樟脳赤油から得られる猛毒~長州(122) [萩の吉田松陰]
SH3B0482会津から萩へやってきた「楷(かい)の木」(萩・松陰神社境内)
「現存する楷(かい)の大木は大正4年(1915)林学博士であった白沢保美(しらさわ ほみ)氏が中国曲阜から種子を持ち帰ったもの」である。
この林学博士は、欧州仕込みの樹木学者である。
東京のプラタナス並木は、この人による都市緑化事業の成果でもある。
白沢の地元の記事「安曇野ゆかりの先人たち」には、
http://www.city.azumino.nagano.jp/yukari/person/130/
「白沢 保美(しらさわ ほみ)」と出ているが、Wikipediaは名を「やすみ」と読んでいる。
『白沢 保美(しらさわ やすみ、1868年(慶応4年)4月~1947年12月20日)は、日本の樹木学者。東京市の初期、都市緑化事業の指導にあたる。
人物
1868年(慶応4年)、信濃国安曇郡明盛村(現・長野県安曇野市)の医師の家に生まれる。
1894年(明治27年)東京帝国大学農科大学林学科を卒業、大学院で研究のかたわら農商務省山林局に勤務、1900年(明治33年)より欧州に2年留学、1903年(明治36年)林学博士。
1908年(明治41年)山林局林業試験場長に就任、1932年(昭和7年)退職するまで20数年の長期にわたってその職についた。
都市緑化について強い関心を持ち、1904年(明治37年)優秀樹木として、プラタナス、ユリノキの種を大量に公園樹木として供給した。
また、1907年(明治40年)東京市の委嘱により福羽逸人と協力し、街路樹は種苗より整然と育成すべきことを説いた東京市行道樹改良案を提出、東京の街路樹事業の大綱が樹立させた。
東京市はこれによりプラタナス、イチョウ等の栽培をはじめたほか、1910年(明治43年)から新規格による街路樹の植栽に着手し、以来年々これが育成に努力した結果戦前に10万余本の街路樹の整備を見た。
こうして、多数の優良海外樹種が公園や道路、学校園等の公共地に配布栽培が出来ている。』(白沢保美(Wikipedia)より)
1901年(明治34)、白沢は33歳のときにドイツ・フランス・スイス等に留学し、森林樹木学・造林学の研究に没頭しているが、他の分野にも精魂を傾けた可能性もあり得る。
つまり西洋の宗教哲学なども、である。
帰国後2年の明治36年、彼の林学博士論文は「樟木に関する樟脳油」であり、白沢は林業専門家だった。
樟木(くすのき)は、南朝の楠正成を連想させてくれる。
松陰神社境内奥の「楷(かい)の木」説明板は、この人物が中国から持ち帰った種子が楷(かい)の大木」となり、岡山県にある日本最古の庶民学校、国宝の「 閑谷(しずや)学校」にあると書いていた。
萩を代表する庶民学校は松下村塾であり、松陰と閑谷(しずや)学校とはその点でつながる。
会津と松陰と、岡山藩の庶民学校とを結ぶ「楷(かい)の木」なのである。
そして、それは毒をもつ。
『ウルシオール
ウルシやハゼまけの原因物質。
ロテノン(rotenone)
南洋・熱帯地方のマメ科植物のデリス根部に含まれる毒の主成分がロテノン。
魚毒性を利用して毒流し漁法で魚を捕っていたという(現在は使用禁止)。
日本では戦前殺虫剤として使われていた。呼吸鎖複合体Iの阻害剤。
ピレトリン
除虫菊に含まれる殺虫成分。
サフロール(safrol)
クスノキ科の植物Sassafras albidum Neesの根に含まれるサッサフラス油の主成分。
肝腫瘍を発生。
ロテノン(デリス) ピレトリン(除虫菊) サフロール(サッサフラス油)
以下略』
(「動物の毒 植物の毒 微生物の毒」より)
http://www.sc.fukuoka-u.ac.jp/~bc1/Biochem/venoms.htm
この記事によると、白沢博士の専門研究対象であるクスノキ科植物からも毒物サフロールが作れるという。
致死量はどれほどなのだろうか。
『サフロール
safrole
別称1,3-benzodioxole,5-(2-propenyl)(CAS名)
特性
化学式 C10H10O2
モル質量 162.19
外観 無色~淡黄色の液体
匂い ササフラス香
密度 1.096
融点 11.2℃
沸点 232~234℃
水への溶解度 不溶
溶解度 プロピレングリコール・グリセリンに微溶
アルコール、油類に可溶
ジエチルエーテル、クロロホルムに混和
屈折率 (nD) 1.536~1.539
危険性
引火点 97℃
半数致死量 LD50 1.95g/kg(ラット経口)
5g/kg以上(ウサギ経皮)
関連する物質
関連物質 イソサフロール
特記なき場合、データは常温(25 ℃)・常圧(100 kPa)におけるものである。
サフロール(英: safrole)は、化学式C10H10O2で表わされる有機化合物の一種。天然にはササフラス油やオコチア油、樟脳赤油に存在する。
用途
ヘリオトロピンやピペロニルブトキサイドの原料としての用途が主であるが、かつては石鹸の香料としても使用された。
国際香料協会では、調合香料での使用は0.05%以下と制限を設けている。
アメリカ合衆国では、食品への使用を禁じている。
工業的にはブラジル産オコチア油や中国酸ササフラス油の分留により得られる。
安全性
日本の消防法では危険物第4類・第3石油類に分類される。
半数致死量(LD50)は、ラットへの経口投与で1.95g/kg、ウサギへの経皮投与で5g/kg以上。
ヒトへの急性症状としては吐き気やチアノーゼ、痙攣、感覚麻痺などの神経症状が報告されている。
動物実験では肝臓への発癌性が報告されている。
特定麻薬向精神薬原料に該当し、一定量を越える輸出入等には麻薬及び向精神薬取締法に基づく届出が義務付けられている。』
(サフロール(Wikipedia)より)
あいにく、「人の致死量」についての記載はなかった。
しかし、ウサギの皮膚にわずかに塗りこんでも哺乳類のウサギが死に至る毒である。
ウサギの平均体重を3kgとすると、ウサギへの経皮投与では3kg×5g/kg=15gを皮膚にすり込めば痙攣を起こしてウサギは死ぬ。
人間への影響も、これより十分に類推できよう。
いくら高貴な人物であっても、裸にされて全身に刷り込まれては身がもつまい。
アメリカ合衆国では、食品への使用を禁じているそうだが、ならば日本では禁じていないということなのか、それは私にはまだ不明である。
天然の樟脳赤油に存在するという。
なぜか、白沢博士の博士論文の内容に密接に関連してくるようだ。
猛毒性の一方で、「ウルシ科の楷の木」は松陰と儒教、とりわけ孔子との関係も示唆してくれている。
『中国生まれの楷の木
聖廟に登る19段の石段。
その左右の斜面に一対の楷の木がこんもりした枝葉を広げています。
いずれも幹回り1メートル余、高さ12.3メートルの巨木。
晩秋には聖廟に向かって左側の樹が深紅色に、右側は黄色がかった淡紅色に紅葉し、その景観は天下一品です。
楷の木は中国の山東、河北、河南各省に自生するウルシ科で、学名はピスタチア・シモンシス・ブンゲ(日本では、とねりばはぜのき)、黄蓮樹とも呼ばれます。
大正時代、白沢博士が持ち帰り、閑谷が一番大きく成長
閑谷の楷の木は大正4年、当時の農商務省林業試験場長だった白沢保美博士が、中国山東省曲阜にある孔子廟から持ち帰った種子を苗に育て、大正14年、閑谷学校、東京・聖堂、栃木・足利学校、佐賀・多久聖廟など孔子ゆかりの地に植えました。
風土が合ったせいか、閑谷学校の木が一番大樹に育ちました。
林野庁資料室に保存されている白沢博士の報告書によりますと、曲阜の楷の木は当時で幹の直1メートルという大樹で、孔子十哲の一人、子責が植えた樹の種子が育ったものだといわれています。
いずれにせよ、孔子の聖地、曲阜直系の珍木なのです。
孔子にちなんで「学問の木」
孔子にちなんで閑谷ではこの楷の木を「学問の木」と呼ぶようになり、紅葉した落ち葉を大事そうに持ち帰る受験生も増えています。』
(「「楷の木」豆知識」より)
http://www3.ocn.ne.jp/~bizenst/kainoki/setumei.htm
「曲阜(チュイフー)の孔廟(コンミャオ)」という旅行日記がある。
http://4travel.jp/sekaiisan/confucius/
曲阜(チュイフー)は日本語読みでは「キョクフ」と読まれるようだ。
また、「曲阜紀行聖蹟・江蘇省の教育概観」というサイトでは、
http://porta.ndl.go.jp/Result/R000000008/I000150633
「キョクフ キコウ セイセキ」と読ませている。
織田信長は支配権を確立したあと美濃国の城下町を岐阜(ギフ)と命名した。
「岐阜」の地名由来辞典によれば、中国の縁起のよい地名、「岐山」「岐陽」「岐阜」によるという説と、「周の文王が岐山より起こり、天下を定む」に由来するという説の二つがあるという。
信長の命名であれば後者であろう。
信長は、天皇さえも越えようとした、最初でおそらく最後の日本人である。
このサイトに「楷の木が完全に紅葉した様子」として、深紅(左)と橙色(右)に紅葉した二つの大きな樹木の写真が掲載されていた。
「聖廟に向かって左側の樹が深紅色に、右側は黄色がかった淡紅色に紅葉」と解説されているから、その写真は中国曲阜(チュイフー)の「楷の木」であろう。
日本最大の閑谷の「楷の木」の姿もこれに似ているはずだ。
なぜならば、同じ遺伝子なのである。
中国曲阜(チュイフー)の「楷の木」から白沢博士が持ち帰ったものが、現存する国内最大の閑谷の「楷の木」である。
この曲阜(チュイフー)の「楷の木」の写真を眺めていると、世田谷の松陰の墓の傍の楓の紅葉と同じ色であることに、ふと気づいた。
初めてそれを発見したと言っていい。
松陰と晋作の契りとは、私が推測していたような「カトリック的な楓の契り」ではなく、「楷の木の契り」つまり「孔子の教え」であったのではないだろうか。
晋作が世田谷に松陰の白骨化した遺骸を埋めるとき、「楷(かい)の木」の根元に埋めたいと思ったのだろうが、幕末当時の日本にはまだその種子はなかった。
だから晋作は楓の木を選んだのではないだろうか。
孔子の墓所と子弟と「楷(かい)の木」の話である。
『1.孔子にゆかりのある中国原産の珍木
今から2500年前、儒学の祖、孔子(紀元前552~479)は、多くの子弟に見守られながら世を去り、山東省曲阜の泗水のほとりに埋葬された。
門人たちは3年間の喪に服した後、墓所のまわりに中国全土から集めた美しい木々を植えました。
今も残る70万坪(200ha)の孔林です。
孔子十哲と称された弟子の中で最も師を尊敬してやまなかった子貢(しこう)は、さらに3年、小さな庵にとどまって塚をつくり、楷の木を植えてその地を離れました。
この楷の木が世代を超えて受け継がれ、育った大樹は「子貢手植えの楷」として今も孔子の墓所に、強く美しい姿をとどめています。
その墓所のまわりには、孔子を慕う弟子や魯の国の人々が集まりはじめ、やがて住み着いた者の家が百あまりであったので孔里と名づけられました。
孔子は300年後の漢代中期以後、国家的崇拝の対象となります。
しだいに墓域も拡大され、孔里は現在、孔林という広大な国家的遺跡になっています。
その後、「楷の木」は科挙(中国の隋の時代から清の時代までの官僚登用試験)の合格祈願木となり、歴代の文人が自宅に「楷の木」を植えたことから『学問の木』とも言われるようになりました。
合格祈願木とされたのは、科挙の合格者に楷で作った笏(こつ)を与えて名誉を称えたからだと考えられています。
また、その杖は「楷杖」として暴を戒めるために用いたとされます。』
(「「楷の木」の歴史」より)
http://www.cheng.es.osaka-u.ac.jp/alumni/kainoki.htm
晋作の家は、天神信仰が篤かった。
この萩散歩のブログでも写真を紹介したが、晋作の旧宅には、「高杉家伝来 鎮守堂 晋作遺愛品」として小さな祠があった。
それは菅原道真を祀るものだった。
中国の「楷の木」は科挙の合格祈願木であり、歴代の中国の文人が自宅に「楷の木」を植えたことから『学問の木』になったという。
