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放射能被爆から逃れるには? ヤジキタ珍問答 [つれづれ日記]

[ヤジサン→キタサン]3月13日

こんにちは、ヤジです。
こういう状況ですから、セミナーの開催中止は止むを得ないですね。

今回の災害で、死者は1万人を超えると言っていましたが、数万人に上るかも知れませんね。

それに福島の原子力発電所の事故がなかなか収束しないのが気になりますね。

また、3号機が爆発したようですが、今までだったら、ほんの少しの放射能漏洩でも大騒ぎしていたことを思うと、今回の事故は超大事故です。

それにしては、今回、日本国民は冷静ですね。
枝野官房長官が必死になって記者会見し、適時状況報告をしていることも影響しているのでしょう。

チェルノブイリの原発事故では半径3000km(あとで間違いとわかる、30kmが正解)が立ち入り禁止になったそうですが、日本だったら、日本国民全員が海外に移住しなくてはならなくなりますね。(これはオーバーだった)

なんとしても早く収束してもらいたいものです。

[キタサン→ヤジサン]3月14日

キタです。
だいたい1000kmがどのくらいの距離か、体感でわかります。
四国一周のお遍路が1500km、奥州街道が730km、東海道、中仙道が500km。
お遍路はまだやっていませんが、奥州街道の2倍となると、とても大変なことが実感できます。五街道はすべて踏破しましたから。

3000kmでしたかチェルノヴィリは・・・(あとで間違いに気づくことになる)
大変なもんですなあ。

私も原発反対運動をしなかった人間なので、いっぱしの責任はあるかも。

賛成もしていなかったが、日和見としての責任ですね。

しっかり学習すれば、こういう事態が発生する確率がどのくらいあるかはわかるはずでしたが。そしてわかれば反対すべきでしたね。

行くところまでいくしかないのではないでしょうか。

設計時にこういう事態を想定していなかったということは、暴走を食い止めるコントロールロジックを織り込んでいないということ、つまり暴走する確率はかなり高いと思っておくべきでしょうね。

反対しなかった日本人としては、何があってもうろたえることなく、運命を教授すべきでしょう。

反対した日本人もおとなしくニュースを聞いていたりしたら、変な国民ですね。

反対した人ほど「ムシロ旗」を持って原発玄関に堂々と並ぶべきでしょう。
彼らは大変えらかったということが証明されたわけですから、東電もちゃんとお茶とケーキくらい出して接待すべきでしょうね。

我家としては、九州にあるオヤジの畑で野宿することが日本列島内では一番原発から遠ざかることになります。

最悪の選択肢は九州へ逃げるとなりますね。

福島出身の総理大臣はずいぶん多いようですが、江戸の電気需要を全部任されることと取引でなったのかしらね。

まさか県民もこんなめに会うなんて。

私は、以前から原発建設は宮内庁に隣接して造れと思っていました。

それほど安全なものならば、堂々とど真ん中でやれと。

知識のない県民に対して東電がうそをいっているのが明らかなので、そう思った次第です。
この「キタサン案」を採用していたら、今頃天皇さまも除染作業が必要になっていることでしょう。

東京の利権エゴが、姿を変えて国民の前に露出してきている。

そのように私には見えます。

ご安全に!

[ヤジサン→キタさん]3月14日

ヤジです。
すみません。間違っていました。
(チェルノブイリ事故で)住民移転になったのは3000kmではなく、30kmの間違いでした。
(チェルノブイリ事故では)半径約90kmのところで、185kBq/㎡のセシウム-137に汚染されたそうです。

この量が、人体に如何ほどの影響を与えるものかは、わかりませんが・・・。

訂正してお詫びいたします。


[キタサン→ヤジサン]3月14日

間違いはわかりました。
30kmなら、二日で歩いていける距離です。

江戸時代の女足で24km/日、男足で39km/日です。
東海道を、毎日フルマラソンに近い距離を歩いて江戸時代の先輩方は旅行していたのです。

つまり、街道歩き大好きな私が本気で逃げれば、2日で脱出できる距離だと記憶しておきます。徹夜で歩けば丸1日で脱出できます。

ありがとうございました。

もし3000kmなら、早めに自分の棺おけを買っておこうと思っていたところでした。
よかった、よかった。

爆発後の放射能低下は危険か安全か?! [つれづれ日記]

地震直後に私は家内とテレビライブ放送を見ていました。
数万人、少なくとも1万人以上が亡くなっているのではないかと推測していました。

被災後2日に総理は自衛隊2万人動員しているが、5万人、それ以上への増員検討をしていると記者会見しました。

官僚答弁を管さんは読まされていることに本人が気づかない状態になってしまっているようだ。

1000人超という死者数推定だからそうなのか?

12日(土)深夜3時半頃のフジテレビではある自治体1万人そのものが所在不明との観測を伝えていた。
行方不明者を県に連絡する市庁舎自体が津波に飲み込まれているということだ。

エイズ事件ではあれほど国民サイドに立って的確な判断ができていた管さんだが、総理まで出世するとどうやら自身の直感を蔵にしまいこんで、官僚の保身答弁を丸読みするようにしている。

自衛隊は最初から全体動員すべきだった。
理由は「税金」で働いている軍隊だからだ。

9日午後3時~6時の放映を見ていれば、救援体制はやりすぎるということはなかったはずだ。

予算を気にしながら小出しに応援するなど、見てられない政府のうろたえぶりに見える。

数万人の行方不明という事実が新聞テレビで放映されなければ、東京の日本政府は国民救出を本気で考えないらしい。

ミズに飲まれた皆さんの税金で、官僚の彼らは家族を高給で幸福に養っているのです。
ミズに飲まれたあなた方のことについては、予算残額をにらみつつ、小出しに使うのです。

この事実をしっかり見ておきましょう。

戦後半世紀を掛けて優秀な人々が作り上げた官僚組織国日本の国民の生命と財産を守る姿勢が如実に現れています。

もう今後はこういうおかしな政治にはだまされないようにしなければなりません。

「濃かった福島1号機原発の放射能がモニタリングで減少したから安心」と子供だましの発言を官房長官がしていました。

爆発後に拡散して市民の上に放射能が降り注いでいることは明らかです。
風向きと被害拡散方向を明らかにし、風下の市民は一刻を争って遠くへ逃げるべきときに、測定値が下がったと報道する神経もわかりません。

