源太郎史観(続) [奥州街道日記]

muteki.jpg図 スペインの軍港フェロルを出港する無敵艦隊(無敵艦隊(Wikipedia)より引用)

井沢元彦著「逆説の日本史11」を読みながら、少しずつ私の史観は変容を遂げている。

秀吉の「唐(から)入り」(日本史では朝鮮征伐となっている)の三年前に、スペインは「英国入り」を仕掛けた。
このころのポルトガルは、スペインに併合されている。

よってローマ法王は地球全体をスペインの縄張りと認めたことになる。

130隻の無敵艦隊に3万人の兵士を載せ、イングランド島上陸を企てた。
しかし、海戦に敗れた。

今年のスペインのワールドカップ優勝は、16世紀の戦国時代以来の夢が実現したことになる。

日本巡察使バリニャーノは日本征服は無理と考え、秀吉軍30万人を利用してシナ侵略(唐入り)を考えていた。
一方、秀吉は唐入りのために、イエズス会を経由してスペインに艦隊の借用を申し入れていた。

しかし血の気の多かったコエリョ神父は、キリシタン大名を使えば日本征服は可能と考えていた。

その頃無敵艦隊は英国に敗北を喫したのである。
秀吉に貸そうにも、外洋航海船や航海技術者に余力がなかったのだろう。


『「無敵艦隊」はスペイン語Armada Invencibleの訳である。
ただしこの名称は、この艦隊を壊滅させたイングランド人が、皮肉をこめて考案した通称である。

本国スペインにおいては、「最高の祝福を受けた大いなる艦隊(Grande y Felicísima Armada)」と呼ばれていた。
中立な視点からは、英語の文脈ではSpanish Armada、the Armadaなどと呼ぶ[1]。

中略。

出撃
1588年5月28日、22隻のガレオン船、108隻の商船に3万人以上を乗船させたメディナ・シドニア公率いる艦隊がリスボンを出発した。
イングランド上陸を考えていたため、3万人中2万人は陸戦隊だった。

7月末にプリマス沖の海戦、8月8日にグレイブラインの海戦で敗北する。

スコットランドを迂回して帰還を目指すも、更に半分を喪失して大敗した。

結局スペインに帰還したのは54隻だった。
死傷者は2万におよび、艦隊は壊滅し、スペイン衰退の予兆となった。この一連の戦闘をアルマダの海戦と呼ぶ。

敗因
無敵艦隊は1000トン級の大型船で多数の重砲を装備していた。
対するイングランド艦隊は小型船で破壊力に劣る軽砲を主力としていたが、射程距離は長かった
(ただし重量の基準が双方で異なるため、船の大小は単純比較できない)。

スペイン艦隊が伝統的な接舷しての白兵戦に拘ったのに対し、イングランド艦隊は距離を取って砲撃を集中する戦法を採った。
イングランド艦隊を指揮したのは、海賊上がりのフランシス・ドレーク提督である。』(無敵艦隊(Wikipedia)より)


無敵艦隊という言い方はスペインにとっては、「弱い艦隊」といわれているようなもので、あまりいい気持ちがしないものだった。
それを知らないで、スペイン人に対してこの言葉を多用すべきではないだろう。

もしスペインが英国に勝っていれば、拿捕した英国艦隊を秀吉との連合軍用にアジアへ回せたはずだ。
もちろん共同して「唐入り」するために使うのだ。

その場合、秀吉はわざわざ朝鮮半島を歩いて明国へ侵攻したりしない。
五島列島に亡命してきた倭寇の王直と同じように、直接明国へ船出していったはずだ。

外洋航海船を秀吉の元に持ってこずに、火砲で威嚇するだけのイエズス会コエリョに対して、秀吉は見切りをつけた。

この瞬間に、日本国はインカ帝国の後を追う運命から脱却することができた。

秀吉のキリシタン大名追放と伴天連(宣教師)追放が始まったからだ。
それは家康に継承され、江戸時代のキリシタン迫害はさらに厳しくなっていった。

刀と国産化に成功した鉄砲で、一神教の異教徒による日本支配を断ったのだ。


こういう史観を持てば、信長、秀吉、家康が「日本の独立を守った大英雄である」ことが理解できる。

「信長は短期者で、秀吉は老いて狂い無駄な外征をし、家康は騙し上手な古狸」といった固定観念で日本史をみるかぎり、彼等から授かった日本の幸福に思いは至らない。

「逆接の日本史11」(井沢元彦著、小学館文庫)のp478にあるものを抜粋する。

秀吉は、朝鮮から上洛してきた祝賀使(朝鮮通信使)が自分に隷属しだものと勘違いし、自分の「唐入りの志」を返書に書いている。

「一朝明国に直入し、吾朝の風俗を四百余州に易し、帝都の政化を億万斯年に施すは、方寸の中にあり。」

近いうちに明国へ侵入し、日本の風俗を中国大陸に広め、長い間日本の帝の支配の元に置くという志が自分にはある、と言ったのだ。

この秀吉の「勘違い」が、日本軍の朝鮮上陸後の作戦ミスへと発展していったようだ。

秀吉の勘違いは、彼と部下たちが九州と朝鮮半島の事情に疎いことから生じている。
だからこそ対馬の宗氏に仲介を依頼したのだが、朝鮮にも朝貢し、秀吉の臣下にもなっている宗氏は、問題を先送りして「両方に良い顔」をしたようだ。

それによって秀吉は朝鮮が自分に隷属してきたと勘違いした。
これは、一方的に関白秀吉が馬鹿だと言い切れない問題である。

少なくとも宗氏は主人の関白秀吉には事実、つまり「朝鮮は明国に朝貢しているので、明国の属国であり、秀吉の命令には従わない」というべきだった。
そう井沢氏は指摘している。

そうしておれば、朝鮮半島で伸びきった兵糧線をたたかれるというような失敗を犯さなかっただろう。

当時の朝鮮は明国に朝貢をしている隷属国であり、しかも長い間中華思想に洗脳されていた。

つまり朝鮮にとっても秀吉などは単なる隣国の関白に過ぎず、むしろ中華からみれば野蛮な「東夷」となるのである。


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