菅原道真を連想させてくれる木でもある。
思いのほか、ここではウルシ由来の毒物の記述に紙面を割いてしまった。
肝心の「岡山藩とキリシタンの関係」は次の記事で述べることにする。
「現存する楷(かい)の大木は大正4年(1915)林学博士であった白沢保美(しらさわ ほみ)氏が中国曲阜から種子を持ち帰ったもの」である。
この林学博士は、欧州仕込みの樹木学者である。
東京のプラタナス並木は、この人による都市緑化事業の成果でもある。
白沢の地元の記事「安曇野ゆかりの先人たち」には、
http://www.city.azumino.nagano.jp/yukari/person/130/
「白沢 保美(しらさわ ほみ)」と出ているが、Wikipediaは名を「やすみ」と読んでいる。
『白沢 保美(しらさわ やすみ、1868年(慶応4年)4月~1947年12月20日)は、日本の樹木学者。東京市の初期、都市緑化事業の指導にあたる。
人物
1868年(慶応4年)、信濃国安曇郡明盛村(現・長野県安曇野市)の医師の家に生まれる。
1894年(明治27年)東京帝国大学農科大学林学科を卒業、大学院で研究のかたわら農商務省山林局に勤務、1900年(明治33年)より欧州に2年留学、1903年(明治36年)林学博士。
1908年(明治41年)山林局林業試験場長に就任、1932年(昭和7年)退職するまで20数年の長期にわたってその職についた。
都市緑化について強い関心を持ち、1904年(明治37年)優秀樹木として、プラタナス、ユリノキの種を大量に公園樹木として供給した。
また、1907年(明治40年)東京市の委嘱により福羽逸人と協力し、街路樹は種苗より整然と育成すべきことを説いた東京市行道樹改良案を提出、東京の街路樹事業の大綱が樹立させた。
東京市はこれによりプラタナス、イチョウ等の栽培をはじめたほか、1910年(明治43年)から新規格による街路樹の植栽に着手し、以来年々これが育成に努力した結果戦前に10万余本の街路樹の整備を見た。
こうして、多数の優良海外樹種が公園や道路、学校園等の公共地に配布栽培が出来ている。』(白沢保美(Wikipedia)より)
1901年(明治34)、白沢は33歳のときにドイツ・フランス・スイス等に留学し、森林樹木学・造林学の研究に没頭しているが、他の分野にも精魂を傾けた可能性もあり得る。
つまり西洋の宗教哲学なども、である。
帰国後2年の明治36年、彼の林学博士論文は「樟木に関する樟脳油」であり、白沢は林業専門家だった。
樟木(くすのき)は、南朝の楠正成を連想させてくれる。
松陰神社境内奥の「楷(かい)の木」説明板は、この人物が中国から持ち帰った種子が楷(かい)の大木」となり、岡山県にある日本最古の庶民学校、国宝の「 閑谷(しずや)学校」にあると書いていた。
萩を代表する庶民学校は松下村塾であり、松陰と閑谷(しずや)学校とはその点でつながる。
会津と松陰と、岡山藩の庶民学校とを結ぶ「楷(かい)の木」なのである。
そして、それは毒をもつ。
『ウルシオール
ウルシやハゼまけの原因物質。
ロテノン(rotenone)
南洋・熱帯地方のマメ科植物のデリス根部に含まれる毒の主成分がロテノン。
魚毒性を利用して毒流し漁法で魚を捕っていたという(現在は使用禁止)。
日本では戦前殺虫剤として使われていた。呼吸鎖複合体Iの阻害剤。
ピレトリン
除虫菊に含まれる殺虫成分。
サフロール(safrol)
クスノキ科の植物Sassafras albidum Neesの根に含まれるサッサフラス油の主成分。
肝腫瘍を発生。
ロテノン(デリス) ピレトリン(除虫菊) サフロール(サッサフラス油)
以下略』
(「動物の毒 植物の毒 微生物の毒」より)
http://www.sc.fukuoka-u.ac.jp/~bc1/Biochem/venoms.htm
この記事によると、白沢博士の専門研究対象であるクスノキ科植物からも毒物サフロールが作れるという。
致死量はどれほどなのだろうか。
『サフロール
safrole
別称1,3-benzodioxole,5-(2-propenyl)(CAS名)
特性
化学式 C10H10O2
モル質量 162.19
外観 無色~淡黄色の液体
匂い ササフラス香
密度 1.096
融点 11.2℃
沸点 232~234℃
水への溶解度 不溶
溶解度 プロピレングリコール・グリセリンに微溶
アルコール、油類に可溶
ジエチルエーテル、クロロホルムに混和
屈折率 (nD) 1.536~1.539
危険性
引火点 97℃
半数致死量 LD50 1.95g/kg(ラット経口)
5g/kg以上(ウサギ経皮)
関連する物質
関連物質 イソサフロール
特記なき場合、データは常温(25 ℃)・常圧(100 kPa)におけるものである。
サフロール(英: safrole)は、化学式C10H10O2で表わされる有機化合物の一種。天然にはササフラス油やオコチア油、樟脳赤油に存在する。
用途
ヘリオトロピンやピペロニルブトキサイドの原料としての用途が主であるが、かつては石鹸の香料としても使用された。
国際香料協会では、調合香料での使用は0.05%以下と制限を設けている。
アメリカ合衆国では、食品への使用を禁じている。
工業的にはブラジル産オコチア油や中国酸ササフラス油の分留により得られる。
安全性
日本の消防法では危険物第4類・第3石油類に分類される。
半数致死量(LD50)は、ラットへの経口投与で1.95g/kg、ウサギへの経皮投与で5g/kg以上。
ヒトへの急性症状としては吐き気やチアノーゼ、痙攣、感覚麻痺などの神経症状が報告されている。
動物実験では肝臓への発癌性が報告されている。
特定麻薬向精神薬原料に該当し、一定量を越える輸出入等には麻薬及び向精神薬取締法に基づく届出が義務付けられている。』
(サフロール(Wikipedia)より)
あいにく、「人の致死量」についての記載はなかった。
しかし、ウサギの皮膚にわずかに塗りこんでも哺乳類のウサギが死に至る毒である。
ウサギの平均体重を3kgとすると、ウサギへの経皮投与では3kg×5g/kg=15gを皮膚にすり込めば痙攣を起こしてウサギは死ぬ。
人間への影響も、これより十分に類推できよう。
いくら高貴な人物であっても、裸にされて全身に刷り込まれては身がもつまい。
アメリカ合衆国では、食品への使用を禁じているそうだが、ならば日本では禁じていないということなのか、それは私にはまだ不明である。
天然の樟脳赤油に存在するという。
なぜか、白沢博士の博士論文の内容に密接に関連してくるようだ。
猛毒性の一方で、「ウルシ科の楷の木」は松陰と儒教、とりわけ孔子との関係も示唆してくれている。
『中国生まれの楷の木
聖廟に登る19段の石段。
その左右の斜面に一対の楷の木がこんもりした枝葉を広げています。
いずれも幹回り1メートル余、高さ12.3メートルの巨木。
晩秋には聖廟に向かって左側の樹が深紅色に、右側は黄色がかった淡紅色に紅葉し、その景観は天下一品です。
楷の木は中国の山東、河北、河南各省に自生するウルシ科で、学名はピスタチア・シモンシス・ブンゲ(日本では、とねりばはぜのき)、黄蓮樹とも呼ばれます。
大正時代、白沢博士が持ち帰り、閑谷が一番大きく成長
閑谷の楷の木は大正4年、当時の農商務省林業試験場長だった白沢保美博士が、中国山東省曲阜にある孔子廟から持ち帰った種子を苗に育て、大正14年、閑谷学校、東京・聖堂、栃木・足利学校、佐賀・多久聖廟など孔子ゆかりの地に植えました。
風土が合ったせいか、閑谷学校の木が一番大樹に育ちました。
林野庁資料室に保存されている白沢博士の報告書によりますと、曲阜の楷の木は当時で幹の直1メートルという大樹で、孔子十哲の一人、子責が植えた樹の種子が育ったものだといわれています。
いずれにせよ、孔子の聖地、曲阜直系の珍木なのです。
孔子にちなんで「学問の木」
孔子にちなんで閑谷ではこの楷の木を「学問の木」と呼ぶようになり、紅葉した落ち葉を大事そうに持ち帰る受験生も増えています。』
(「「楷の木」豆知識」より)
http://www3.ocn.ne.jp/~bizenst/kainoki/setumei.htm
「曲阜(チュイフー)の孔廟(コンミャオ)」という旅行日記がある。
http://4travel.jp/sekaiisan/confucius/
曲阜(チュイフー)は日本語読みでは「キョクフ」と読まれるようだ。
また、「曲阜紀行聖蹟・江蘇省の教育概観」というサイトでは、
http://porta.ndl.go.jp/Result/R000000008/I000150633
「キョクフ キコウ セイセキ」と読ませている。
織田信長は支配権を確立したあと美濃国の城下町を岐阜(ギフ)と命名した。
「岐阜」の地名由来辞典によれば、中国の縁起のよい地名、「岐山」「岐陽」「岐阜」によるという説と、「周の文王が岐山より起こり、天下を定む」に由来するという説の二つがあるという。
信長の命名であれば後者であろう。
信長は、天皇さえも越えようとした、最初でおそらく最後の日本人である。
このサイトに「楷の木が完全に紅葉した様子」として、深紅(左)と橙色(右)に紅葉した二つの大きな樹木の写真が掲載されていた。
「聖廟に向かって左側の樹が深紅色に、右側は黄色がかった淡紅色に紅葉」と解説されているから、その写真は中国曲阜(チュイフー)の「楷の木」であろう。
日本最大の閑谷の「楷の木」の姿もこれに似ているはずだ。
なぜならば、同じ遺伝子なのである。
中国曲阜(チュイフー)の「楷の木」から白沢博士が持ち帰ったものが、現存する国内最大の閑谷の「楷の木」である。
この曲阜(チュイフー)の「楷の木」の写真を眺めていると、世田谷の松陰の墓の傍の楓の紅葉と同じ色であることに、ふと気づいた。
初めてそれを発見したと言っていい。
松陰と晋作の契りとは、私が推測していたような「カトリック的な楓の契り」ではなく、「楷の木の契り」つまり「孔子の教え」であったのではないだろうか。
晋作が世田谷に松陰の白骨化した遺骸を埋めるとき、「楷(かい)の木」の根元に埋めたいと思ったのだろうが、幕末当時の日本にはまだその種子はなかった。
だから晋作は楓の木を選んだのではないだろうか。
孔子の墓所と子弟と「楷(かい)の木」の話である。
『1.孔子にゆかりのある中国原産の珍木
今から2500年前、儒学の祖、孔子(紀元前552~479)は、多くの子弟に見守られながら世を去り、山東省曲阜の泗水のほとりに埋葬された。
門人たちは3年間の喪に服した後、墓所のまわりに中国全土から集めた美しい木々を植えました。
今も残る70万坪(200ha)の孔林です。
孔子十哲と称された弟子の中で最も師を尊敬してやまなかった子貢(しこう)は、さらに3年、小さな庵にとどまって塚をつくり、楷の木を植えてその地を離れました。
この楷の木が世代を超えて受け継がれ、育った大樹は「子貢手植えの楷」として今も孔子の墓所に、強く美しい姿をとどめています。
その墓所のまわりには、孔子を慕う弟子や魯の国の人々が集まりはじめ、やがて住み着いた者の家が百あまりであったので孔里と名づけられました。
孔子は300年後の漢代中期以後、国家的崇拝の対象となります。
しだいに墓域も拡大され、孔里は現在、孔林という広大な国家的遺跡になっています。
その後、「楷の木」は科挙(中国の隋の時代から清の時代までの官僚登用試験)の合格祈願木となり、歴代の文人が自宅に「楷の木」を植えたことから『学問の木』とも言われるようになりました。
合格祈願木とされたのは、科挙の合格者に楷で作った笏(こつ)を与えて名誉を称えたからだと考えられています。
また、その杖は「楷杖」として暴を戒めるために用いたとされます。』
(「「楷の木」の歴史」より)
http://www.cheng.es.osaka-u.ac.jp/alumni/kainoki.htm
晋作の家は、天神信仰が篤かった。
この萩散歩のブログでも写真を紹介したが、晋作の旧宅には、「高杉家伝来 鎮守堂 晋作遺愛品」として小さな祠があった。
それは菅原道真を祀るものだった。
中国の「楷の木」は科挙の合格祈願木であり、歴代の中国の文人が自宅に「楷の木」を植えたことから『学問の木』になったという。
