東京人は翌日広島は原爆だったと知っていた! [つれづれ日記]

NHK総合テレビで作家高見順の日記が紹介されていた。

『新橋駅で義兄に声をかけられた。
「大変な話-聞いた?」と義兄はいう。

「大変な話?」あたりの人をはばかって、
義兄は歩廊に出るまで、黙っていた。

人のいないとこへと彼は私を引っぱて行って、「原子爆弾の話-」
「……!」
広島の全人口の三分の一がやられたという。

「もう戦争はおしまいだ」

原子爆弾をいち早く発明した国が勝利を占める。
そういう話はかねて聞いていた。
私はふーんと言ったきり、口がきけなかった。』
(NHK総合テレビ番組「あの日 昭和20年の記憶」より抜粋)

高見順は福井県知の妾腹から生まれているから、知事の息子から聞いたのかもしれない。

『福井県知事阪本釤之助の非嫡出子として福井県坂井郡三国町(現坂井市三国町)平木に生まれる。

母は阪本が視察で三国を訪れた際に夜伽を務めた女性。

阪本釤之助は永井荷風の父方の叔父であり、したがって荷風と高見順は従兄弟同士になるが、それにも拘らず互いに極めて険悪な関係にあった。

1歳で母と共に上京。
実父と一度も会うことなく、東京麻布飯倉にあった父の邸宅付近の陋屋に育つ。

私生児としてしばしばいじめを受けた。

阪本家からは毎月10円の手当てを受けていたがそれでは足りず、母が針仕事で生計を立てた。
東京府立第一中学校から第一高等学校を経て東京帝国大学英文科卒業。

在学中より「左翼芸術」などに作品を発表し、プロレタリア文学の一翼を担う作家として活動する。
1932年、治安維持法違反の疑いで検挙されるが、「転向」を表明し、半年後に釈放される。

1935年、饒舌体と呼ばれる手法で「故旧忘れ得べき」を著わす。
これが、第1回芥川賞候補となり、作家としての地位を確立する。

第二次世界大戦中の1939年には、戦時下の重圧の中の浅草風俗を描いた「如何なる星の下に」で高い評価を受ける。

戦後は、「わが胸の底のここには」、「あるリベラリスト」などの作品で私小説風に傷つきやすい精神を掘り下げた作品を次々と発表する。

また、晩年は、昭和という時代を描く「激流」「いやな感じ」「大いなる手の影」の連作を発表する。長編などでは他に「都に夜のある如く」、「生命の樹」、「今ひとたびの」、「胸より胸に」などがある。

また、詩人としても活躍し、「樹木派」、「わが埋葬」、「死の淵より」(最晩年の作、新版が講談社文芸文庫)などを発表する。

永井荷風と並ぶ日記作家としても知られ、昭和史の資料ともいえる「高見順日記」を著わす。
(「敗戦日記 新版」が中公文庫で再刊)。回想記に「昭和文学盛衰史」がある。』(高見順(Wikipedia)より)

別のネット記事にある高見順の日記は、テレビの報道内容とほぼ同じだが、一部異なる部分がある。

『(8月7日)
新橋駅で義兄に「やあ、高見さん」と声をかけられた。
 「大変な話・・・聞いた?」と義兄はいう。
 「大変な話?」
 あたりの人をはばかって、義兄は歩廊に出るまで、黙っていた。

人のいないところへと彼は私を引っ張っていって、
 「原子爆弾の話・・・」
 「・・・!」
 「広島は原子爆弾でやられて大変らしい。畑俊六も死ぬし・・・」
 「もう戦争はおしまいだ」

原子爆弾をいち早く発明した国が勝利を占める、
原子爆弾には絶対に抵抗できないからだ。

そういう話はかねて聞いていた。
その原子爆弾がついに出現したというのだ。
・・・衝撃は強烈だった。

私はふーんと言ったきり、口がきけなかった。

対日共同宣言に日本が「黙殺」という態度に出たので、それに対する応答だと敵の放送は言っているという。

(8月9日)
4時過ぎごろ、林房雄が自転車に乗ってきて、
 「えらいことになった。戦争はもうおしまいだな」という。新爆弾のことかと思ったら、
 「まだ知らんのか。ソ連が宣戦布告だ」3時のラジオで報道されたという。

永井(龍男)君が来た。
東京からの帰りに寄ったのである。
緊張した表情である。

長崎がまた原子爆弾に襲われ広島より惨害がひどいという。
二人のものが、同盟と朝日と両方から聞いてきて、そう言ったから、うそではないらしい。

避難の話になった。
もうこうなったら避難すべきときだということはわかっているのだが、誰もしかし逃げる気がしない。
億劫でありまた破れかぶれだ。
 「仕方がない。死ぬんだな」〗(「高見順敗戦日記より)
http://www.k4.dion.ne.jp/~skipio/21essay2/takami-jun-haisen-diary.htm

NHKテレビの内容とこの記事の内容で大きく異なるのは以下の部分であった。

『原子爆弾には絶対に抵抗できないからだ。

そういう話はかねて聞いていた。
その原子爆弾がついに出現したというのだ。
・・・衝撃は強烈だった。』

おそらく東京にいる物理科学者たちの常識を識者たちは共有していたのである。
原爆を先に開発した国が勝利するということを東京人の一部は知っていた。

しかも原爆投下の翌日に新橋駅で立ち話するくらいに知っていたのだ。
原爆と知っていれば、原爆投下地には入ってはならないというのも常識である。

広島の人々はそういうことを知らない。
翌日も残留放射能を浴び続けていた。

政府や官僚が知らないはずはないのである。

現在でもこの日本の民主主義の欠陥はなお継続していると考えるべきだ。
国民の命が一番大事と思う国ではないということだ。

「あなたがいつ犠牲にされるかもしれない」という緊張感を持って、この国では生きていかねばならない。



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