技術者なら濃かった放射能が爆発後に低下したら、単純に市内に拡散したということはわかります。

技術系官僚がうその答弁を読ませているのではないかと疑われます。
それで被爆した市民が出たら、誰が責任を取れるのか?
おそらく知らないフリを通すことでしょう。

爆発で濃度が低下したならば安心するのではなく、急いで遠くへ避難すべきと技術系の私は考えます。

それは官房長官の安心感を与えるような言葉とは真反対の意見です。

でたらめなNHK放映、それに国や県の防災システムだ! [つれづれ日記]

知人がいつもの経済レポートをメールで送ってくれたが、災害発生時のこういうときに送ってよいものかと躊躇しながら「犠牲者の方々のご冥福を、また被害者の方々の早期復旧をお祈りするのみであります。 合掌」とメール文を結んでいた。

以下はそれへの私からの返信であるが、税金泥棒の国会議員や県・市職員たち、それにNHKは耳をそばだてて聞いてほしい。

『合掌しつつも継続することに敬意を表します。

道元が定めた作法は750年間1日たりとも中断することなく、永平寺で実行されています。
戊辰戦争のときも、日清日露、真珠湾に広島、長崎のその日もまったく変わることなく同じ作法を続けています。

昨日の中継を見ていて、半世紀の期間と莫大な費用を投じてきた防災システムがかくもお粗末なものだったのかと驚きました。

小学校の校庭を走っている50名くらいの人の背後100Mからものすごい津波が襲ってきています。
あと1分程度で飲み込まれるだろうと予想して息を呑んだとき、画面はぱちりと切り替わりました。

放送倫理規定か何かは知らないが、一部の視聴者には「生きるか死ぬかの選択」がかかっているのです。
うそを放映して何の役にたつのでしょうか。

その小学校を見知った人が、映っている人々が溺死するシーンを見れば、自分の家が何分後にそうなるか
を容易に想像可能です。

ならば、急いで高台へ逃げるでしょう。

そういう貴重なリアルな映像を消して放映するNHKのセンスのなさを疑います。

あそこで切り替えなかったら助かった人間が何人かいたかも知れないという責任をNHKは感じるべきでしょう。
非常時に平常時の倫理規定で画面切り替えなどするな!と私は言いたいのです。

本来ならあのヘリのテレビカメラ映像は県の防災センター長も見ているはずで、その人の適切な避難指示がなかったために人々はあと1分で津波に飲まれようとしているのです。

ならば、直接飲まれるかも知れない人々に、今飲まれているシーンを見せること以上に緊急を要する連絡方法はないでしょう。

そういう想像力のないディレクターが、自分や自社の保身を念頭に置いてシーンを無害なものに切り替えたのです。

これは「未必の故意の殺人」に該当する行為だと思います。

県の防災指示が適切にいきわたっている場合は、あえて残酷なシーンを放映する必要はないでしょう。
昨日は、まったく国の防災機能が無力の状態をさらけ出していたときでした。

そういう非常時のディレクターの訓練をNHKがやっていなかったということでしょう。
NHKには猛省を促したいと思います。

こういうテーマも防災管理、経営管理、危機管理としての重要な課題です。

半世紀もかけて税金を大量に投入して、なおまったく機能していない国の危機管理を
一体どうするのか?!

税金泥棒たちよ!

こういうときにこそ、声を大にすべきときでしょう。

合掌して口をつぐんでいてはなりません!
タグ:NHK放映 でたらめな 国や県の防災システム 犠牲者の方々のご冥福 合掌 税金泥棒の国会議員 県・市職員 NHK 耳をそばだてて 道元 継続 半世紀の期間 莫大な費用 を投じてきた防災システム お粗末 驚きました 小学校の校庭 50名くらい 人の背後 100M ものすごい津波 あと1分程度で飲み込まれるだろう 息を呑んだ 画面 切り替わり 放送倫理規定 一部の視聴者 生きるか死ぬかの選択 うそを放映 何の役にたつ 小学校を見知った人 映っている人々が溺死するシーン 自分の家が何分後にそうなるかを容易に想像可能 急いで高台へ逃げる 貴重なリアルな映像 消して放映 NHKのセンスのなさ 助かった人間が何人かいたかも知れない 責任 NHKは感じるべき 非常時に平常時の倫理規定で画面切り替え ヘリのテレビカメラ映像 県の防災センター長 見ているはず その人の適切な避難指示がなかった あと1分で津波に飲まれようと 直接飲まれるかも知れない人々 今飲まれているシーンを見せること 緊急を要する連絡方法 想像力のないディレクター 自分や自社の保身 未必の故意の殺人 該当する行為 残酷なシーン 非常時のディレクターの訓練 猛省を促したい 危機管理 半世紀もかけて 税金を大量に投入して なおまったく機能していない 国の危機管理 一体どうするのか?! 税金泥棒たちよ!

アニメ de コンピューターウイルス [つれづれ日記]

KawaiiSecurity_Cover.jpg
書籍 カワイイ セキュリティ

「カワイイセキュリティ (三才ムック vol.365)」をAmazonで注文
リンク先URL
http://www.amazon.co.jp/dp/486199330X


私の知人の「じてんしゃ操太郎氏」が出版企画者のひとりとなって来週発売することになった本をご紹介します。
アニメでウィルスのことを学ぼうという本です。

「コンピューターウイルスなど、情報セキュリティに関する脅威とその対処法を気軽に学んでいただけるよう、イラストやまんがを使って紹介している。」ということです。

書籍名 「Kawaii Security(カワイイ セキュリティ)」(三才ムック vol.365)
監 修:PandaSecurity
出版社: 三才ブックス
発売日: 2011年3月14日 価格:1,575 (税込)