菅原道真を連想させてくれる木でもある。
思いのほか、ここではウルシ由来の毒物の記述に紙面を割いてしまった。
肝心の「岡山藩とキリシタンの関係」は次の記事で述べることにする。
タグ:樟脳赤油 猛毒 林学博士 白沢保美 中国曲阜 欧州仕込みの樹木学者 東京のプラタナス並木 都市緑化事業 安曇野 信濃国 安曇郡 明盛村 安曇野市 医師の家 ドイツ フランス スイス 留学 樟木 樟脳油 樟木(くすのき) 南朝 楠正成 閑谷(しずや)学校 岡山藩 庶民学校 楷(かい)の木 毒 ウルシオール サフロール クスノキ科 植物の毒 半数致死量 LD50 ウサギ 経皮投与 5g/kg ヒトへ 急性症状 チアノーゼ 痙攣 感覚麻痺 神経症状 肝臓への発癌性 麻薬 向精神薬 届出が義務付け 天然の樟脳赤油 聖廟 深紅色 淡紅色 ピスタチア とねりばはぜのき 東京・聖堂 栃木・足利学校 佐賀・多久聖廟 孔子ゆかりの地 学問の木 曲阜 チュイフー キョクフ 岐阜 同じ遺伝子 楓の契り 楷の木の契り 孔子の教え 科挙 合格祈願木 天神信仰 高杉家伝来 鎮守堂 晋作遺愛品 小さな祠 菅原道真
ウルシの毒と会津~長州(121) [萩の吉田松陰]
SH3B0481「楷(かい)の木」説明板
松陰神社境内の右奥に楷(かい)の木が植えられている。
私は楓かシュロの木があるはずだと思い込んでいた。
それを隈なく探すうち木々の間にひっそりと植えられているこの説明板に遭遇した。
おそらく一般の観光客はまったくそれに気づくことなく、萩を立ち去るだろう。
それを期待して、大変目立たない場所に植えているようにも見える。
そういう植樹の位置から見ると、言いたいことではあるが、秘匿せなばならぬことなのだろうか。
『楷(かい)の木
ウルシ科の木ウルシの毒は無くなることはない。
雌雄異株で春に黄白色の花が咲き秋になると葉が深紅色に染まり美しい。
通称黄蓮木別名を孔子菜または孔木という珍木である。
ここに植樹した楷(かい)の木は会津藩校日新館が中国曲阜にある孔子廟の楷(かい)樹の種子を貰い受けて育苗したものを松陰神社御祭神吉田松陰先生が東北遊歴の際、嘉永五年二月二十五日(1852)日新館を尋ねられし縁故により献木されたものである。
なお現存する楷(かい)の大木は大正4年(1915)林学博士であった白沢保美(しらさわ ほみ)氏が中国曲阜から種子を持ち帰りったもので、岡山県の閑谷(しずや)学校(岡山藩が庶民の教育場として建てられた藩校、国宝)にある。』(抜粋終わり)
「会津藩校日新館が中国曲阜にある孔子廟の楷(かい)樹の種子を貰い受けて育苗したもの」とあり、「吉田松陰先生が東北遊歴の際、嘉永五年二月二十五日(1852)日新館を尋ねられし縁故により献木されたもの」とある。
松陰自身がこの木を植えることを希望し、会津もそれを歓迎したのであろう。
会津の神保修理が生きている頃であれば、会津藩もまだ勤皇の姿勢が鮮明であった。
それを家老の梶原が切腹に追い込んだと私は推理しているが、神保の死を持って会津は長州藩の敵に転じている。
岡山藩といえば、池田氏の居城だと思うが、教育熱心な県で、今でも行政も風俗取締りなどには他県よりも厳しい姿勢を維持している。
ある種の宗教戒律を重んじ、民主化傾向が強い地域のように感じている。
『岡山城を築城したのは、岡山城を居城にして戦国大名として成長し、豊臣家五大老を務めた宇喜多氏であった。
しかし慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて、西軍方の主力となった宇喜多秀家は改易となり、西軍から寝返り勝敗の要となった小早川秀秋が入封し備前・美作の51万石を所領とした。
ただ慶長7年10月18日(1602年12月1日)、秀秋は無嗣子で没したため小早川家は廃絶となった。
慶長8年(1603年)、姫路藩主・池田輝政の次男・忠継が28万石で岡山に入封し、ここに江戸期の大名である池田家の治世が始まる。
慶長18年(1613年)には約10万石の加増を受け38万石となった。
元和元年(1615年)忠継が無嗣子で没し、弟の淡路国由良城主・忠雄が31万5千石で入封した。
寛永9年(1632年)忠雄の没後、嫡子・光仲は幼少のため山陽筋の重要な拠点である岡山を任せるには荷が重いとして、鳥取に国替えとなった。
代わって従兄弟の池田光政が鳥取より31万5千石で入封し、以後明治まで光政の家系(池田家宗家)が岡山藩を治めることとなった。
このように池田氏(なかでも忠継・忠雄)が優遇された背景には、徳川家康の娘・督姫が池田輝政に嫁ぎ、忠継・忠雄がその子であったことが大きいとされる。
光政は水戸藩主・徳川光圀、会津藩主・保科正之と並び江戸初期の三名君として称されている。
光政は陽明学者・熊沢蕃山を登用し、寛文9年(1669年)全国に先駆けて藩校「岡山学校(または国学)」を開校した。
寛文10年(1670年)には、日本最古の庶民の学校として「閑谷学校」(備前市、講堂は現在・国宝)も開いた。
また土木面では津田永忠を登用し、干拓などの新田開発・百間川(旭川放水路)の開鑿などの治水を行った。
光政の子で次の藩主・綱政は元禄13年 (1700年)に偕楽園(水戸市)、兼六園(金沢市)と共に日本三名園とされる大名庭園・後楽園を完成させている。
幕末に9代藩主となった茂政は、水戸藩主徳川斉昭の九男で、鳥取藩池田慶徳や最後の将軍徳川慶喜の弟であった。
このためか勤皇佐幕折衷案の「尊王翼覇」の姿勢をとり続けた。
しかし戊辰戦争にいたって茂政は隠居し、代わって支藩鴨方藩主の池田政詮(岡山藩主となり章政と改める)が藩主となり、岡山藩は倒幕の旗幟を鮮明にした。
明治4年(1871年)廃藩置県が行われ、岡山藩知事池田章政が免官となり、藩領は岡山県となった。
なお、池田家は明治17年(1884年)に侯爵となり華族に列せられた。』
(岡山藩(Wikipedia)より)
寛永9年(1632年)忠雄の嫡子・光仲が幼少のため岡山は荷が重いとして、鳥取に国替えとなり、代わって従兄弟の池田光政が鳥取より31万5千石で入封し、以後明治まで光政の家系(池田家宗家)が岡山藩を治めることとなったとある。
つまり幕末動乱時は池田光政の末裔が治めていた藩である。
名前の中に「神が好む」という「光」の文字を見つけると、私は反射的にキリシタンもしくは旧約聖書を重んじる人々を想起するくせがついている。
会津もキリシタン殉教碑があった町である。
それ以前に、長州は大内義隆がザビエルに布教を許した藩であり、その影響の下で後に会津はキリシタン大名蒲生氏郷が治めた藩である。
関係が薄いはずはない。
会津から萩へ毒の樹の種子をプレゼントするとは、どういうことなのだろうか。
毒を誰かに飲ませたことを暗示するのであろうか。
会津の誰かが、長州の誰かに依頼して、その敵となる首魁に毒を飲ませたということか。
会津と長州のキリシタンに交流はあったのか。
岡山藩は仲介役だったのだろうか。
この植樹説明板に書かれた文字は風化してまもなく読めなくなることだろう。
私もやっと読み取れたものだ。(上に抜粋した。)
「毒」と「会津」と「萩」と「岡山」と、そして「孔子」がキーワードになっている。
会津も萩もキリシタン殉教地があった。
私はいずれも実際現地を見てきている。
岡山がキリシタンに関係あるかどうか、光政の「光」の文字はその可能性をかなり高めてくれる。
なぜそれが孔子になるのか、そこはなぞのままであるが、岡山藩にキリシタンがいたとすれば、キリシタンによってその3箇所が共通することになる。
そのとき、キリシタンはウルシの毒を誰に飲ませたのだろうか。
幕末の毒殺説の中で、歴史を動かした最大のものは「孝明天皇崩御」である。
長州藩は京都の政変に深く深くかかわっている。
会津の誰かがそれを感謝しているのか。
もし会津のキリシタンであったならば、会津藩主以下が悲惨な目にあっている様は仇討ちのシーンとしては最高のものだっただろう。
その場に西郷隆盛はいなかった。
薩摩藩士はいたのであるが、つまりは長州による会津狩なのである。
それを長州に感謝する会津人が少なからずいたことになろう。
岡山藩とキリシタンの関係が鍵を握る。
説明板の冒頭句にある、「ウルシ科の木ウルシの毒は無くなることはない」という1行が妙に気になっている。
日本語の書き方として違和感がある。
永遠に毒は続くといいたいのだろうか。
松陰神社境内の右奥に楷(かい)の木が植えられている。
私は楓かシュロの木があるはずだと思い込んでいた。
それを隈なく探すうち木々の間にひっそりと植えられているこの説明板に遭遇した。
おそらく一般の観光客はまったくそれに気づくことなく、萩を立ち去るだろう。
それを期待して、大変目立たない場所に植えているようにも見える。
そういう植樹の位置から見ると、言いたいことではあるが、秘匿せなばならぬことなのだろうか。
『楷(かい)の木
ウルシ科の木ウルシの毒は無くなることはない。
雌雄異株で春に黄白色の花が咲き秋になると葉が深紅色に染まり美しい。
通称黄蓮木別名を孔子菜または孔木という珍木である。
ここに植樹した楷(かい)の木は会津藩校日新館が中国曲阜にある孔子廟の楷(かい)樹の種子を貰い受けて育苗したものを松陰神社御祭神吉田松陰先生が東北遊歴の際、嘉永五年二月二十五日(1852)日新館を尋ねられし縁故により献木されたものである。
なお現存する楷(かい)の大木は大正4年(1915)林学博士であった白沢保美(しらさわ ほみ)氏が中国曲阜から種子を持ち帰りったもので、岡山県の閑谷(しずや)学校(岡山藩が庶民の教育場として建てられた藩校、国宝)にある。』(抜粋終わり)
「会津藩校日新館が中国曲阜にある孔子廟の楷(かい)樹の種子を貰い受けて育苗したもの」とあり、「吉田松陰先生が東北遊歴の際、嘉永五年二月二十五日(1852)日新館を尋ねられし縁故により献木されたもの」とある。
松陰自身がこの木を植えることを希望し、会津もそれを歓迎したのであろう。
会津の神保修理が生きている頃であれば、会津藩もまだ勤皇の姿勢が鮮明であった。
それを家老の梶原が切腹に追い込んだと私は推理しているが、神保の死を持って会津は長州藩の敵に転じている。
岡山藩といえば、池田氏の居城だと思うが、教育熱心な県で、今でも行政も風俗取締りなどには他県よりも厳しい姿勢を維持している。
ある種の宗教戒律を重んじ、民主化傾向が強い地域のように感じている。
『岡山城を築城したのは、岡山城を居城にして戦国大名として成長し、豊臣家五大老を務めた宇喜多氏であった。
しかし慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて、西軍方の主力となった宇喜多秀家は改易となり、西軍から寝返り勝敗の要となった小早川秀秋が入封し備前・美作の51万石を所領とした。
ただ慶長7年10月18日(1602年12月1日)、秀秋は無嗣子で没したため小早川家は廃絶となった。
慶長8年(1603年)、姫路藩主・池田輝政の次男・忠継が28万石で岡山に入封し、ここに江戸期の大名である池田家の治世が始まる。
慶長18年(1613年)には約10万石の加増を受け38万石となった。
元和元年(1615年)忠継が無嗣子で没し、弟の淡路国由良城主・忠雄が31万5千石で入封した。
寛永9年(1632年)忠雄の没後、嫡子・光仲は幼少のため山陽筋の重要な拠点である岡山を任せるには荷が重いとして、鳥取に国替えとなった。
代わって従兄弟の池田光政が鳥取より31万5千石で入封し、以後明治まで光政の家系(池田家宗家)が岡山藩を治めることとなった。
このように池田氏(なかでも忠継・忠雄)が優遇された背景には、徳川家康の娘・督姫が池田輝政に嫁ぎ、忠継・忠雄がその子であったことが大きいとされる。
光政は水戸藩主・徳川光圀、会津藩主・保科正之と並び江戸初期の三名君として称されている。
光政は陽明学者・熊沢蕃山を登用し、寛文9年(1669年)全国に先駆けて藩校「岡山学校(または国学)」を開校した。
寛文10年(1670年)には、日本最古の庶民の学校として「閑谷学校」(備前市、講堂は現在・国宝)も開いた。
また土木面では津田永忠を登用し、干拓などの新田開発・百間川(旭川放水路)の開鑿などの治水を行った。
