台会津で騒乱が起きるように仕掛けたように私には思われる。

木戸が主犯だとは思わないが、誰かに命じられて木戸は人選を行ったはずだ。

主犯については以前このブログで考察したが、再掲する。

『「この花」はサクヤヒメの末裔ではあるが、ローマの斑糲岩に信仰を感じる人物だったようだ。
それは、言い換えると『皇室や公家の中の、江戸期であれば隠れキリシタン』である。

これは、あくまで私の想像である。

公家としては、三条実美までは柳井の西本願寺派僧月性の私塾「清狂草堂」の扁額を見てたどり着くことができた。
三条実美がキリシタンと関係があったかどうかはわからない。

「清狂草堂」とは、「狂える草莽」たちが、いかにも育ちそうな名である。
仙台藩士たちに滅多切斬りされた世良修蔵は、「清狂草堂」で育っている。

会津藩全滅への協奏曲は、薩摩の黒田清隆、長州の品川弥二郎が奥羽鎮撫総督府下参謀を辞退し、品川の代わりに世良修蔵が就任したところから始まっている。

東北で混乱をおこさせるために、調整能力の低い人材に敢えて替えた節がある。
いったん朝廷から出された奥羽鎮圧軍関係人事の発令を拒絶するということは、よほどの外圧か高位の者からの差し金があったのであろう。

人選入れ替え作業そのもは木戸孝允の仕業であり、世良を選定したのも木戸だと思う。

そういえば高杉晋作の号は東行ともいうが、または東洋一狂生とも言い「狂」の字を含み、山県有朋も名前として狂介を名乗っていた。

三条実美は長州側、攘夷派では確かに位が高いが、しかし、京都の権力中枢の中では三条家は摂関家にも入いれないほど低いとも言えよう。

つまり孝明天皇のもとで繰り広げられている権力闘争は、一面摂関家の間の抗争でもあったはずだ。

が、その日本革命計画の罪は歴史の表側では三条以下7名の公家たちに背負わされた格好になっているから、摂関家の中の罪人は存在していても表には出ていない。

それが実は革命の首謀者であるはずで、その人物は安政の大獄後も生存しているとすれば、実質的に明治新政府の実権を握ることができたはずである。

真の革命功労者なのだからだ。

摂関家の中に真犯人(攘夷派から見れば神のごとき英雄男児)はいる可能性が高いが、それは北朝方の摂関家だけではない。

南朝方として世が世なら摂関家筋に当たる人物ならば、明治時代の天皇が南朝方に替わった(フルベッキ写真論争)とすれば、明治以後は必ず復権しているはずである。

摂関家に関する詳細な資料はネットでは入手が難しいし、それは仮にあったとしてもある意味で厳重に秘匿されていることだろう。

私の推理する「皇室や公家の中の人物」とは、そういう意味を含めたものだから、表の歴史資料からそれをあきらかにするのはおそらく困難だろう。

それが実在するとするならば、安政の大獄で宮中での捕縛該当者がいたはずで、その人物が安政の大獄の第一号捕縛者となろう。

しかし、権力中枢家の出自なのだから、天皇の許しを得て免罪された可能性がある。

井伊直弼の権限も、そこまでは及ばなかったという意味で、雲浜が捕縛第2号の名誉を与えられた可能性がある。

その場合、捕縛第2号は雲浜だと主張するのみとなり、第1号の氏名は秘匿されてしまうから、中途半端な歴史叙述になってしまう。
つまり、雲浜が第2号といわれたり、第1号といわれたりする。

NO2の梅田雲浜から大々的に逮捕し、毒殺、病死や斬首刑など、それ以下の身分のものを派手に粛清したものと推定する。以下略。』(再掲終わり)

会津藩の悲劇を木戸の自宅前に立って思い出している。
依然として会津騒動の主犯は不明のままである。

アメリカの南北戦争終結で、世界中に膨大な量の銃火器があまってだぶついていたという事情を考慮に入れる必要もあるだろう。

日本国で血を流さずに革命が成就されてはならないと考える人物は、英国やフランス、米国に多数いたはずである。

戦後の日本の歴史教育が、日本史と世界史を分離して取り扱う限り、戊辰戦争と米国南北戦争の因果関係は見えにくくなってしまう。

あるいはそれがこの国の歴史教育において、長い間秘匿されねばならなかった重要なポイントだったのかも知れない。

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