発売前ですので、私も中身はまだ見ておりませんが、幅広い読者層にコンピュータウィルスのことを知ってもらおうということのようです。

孫子の兵法に「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」という教えがあります。

敵の姿が見えにくいのが私たちには脅威ですね。
アニメで見えやすくなれば、敵に対する戦略も立てやすくなるでしょう。

経営分析ツールにSWOT分析というものがあります。
「強み弱み分析」ともいいます。

自分の内部の強みと弱みを知ることが大事ですが、それと同じくらい外部環境の機会と脅威も分析する必要があります。

戦争では敵情視察は外部環境調査に当たります。

ウィルスの姿を明らかにすることは外部環境にある脅威を分析することになるでしょう。

2000年以上も前に考え出された孫子の兵法を、ハーバードやスタンフォードの偉い経営学の先生方は企業経営分析に使えると思いつきました。

それがSWOT分析手法です。

孫子も同じだと思いますが、戦略立案は内部環境と外部環境を一致させることです。

例えば外部環境で「雨が降ってきた」という脅威が発生したなら、内部にある強みの「傘を持っている」を一致させることです。

つまり、雨が降ってきたから傘をさす。

雨という外部の脅威に対して、内部の強みで対抗できたわけです。
これが勝つための(経営)戦略になります。

「コンピュータウイルスってなんのこと?わかんなーい!」では、外部環境のことが見えません。

アニメ本で敵の正体を知り、それと自分の強みを一致させる戦略を考案しましょう。

私は通信時間が少ないという特徴(ある種ネット汚染されにくいという強み)を持っています。

昨日、LANケーブルの0.3mという短いものと、LANケーブル同士をつなぐソケットを買いました。
合計900円。

それをパソコンとLANケーブルの間につけました。

メール送受信やホームページ閲覧をする間だけケーブルは接続しますが、それ以外はソケットから片方のケーブルをはずしておきます。

つまりパソコンをネット社会から切り離しておくという戦略をとりました。

汚染するリスク(確率)も接続時間に比例して増えるだろうと思ったからです。

パソコンからいきなりLANケーブルをはずしてもいいのですが、万一パソコン側のソケットが破損した場合修理費がかさみます。

LANケーブル同士のソケット破損なら500円前後で買い替えられます。

2000円ほど出せば、LANケーブルに2台のパソコンをつないで切り替えられるスイッチが家電量販店などで売っています。
それを使えば、ボタンスイッチひとつでネットからパソコンを切り離せます。

このように私のウイルス汚染対策は物理的遮断によるものでしたが、つないでいる間はやはり感染リスクを負います。

そこはこのアニメ本で学習し敵の特徴を正しく把握しようと思います。

まずは、友人企画になる新刊書のご紹介まで。草々


彼岸花の咲く頃 [つれづれ日記]

70%彼岸花2.jpg写真 ヒガンバナ(Wikipedia)より引用

今朝のテレビで「ゲゲゲの女房」の総集編を見ていた。

「彼岸花の咲く頃に亡くなった人は、先祖に守られてあの世に行ける。」とゲゲゲの女房の母親が教えていた。

私の母も真っ赤な彼岸花の咲く季節に亡くなっていた。

「ああ、よかった。」と私は思った。

迷信や宗教などは、このように生き残っている人間たちをほっとさせるものでなければならない。

戒名代として数文字に何十万円も請求するような今の仏教のあり方は間違っている。

名づけは、原則無料であるべきだ。
すべて葬儀が終わってから、寄付金として任意で受け取るものとすればいい。
葬儀屋と坊主が連携して、葬儀ビジネスに戒名が組み込まれている現状はすぐに改めるべきだろう。

大事な人を失ってすぐに、戒名代の支払いで遺族を苦しめる仏教ではいけない。

遺族が何かほっとする、そういう葬儀にしていくべきだろう。

『ヒガンバナ(彼岸花) 英名 リコリス(red) spider lily
ヒガンバナ(彼岸花、学名:Lycoris radiata)は、ヒガンバナ科ヒガンバナ属の多年草。
クロンキスト体系ではユリ科。
リコリス、曼珠沙華(マンジュシャゲ、またはマンジュシャカ サンスクリット語 manjusaka の音写)とも呼ばれる。学名の種小名 radiata は「放射状」の意味。』(ヒガンバナ(Wikipedia)より)

私が子供の頃、九州大分では、「マンジュシャゲ」と呼んでいたと記憶している。

広島は原子爆弾でやられて大変らしい。(翌日新橋駅にて) [つれづれ日記]

「高見順敗戦日記」というサイトから昭和20年8月7日の新橋駅前の会話を抜粋する。
この日残留放射能のある広島市内に十万人前後の人々が火傷に苦しみ、父や母や子供を捜してさまよい歩いていた。

『(8月7日)
新橋駅で義兄に「やあ、高見さん」と声をかけられた。
「大変な話・・・聞いた?」と義兄はいう。
「大変な話?」
あたりの人をはばかって、義兄は歩廊に出るまで、黙っていた。人のいないところへと彼は私を引っ張っていって、「原子爆弾の話・・・」
「・・・!」
「広島は原子爆弾でやられて大変らしい。畑俊六も死ぬし・・・」
「もう戦争はおしまいだ」
原子爆弾をいち早く発明した国が勝利を占める、原子爆弾には絶対に抵抗できないからだ。そういう話はかねて聞いていた。
その原子爆弾がついに出現したというのだ。・・・衝撃は強烈だった。
私はふーんと言ったきり、口がきけなかった。
対日共同宣言に日本が「黙殺」という態度に出たので、それに対する応答だと敵の放送は言っているという。』
(抜粋終わり)
「高見順敗戦日記」
http://www.k4.dion.ne.jp/~skipio/21essay2/takami-jun-haisen-diary.htm

では、当時日本でもっとも原子物理学に詳しい学者は何をしていたのか?