光政の子で次の藩主・綱政は元禄13年 (1700年)に偕楽園(水戸市)、兼六園(金沢市)と共に日本三名園とされる大名庭園・後楽園を完成させている。
幕末に9代藩主となった茂政は、水戸藩主徳川斉昭の九男で、鳥取藩池田慶徳や最後の将軍徳川慶喜の弟であった。
このためか勤皇佐幕折衷案の「尊王翼覇」の姿勢をとり続けた。
しかし戊辰戦争にいたって茂政は隠居し、代わって支藩鴨方藩主の池田政詮(岡山藩主となり章政と改める)が藩主となり、岡山藩は倒幕の旗幟を鮮明にした。
明治4年(1871年)廃藩置県が行われ、岡山藩知事池田章政が免官となり、藩領は岡山県となった。
なお、池田家は明治17年(1884年)に侯爵となり華族に列せられた。』
(岡山藩(Wikipedia)より)
寛永9年(1632年)忠雄の嫡子・光仲が幼少のため岡山は荷が重いとして、鳥取に国替えとなり、代わって従兄弟の池田光政が鳥取より31万5千石で入封し、以後明治まで光政の家系(池田家宗家)が岡山藩を治めることとなったとある。
つまり幕末動乱時は池田光政の末裔が治めていた藩である。
名前の中に「神が好む」という「光」の文字を見つけると、私は反射的にキリシタンもしくは旧約聖書を重んじる人々を想起するくせがついている。
会津もキリシタン殉教碑があった町である。
それ以前に、長州は大内義隆がザビエルに布教を許した藩であり、その影響の下で後に会津はキリシタン大名蒲生氏郷が治めた藩である。
関係が薄いはずはない。
会津から萩へ毒の樹の種子をプレゼントするとは、どういうことなのだろうか。
毒を誰かに飲ませたことを暗示するのであろうか。
会津の誰かが、長州の誰かに依頼して、その敵となる首魁に毒を飲ませたということか。
会津と長州のキリシタンに交流はあったのか。
岡山藩は仲介役だったのだろうか。
この植樹説明板に書かれた文字は風化してまもなく読めなくなることだろう。
私もやっと読み取れたものだ。(上に抜粋した。)
「毒」と「会津」と「萩」と「岡山」と、そして「孔子」がキーワードになっている。
会津も萩もキリシタン殉教地があった。
私はいずれも実際現地を見てきている。
岡山がキリシタンに関係あるかどうか、光政の「光」の文字はその可能性をかなり高めてくれる。
なぜそれが孔子になるのか、そこはなぞのままであるが、岡山藩にキリシタンがいたとすれば、キリシタンによってその3箇所が共通することになる。
そのとき、キリシタンはウルシの毒を誰に飲ませたのだろうか。
幕末の毒殺説の中で、歴史を動かした最大のものは「孝明天皇崩御」である。
長州藩は京都の政変に深く深くかかわっている。
会津の誰かがそれを感謝しているのか。
もし会津のキリシタンであったならば、会津藩主以下が悲惨な目にあっている様は仇討ちのシーンとしては最高のものだっただろう。
その場に西郷隆盛はいなかった。
薩摩藩士はいたのであるが、つまりは長州による会津狩なのである。
それを長州に感謝する会津人が少なからずいたことになろう。
岡山藩とキリシタンの関係が鍵を握る。
説明板の冒頭句にある、「ウルシ科の木ウルシの毒は無くなることはない」という1行が妙に気になっている。
日本語の書き方として違和感がある。
永遠に毒は続くといいたいのだろうか。
厚狭船木村出身の三兄弟~長州(120) [萩の吉田松陰]
SH3B0479松陰神社本殿裏
萩訪問前に持っていたひとつの予想、隠れキリシタンが昔萩に住んでいたことは確かめられた。
江戸末期には既に山中の紫福村(しぶきむら)へ隠れ棲んでいたが、戦国~江戸初期は萩付近に居住していたものと思われる。
私のもうひとつの予想は裏切られた。
松陰神社境内に楓の木とシュロの木があるという予想だ。
写真は本殿裏の樹木であるが、いずれも存在していなかった。
さて、思いがけずに境内で見つけた「萩の変殉難者七人」のことである。
「前原一誠、佐世一清、奥平謙輔、有福恂允、山田頴太郎、横山俊彦、小倉信一」がその七人であった。
このうち、前原一誠、奥平謙輔については概略紹介した。
「前原一誠は奥平謙輔・横山俊彦らと党を集め云々」とあったから、奥平、横山ともに乱の中心人物だったのであろう。
ちなみに「乱」とは朝廷に反乱したものを指すのだから、名誉回復するならば、「萩の乱」も「萩の変」などと変えるべきであろう。
英語のアルファベットと異なり、「漢字」という文字は意味を持つ。
『(横山俊彦は、』嘉永3年生まれ。
長門萩藩士。
藩校明倫館と吉田松陰の松下村塾にまなぶ。
新政府に絶望し、前原一誠らと新政府転覆を画策し、明治9年萩の乱をおこしたが,捕らえられ12月3日斬殺された。27歳。幼名は新之允。』(「横山俊彦」より)http://kotobank.jp/
横山も松門門下生ゆえの新政府への絶望感だったのだろう。
松陰から革命後の社会の在りようを耳にしていたはずだ。
絶望はその裏返しでもある。
もし横山が松陰と邂逅していなければ、そういう人物には成長していなかったはずである。
山田頴太郎(えいたろう)と佐世一清は、いずれも前原一誠の弟である。
高祖母(こうそぼ)とは、「祖父母の祖母」のことで「ひいお祖母ちゃん」のこと。
親族の方のブログ記事のようである。
『高祖母河北伊登の弟山田頴太郎と佐世一清とは兄の前原一誠と共に萩の乱に参加。
頴太郎は、山田政輔の養子となり、妻は同じく養女の玉子。
子は克介と前原昌一。
佐世一清は、兄一誠が前原家を起したので佐世家を継いだ。
以下、『増補近世防長人名辞典』(著:吉田祥朔、発行:マツノ書店[1976])より。
山田頴太郎
嘉永2(1849).9-明治9(1876).12.3 (27)
諱:一昌
称:次郎、一樹、頴太郎
生:長門国厚狭郡船木村
身:萩藩八組士 陸軍少佐
名は一昌、萩藩士佐世彦七の第2子にして前原一誠の次弟なり、幼時出でて藩士山田氏を嗣ぐ、弱冠大村益次郎に就きて兵学を修め維新後陸軍少佐となり大阪鎮台に転任す、既にして辞して萩に帰る、明治9年10月奥平謙輔横山俊彦と共に一誠を擁して兵を挙げその隊伍の編制及び進退等主として頴太郎の画策に出ず、事敗るるに及び一誠等と山陰に赴きて縛に就き12月3日萩にて斬に処せらる、年27。
佐世一清
嘉永5(1852).3-明治9(1876).12.3 (25)
諱:一清
称:三郎、一武
生:長門国厚狭郡船木村
身:萩藩八組士
初名三郎、萩藩士佐世彦七の第3子、前原一誠山田頴太郎の弟なり、幼にして明倫館に学びまた玉木文之進に従って経史を講ず、明治9年10月兄一誠の事を挙ぐるや褊将として奮闘衆に超ゆ偶々飛丸その右腕を貫き為に刀を揮うの自由を失うもなお督戦数刻、時に兄頴太郎弾丸雨注の間に倒れ未だ殊せず乃ち自ら之を負い後方に脱出す、事敗れ宇龍港にて縛に就き12月3日斬らる、年25。』
(山田頴太郎と佐世一清)より)」
http://www2.airnet.ne.jp/hillside/roots/032.html
兄の前原と両名ともに、厚狭郡船木村の生まれである。
年の順は前原一誠、山田頴太郎、佐世一清で、3人とも佐世家で生まれている。
萩の乱にまで三兄弟で参加するのだから、仲の良い兄弟だったのだろう。
親子や兄弟、いとこなどで仇討ちに参加するのは、赤穂浪士47士の特徴でもある。
内蔵助親子が強調されるが、意外に赤穂浪士も親類縁者で組織化して参加しているものが多い。
内蔵助は、親族参加している彼らに引きずられる形で息子の参加を決めたように思われる。
前の記事「前原一誠の紹介」の中で、佐世家は「天保十年(1839)に父の厚狭郡船木村出役に従い移居した」と書いてあったから、長兄の一誠だけは萩生まれなのだろう。
下の二兄弟は厚狭郡船木村で生まれている。
以前書いた記事の中に、「厚狭」の名で思い出す長州藩重臣(支藩藩主)がいた。
私はこういう風にその殿様を紹介していた。
『厚狭毛利家といえば、宇部市・小野田市の領域を差配していた殿様である。
今では宇部興産、小野田セメントなどをはじめ瀬戸内臨海工業地帯でさまざまな産業が発達した山口県内の主要産業都市である。
また、厚狭毛利家は本藩萩城の足元にあるキリシタン殉教碑に相当近い位置に屋敷を持つ殿様であった。
私のイメージでは厚狭毛利氏というよりも、「宇部・小野田毛利氏」という雰囲気が強い。
科学や工業を発展させるだけの西洋からの知識移入があった地域である。
山口大学工学部が宇部市にあることからしても、東京の知識に最もするどくキャッチアップしている地域でもある。
ザビエルの山口布教以降、バテレン経由でもたらされた西洋・東洋人脈も多くあったであろう。
日本の時計などの精密機械技術は、ザビエルが大内義隆にプレゼントした機械式置時計に始まる。
それが壊れたことから、宮大工が見よう見真似で修理したことが技術の始まりとなる。
その好影響により、のちの江戸期になって「からくり人形」が発達し、今はそれが半導体やロボット工学にまで進化している。
東芝創設者、トヨタ織機創設者、共に「からくり人形師」と呼ばれた匠(たくみ)の技(わざ)が元手となった。
ザビエルの来日が日本の産業界に果たした役割は、意外と大きい。
厚狭毛利氏はキリシタンとなんらかの因縁を持つのではないかと、私は思っている。
なぜならば、萩城近くのキリシタン殉教地と厚狭毛利家屋敷の距離が、余りに近すぎるからだ。
拷問の叫び声が聞こえるようにと、厚狭毛利氏へのあてつけとして同屋敷の近場で拷問を行ったのではないだろうか。』(拙著ブログより一部加筆して再掲)
厚狭毛利氏が隠れキリシタンであるという根拠をこれ以外に私は知らないのだが、「隠れる」からこそ証拠を「残さない」のである。
紫福村に偶然迷い込んだある日本人のカトリック宣教師は、その日記ブログで「本当にキリスト教徒の遺跡なのか」と疑問を正直に書いている。
江戸時代のキリシタン禁令の厳しさを身を持って知らない平和な時代の宣教師だから、「そう」感じるのである。
私は紫福村のキリシタン遺跡と傍に植えてあった棕櫚の木の組み合わせから、かなり濃いキリシタン信仰であると現地で感じている。
佐世三兄弟の実家は、その厚狭毛利氏の領地、船木村である。
そこが現在の厚狭駅付近であるならば小野田市内となる。
前原一誠、山田頴太郎、佐世一清、奥平謙輔、横山俊彦の計5名は既に紹介した。
前原一誠、横山俊彦は「松下村塾生」であるが、山田頴太郎は大村益次郎に兵学を学び、佐世一清は「玉木文之進」に指導を仰いでいる。
奥平謙輔は、藩校明倫館の出身である。
残る有福恂允と小倉信一を見てみよう。
これで「萩の変殉難者七人」となる。
有福恂允(kotobank.jpより)のことである。
「ありふく じゅんすけ」と読む。
『1831-1876幕末~明治時代の武士、士族。
天保2年生まれ。長門萩藩士。
三条実美らの七卿落ちのとき御用掛をつとめる。
維新後は萩で家塾をひらく。
明治9年前原一誠らの萩の乱にくわわり、同年12月3日処刑された。
46歳。通称は半右衛門。』
有福恂允(じゅんすけ)は勤皇志士としては意外と高齢である。
「三条実美らの七卿落ちのとき御用掛を勤めている」から、護衛用の武術か貴族と話が合うほどに学問や詩歌にすぐれていたのであろう。
松陰との接点はこの記事からは見当たらない。
三条実美や月性と濃い関係があった人物かも知れない。
最後に小倉信一(kotobank.jpより)を見てみよう。
「おぐら しんいち」と読む。
『1839-1876幕末~明治時代の武士、士族。
天保10年生まれ。長門萩藩士。
明治9年前原一誠らの萩の乱にくわわる。
徳山の同志に決起をつたえてひきかえし、部隊をひきいて奮戦したが政府軍に捕らえられ、明治9年12月3日処刑された。38歳。』
小倉は瀬戸内海川に面した周防徳山の同志と連絡があった人物である。
徳山とは、あの「毛利志摩守」の徳山藩である。
その家臣である「村田右中(うちゅう)」は陪臣と呼ばれていた。
今気づいたのだが、右中は、「宇宙」と「音(おん)」が同一である。
創造の神は、「宇宙」を支配する。
右中は、萩本藩毛利家の家臣でもある徳山藩主の家臣である。
つまり「家臣の家臣」という意味で陪臣なのである。
娘のお瀧を、少禄とは言え萩藩直参の藩士杉百合之助に嫁がせるために、お瀧を萩藩家老の児玉家養女とし、しかも百合之助に屋敷まで買い与えている。
