アザマロとコレハル城~奥州街道(4-142) [奥州街道日記]
TS393189「来光実山 照明禅寺」
TS393188「伊治城跡とその出土品」の説明板
TS393193 大神宮の石碑
コレハル城跡と思ったが、今はお寺になっている。
ここは築館町の「城生野台地」である。
奈良時代のコレハル村が、現在のクリハラ、つまり栗原市となっている。
近づくと、「来光実山 照明禅寺」 と門柱に書いてあるのが見える。
修行を中心とした山の中にある禅宗だから、曹洞宗であろうと思われる。
武家に接近して街中にあれば臨済宗である。
境内に入ると、「伊治城跡とその出土品」の説明板があった。
周囲はさびているが、文字の部分はほぼ完全に読める。
訪れる人も少ないだろうこの説明板が、奈良時代のアザマロの実在を私に突きつけてくれるようだ。
以下に抜粋する。
『伊治城の位置、形状、規模は、現在まで必ずしも明確でない。
しかし、唐崎(ここより北東)に空濠(長さ300メートル、幅約1.9メートル、深さ約3メートル)が現存するから、この築館町城生野台地の一角に造営されたことは確実である。
この伊治城は、奈良時代の後期、神護景雲元年(西暦767)秋ごろ造営された。
「続日本紀」の神護景雲元年十月十五日の条に次のように書かれている。
勅すらく、陸奥国の奏する所を見るに、即ち伊治城を作る了ることを知る。
始めより畢(おわ)りに至まで三旬に満たず。
と、このあと城郭施設としておそらく宝亀十一年(西暦780)ころまで十数年かかり、整備されていったであろう。
この整備の仕事は、開拓にともなって進められ、希望者を入植させ、優遇措置を講じて安定した開拓政策をとるようにしたので、神護景雲三年六月に2,500余人の百姓等が移住し迫川流域の開拓の仕事に従事した。
さらに北へ進んで、宝亀十一年(780)に胆沢(いさわ)地方(岩手県)の蝦夷を討つため、また蝦夷の南下する道(即ち北上川)を防ぐために「覚繁城」を築くのであるが、伊治城は、この新城造営の基地=胆沢経営の基ともなった。
この計画を実施に移そうとすると伊治公砦麻呂の反乱にあい按察使紀広範(?)が殺され、多賀城(多賀市)もおとしいれ掠奪をほしいままに火をかけて引きあげた。
蝦夷経営はじまって以来の危機である。
この反乱によって伊治城は政府の手をはなれ当地方の蝦夷の郡司の掌中に帰したが翌年の五月ころまでには政府軍の回復するところとなったと考えられる。
この後の伊治城は、歴史から姿を消してしまうのであるが、延暦十五年(796)のころには、反乱以前の状態に復旧、整備され、胆沢地方の安定とともに、伊治城の蝦夷経営の基地的性格も定まり、志波姫町の糖塚遺跡に見られるような、開拓民の住居が建てられ、伊治城下の開拓が一段と進むのである。
伊治城跡より出土した遺物が斉藤義忠宅に収蔵されている。
この遺物は、故松森明心師が大正初年ごろより収集し、大部分のものは伊治城跡より出土したものである。
昭和52、53、54年度に宮城県多賀城跡調査研究所により発掘調査が行われ、大堀地区で17棟、唐崎地区で4棟の竪穴住居跡、3棟の掘立建物跡と土師器及び須恵器(圧倒的に多い)が発見された。
この所属年代は八世紀末頃を中心とする時期が考えられるという。
栗原市教育委員会』
優遇策を講じて2,500余人の百姓等を移住させて城を経営させたとあるので、稲作農民の入植によって大和族の領地の拡大を図っていたことがわかる。
このあたりの稲穂も奈良時代からあったものと同じようなものかもしれない。
『森ヶ沢遺跡(青森県七戸町)から出土した5世紀の須恵器須恵器(すえき)は、日本で古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器(炻器)である。青灰色で硬い。
同時期の土師器とは色と質で明瞭に区別できるが、一部に中間的なものもある。
5世紀に朝鮮半島南部から伝わり、土師器より高級な品として扱われた。』(須恵器(Wikipedia)より)
ここ伊治城跡からは、平安時代以前の8世紀の住居あとに須恵器が多く出土していると先の説明板に書かれていたので、入植した2500人の多くが百姓が朝鮮半島からつれてこられた農奴である可能性もあるだろう。
今風に言えば「拉致」してきた農業奴隷のような人々だったのではないだろうか。