『同年(昭和20年)8月6日、アメリカ軍によって広島市に「新型爆弾」が投下されると、8月8日に政府調査団の一員として現地の被害を調査し、レントゲンフィルムが感光していることなどから原子爆弾であると断定、政府に報告した。こ
れが日本のポツダム宣言受諾への一因となった。
引き続き8月14日には8月9日に2発目の原爆が投下された長崎でも現地調査を実施し、原爆であることを確認している。
また、「終戦の日」8月15日のラジオ放送において原子爆弾の解説をおこなっている。』(仁科芳雄(Wikipedia)より)

8月10日に原爆調査団の京都の会議に出席しているから、仁科博士は8日に広島に入り、その日9日か10日には京都に行っていることになる。

トルーマンが世界に向けて原爆を広島に投下したと発表したのは7日午前0時過ぎである。
高見順が義兄から原爆だよとささやかれたのも7日の昼である。

仁科氏は結局残留放射能を最小限しか浴びていないことになる。
長崎に調査に入ったのは14日で、翌日15日にラジオ放送で原子爆弾の解説をおこなっているから、おそらく1日か2日で長崎を脱出していることになる。

広島現地調査の時点、つまり8月8日に調査団は広島の爆弾は原爆だとほぼ断定している。
ならば、翌9日に長崎に新型爆弾が投下されたときに、取るものも取り合えず長崎へ行くべきだったのではないか。
長崎も原爆であり、その直後の状況が観察できるのである。
しかも残留放射能がもっとも大きいのである。

なぜ14日まで、9日を含めて6日後に長崎へ入ったのだろうか。
彼の豊富な知識を持ってすれば、原爆投下から6日間置く意味は深いのだろうが、広島・長崎市民は残留放射能の中に放置されたままだったのだ。

仁科氏が政府の許しを得て国民に広島のは原爆だったと説明したのは8月15日のことである。
科学者の良心はそのとき一体どうだったのだろうか、仁科博士の日記を見てみたいと思った。

私の父は原爆投下の1週間後に広島市内に入り、腐乱した兵士の遺体の回収作業に従事している。
75歳のときに肝臓がんでなくなった。
肝臓の80%が硬化しており、こげ茶色に変色していた。

仁科さんがどれほど戦前戦中に原爆に詳しい人物だったのか?
同上記事より見てみよう。

『ヨーロッパ留学
1920年に理化学研究所の研究員補となると翌1921年には2年間のヨーロッパ留学が決まり、4月5日に神戸港を出て日本郵船の北野丸でマルセイユに渡った。

最初にケンブリッジ大学キャヴェンディッシュ研究所に滞在し、翌1922年11月にゲッティンゲン大学に移った。
ここでは「物理学は十分に成熟していて新たに取り組むべき問題はもはやない」と家族への手紙に書き、科学技術の底上げのために帰国後は玩具を本格的に研究する事を考え、ラジコンなどに興味を示した。

11月12日に母・津禰が亡くなり、これが留学期間の延長を後押しする要因の一つとなった。

ニールス・ボーアの講演を聴いて物理学の新しい分野の研究に興味を持ち、1923年4月にコペンハーゲン大学のボーアの研究室に移った。ここでは研究員として5年半過ごし、1928年にはオスカル・クラインとともにコンプトン散乱の有効断面積を計算してクライン=仁科の公式を導いている。
同年10月にコペンハーゲンを出港し12月25日に横浜港に到着、7年半ぶりに帰国した。

帰国後の動向
帰国後は招待してくれる大学がなく、理研の長岡半太郎研究室に所属し、1929年にはヴェルナー・ハイゼンベルク、ポール・ディラックを日本に招いている。

1931年7月に理研で仁科研究室を立ち上げ、当時国内では例のなかった量子論、原子核、X線などの研究を行なった。

翌年に中性子が発見されるとX線の代わりに宇宙線を研究対象に加えた。
1937年4月には小型のサイクロトロン(核粒子加速装置)を完成させ、10月にボーアを日本に招いている。
1939年2月には200トンもの大型サイクロトロン本体を完成させ、1944年1月から実験を始めた。

日米戦争と原爆開発「ニ号研究」
仁科は、米国の科学技術が進んでいることから日米開戦(太平洋戦争)には反対していた。

一方、1938年(昭和13年)にオットー・ハーンとリーゼ・マイトナーらが原子核分裂を発見し、膨大なエネルギーを得られることが判明。

1940年(昭和15年)、仁科は安田武雄陸軍航空技術研究所長からウランを用いた新型爆弾の開発研究を要請され、理論的可能性の検討に入った。

アメリカで原子爆弾開発「マンハッタン計画」が始まった翌年1943年(昭和18年)、仁科はウランの分離によって原子爆弾が作れる可能性を軍に提示。

この年から理研の仁科研究室が中心になって原子爆弾の開発がおこなわれることになった。

この開発は、仁科の「に」から「ニ号研究」と呼ばれた。

しかし結局、1945年(昭和20年)のアメリカ軍の空襲(日本本土爆撃)によって設備が焼失し、日本の原爆開発は潰えることになる。

またサイクロトロンは、戦争のために活躍する事なく(日本の原子爆弾開発を参照)、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)によって11月にサイクロトロンは東京湾に投棄された。』(仁科芳雄(Wikipedia)より)

仁科芳雄氏は、原爆製造に関して当時の世界トップレベルの技術と知識を有していた科学者だった。

東京人は翌日広島は原爆だったと知っていた! [つれづれ日記]

NHK総合テレビで作家高見順の日記が紹介されていた。

『新橋駅で義兄に声をかけられた。
「大変な話-聞いた?」と義兄はいう。

「大変な話?」あたりの人をはばかって、
義兄は歩廊に出るまで、黙っていた。

人のいないとこへと彼は私を引っぱて行って、「原子爆弾の話-」
「……!」
広島の全人口の三分の一がやられたという。

「もう戦争はおしまいだ」

原子爆弾をいち早く発明した国が勝利を占める。
そういう話はかねて聞いていた。
私はふーんと言ったきり、口がきけなかった。』
(NHK総合テレビ番組「あの日 昭和20年の記憶」より抜粋)

高見順は福井県知の妾腹から生まれているから、知事の息子から聞いたのかもしれない。

『福井県知事阪本釤之助の非嫡出子として福井県坂井郡三国町(現坂井市三国町)平木に生まれる。

母は阪本が視察で三国を訪れた際に夜伽を務めた女性。

阪本釤之助は永井荷風の父方の叔父であり、したがって荷風と高見順は従兄弟同士になるが、それにも拘らず互いに極めて険悪な関係にあった。

1歳で母と共に上京。
実父と一度も会うことなく、東京麻布飯倉にあった父の邸宅付近の陋屋に育つ。

私生児としてしばしばいじめを受けた。

阪本家からは毎月10円の手当てを受けていたがそれでは足りず、母が針仕事で生計を立てた。
東京府立第一中学校から第一高等学校を経て東京帝国大学英文科卒業。

在学中より「左翼芸術」などに作品を発表し、プロレタリア文学の一翼を担う作家として活動する。
1932年、治安維持法違反の疑いで検挙されるが、「転向」を表明し、半年後に釈放される。