その「村田瀧」が、松陰を生んだ女だった。
右中はじめ徳山藩士たちの元へ行き、決起を促したのが小倉信一だった。
何を求めて朝廷への反抗とされる「乱」をこの7人は起こしたのか。
その動機や政府への改善要求は、おそらく握りつぶされて闇の葬られてしまっただろう。
例えば、会社社長が女性従業員に対してスカートをめくるなどのセクハラや、パワハラ、退職強要などの違法行為をしても、従業員にはそれを訴えるすべがないのに似ている。
握りつぶしているから、その理由が歴史に陽に残らないのである。
したがって、そういう組織は同じ過ちを繰り返すことになる。
是正の機会が得られないから、ますます組織は悪化の度を増す。
行き着く先は、会社なら倒産、幕府なら大政奉還である。
『萩の乱(はぎのらん)は、1876年(明治9)に山口県萩で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。
1876年10月24日に熊本県で起こった神風連の乱と、同年10月27日に起こった秋月の乱に呼応し、山口県士族の前原一誠(元参議)、奥平謙輔ら約200名によって起こされた反乱である。』(萩の乱(Wikipedia)より)
全国の反乱に呼応して山口県士族約200名による反乱だったという。
彼らは一体何を政府に訴えたかったのか、次にそれを調べてみよう。
萩訪問前に持っていたひとつの予想、隠れキリシタンが昔萩に住んでいたことは確かめられた。
江戸末期には既に山中の紫福村(しぶきむら)へ隠れ棲んでいたが、戦国~江戸初期は萩付近に居住していたものと思われる。
私のもうひとつの予想は裏切られた。
松陰神社境内に楓の木とシュロの木があるという予想だ。
写真は本殿裏の樹木であるが、いずれも存在していなかった。
さて、思いがけずに境内で見つけた「萩の変殉難者七人」のことである。
「前原一誠、佐世一清、奥平謙輔、有福恂允、山田頴太郎、横山俊彦、小倉信一」がその七人であった。
このうち、前原一誠、奥平謙輔については概略紹介した。
「前原一誠は奥平謙輔・横山俊彦らと党を集め云々」とあったから、奥平、横山ともに乱の中心人物だったのであろう。
ちなみに「乱」とは朝廷に反乱したものを指すのだから、名誉回復するならば、「萩の乱」も「萩の変」などと変えるべきであろう。
英語のアルファベットと異なり、「漢字」という文字は意味を持つ。
『(横山俊彦は、』嘉永3年生まれ。
長門萩藩士。
藩校明倫館と吉田松陰の松下村塾にまなぶ。
新政府に絶望し、前原一誠らと新政府転覆を画策し、明治9年萩の乱をおこしたが,捕らえられ12月3日斬殺された。27歳。幼名は新之允。』(「横山俊彦」より)http://kotobank.jp/
横山も松門門下生ゆえの新政府への絶望感だったのだろう。
松陰から革命後の社会の在りようを耳にしていたはずだ。
絶望はその裏返しでもある。
もし横山が松陰と邂逅していなければ、そういう人物には成長していなかったはずである。
山田頴太郎(えいたろう)と佐世一清は、いずれも前原一誠の弟である。
高祖母(こうそぼ)とは、「祖父母の祖母」のことで「ひいお祖母ちゃん」のこと。
親族の方のブログ記事のようである。
『高祖母河北伊登の弟山田頴太郎と佐世一清とは兄の前原一誠と共に萩の乱に参加。
頴太郎は、山田政輔の養子となり、妻は同じく養女の玉子。
子は克介と前原昌一。
佐世一清は、兄一誠が前原家を起したので佐世家を継いだ。
以下、『増補近世防長人名辞典』(著:吉田祥朔、発行:マツノ書店[1976])より。
山田頴太郎
嘉永2(1849).9-明治9(1876).12.3 (27)
諱:一昌
称:次郎、一樹、頴太郎
生:長門国厚狭郡船木村
身:萩藩八組士 陸軍少佐
名は一昌、萩藩士佐世彦七の第2子にして前原一誠の次弟なり、幼時出でて藩士山田氏を嗣ぐ、弱冠大村益次郎に就きて兵学を修め維新後陸軍少佐となり大阪鎮台に転任す、既にして辞して萩に帰る、明治9年10月奥平謙輔横山俊彦と共に一誠を擁して兵を挙げその隊伍の編制及び進退等主として頴太郎の画策に出ず、事敗るるに及び一誠等と山陰に赴きて縛に就き12月3日萩にて斬に処せらる、年27。
佐世一清
嘉永5(1852).3-明治9(1876).12.3 (25)
諱:一清
称:三郎、一武
生:長門国厚狭郡船木村
身:萩藩八組士
初名三郎、萩藩士佐世彦七の第3子、前原一誠山田頴太郎の弟なり、幼にして明倫館に学びまた玉木文之進に従って経史を講ず、明治9年10月兄一誠の事を挙ぐるや褊将として奮闘衆に超ゆ偶々飛丸その右腕を貫き為に刀を揮うの自由を失うもなお督戦数刻、時に兄頴太郎弾丸雨注の間に倒れ未だ殊せず乃ち自ら之を負い後方に脱出す、事敗れ宇龍港にて縛に就き12月3日斬らる、年25。』
(山田頴太郎と佐世一清)より)」
http://www2.airnet.ne.jp/hillside/roots/032.html
兄の前原と両名ともに、厚狭郡船木村の生まれである。
年の順は前原一誠、山田頴太郎、佐世一清で、3人とも佐世家で生まれている。
萩の乱にまで三兄弟で参加するのだから、仲の良い兄弟だったのだろう。
親子や兄弟、いとこなどで仇討ちに参加するのは、赤穂浪士47士の特徴でもある。
内蔵助親子が強調されるが、意外に赤穂浪士も親類縁者で組織化して参加しているものが多い。
内蔵助は、親族参加している彼らに引きずられる形で息子の参加を決めたように思われる。
前の記事「前原一誠の紹介」の中で、佐世家は「天保十年(1839)に父の厚狭郡船木村出役に従い移居した」と書いてあったから、長兄の一誠だけは萩生まれなのだろう。
下の二兄弟は厚狭郡船木村で生まれている。
以前書いた記事の中に、「厚狭」の名で思い出す長州藩重臣(支藩藩主)がいた。
私はこういう風にその殿様を紹介していた。
『厚狭毛利家といえば、宇部市・小野田市の領域を差配していた殿様である。
今では宇部興産、小野田セメントなどをはじめ瀬戸内臨海工業地帯でさまざまな産業が発達した山口県内の主要産業都市である。
また、厚狭毛利家は本藩萩城の足元にあるキリシタン殉教碑に相当近い位置に屋敷を持つ殿様であった。
私のイメージでは厚狭毛利氏というよりも、「宇部・小野田毛利氏」という雰囲気が強い。
科学や工業を発展させるだけの西洋からの知識移入があった地域である。
山口大学工学部が宇部市にあることからしても、東京の知識に最もするどくキャッチアップしている地域でもある。
ザビエルの山口布教以降、バテレン経由でもたらされた西洋・東洋人脈も多くあったであろう。
日本の時計などの精密機械技術は、ザビエルが大内義隆にプレゼントした機械式置時計に始まる。
それが壊れたことから、宮大工が見よう見真似で修理したことが技術の始まりとなる。
その好影響により、のちの江戸期になって「からくり人形」が発達し、今はそれが半導体やロボット工学にまで進化している。
東芝創設者、トヨタ織機創設者、共に「からくり人形師」と呼ばれた匠(たくみ)の技(わざ)が元手となった。
ザビエルの来日が日本の産業界に果たした役割は、意外と大きい。
厚狭毛利氏はキリシタンとなんらかの因縁を持つのではないかと、私は思っている。
なぜならば、萩城近くのキリシタン殉教地と厚狭毛利家屋敷の距離が、余りに近すぎるからだ。
拷問の叫び声が聞こえるようにと、厚狭毛利氏へのあてつけとして同屋敷の近場で拷問を行ったのではないだろうか。』(拙著ブログより一部加筆して再掲)
厚狭毛利氏が隠れキリシタンであるという根拠をこれ以外に私は知らないのだが、「隠れる」からこそ証拠を「残さない」のである。
紫福村に偶然迷い込んだある日本人のカトリック宣教師は、その日記ブログで「本当にキリスト教徒の遺跡なのか」と疑問を正直に書いている。
江戸時代のキリシタン禁令の厳しさを身を持って知らない平和な時代の宣教師だから、「そう」感じるのである。
私は紫福村のキリシタン遺跡と傍に植えてあった棕櫚の木の組み合わせから、かなり濃いキリシタン信仰であると現地で感じている。
佐世三兄弟の実家は、その厚狭毛利氏の領地、船木村である。
そこが現在の厚狭駅付近であるならば小野田市内となる。
前原一誠、山田頴太郎、佐世一清、奥平謙輔、横山俊彦の計5名は既に紹介した。
前原一誠、横山俊彦は「松下村塾生」であるが、山田頴太郎は大村益次郎に兵学を学び、佐世一清は「玉木文之進」に指導を仰いでいる。
奥平謙輔は、藩校明倫館の出身である。
残る有福恂允と小倉信一を見てみよう。
これで「萩の変殉難者七人」となる。
有福恂允(kotobank.jpより)のことである。
「ありふく じゅんすけ」と読む。
『1831-1876幕末~明治時代の武士、士族。
天保2年生まれ。長門萩藩士。
三条実美らの七卿落ちのとき御用掛をつとめる。
維新後は萩で家塾をひらく。
明治9年前原一誠らの萩の乱にくわわり、同年12月3日処刑された。
46歳。通称は半右衛門。』
有福恂允(じゅんすけ)は勤皇志士としては意外と高齢である。
「三条実美らの七卿落ちのとき御用掛を勤めている」から、護衛用の武術か貴族と話が合うほどに学問や詩歌にすぐれていたのであろう。
松陰との接点はこの記事からは見当たらない。
三条実美や月性と濃い関係があった人物かも知れない。
最後に小倉信一(kotobank.jpより)を見てみよう。
「おぐら しんいち」と読む。
『1839-1876幕末~明治時代の武士、士族。
天保10年生まれ。長門萩藩士。
明治9年前原一誠らの萩の乱にくわわる。
徳山の同志に決起をつたえてひきかえし、部隊をひきいて奮戦したが政府軍に捕らえられ、明治9年12月3日処刑された。38歳。』
小倉は瀬戸内海川に面した周防徳山の同志と連絡があった人物である。
徳山とは、あの「毛利志摩守」の徳山藩である。
その家臣である「村田右中(うちゅう)」は陪臣と呼ばれていた。
今気づいたのだが、右中は、「宇宙」と「音(おん)」が同一である。
創造の神は、「宇宙」を支配する。
右中は、萩本藩毛利家の家臣でもある徳山藩主の家臣である。
つまり「家臣の家臣」という意味で陪臣なのである。
娘のお瀧を、少禄とは言え萩藩直参の藩士杉百合之助に嫁がせるために、お瀧を萩藩家老の児玉家養女とし、しかも百合之助に屋敷まで買い与えている。
その「村田瀧」が、松陰を生んだ女だった。
右中はじめ徳山藩士たちの元へ行き、決起を促したのが小倉信一だった。
何を求めて朝廷への反抗とされる「乱」をこの7人は起こしたのか。
その動機や政府への改善要求は、おそらく握りつぶされて闇の葬られてしまっただろう。
例えば、会社社長が女性従業員に対してスカートをめくるなどのセクハラや、パワハラ、退職強要などの違法行為をしても、従業員にはそれを訴えるすべがないのに似ている。
握りつぶしているから、その理由が歴史に陽に残らないのである。
したがって、そういう組織は同じ過ちを繰り返すことになる。
是正の機会が得られないから、ますます組織は悪化の度を増す。
行き着く先は、会社なら倒産、幕府なら大政奉還である。
『萩の乱(はぎのらん)は、1876年(明治9)に山口県萩で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。
1876年10月24日に熊本県で起こった神風連の乱と、同年10月27日に起こった秋月の乱に呼応し、山口県士族の前原一誠(元参議)、奥平謙輔ら約200名によって起こされた反乱である。』(萩の乱(Wikipedia)より)
全国の反乱に呼応して山口県士族約200名による反乱だったという。
彼らは一体何を政府に訴えたかったのか、次にそれを調べてみよう。
玉木文之進の介錯は女~長州(119) [萩の吉田松陰]
SH3B0478明治九年萩の變七烈士殉難之地
松陰神社本殿の左側手前に目立たない石碑が隅っこにある。
注意してみていないとつい見落としてしまう。
その碑には「明治九年萩の變七烈士殉難之地」と刻まれている。
西南戦争の前の年のことである。
この記事のあとの方でわかるが、実は殉難の地はここ松陰神社付近ではない。
130年経過して途中で気が変わってここへ石碑を移し変えてきたものだ。
誰の気?