TS393188「伊治城跡とその出土品」の説明板
TS393193 大神宮の石碑
コレハル城跡と思ったが、今はお寺になっている。
ここは築館町の「城生野台地」である。
奈良時代のコレハル村が、現在のクリハラ、つまり栗原市となっている。
近づくと、「来光実山 照明禅寺」 と門柱に書いてあるのが見える。
修行を中心とした山の中にある禅宗だから、曹洞宗であろうと思われる。
武家に接近して街中にあれば臨済宗である。
境内に入ると、「伊治城跡とその出土品」の説明板があった。
周囲はさびているが、文字の部分はほぼ完全に読める。
訪れる人も少ないだろうこの説明板が、奈良時代のアザマロの実在を私に突きつけてくれるようだ。
以下に抜粋する。
『伊治城の位置、形状、規模は、現在まで必ずしも明確でない。
しかし、唐崎(ここより北東)に空濠(長さ300メートル、幅約1.9メートル、深さ約3メートル)が現存するから、この築館町城生野台地の一角に造営されたことは確実である。
この伊治城は、奈良時代の後期、神護景雲元年(西暦767)秋ごろ造営された。
「続日本紀」の神護景雲元年十月十五日の条に次のように書かれている。
勅すらく、陸奥国の奏する所を見るに、即ち伊治城を作る了ることを知る。
始めより畢(おわ)りに至まで三旬に満たず。
と、このあと城郭施設としておそらく宝亀十一年(西暦780)ころまで十数年かかり、整備されていったであろう。
この整備の仕事は、開拓にともなって進められ、希望者を入植させ、優遇措置を講じて安定した開拓政策をとるようにしたので、神護景雲三年六月に2,500余人の百姓等が移住し迫川流域の開拓の仕事に従事した。
さらに北へ進んで、宝亀十一年(780)に胆沢(いさわ)地方(岩手県)の蝦夷を討つため、また蝦夷の南下する道(即ち北上川)を防ぐために「覚繁城」を築くのであるが、伊治城は、この新城造営の基地=胆沢経営の基ともなった。
この計画を実施に移そうとすると伊治公砦麻呂の反乱にあい按察使紀広範(?)が殺され、多賀城(多賀市)もおとしいれ掠奪をほしいままに火をかけて引きあげた。
蝦夷経営はじまって以来の危機である。
この反乱によって伊治城は政府の手をはなれ当地方の蝦夷の郡司の掌中に帰したが翌年の五月ころまでには政府軍の回復するところとなったと考えられる。
この後の伊治城は、歴史から姿を消してしまうのであるが、延暦十五年(796)のころには、反乱以前の状態に復旧、整備され、胆沢地方の安定とともに、伊治城の蝦夷経営の基地的性格も定まり、志波姫町の糖塚遺跡に見られるような、開拓民の住居が建てられ、伊治城下の開拓が一段と進むのである。
伊治城跡より出土した遺物が斉藤義忠宅に収蔵されている。
この遺物は、故松森明心師が大正初年ごろより収集し、大部分のものは伊治城跡より出土したものである。
昭和52、53、54年度に宮城県多賀城跡調査研究所により発掘調査が行われ、大堀地区で17棟、唐崎地区で4棟の竪穴住居跡、3棟の掘立建物跡と土師器及び須恵器(圧倒的に多い)が発見された。
この所属年代は八世紀末頃を中心とする時期が考えられるという。
栗原市教育委員会』
優遇策を講じて2,500余人の百姓等を移住させて城を経営させたとあるので、稲作農民の入植によって大和族の領地の拡大を図っていたことがわかる。
このあたりの稲穂も奈良時代からあったものと同じようなものかもしれない。
『森ヶ沢遺跡(青森県七戸町)から出土した5世紀の須恵器須恵器(すえき)は、日本で古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器(炻器)である。青灰色で硬い。
同時期の土師器とは色と質で明瞭に区別できるが、一部に中間的なものもある。
5世紀に朝鮮半島南部から伝わり、土師器より高級な品として扱われた。』(須恵器(Wikipedia)より)
ここ伊治城跡からは、平安時代以前の8世紀の住居あとに須恵器が多く出土していると先の説明板に書かれていたので、入植した2500人の多くが百姓が朝鮮半島からつれてこられた農奴である可能性もあるだろう。
今風に言えば「拉致」してきた農業奴隷のような人々だったのではないだろうか。
2010-07-04 14:19
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