1935年、饒舌体と呼ばれる手法で「故旧忘れ得べき」を著わす。
これが、第1回芥川賞候補となり、作家としての地位を確立する。

第二次世界大戦中の1939年には、戦時下の重圧の中の浅草風俗を描いた「如何なる星の下に」で高い評価を受ける。

戦後は、「わが胸の底のここには」、「あるリベラリスト」などの作品で私小説風に傷つきやすい精神を掘り下げた作品を次々と発表する。

また、晩年は、昭和という時代を描く「激流」「いやな感じ」「大いなる手の影」の連作を発表する。長編などでは他に「都に夜のある如く」、「生命の樹」、「今ひとたびの」、「胸より胸に」などがある。

また、詩人としても活躍し、「樹木派」、「わが埋葬」、「死の淵より」(最晩年の作、新版が講談社文芸文庫)などを発表する。

永井荷風と並ぶ日記作家としても知られ、昭和史の資料ともいえる「高見順日記」を著わす。
(「敗戦日記 新版」が中公文庫で再刊)。回想記に「昭和文学盛衰史」がある。』(高見順(Wikipedia)より)

別のネット記事にある高見順の日記は、テレビの報道内容とほぼ同じだが、一部異なる部分がある。

『(8月7日)
新橋駅で義兄に「やあ、高見さん」と声をかけられた。
 「大変な話・・・聞いた?」と義兄はいう。
 「大変な話?」
 あたりの人をはばかって、義兄は歩廊に出るまで、黙っていた。

人のいないところへと彼は私を引っ張っていって、
 「原子爆弾の話・・・」
 「・・・!」
 「広島は原子爆弾でやられて大変らしい。畑俊六も死ぬし・・・」
 「もう戦争はおしまいだ」

原子爆弾をいち早く発明した国が勝利を占める、
原子爆弾には絶対に抵抗できないからだ。

そういう話はかねて聞いていた。
その原子爆弾がついに出現したというのだ。
・・・衝撃は強烈だった。

私はふーんと言ったきり、口がきけなかった。

対日共同宣言に日本が「黙殺」という態度に出たので、それに対する応答だと敵の放送は言っているという。

(8月9日)
4時過ぎごろ、林房雄が自転車に乗ってきて、
 「えらいことになった。戦争はもうおしまいだな」という。新爆弾のことかと思ったら、
 「まだ知らんのか。ソ連が宣戦布告だ」3時のラジオで報道されたという。

永井(龍男)君が来た。
東京からの帰りに寄ったのである。
緊張した表情である。

長崎がまた原子爆弾に襲われ広島より惨害がひどいという。
二人のものが、同盟と朝日と両方から聞いてきて、そう言ったから、うそではないらしい。

避難の話になった。
もうこうなったら避難すべきときだということはわかっているのだが、誰もしかし逃げる気がしない。
億劫でありまた破れかぶれだ。
 「仕方がない。死ぬんだな」〗(「高見順敗戦日記より)
http://www.k4.dion.ne.jp/~skipio/21essay2/takami-jun-haisen-diary.htm

NHKテレビの内容とこの記事の内容で大きく異なるのは以下の部分であった。

『原子爆弾には絶対に抵抗できないからだ。

そういう話はかねて聞いていた。
その原子爆弾がついに出現したというのだ。
・・・衝撃は強烈だった。』

おそらく東京にいる物理科学者たちの常識を識者たちは共有していたのである。
原爆を先に開発した国が勝利するということを東京人の一部は知っていた。

しかも原爆投下の翌日に新橋駅で立ち話するくらいに知っていたのだ。
原爆と知っていれば、原爆投下地には入ってはならないというのも常識である。

広島の人々はそういうことを知らない。
翌日も残留放射能を浴び続けていた。

政府や官僚が知らないはずはないのである。

現在でもこの日本の民主主義の欠陥はなお継続していると考えるべきだ。
国民の命が一番大事と思う国ではないということだ。

「あなたがいつ犠牲にされるかもしれない」という緊張感を持って、この国では生きていかねばならない。



グラバーの息子の死 [つれづれ日記]

今(2010年8月15日敗戦記念日の午後1時前)、10チャンネル(テレビ朝日)で黒鉄ひろしがその死を一言語った。

「長崎原爆を見たグラバーの息子は、その1週間後に首をくくって死んだ。」

グラバーの息子とは日系2世の倉場富三郎のことである。

私はこのブログで「マリアとグラバー」という題でそれについて触れていた。
そこでグラバーの子の自殺は拳銃自殺であって欲しいと私は書いた。

再掲する。

『74歳の倉場富三郎は、原爆投下から17日後に自殺している。
おそらく彼は敬虔なカトリック教徒の一人としてカトリック教徒が建国したアメリカ軍によって破壊された「悲しき聖廃墟」を見に行ったであろう。

倉場富三郎が戦後の日本人からの迫害を恐れて自殺したとは思えない。
長崎でハーフではあるが、同じ商人として人々と親しく付き合って暮らしてきた人物である。

長崎の人々の被爆の痛みは、倉場富三郎自身の心の痛みでもあったはずだ。

神の命令だとして日本人カトリック教徒たちを皆殺しするアメリカという国の「本当の狙い」に気づいたのではないか。

日本人カトリック信者倉場富三郎として彼の脳は激しく活動をしたであろう。

戦艦武蔵を建造する長崎三菱造船所の破壊が重要な軍事戦略であることも倉場富三郎は知っていたはずだ。
敵国の軍事基地への攻撃はどの国でも必要なことである。

教会で祈る日本人カトリック信者が爆心地の教会にいることもアメリカは承知のはずである。

広島にも爆心地最寄にカトリック教会があった。
そこは直接の被災は免れている。

但しそこの神父たちは運良く?当日は出かけていて教会付近にはいなかったようだ。
直接被爆はしていないと何かで読んだ。

広島のカトリックは「情報」を入手できていたのだろうか。

日本人のカトリック信者となると英米人の信者と扱いが異なるということを、原爆被災地を見て日英混血児の富三郎は確信し、そして失望したのではないだろうか。

『第二次世界大戦開始後、英国人の父と日本人の母との混血児だった富三郎はスパイ嫌疑をかけられ国の監視の中で厳しい生活を送ることを強いられた。

終戦直後の1945年8月26日に自殺。遺体は長崎市の坂本国際墓地に妻とともに埋葬されている。』(倉場富三郎(Wikipedia)より)