「世間の気」が変わったとしかいいようがない。
『松下村塾出身で、明治新政府で参議に任ぜられていた前原一誠が起こした萩の変より、130年となることを記念して、平成18年(2006)12月3日萩の變130年祭に併せてここに移設されました。
この石碑は、明治9年(1876)、萩の変で殉難した、前原一誠をはじめとする7烈士の遺徳を顕彰するために、萩の変より100年にあたる昭和51年(1976)年に建立されたものです。
元は7烈士が処刑された萩市恵美須町にありましたが、諸般の事情により、ここに再度建立されました。』
(石碑「明治九年萩の變七烈士殉難之地」より)
http://www.shoin-jinja.jp/keidai/10.php
新政府への反乱という判定をされ、犯罪人扱いされてきたのだろう。
百年を経てようやく勤皇の志士として認められたようだ。
殉難の7人の烈士とは前原一誠以下だれだろう。
『玉木文之進(山口県萩市・護国山墓地)
萩藩士。
文政三(1820)年11歳の時、玉木十右衛門正路の跡を継いだ。
天保十三(1842)年初めて松下村塾を開き人材の育成に努めた。
とくに吉田松陰・杉民治・宍戸某・久保断三らはその逸材である。
その後、藩学明倫館の都講、異船防禦掛等を勤め、また進んで諸郡(小郡・吉田・船木・上関・奥阿武・山代等)の代官を歴任して民政に力を尽くし、郡奉行をも勤めた。
明治二(1869)年に隠退して再び松下村塾を興し、教育に専念したが、明治九(1876)年萩の前原一誠の乱に師弟数人が一味したことの不徳を自責し、11月6日先塋の側で切腹した。享年67歳。
玉木さんのスパルタ教育は有名で、どんな文献を採ってもその峻烈さが描かれています。
吉田松陰さんも、そして後に日露戦争で第三軍司令官として旅順攻略に当たる乃木希典大将もその薫陶を受けています。
今の日本に武士が育たない理由もわかる気がしますね。
奥平謙輔(山口県萩市・大照院)
萩藩士。
藩校明倫館に入り、安政六(1859)年その居寮生となった。
文久三(1863)年8月選鋒隊士として下関外船砲撃に参加し、元治元(1864)年7月世子上京に従ったが、禁門の変に途中から帰国、慶応元(1865)年4月に長兄数馬の養嗣子となった。
慶応二(1866)年5月干城隊に入り、慶応三(1867)年同隊引立掛として討幕軍に加わり、慶応四(1868)年越後・会津に転戦した。
明治二(1869)年4月越後府権判事として佐渡を治め、8月辞職して萩に帰った。
明治三(1870)年脱退暴動に干城隊を率いて山口藩邸を守衛したが、明治九(1876)年前原一誠と意気相投じ、10月萩の乱を起こして敗れ、11月出雲宇竜港で捕えられ、12月3日ついに萩で斬首された。享年36歳。
前原一誠(山口県萩市・弘法寺/山口県下関市・桜山神社)
萩藩士。
天保十(1839)年父の厚狭郡船木村出役に従い移居し、武術を幡生周作に、文学を国司某・岡本栖雲に学んだ。
嘉永二(1849)年福原冬嶺に従学したが、翌年帰萩のとき落馬のため長病を患い、武技を捨て再び船木に住して写本に努めた。
安政四(1857)年父に従って帰萩、吉田松陰に師事し、安政六(1859)年2月長崎に遊学して英学を修め、6月帰って博習堂に学び、万延元(1860)年病気のため博習堂を退き、文久元(1861)年練兵場舎長となり、文久二(1862)年脱藩上京して長井雅楽の暗殺を謀ったが果たさず、8月江戸に行った。
文久三(1863)年正月また上京、6月右筆役となり、7月攘夷監察使の東園基敬に従って時山直八と紀州に行き、八月十八日の政変に帰国して七卿の用掛となった。
元治元(1864)年下関で外艦と戦い、12月高杉晋作と下関新地の会所を襲い、慶応元(1865)年正月恭順派藩庁軍と美禰郡に戦った時、諸隊総会計を勤めた。
同年3月用所役右筆となり、前原姓を名乗り、干城隊頭取を兼ね、5月国政方に転じ、慶応二(1866)年2月下関越荷方となり、6月幕長戦に小倉口の参謀心得として小倉藩降伏に尽くした慶応三(1867)年12月小姓筆頭となり海軍頭取を兼ね、明治元(1868)年6月北越出兵の干城隊副督となり、蔵元役と兼ね、萩から越後柏崎に上陸、7月越後口総督の参謀となって長岡城攻略に尽くした。
明治二(1869)年2月越後府判事となり、6月戊辰戦争の功により永世禄600石を賜り、7月参議に任じ、12月兵部大輔となり、明治三(1870)年9月辞職し、10月病気静養のためと称して萩に帰った。
明治九(1876)年10月奥平謙輔・横山俊彦らと党を集め、天皇に訴えて朝廷の奸臣を掃うための東上軍を起こしたが、事敗れて11月島根県宇龍港で捕らえられ、ついで萩で12月3日斬首された。享年43歳。
いわゆる萩の乱で散った悲運の将という感じを個人的には持っています。
弘法寺の奥に眠っておられますが、この弘法寺がやや見つけにくく、通り過ぎたりして難儀しました。
それでなくてもまだ回らなくてはならない場所がたくさんあるため時間がなくて焦ってましたからもうちょっとで諦めなければならないところでした。この第二次萩調査では事前準備の不足から多くの探査が未了という状況の中での数少ない成果でした。
以下略。』(「明治九年萩の変」より)
http://mahorobas.sakura.ne.jp/isinji/1876%20HAGI.htm
玉木文之進は先塋(せんえい)の傍で割腹したとあるが、「先塋」とは先祖の墓のことだ。
その墓は玉木家の祖先、つまり環(たまき)家、大内義隆の遺児の末裔だと私は考えている。
玉木は、あの椎原の松陰生誕地傍の墓所にあった「玉木家先祖の墓」の文字を持つ五輪塔のような大きな墓のそばで腹を切った。
このときの文之進の介錯、つまり首の切断をある女がした。
『玉木正誼は萩の乱で前原一誠に従い死んでいます。玉木文之進も萩の乱後、山の上の先祖の墓の前で切腹、この時介錯をつとめたのは吉田松陰の一番上の妹お芳でした。
この時のことを以下のように追懐されています。『世に棲む日日』より引用。
この日、叔父は私をよび、自分は申しわけないから先祖の墓前で切腹する。
ついては介錯をたのむ、と申されました。
私もかねて叔父の気象を知っていますから、おとめもせず、御約束のとおり、午後の三時ごろ、山の上の先祖のお墓へ参りました。
私はちょうど四十でありました。
わらじをはき、すそをはしょって後にまわり、介錯をしました。
その時は気が張っておりましたから、涙も出ませんでした。
介錯をしたあとは、夢のようであります。』
(「幕末歴史探訪 松陰と玉木文之進」より)
http://www.google.co.jp/url?q=http://www.webkohbo.com/info3/shoin/shoin.html&sa=U&ei=qlNVTaiTC4HCcci0tJ4M&ved=0CA8QFjAB&usg=AFQjCNHzbNz9eVReUV8k4pC3GcUQud1xGw
松陰の妹「お芳」にしてこの勇敢さである。・・・
杉家や玉木家の関係者は、男女を問わず幼いころからの教育が尋常ではないということだろう。
いくら武家の娘とは言え、どの家庭でも介錯をする作法をまじめに教えたりはしていないだろう。
やれといわれれば、素直にやれる。
その覚悟の心持が普通でない。
前原は、『元治元(1864)年下関で外艦と戦い、12月高杉晋作と下関新地の会所を襲い、慶応元(1865)年正月恭順派藩庁軍と美禰郡に戦った」とあるが、この行動は晋作とほぼ一体であり、松陰と晋作の遺志を継げる立派な志士だったと思う。
長い間新政府も山口県人たちも、前原たちを犯罪者扱いしてきたが、ようやく自らの過ちに気がついたということなのかも知れない。
今はささやかではあるが、境内で顕彰されるようになっている。
日露領土交渉を本日ロシアでやったようだが、いささか日本の大臣に迫力が感じられない。
もし松陰の言うとおりに明治新政府が動いておれば、今頃はずいぶん広い領土を持っていたことだろう。
前原ら7人の決起は、後世への憂いから発したものであろう。
玉木、前原、奥平、横山の名が上の記事に出ていた。
7烈士だから、あと3名いるはずだ。
石碑の右側面に7人の名が書いてあるそうだ。
「前原一誠 佐世一清 奥平謙輔 有福恂允 山田頴太郎 横山俊彦 小倉信一」が「萩の変殉難者七人」である。
玉木文之進は、前原らを松下村塾で指導していたということの責任を自らとって切腹をしたということだ。
私は玉木が主導した革命行動だったのではないかと疑っている。
松陰が生きていれば、松陰は吉田稔麿を総理大臣にして、玉木の望む世の中にしたはずだ。
それができなくなったから、もう一度起死回生を図ったのであろう。
「松陰神社ホームページ」に石碑の紹介があった。
石碑の左側面に「昭和五十一年歳次丙辰十月 前原一誠萩の変百年祭顕彰会建之」と刻まれていて、この碑は七烈士が処刑された萩市恵美須町にあったという。
萩の変130年祭にあわせて松陰神社へ入ることができたのはつい最近のことだった。(平成18年)
松陰も幕府によって罪人とされ、2年半もの長い間南千住の回向院の罪人墓に埋められていた。
晋作が名誉回復して世田谷の楓の木の根元に回葬している。
前原の遺骸も師匠と同じ運命を辿ったが、130年目の回葬とはずいぶん遠回りしたことである。
松陰神社本殿の左側手前に目立たない石碑が隅っこにある。
注意してみていないとつい見落としてしまう。
その碑には「明治九年萩の變七烈士殉難之地」と刻まれている。
西南戦争の前の年のことである。
この記事のあとの方でわかるが、実は殉難の地はここ松陰神社付近ではない。
130年経過して途中で気が変わってここへ石碑を移し変えてきたものだ。
誰の気?
