中国風の歴史館~奥州街道(4-147) [奥州街道日記]
TS393208伊治城の歴史館のような建物
TS393209伊治城外郭北辺の土塁だろう
TS393210栗原市立富野荘学校
蝦夷の豪族「砦麻呂(あざまろ)」が住んでいた伊治(これはる)城の前に私はいる。
先ほど照明寺で見た説明板の内容を思い出している。
『この伊治城は、奈良時代の後期、神護景雲元年(西暦767)秋ごろ造営された。
「続日本紀」の神護景雲元年十月十五日の条に次のように書かれている。
勅すらく、陸奥国の奏する所を見るに、即ち伊治城を作る了ることを知る。
始めより畢(おわ)りに至まで三旬に満たず。
と、このあと城郭施設としておそらく宝亀十一年(西暦780)ころまで十数年かかり、整備されていったであろう。』
「伊治城外郭北辺土塁及び大溝跡」と書いた白い木柱は、街道より1mほど小高い段に立っていた。
街道からその一段高いところにある敷地へ上がってみた。
草むらが広がっている。
広い敷地の奥に、ススキの穂影の向こうに中国の建物を連想させる赤い柱のある建築物が見えた。
「伊治城の歴史館のような建物」であろう。
この一段高いところにある敷地が、「伊治城外郭北辺の土塁」の上に当たるのだろう。
その先に栗原市立富野小学校があった。
古代は小学校の敷地も含めて、広大な城の光景が広がっていたと思われる。
砦麻呂(あざまろ)」を思い出すべく、アザマロの乱の記事を再掲する。
『元々砦麻呂(あざまろ)は「伊治(いじ・これはる)村、現在の宮城県栗原市・「くりはら」は「これはる」に由来すると言われる」の蝦夷でしたが、朝廷に帰服して、外従五位下の官位を賜り、蝦夷としては破格の待遇を受けることになっていたようです。
宝亀11年(780)3月、時の陸奥守兼按察使(あぜち)「紀広純(きのひろすみ)」は、伊治城より北の蝦夷の南進が激しくなってきたことに伴い、伊治城の更に北に「覚鱉(かくべつ)柵」を築き、それを防ぐことにしました。
伊治公砦麻呂は、同じ蝦夷にもかかわらず、砦麻呂以上に朝廷の覚えめでたい牡鹿(おじか)郡の大領「道嶋大楯(みちしまのおおだて)」と伴に、時の陸奥守「紀広純」の下、味方の蝦夷軍を率いて伊治城で待機しておりました。
砦麻呂は広純にたいそう気に入られていたようですので、よほど実直に仕えていたのでしょう。
ところが、一方の道嶋大楯は同じ蝦夷でありながらエリート意識が鼻につく人物だったようで、砦麻呂を蝦夷扱いし、嘲っていたようです。
これにアレルギー反応を起こした砦麻呂は、味方の蝦夷軍を動かしてまず大楯を葬り、その勢いで広純をも殺害してしまいました。
この事件は朝廷を震撼させました。
これまでは外敵としての蝦夷をどう攻め、どう懐柔するかばかりを考えていたのに、こともあろうに懐柔したはずの蝦夷が内部から暴発したのです。
このとき、実に妙なことが起きます。
これだけのクーデターにもかかわらず、何故か唯一人陸奥介「大伴真綱(まつな)」だけは生き残ったのです。
決して奇跡ではありません。
奇跡どころか、はっきりと積極的に生かされました。
砦麻呂勢によってご丁寧に多賀城まで護送されていることが『続日本紀』にも明記されております。
“大伴氏”だけが蝦夷から護衛されて生き残ったのです。
この地の蝦夷にとって、大伴氏とは果たして如何なる存在だったのでしょうか・・・。』(「伊治公砦麻呂と大伴氏」より)
http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/16668202.html/
TS393209伊治城外郭北辺の土塁だろう
TS393210栗原市立富野荘学校
蝦夷の豪族「砦麻呂(あざまろ)」が住んでいた伊治(これはる)城の前に私はいる。
先ほど照明寺で見た説明板の内容を思い出している。
『この伊治城は、奈良時代の後期、神護景雲元年(西暦767)秋ごろ造営された。
「続日本紀」の神護景雲元年十月十五日の条に次のように書かれている。
勅すらく、陸奥国の奏する所を見るに、即ち伊治城を作る了ることを知る。
始めより畢(おわ)りに至まで三旬に満たず。
と、このあと城郭施設としておそらく宝亀十一年(西暦780)ころまで十数年かかり、整備されていったであろう。』
「伊治城外郭北辺土塁及び大溝跡」と書いた白い木柱は、街道より1mほど小高い段に立っていた。
街道からその一段高いところにある敷地へ上がってみた。
草むらが広がっている。
広い敷地の奥に、ススキの穂影の向こうに中国の建物を連想させる赤い柱のある建築物が見えた。
「伊治城の歴史館のような建物」であろう。
この一段高いところにある敷地が、「伊治城外郭北辺の土塁」の上に当たるのだろう。
その先に栗原市立富野小学校があった。
古代は小学校の敷地も含めて、広大な城の光景が広がっていたと思われる。
砦麻呂(あざまろ)」を思い出すべく、アザマロの乱の記事を再掲する。
『元々砦麻呂(あざまろ)は「伊治(いじ・これはる)村、現在の宮城県栗原市・「くりはら」は「これはる」に由来すると言われる」の蝦夷でしたが、朝廷に帰服して、外従五位下の官位を賜り、蝦夷としては破格の待遇を受けることになっていたようです。
宝亀11年(780)3月、時の陸奥守兼按察使(あぜち)「紀広純(きのひろすみ)」は、伊治城より北の蝦夷の南進が激しくなってきたことに伴い、伊治城の更に北に「覚鱉(かくべつ)柵」を築き、それを防ぐことにしました。
伊治公砦麻呂は、同じ蝦夷にもかかわらず、砦麻呂以上に朝廷の覚えめでたい牡鹿(おじか)郡の大領「道嶋大楯(みちしまのおおだて)」と伴に、時の陸奥守「紀広純」の下、味方の蝦夷軍を率いて伊治城で待機しておりました。
砦麻呂は広純にたいそう気に入られていたようですので、よほど実直に仕えていたのでしょう。
ところが、一方の道嶋大楯は同じ蝦夷でありながらエリート意識が鼻につく人物だったようで、砦麻呂を蝦夷扱いし、嘲っていたようです。
これにアレルギー反応を起こした砦麻呂は、味方の蝦夷軍を動かしてまず大楯を葬り、その勢いで広純をも殺害してしまいました。
この事件は朝廷を震撼させました。
これまでは外敵としての蝦夷をどう攻め、どう懐柔するかばかりを考えていたのに、こともあろうに懐柔したはずの蝦夷が内部から暴発したのです。
このとき、実に妙なことが起きます。
これだけのクーデターにもかかわらず、何故か唯一人陸奥介「大伴真綱(まつな)」だけは生き残ったのです。
決して奇跡ではありません。
奇跡どころか、はっきりと積極的に生かされました。
砦麻呂勢によってご丁寧に多賀城まで護送されていることが『続日本紀』にも明記されております。
“大伴氏”だけが蝦夷から護衛されて生き残ったのです。
この地の蝦夷にとって、大伴氏とは果たして如何なる存在だったのでしょうか・・・。』(「伊治公砦麻呂と大伴氏」より)
http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/16668202.html/
2010-07-07 19:35
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