自殺の方法はわからないが、せめて英国人らしく拳銃自殺する方法を父から教えてもらっていたと思いたい。

下記は原爆投下から5ヵ月後の浦上教会の鐘である。』(以上、拙著ブログより再掲)


拳銃自殺をグラバーの息子に期待したのは、彼の父が銃砲の取引商人だったからだ。
当然拳銃は持っていたはずだ。

なぜ日本人的な湿り気の多い首吊りなど選んだのだろうか。

彼は長崎の原爆被害を見て「異常体験」を脳に起こしているはずだ。

その瞬間に彼は完全な日本人として死にたいと思ったのかも知れない。
母は日本人である。

父への尊敬の念が一気に崩壊したのではないだろうか。

もし遺書が残されていれば、その死に方の意味も解けるだろう。

広島への原爆投下の前日、淵田美津雄中佐に広島から岩国への移動を命じる連絡が入った。

彼は真珠湾攻撃爆撃隊長であった。
戦後はアメリカでキリスト教伝道者として活躍し、アメリカ人からは「真珠湾の英雄」として称えられている。

なぜ真珠湾を攻撃した日本人淵田がアメリカの英雄になるのか?

宣戦布告前の爆撃は卑怯な行為である。
そのジャップの卑怯さのために、アメリカの世論は戦争突入に向かって一致団結できたのである。

オバマ大統領が医療保険制度改革法案を通すために国民や議員を説得してもなかなか過半数の見通しを得ることができなかったように、いろいろな意見のあるアメリカ全土を一本化するには、真珠湾攻撃はなくてはならない事件だった。

世論操作のためにアメリカ自身が演出したドラマであった側面がある。
主演が淵田中佐なのである。

長崎原爆投下前夜までに、カトリック教であったと思われる倉場富三郎にも避難せよとの秘密の連絡が入ったはずである。
なぜそう断定できるかというと、広島にいた日本人の淵田にも同じ情報が入っているからだ。

倉場富三郎のいた場所は造船所からはやや離れていたので、被爆を運良く免れている。
しかし、なぜ倉場富三郎は日本人淵田中佐と同じように長崎を脱出しなかったのだろうか。

諫早や天草へ避難する選択があったはずだし、その手引きもあったことだろう。

74歳の高齢であったから、「死ぬなら長崎で」と覚悟を決めたのかも知れない。
それでも死ねずに生き残ってしまった。

しかもアメリカの原爆により、浦上天主堂で朝のミサをあげていた日本人カトリック信者は焼かれ吹き飛ばされた。
浦上天主堂は爆心地にあったから、信者の女や子供も、その内臓も脳も一瞬で灰になり、爆風で粉々に飛ばされてしまった。
遺骨さえ破片となって飛び散るから残らない。

それを見て、倉場富三郎はもはや生きる望みを失ったのだろう。

彼が銃殺ではなく、日本人的な首吊り自殺を選んだ理由はわからないが、なくなった日本人の信者たちのことを思うたびに日本人に帰ろうと思ったのではないかと思われる。

吉良側は吉良邸内に180人程いた [つれづれ日記]

Wikipedia記事によれば、寺坂吉右衛門は大石の許可を得て浅野家ゆかりの家に一部始終を報告にいったとされている。
しかし、私はそれを信じられない。

またその根拠となる資料にも出会っていない。
複数の浪士が寺坂の脱走の正当性を説明したことはあったようである。

もし大石の命令で脱走しているならば、業務報告を終えたら即刻切腹したはずだ。
浪士たちの切腹の知らせを当然寺坂も受け取っているはずだからだ。

幕府は後に出頭した寺坂に「時効である」として放免している。
それが事実としても、時効にかかるほどの間逃亡していたのであろう。

忠臣らしからぬ姑息な行動であるといえよう。
やはり大きな力の支配下にあって寺坂は動いていたのであろう。

大石は脱走すら気づかなかったのではないだろうか。
主君の仇を討った以上、何をどう報告する必要があるのか。
ないはずだ。

詳細を知りたい者がいるとすれば、それは忠臣蔵のシナリオライターである。
松浦候はにっくき吉良の最後の姿をありありと想像したかったであろう。

寺坂スパイ説はまだ消えていない。

討ち入りの日に吉良邸内にいた武士が本気で戦えば、赤穂浪士の半分は死んだであろう。

当日吉良屋敷内にいた人数は180人だと桑名藩所伝覚書にある。
そのうち死ぬまで戦ったのは14名である。
負傷して横たわったり物陰に逃げ込んだものが28名いる。

ほとんどまじめに戦闘を行っていないのである。

『吉良家の家臣数は諸説あってはっきりしていません。

討ち入り後の幕府の検死役の書に「中間小物共89人」と書かれ、桑名藩所伝覚書では「上杉弾正(上杉弾正大弼綱憲)から吉良左平(吉良左兵衛義周)様への御付人の儀侍分の者40人程、雑兵180人程参り居り申し候よし」と記されています。

吉良上野介義央の石高は4200石ですので、慶安2年(1649)の軍役規定によると

4000石は79人
5000石は103人

ですので、高家の石高にもよりますが吉良家の場合、通常100人程度の家臣(中間、小者も含む)はいたと思われます。

なお、討ち入り当時の吉良家の家臣数は先に回答している方と同様ですが、戦死者の内訳も判っていますので紹介しておきます。

・戦死者17名の内訳
士分 14名
茶坊主 2名(鈴木松竹、牧野春斎。ともに十代の少年とみられています。非戦闘員ですが、武器をとって応戦したため、討ち死にしたと言われています)
中間 1名(門番)