「世間の気」が変わったとしかいいようがない。
『松下村塾出身で、明治新政府で参議に任ぜられていた前原一誠が起こした萩の変より、130年となることを記念して、平成18年(2006)12月3日萩の變130年祭に併せてここに移設されました。
この石碑は、明治9年(1876)、萩の変で殉難した、前原一誠をはじめとする7烈士の遺徳を顕彰するために、萩の変より100年にあたる昭和51年(1976)年に建立されたものです。
元は7烈士が処刑された萩市恵美須町にありましたが、諸般の事情により、ここに再度建立されました。』
(石碑「明治九年萩の變七烈士殉難之地」より)
http://www.shoin-jinja.jp/keidai/10.php
新政府への反乱という判定をされ、犯罪人扱いされてきたのだろう。
百年を経てようやく勤皇の志士として認められたようだ。
殉難の7人の烈士とは前原一誠以下だれだろう。
『玉木文之進(山口県萩市・護国山墓地)
萩藩士。
文政三(1820)年11歳の時、玉木十右衛門正路の跡を継いだ。
天保十三(1842)年初めて松下村塾を開き人材の育成に努めた。
とくに吉田松陰・杉民治・宍戸某・久保断三らはその逸材である。
その後、藩学明倫館の都講、異船防禦掛等を勤め、また進んで諸郡(小郡・吉田・船木・上関・奥阿武・山代等)の代官を歴任して民政に力を尽くし、郡奉行をも勤めた。
明治二(1869)年に隠退して再び松下村塾を興し、教育に専念したが、明治九(1876)年萩の前原一誠の乱に師弟数人が一味したことの不徳を自責し、11月6日先塋の側で切腹した。享年67歳。
玉木さんのスパルタ教育は有名で、どんな文献を採ってもその峻烈さが描かれています。
吉田松陰さんも、そして後に日露戦争で第三軍司令官として旅順攻略に当たる乃木希典大将もその薫陶を受けています。
今の日本に武士が育たない理由もわかる気がしますね。
奥平謙輔(山口県萩市・大照院)
萩藩士。
藩校明倫館に入り、安政六(1859)年その居寮生となった。
文久三(1863)年8月選鋒隊士として下関外船砲撃に参加し、元治元(1864)年7月世子上京に従ったが、禁門の変に途中から帰国、慶応元(1865)年4月に長兄数馬の養嗣子となった。
慶応二(1866)年5月干城隊に入り、慶応三(1867)年同隊引立掛として討幕軍に加わり、慶応四(1868)年越後・会津に転戦した。
明治二(1869)年4月越後府権判事として佐渡を治め、8月辞職して萩に帰った。
明治三(1870)年脱退暴動に干城隊を率いて山口藩邸を守衛したが、明治九(1876)年前原一誠と意気相投じ、10月萩の乱を起こして敗れ、11月出雲宇竜港で捕えられ、12月3日ついに萩で斬首された。享年36歳。
前原一誠(山口県萩市・弘法寺/山口県下関市・桜山神社)
萩藩士。
天保十(1839)年父の厚狭郡船木村出役に従い移居し、武術を幡生周作に、文学を国司某・岡本栖雲に学んだ。
嘉永二(1849)年福原冬嶺に従学したが、翌年帰萩のとき落馬のため長病を患い、武技を捨て再び船木に住して写本に努めた。
安政四(1857)年父に従って帰萩、吉田松陰に師事し、安政六(1859)年2月長崎に遊学して英学を修め、6月帰って博習堂に学び、万延元(1860)年病気のため博習堂を退き、文久元(1861)年練兵場舎長となり、文久二(1862)年脱藩上京して長井雅楽の暗殺を謀ったが果たさず、8月江戸に行った。
文久三(1863)年正月また上京、6月右筆役となり、7月攘夷監察使の東園基敬に従って時山直八と紀州に行き、八月十八日の政変に帰国して七卿の用掛となった。
元治元(1864)年下関で外艦と戦い、12月高杉晋作と下関新地の会所を襲い、慶応元(1865)年正月恭順派藩庁軍と美禰郡に戦った時、諸隊総会計を勤めた。
同年3月用所役右筆となり、前原姓を名乗り、干城隊頭取を兼ね、5月国政方に転じ、慶応二(1866)年2月下関越荷方となり、6月幕長戦に小倉口の参謀心得として小倉藩降伏に尽くした慶応三(1867)年12月小姓筆頭となり海軍頭取を兼ね、明治元(1868)年6月北越出兵の干城隊副督となり、蔵元役と兼ね、萩から越後柏崎に上陸、7月越後口総督の参謀となって長岡城攻略に尽くした。
明治二(1869)年2月越後府判事となり、6月戊辰戦争の功により永世禄600石を賜り、7月参議に任じ、12月兵部大輔となり、明治三(1870)年9月辞職し、10月病気静養のためと称して萩に帰った。
明治九(1876)年10月奥平謙輔・横山俊彦らと党を集め、天皇に訴えて朝廷の奸臣を掃うための東上軍を起こしたが、事敗れて11月島根県宇龍港で捕らえられ、ついで萩で12月3日斬首された。享年43歳。
いわゆる萩の乱で散った悲運の将という感じを個人的には持っています。
弘法寺の奥に眠っておられますが、この弘法寺がやや見つけにくく、通り過ぎたりして難儀しました。
それでなくてもまだ回らなくてはならない場所がたくさんあるため時間がなくて焦ってましたからもうちょっとで諦めなければならないところでした。この第二次萩調査では事前準備の不足から多くの探査が未了という状況の中での数少ない成果でした。
以下略。』(「明治九年萩の変」より)
http://mahorobas.sakura.ne.jp/isinji/1876%20HAGI.htm
玉木文之進は先塋(せんえい)の傍で割腹したとあるが、「先塋」とは先祖の墓のことだ。
その墓は玉木家の祖先、つまり環(たまき)家、大内義隆の遺児の末裔だと私は考えている。
玉木は、あの椎原の松陰生誕地傍の墓所にあった「玉木家先祖の墓」の文字を持つ五輪塔のような大きな墓のそばで腹を切った。
このときの文之進の介錯、つまり首の切断をある女がした。
『玉木正誼は萩の乱で前原一誠に従い死んでいます。玉木文之進も萩の乱後、山の上の先祖の墓の前で切腹、この時介錯をつとめたのは吉田松陰の一番上の妹お芳でした。
この時のことを以下のように追懐されています。『世に棲む日日』より引用。
この日、叔父は私をよび、自分は申しわけないから先祖の墓前で切腹する。
ついては介錯をたのむ、と申されました。
私もかねて叔父の気象を知っていますから、おとめもせず、御約束のとおり、午後の三時ごろ、山の上の先祖のお墓へ参りました。
私はちょうど四十でありました。
わらじをはき、すそをはしょって後にまわり、介錯をしました。
その時は気が張っておりましたから、涙も出ませんでした。
介錯をしたあとは、夢のようであります。』
(「幕末歴史探訪 松陰と玉木文之進」より)
http://www.google.co.jp/url?q=http://www.webkohbo.com/info3/shoin/shoin.html&sa=U&ei=qlNVTaiTC4HCcci0tJ4M&ved=0CA8QFjAB&usg=AFQjCNHzbNz9eVReUV8k4pC3GcUQud1xGw
松陰の妹「お芳」にしてこの勇敢さである。・・・
杉家や玉木家の関係者は、男女を問わず幼いころからの教育が尋常ではないということだろう。
いくら武家の娘とは言え、どの家庭でも介錯をする作法をまじめに教えたりはしていないだろう。
やれといわれれば、素直にやれる。
その覚悟の心持が普通でない。
前原は、『元治元(1864)年下関で外艦と戦い、12月高杉晋作と下関新地の会所を襲い、慶応元(1865)年正月恭順派藩庁軍と美禰郡に戦った」とあるが、この行動は晋作とほぼ一体であり、松陰と晋作の遺志を継げる立派な志士だったと思う。
長い間新政府も山口県人たちも、前原たちを犯罪者扱いしてきたが、ようやく自らの過ちに気がついたということなのかも知れない。
今はささやかではあるが、境内で顕彰されるようになっている。
日露領土交渉を本日ロシアでやったようだが、いささか日本の大臣に迫力が感じられない。
もし松陰の言うとおりに明治新政府が動いておれば、今頃はずいぶん広い領土を持っていたことだろう。
前原ら7人の決起は、後世への憂いから発したものであろう。
玉木、前原、奥平、横山の名が上の記事に出ていた。
7烈士だから、あと3名いるはずだ。
石碑の右側面に7人の名が書いてあるそうだ。
「前原一誠 佐世一清 奥平謙輔 有福恂允 山田頴太郎 横山俊彦 小倉信一」が「萩の変殉難者七人」である。
玉木文之進は、前原らを松下村塾で指導していたということの責任を自らとって切腹をしたということだ。
私は玉木が主導した革命行動だったのではないかと疑っている。
松陰が生きていれば、松陰は吉田稔麿を総理大臣にして、玉木の望む世の中にしたはずだ。
それができなくなったから、もう一度起死回生を図ったのであろう。
「松陰神社ホームページ」に石碑の紹介があった。
石碑の左側面に「昭和五十一年歳次丙辰十月 前原一誠萩の変百年祭顕彰会建之」と刻まれていて、この碑は七烈士が処刑された萩市恵美須町にあったという。
萩の変130年祭にあわせて松陰神社へ入ることができたのはつい最近のことだった。(平成18年)
松陰も幕府によって罪人とされ、2年半もの長い間南千住の回向院の罪人墓に埋められていた。
晋作が名誉回復して世田谷の楓の木の根元に回葬している。
前原の遺骸も師匠と同じ運命を辿ったが、130年目の回葬とはずいぶん遠回りしたことである。
文之進の介錯人~長州(119) [萩の吉田松陰]
SH3B0478明治九年萩の變七烈士殉難之地
松陰神社本殿の左側手間の目立たない隅っこにシンプルな石碑がある。
「明治九年萩の變七烈士殉難之地」と刻まれている。
西南戦争の前の年のことである。
『松下村塾出身で、明治新政府で参議に任ぜられていた前原一誠が起こした萩の変より、130年となることを記念して、平成18年(2006)12月3日萩の變130年祭に併せてここに移設されました。
この石碑は、明治9年(1876)、萩の変で殉難した、前原一誠をはじめとする7烈士の遺徳を顕彰するために、萩の変より100年にあたる昭和51年(1976)年に建立されたものです。
元は7烈士が処刑された萩市恵美須町にありましたが、諸般の事情により、ここに再度建立されました。』
(石碑「明治九年萩の變七烈士殉難之地」より)
http://www.shoin-jinja.jp/keidai/10.php
新政府への反乱という判定をされ、犯罪人扱いされてきたのだろう。
百年を経てようやく勤皇の志士として認められたようだ。
殉難の7人の烈士とは前原一誠以下だれだろう。
『玉木文之進(山口県萩市・護国山墓地)
萩藩士。
文政三(1820)年11歳の時、玉木十右衛門正路の跡を継いだ。
天保十三(1842)年初めて松下村塾を開き人材の育成に努めた。
とくに吉田松陰・杉民治・宍戸某・久保断三らはその逸材である。
その後、藩学明倫館の都講、異船防禦掛等を勤め、また進んで諸郡(小郡・吉田・船木・上関・奥阿武・山代等)の代官を歴任して民政に力を尽くし、郡奉行をも勤めた。
明治二(1869)年に隠退して再び松下村塾を興し、教育に専念したが、明治九(1876)年萩の前原一誠の乱に師弟数人が一味したことの不徳を自責し、11月6日先塋の側で切腹した。享年67歳。
玉木さんのスパルタ教育は有名で、どんな文献を採ってもその峻烈さが描かれています。
吉田松陰さんも、そして後に日露戦争で第三軍司令官として旅順攻略に当たる乃木希典大将もその薫陶を受けています。
今の日本に武士が育たない理由もわかる気がしますね。
奥平謙輔(山口県萩市・大照院)
萩藩士。
藩校明倫館に入り、安政六(1859)年その居寮生となった。
文久三(1863)年8月選鋒隊士として下関外船砲撃に参加し、元治元(1864)年7月世子上京に従ったが、禁門の変に途中から帰国、慶応元(1865)年4月に長兄数馬の養嗣子となった。
慶応二(1866)年5月干城隊に入り、慶応三(1867)年同隊引立掛として討幕軍に加わり、慶応四(1868)年越後・会津に転戦した。
明治二(1869)年4月越後府権判事として佐渡を治め、8月辞職して萩に帰った。
明治三(1870)年脱退暴動に干城隊を率いて山口藩邸を守衛したが、明治九(1876)年前原一誠と意気相投じ、10月萩の乱を起こして敗れ、11月出雲宇竜港で捕えられ、12月3日ついに萩で斬首された。享年36歳。
前原一誠(山口県萩市・弘法寺/山口県下関市・桜山神社)
萩藩士。
天保十(1839)年父の厚狭郡船木村出役に従い移居し、武術を幡生周作に、文学を国司某・岡本栖雲に学んだ。
嘉永二(1849)年福原冬嶺に従学したが、翌年帰萩のとき落馬のため長病を患い、武技を捨て再び船木に住して写本に努めた。
安政四(1857)年父に従って帰萩、吉田松陰に師事し、安政六(1859)年2月長崎に遊学して英学を修め、6月帰って博習堂に学び、万延元(1860)年病気のため博習堂を退き、文久元(1861)年練兵場舎長となり、文久二(1862)年脱藩上京して長井雅楽の暗殺を謀ったが果たさず、8月江戸に行った。
文久三(1863)年正月また上京、6月右筆役となり、7月攘夷監察使の東園基敬に従って時山直八と紀州に行き、八月十八日の政変に帰国して七卿の用掛となった。
