肘(ひじ)曲がり坂~奥州街道(4-187) [奥州街道日記]

TS393361.jpgTS393361山道に案内板
TS393362.jpgTS393362「奥州街道 肘(ひじ)曲がり坂」の案内板
TS393363.jpgTS393363いよいよ熊の生息地らしき山へ入る

砂利道の林道のような旧奥州街道を歩いて、緩やかな坂を上っている。
人家は消えてしまった。

やがて街道脇に案内板が見える。
そして足が2本しか入らないほど狭い山道が林道から直角に山へ分け入って続いている。

「まさか、この小道が奥州州街道だというのではあるまいな。」

実は中山道を下諏訪宿から和田峠を越えて奈良井宿へ出てきたときに、短い距離だったが「江戸時代のままの中山道古道」という標識を見つけた。
その古道はまさにこれくらいの一人しか歩けないほどの狭い道だったのだ。

だから、その「まさかなのだろう」という印象も同時に持った。

案内板を抜粋する。

『奥州街道 肘(ひじ)曲がり坂

奥州街道とは江戸時代、東海道や中仙道、日光道中、甲州道中とともに、五街道の一つに数えられた奥州道中の別称で、正式には江戸日本橋を起点とし、千住宿から白河宿までの道中を意味しますが、次第に陸奥三厩宿(むつみんまやじゅく)に至る、概ね百十五宿の街道の名称となりました。

ここは江戸時代、栗原藩三迫有壁宿の北側、観音寺を通り北へ向かう上り坂で、この坂の頂上付近が肘曲がり坂と呼ばれています。

安永年間(1772~1781)の「有壁村風土記御用書上」に「肘曲がり坂、長三拾間(約50m)」とあり、江戸時代からの名称であることがわかります。

肘曲がり坂、大沢田坂を越え、磐井郡鬼死骸村を通り田村氏の城下町であった一関に至ります。

明治時代に入り陸羽街道(現在の国道四号)の開設と鉄道の開業によりこの街道を利用する人々が少なくなり、廃道となりました。

このため江戸時代に多くの人々が往来した当時の様子を偲ばせる道路や切り通し、講中により建てられた石碑群や自然環境が大変よく残されています。

平成18年3月 栗原市教育委員会』(抜粋終わり)

50mと短い古道だが、このまま永遠に残して置きたい道である。

このブログには五街道のうち、三街道はすでに掲載を終えた。
あとは奥州街道後半戦と甲州道中を書き終えるだけである。

無料ブログの活用ゆえいつも容量が不足するので、複数に分割して掲載している。
よって過去記事は下記を参照していただきたい。

http://blogs.yahoo.co.jp/suikyo50/
および
http://blogs.yahoo.co.jp/realhear2000

「磐井郡鬼死骸村を通り田村氏の城下町一関に至る」と書いてある。
なんと恐ろしい名前の地名を通過するのだろう。

おそらく原住民であったアイヌ人を殺し骸骨にしてしまった大和族が名づけたものだろう。
侵略者によるひどいセンスの命名である。

逆に言えば、コレハル村のアザマロやアテルイなどの古代アイヌ人が如何に勇猛果敢だったかということを示している。

おそらく中国式の歩兵中心の大和族に対して、奥羽のアザマロたちは騎馬民族の末裔として騎馬戦を得意としていたのであろう。

後の時代に平泉の藤原氏に匿われていた源義経が、世界史の中でもっとも早く集団騎馬戦を実践した。
歩兵を用いず全員が騎馬戦であることが義経オリジナル戦法の特徴である。

そのことも、古代アイヌ人の騎馬技術が奥羽地方にあったことと関係しているものと思われる。

もしアイヌ人たちが弱々しい民族だったとしたら、征服した大和族が「鬼死骸村」などという怖い名前を付けるはずがない。

「お花畑村」でよかったはずだ。

大和族はアザマロの末裔たちの蜂起を恐れていたのだろう。
おどろおどろしい地名をつけたところに、大和族の恐怖心が鮮やかに表現されている。

つまり「鬼死骸村」は、かつて強敵だったアイヌの部族の城があった場所であると推測される。
そこはこの付近では、もっとも大和族が恐れた地であるはずだ。

ここは栗原村である。
古代はコレハル村である。

コレハル村のアザマロの城か砦があった山頂ではないか。
そういう思いが、自然に頭をよぎった。

アザマロの霊が、「そうだ!」と私に語りかけているような気がする。

しかも「陸羽街道の開設と鉄道の開業によりこの街道を利用する人々が少なくなり、廃道となりました。」とある。

おいおい「人が通らない道」を歩けというのか。

普通ならここで引き返して国道4号線を歩くところだ。

しかし、私はあくまで江戸時代の先輩方の街道歩きをできるだけトレースすることが目的である。
人影のない廃道だからといって尻尾を巻いて逃げるわけにはいかない。

そういう根性だから、進む先々でトラブルに遭遇するのであるが、これが癖になるとやめられなくなる。

怖いもの見たさというか、入場料を支払った直後の幽霊屋敷入り口に立つ心境に似ている。
金を払って帰る馬鹿はいない。

「江戸時代に多くの人々が往来した当時の様子を偲ばせる道路や切り通し、講中により建てられた石碑群や自然環境が大変よく残されています。」とあるが、それはそれで大変喜ばしい限りだが、そこをこれから歩こうという私は江戸時代さながらの苦労を背負うことになるのではないかいな。

あとでわかるが、果たしてその通りだった。

写真の通りの「昔のままの古道」の中に入って行く。

いざ入り込むまでに、なぜか私は20秒間ほど案内板の前でボーっとたっていた。
待っていても、引き止める人も現れないのにだ。

心が「行くぞ」と固まるまで時間が少々かかるものである。
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MatNast

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