・負傷者 28名
この負傷者の中に、吉良義央の嫡子・吉良義周がいます。

・生存者 101名
この生存者である足軽ら101名は門の脇にある長屋にいましたが、浪士方に扉を鎹(かすがい)で打ち付けられてしまい、閉じ込められていましたので戦闘に参加できませんでした。

・逃亡者 4名
この中で上杉邸に急報した、吉良義周の家来も含まれていると思います。』(「赤穂浪士の、吉良邸討ち入りのとき、吉良の家臣はいたのですか?」より)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1227877137

茶坊主2名のうちの一名は長屋から飛び出してきたものである。
早朝まだ暗かったので、てっきり浪士たちは武士が切りかかかってきたものとみなして、ばっさりと斬り捨てたのである。

「茶坊主が武器をとって応戦したため、討ち死にした」と上には書かれているが、うち一名は少なくとも逃げようとして殺されている。

坊主の力で蹴破ることができる長屋の戸である。

「浪士方に扉を鎹(かすがい)で打ち付けられてしまい、閉じ込められていましたので戦闘に参加できませんでした。」というのは、命乞いのための言い訳に過ぎない。

山鹿流陣太鼓の音を聞いた上杉家家臣たちは身動きができなくなってしまったのである。

兵法を知っている武士ゆえに上杉家の家法に縛られたのであろう。

おそらく上杉家からの援軍が吉良屋敷に到着し、藩主の命令を受けたならば、赤穂藩との戦争に参加したことであろう。

上杉家の援軍を足止めした老中稲葉某の役割がいかに大きかったかわかる。

『江戸藩邸は文政年間当時、外桜田御堀通り(現在の法務省敷地内)に上屋敷、麻布に中屋敷、芝白金に下屋敷があった。
また京都藩邸は柳馬場通三条下る西側に構えていた。

麻布藩邸は上杉綱憲により新築された。』(米沢藩(Wikipedia)より)

当時は「生類憐れみの令」により早馬は禁止されていたそうだが、霞ヶ関からであれば走れば30分もあれば本所へ駆けつけられるのではないだろうか。

討ち入りは午前3時過ぎである。
豆腐屋が知って駆けつけたのが4時ころだとすれば、取って返して5時までには本所に着いていただろう。
まだ赤穂浪士たちは両国橋付近にいたはずだ。

四十七士を皆殺しすることは可能だったのである。

スパイは墓を複数作り足跡をくらます [つれづれ日記]

松の廊下事件の際に大石良重がいなかった理由はわかった。
すでに亡くなっていたからだ。

浅野長矩の勅使饗応役を世話したのは確かに大石良重だったが、それは一回目のお役目のときであった。
それは無事に勤め上げている。

『(浅野長矩は)(天和3年2月6日(1683年3月4日)には、霊元天皇の勅使として江戸に下向予定の花山院定誠(正二位内大臣)・千種有能(正二位権大納言)の両名の饗応役を拝命し、3月に両名が下向してくるとその饗応にあたった。

このとき高家吉良義央が勅使饗応指南役として付いていたが、浅野は勅使饗応役を無事務め上げている。

なおこの際に院使饗応役を勤めたのは菰野藩主土方雄豊であった。雄豊の娘はのちに長矩の弟浅野長広と結婚している。

この役目の折に浅野家と土方家のあいだで縁談話が持ち上がったと考えられる。
勅使饗応役のお役目が終わった直後の5月に阿久里と正式に結婚。

またこの結婚と前後する5月18日には家老大石良重(大石良雄の大叔父。また浅野家の親族でもある。詳しくは各項目参照のこと)が江戸で死去している。

大石良重は若くして筆頭家老になった大石良雄の後見人をつとめ、また幼少の藩主浅野長矩を補佐し、二人に代わって赤穂藩政を実質的に執ってきた老臣である。

しかしこれによって長矩に藩政の実権が移ったとは考えにくい。

長矩は依然数え年で17歳(満15歳)であり、国許の大石内蔵助もすでに筆頭家老の肩書は与えられていたとはいえ、数え年で25歳にすぎない。

したがって藩の実権は大石良重に次ぐ老臣大野知房(末席家老)に自然に移っていったと考えられる。』(浅野長矩(Wikipedia)より)

江戸詰めの赤穂藩家老として老人大石良重は主君の世話を勤めきっている。

二回目の勅使饗応役のときに、浅野は吉良を切りつけた。
お世話役は老臣大野知房(末席家老)に変わっていたのであろう。

先の記事「実在した山鹿流陣太鼓」のところで「梶川与怱兵衛筆記」を紹介したが、事件の際の松の廊下の登場人物には浅野家の大野知房の名はなかった。

家臣は別の間で待機していて、事件の騒ぎに気づかなかったのだろうか。


『大野 知房(おおの ともふさ、生没年不詳)は播州赤穂藩浅野家の末席家老650石。
『忠臣蔵』における不忠臣の代表格。

一方で優秀な経済官僚であったといわれる。
通称は九郎兵衛(くろべえ)。

大野知房は藩財政の運営と塩田開発に手腕を発揮して家老に取り立てられた。

元禄赤穂事件時にはかなりの高齢だったと見られる。

赤穂藩番頭の伊藤五右衛門(450石)は弟といわれる(一説に甥)。

元禄14年(1701年)3月14日、主君浅野長矩の吉良義央への江戸城での刃傷により、浅野長矩は切腹、赤穂浅野家は断絶と決まった。

筆頭家老大石良雄とともに大野は赤穂城での評定を主宰。

大野は開城恭順を主張し、籠城を主張する大石派の藩士と対立した。

また、分配金の配分では大石は微禄の者に手厚く配分すべきとしたのに対して、大野は石高に応じて配分すべきと主張している。
結局、大石の意見どおりに配分され、大野は藩内で孤立を深めた。

特に大野は、足軽頭原元辰と札座奉行岡島常樹の兄弟と対立した。

大野の原兄弟への憎悪はかなり深かったようで、三次藩士・久保田源大夫に向けて出した書状のなかで原を「無理非道の者」などと罵倒している。

また大野は、岡島の部下の小役人達が改易の混乱に乗じて金銀を奪って逃亡する事件をとらえて、岡島も一味に違いないと吹聴したといわれる。

これに激怒した岡島は、4月12日に大野邸に乗り込んだが、大野は会おうとはせず、やむをえず岡島は大野の弟の伊藤五右衛門邸へ行き、伝言を頼んで帰った。

しかしその日の夜、大野は子息の大野群右衛門とともに家財を置いたまま船で逐電する。

よほど慌てていたと見え、幼い孫娘を屋敷に置いたままにしたうえ、女駕籠にて逃げたことが堀部武庸筆記に記されている。

その後の大野については諸説あるが、元禄16年(1703年)4月に伊藤東涯が並河天民へおくった書簡に九郎兵衛と伊藤五右衛門の事が書かれている。

伊藤東涯と大野兄弟は親族関係なのであろうか。

ともかくそれによると「伴閑精」と称して、京都の仁和寺の辺りに住んでいたという。

元禄16年(1703年)4月6日に衰死して東山の黒谷に葬られたことも書かれている。
これは伊藤五右衛門が埋葬してくれた日夏長兵衛へ対して送った4月17日付けの礼状にも記述があるという。

また群馬県安中市の松岸寺にある林遊謙なる者の墓があり、これが大野であるという伝承もあるが、この墓碑には「慈望遊議居士 寛延四年九月二十四日」と書かれている。

これに従えば、大野は赤穂城開城時から50年以上も生きたことになり、疑わしい。

山形県の板谷峠にも大野のものと伝わる石碑がある。

ここには大石良雄が討ち入りに失敗した時のための「第二陣」を大野知房が率いてこの板谷峠に潜伏し、大石らの討ち入りが成功したのを聞いて歓喜し、その場で自害したという伝説が残るのだが、伝説の域を出ていない。

更に、山梨県甲府市の能成寺にも大野が隠れ住んでいたという伝承があり、墓石には「幽玄院真岩猶夢居士」と刻まれている。

大野は人々から不忠臣として扱われ、長く庶民から憎まれ続けた。

大野邸跡に残る柳の木は不忠柳と呼ばれている。

また歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』でも大野は悪役「斧九太夫」として登場する。』(大野知房(Wikipedia))

大野知房(九郎兵衛)の墓は全国各地にある。
京都東山、群馬安中市、山形県板谷峠、山梨県甲府市と幅広い。

一般に素性や経歴を消す目的で墓を複数作ることは、スパイの定石である。

大野の素性や足跡が後の時代に知れては困るという理由があったのだろう。

忠臣ではない赤穂藩元家老となれば、墓も暴かれていたずらされるという不安も遺族にあったのかもしれないが、遺族が墓を複数置いてかく乱するということは考えにくい。あらされるのが怖いなら、墓を作らねばよいだけだ。
寺が位牌と遺骨を預かってくれる。

あちこちに墓を設けるのは、財力と政治力がある人物の画策によるものだ。

大野九郎兵衛ともいうから、歌舞伎原作者は「斧九太夫」とあだ名したのであろう。

『斧九太夫【おの くだゆう】…仮名手本キャラ。大野九郎兵衛がモデル。

大石(大星)とたもとをわけたあと、敵方吉良のスパイとなり、祇園で遊びほうける大石に討ち入りの意思があるかないかを探りにのこのこやって来る。

殿の命日なのに大石にタコの刺身を食べさせたり、刀を抜いて錆をコソ見したり。

老齢ながら縁の下に隠れるなどして諜報活動を続けた結果、密書の盗み見に成功するが、最終的に潜んでるところを大石に引っ張りだされ、「てめえよくも命日にタコなんぞ食わせやがったなこの野郎!」といままでとぼけてた大石に逆上され、寺坂吉右衛門(寺岡平右衛門)に河原で始末される。』(斧九太夫(Kusupedia)より)

歌舞伎原作者は大野九郎兵衛を幕府側のスパイだと設定している。
スパイであった可能性は高いが、朝廷側のスパイだった可能性も残る。

歌舞伎では寺坂吉右衛門に大野は殺されている。
実は四十七士の一人である寺坂吉右衛門にもスパイのにおいがする。

私は本所松坂町吉良屋敷から泉岳寺まで赤穂浪士と同じ道を辿って歩いたことがある。

新橋を通過して品川へ出るまでの間のどこかで寺坂吉右衛門は行軍から逃亡している。

右へ走れば大名屋敷が並ぶ街区である。

どこかに飛び込んで、討ち入りの詳細を語ったはずだ。
つまり討ち入り前から討ち入りの様子を詳細に報告する役目を寺坂は負っていたのである。

逃亡に当たって、複数の浪士たちが寺坂の逃亡をかばっている様子がある。

大石が容認していたかどうかは不明である。

少なくとも寺坂が泉岳寺に行く前に逃亡し切腹を免れるということについて、四十七士の中に了解していたものが複数いたのは確かだろう。

今泉岳寺に行くと、四十七の墓の中にちゃんと寺坂吉右衛門の墓もある。
どこかの寺の小使いか何かをして80歳くらいになるまで長生きして、それから遺骨が泉岳寺へとやってきたのだろう。

泉岳寺以外にも、この寺坂吉右衛門の墓は全国にいくつかあるのだ。

寺坂もスパイであった可能性がある。

寺坂は討ち入りの詳細を黒幕と近松門左衛門に報告したのではないか?
原作者は事前に書いておいたシナリオと実際の討ち入りの齟齬を修正することができるからだ。

歌舞伎にあるように、大野の口封じのために寺坂が殺害した可能性もあり得る。
その場合は、浅野を刃傷事件へ落とす役割の大野と、シナリオの完成責務を負う寺坂の姿が浮かんでくる。

松の廊下の事件を回避させるべき役目を負っていた末席家老の大野九郎兵衛は江戸城で何をしていたのか。
浅野の勅使饗応役を無事に済ませるべく働いていたのであろうか。

一回目の勅使饗応役は大石良重の努力で無事に乗り切っている。
浅野は二回目の体験である。

大野さえしっかりしていれば、無難に勤め上げていてもおかしくはない。
スパイだとすると大野は「逆に動いた」のではないかという疑いを捨てきれない。


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