元治元(1864)年下関で外艦と戦い、12月高杉晋作と下関新地の会所を襲い、慶応元(1865)年正月恭順派藩庁軍と美禰郡に戦った時、諸隊総会計を勤めた。
同年3月用所役右筆となり、前原姓を名乗り、干城隊頭取を兼ね、5月国政方に転じ、慶応二(1866)年2月下関越荷方となり、6月幕長戦に小倉口の参謀心得として小倉藩降伏に尽くした慶応三(1867)年12月小姓筆頭となり海軍頭取を兼ね、明治元(1868)年6月北越出兵の干城隊副督となり、蔵元役と兼ね、萩から越後柏崎に上陸、7月越後口総督の参謀となって長岡城攻略に尽くした。
明治二(1869)年2月越後府判事となり、6月戊辰戦争の功により永世禄600石を賜り、7月参議に任じ、12月兵部大輔となり、明治三(1870)年9月辞職し、10月病気静養のためと称して萩に帰った。
明治九(1876)年10月奥平謙輔・横山俊彦らと党を集め、天皇に訴えて朝廷の奸臣を掃うための東上軍を起こしたが、事敗れて11月島根県宇龍港で捕らえられ、ついで萩で12月3日斬首された。享年43歳。
いわゆる萩の乱で散った悲運の将という感じを個人的には持っています。
弘法寺の奥に眠っておられますが、この弘法寺がやや見つけにくく、通り過ぎたりして難儀しました。
それでなくてもまだ回らなくてはならない場所がたくさんあるため時間がなくて焦ってましたからもうちょっとで諦めなければならないところでした。この第二次萩調査では事前準備の不足から多くの探査が未了という状況の中での数少ない成果でした。
以下略。』(「明治九年萩の変」より)
http://mahorobas.sakura.ne.jp/isinji/1876%20HAGI.htm
玉木文之進は先塋(せんえい)の傍で割腹したとあるが、「先塋」とは先祖の墓のことだ。
その墓は玉木家の祖先、つまり環(たまき)家、大内義隆の遺児の末裔だと私は考えている。
玉木は、あの椎原の松陰生誕地傍の墓所にあった「玉木家先祖の墓」の文字を持つ五輪塔のような大きな墓のそばで腹を切った。
このときの文之進の介錯、つまり首の切断をある女がした。
『玉木正誼は萩の乱で前原一誠に従い死んでいます。玉木文之進も萩の乱後、山の上の先祖の墓の前で切腹、この時介錯をつとめたのは吉田松陰の一番上の妹お芳でした。
この時のことを以下のように追懐されています。『世に棲む日日』より引用。
この日、叔父は私をよび、自分は申しわけないから先祖の墓前で切腹する。
ついては介錯をたのむ、と申されました。
私もかねて叔父の気象を知っていますから、おとめもせず、御約束のとおり、午後の三時ごろ、山の上の先祖のお墓へ参りました。
私はちょうど四十でありました。
わらじをはき、すそをはしょって後にまわり、介錯をしました。
その時は気が張っておりましたから、涙も出ませんでした。
介錯をしたあとは、夢のようであります。』
(「幕末歴史探訪 松陰と玉木文之進」より)
http://www.google.co.jp/url?q=http://www.webkohbo.com/info3/shoin/shoin.html&sa=U&ei=qlNVTaiTC4HCcci0tJ4M&ved=0CA8QFjAB&usg=AFQjCNHzbNz9eVReUV8k4pC3GcUQud1xGw
前原は、『元治元(1864)年下関で外艦と戦い、12月高杉晋作と下関新地の会所を襲い、慶応元(1865)年正月恭順派藩庁軍と美禰郡に戦った」とあるが、この行動は晋作とほぼ一体であり、松陰と晋作の遺志を継げる立派な志士だったと思う。
長い間新政府も山口県人たちも、前原たちを犯罪者扱いしてきたが、ようやく自らの過ちに気がついたということなのかも知れない。
今はささやかではあるが、境内で顕彰されるようになっている。
日露領土交渉を本日ロシアでやったようだが、いささか日本の大臣に迫力が感じられない。
もし松陰の言うとおりに明治新政府が動いておれば、今頃はずいぶん広い領土を持っていたことだろう。
前原ら7人の決起は、後世への憂いから発したものであろう。
玉木、前原、奥平、横山の名が上の記事に出ていた。
7烈士だから、あと3名いるはずだ。
石碑の右側面に7人の名が書いてあるそうだ。
「前原一誠 佐世一清 奥平謙輔 有福恂允 山田頴太郎 横山俊彦 小倉信一」が「萩の変殉難者七人」である。
玉木文之進は、前原らを松下村塾で指導していたということの責任を自らとって切腹をしたということだ。
私は玉木が主導した革命行動だったのではないかと疑っている。
松陰が生きていれば、松陰は吉田稔麿を総理大臣にして、玉木の望む世の中にしたはずだ。
それができなくなったから、もう一度起死回生を図ったのであろう。
「松陰神社ホームページ」に石碑の紹介があった。
石碑の左側面に「昭和五十一年歳次丙辰十月 前原一誠萩の変百年祭顕彰会建之」と刻まれていて、この碑は七烈士が処刑された萩市恵美須町にあったという。
萩の変130年祭にあわせて松陰神社へ入ることができたのはつい最近のことだった。(平成18年)
松陰も幕府によって罪人とされ、2年半もの長い間南千住の回向院の罪人墓に埋められていた。
晋作が名誉回復して世田谷の楓の木の根元に回葬している。
前原の遺骸も師匠と同じ運命を辿ったが、130年目の回葬とはずいぶん遠回りしたことである。
松陰神社本殿の左側手間の目立たない隅っこにシンプルな石碑がある。
「明治九年萩の變七烈士殉難之地」と刻まれている。
西南戦争の前の年のことである。
『松下村塾出身で、明治新政府で参議に任ぜられていた前原一誠が起こした萩の変より、130年となることを記念して、平成18年(2006)12月3日萩の變130年祭に併せてここに移設されました。
この石碑は、明治9年(1876)、萩の変で殉難した、前原一誠をはじめとする7烈士の遺徳を顕彰するために、萩の変より100年にあたる昭和51年(1976)年に建立されたものです。
元は7烈士が処刑された萩市恵美須町にありましたが、諸般の事情により、ここに再度建立されました。』
(石碑「明治九年萩の變七烈士殉難之地」より)
http://www.shoin-jinja.jp/keidai/10.php
新政府への反乱という判定をされ、犯罪人扱いされてきたのだろう。
百年を経てようやく勤皇の志士として認められたようだ。
殉難の7人の烈士とは前原一誠以下だれだろう。
『玉木文之進(山口県萩市・護国山墓地)
萩藩士。
文政三(1820)年11歳の時、玉木十右衛門正路の跡を継いだ。
天保十三(1842)年初めて松下村塾を開き人材の育成に努めた。
とくに吉田松陰・杉民治・宍戸某・久保断三らはその逸材である。
その後、藩学明倫館の都講、異船防禦掛等を勤め、また進んで諸郡(小郡・吉田・船木・上関・奥阿武・山代等)の代官を歴任して民政に力を尽くし、郡奉行をも勤めた。
明治二(1869)年に隠退して再び松下村塾を興し、教育に専念したが、明治九(1876)年萩の前原一誠の乱に師弟数人が一味したことの不徳を自責し、11月6日先塋の側で切腹した。享年67歳。
玉木さんのスパルタ教育は有名で、どんな文献を採ってもその峻烈さが描かれています。
吉田松陰さんも、そして後に日露戦争で第三軍司令官として旅順攻略に当たる乃木希典大将もその薫陶を受けています。
今の日本に武士が育たない理由もわかる気がしますね。
奥平謙輔(山口県萩市・大照院)
萩藩士。
藩校明倫館に入り、安政六(1859)年その居寮生となった。
文久三(1863)年8月選鋒隊士として下関外船砲撃に参加し、元治元(1864)年7月世子上京に従ったが、禁門の変に途中から帰国、慶応元(1865)年4月に長兄数馬の養嗣子となった。
慶応二(1866)年5月干城隊に入り、慶応三(1867)年同隊引立掛として討幕軍に加わり、慶応四(1868)年越後・会津に転戦した。
明治二(1869)年4月越後府権判事として佐渡を治め、8月辞職して萩に帰った。
明治三(1870)年脱退暴動に干城隊を率いて山口藩邸を守衛したが、明治九(1876)年前原一誠と意気相投じ、10月萩の乱を起こして敗れ、11月出雲宇竜港で捕えられ、12月3日ついに萩で斬首された。享年36歳。
前原一誠(山口県萩市・弘法寺/山口県下関市・桜山神社)
萩藩士。
天保十(1839)年父の厚狭郡船木村出役に従い移居し、武術を幡生周作に、文学を国司某・岡本栖雲に学んだ。
嘉永二(1849)年福原冬嶺に従学したが、翌年帰萩のとき落馬のため長病を患い、武技を捨て再び船木に住して写本に努めた。
安政四(1857)年父に従って帰萩、吉田松陰に師事し、安政六(1859)年2月長崎に遊学して英学を修め、6月帰って博習堂に学び、万延元(1860)年病気のため博習堂を退き、文久元(1861)年練兵場舎長となり、文久二(1862)年脱藩上京して長井雅楽の暗殺を謀ったが果たさず、8月江戸に行った。
文久三(1863)年正月また上京、6月右筆役となり、7月攘夷監察使の東園基敬に従って時山直八と紀州に行き、八月十八日の政変に帰国して七卿の用掛となった。
元治元(1864)年下関で外艦と戦い、12月高杉晋作と下関新地の会所を襲い、慶応元(1865)年正月恭順派藩庁軍と美禰郡に戦った時、諸隊総会計を勤めた。
同年3月用所役右筆となり、前原姓を名乗り、干城隊頭取を兼ね、5月国政方に転じ、慶応二(1866)年2月下関越荷方となり、6月幕長戦に小倉口の参謀心得として小倉藩降伏に尽くした慶応三(1867)年12月小姓筆頭となり海軍頭取を兼ね、明治元(1868)年6月北越出兵の干城隊副督となり、蔵元役と兼ね、萩から越後柏崎に上陸、7月越後口総督の参謀となって長岡城攻略に尽くした。
明治二(1869)年2月越後府判事となり、6月戊辰戦争の功により永世禄600石を賜り、7月参議に任じ、12月兵部大輔となり、明治三(1870)年9月辞職し、10月病気静養のためと称して萩に帰った。
明治九(1876)年10月奥平謙輔・横山俊彦らと党を集め、天皇に訴えて朝廷の奸臣を掃うための東上軍を起こしたが、事敗れて11月島根県宇龍港で捕らえられ、ついで萩で12月3日斬首された。享年43歳。
いわゆる萩の乱で散った悲運の将という感じを個人的には持っています。
弘法寺の奥に眠っておられますが、この弘法寺がやや見つけにくく、通り過ぎたりして難儀しました。
それでなくてもまだ回らなくてはならない場所がたくさんあるため時間がなくて焦ってましたからもうちょっとで諦めなければならないところでした。この第二次萩調査では事前準備の不足から多くの探査が未了という状況の中での数少ない成果でした。
以下略。』(「明治九年萩の変」より)
http://mahorobas.sakura.ne.jp/isinji/1876%20HAGI.htm
玉木文之進は先塋(せんえい)の傍で割腹したとあるが、「先塋」とは先祖の墓のことだ。
その墓は玉木家の祖先、つまり環(たまき)家、大内義隆の遺児の末裔だと私は考えている。
玉木は、あの椎原の松陰生誕地傍の墓所にあった「玉木家先祖の墓」の文字を持つ五輪塔のような大きな墓のそばで腹を切った。
このときの文之進の介錯、つまり首の切断をある女がした。
『玉木正誼は萩の乱で前原一誠に従い死んでいます。玉木文之進も萩の乱後、山の上の先祖の墓の前で切腹、この時介錯をつとめたのは吉田松陰の一番上の妹お芳でした。
この時のことを以下のように追懐されています。『世に棲む日日』より引用。
この日、叔父は私をよび、自分は申しわけないから先祖の墓前で切腹する。
ついては介錯をたのむ、と申されました。
私もかねて叔父の気象を知っていますから、おとめもせず、御約束のとおり、午後の三時ごろ、山の上の先祖のお墓へ参りました。
私はちょうど四十でありました。
わらじをはき、すそをはしょって後にまわり、介錯をしました。
その時は気が張っておりましたから、涙も出ませんでした。
介錯をしたあとは、夢のようであります。』
(「幕末歴史探訪 松陰と玉木文之進」より)
http://www.google.co.jp/url?q=http://www.webkohbo.com/info3/shoin/shoin.html&sa=U&ei=qlNVTaiTC4HCcci0tJ4M&ved=0CA8QFjAB&usg=AFQjCNHzbNz9eVReUV8k4pC3GcUQud1xGw
前原は、『元治元(1864)年下関で外艦と戦い、12月高杉晋作と下関新地の会所を襲い、慶応元(1865)年正月恭順派藩庁軍と美禰郡に戦った」とあるが、この行動は晋作とほぼ一体であり、松陰と晋作の遺志を継げる立派な志士だったと思う。
長い間新政府も山口県人たちも、前原たちを犯罪者扱いしてきたが、ようやく自らの過ちに気がついたということなのかも知れない。
今はささやかではあるが、境内で顕彰されるようになっている。
日露領土交渉を本日ロシアでやったようだが、いささか日本の大臣に迫力が感じられない。
もし松陰の言うとおりに明治新政府が動いておれば、今頃はずいぶん広い領土を持っていたことだろう。
前原ら7人の決起は、後世への憂いから発したものであろう。
玉木、前原、奥平、横山の名が上の記事に出ていた。
7烈士だから、あと3名いるはずだ。
石碑の右側面に7人の名が書いてあるそうだ。
「前原一誠 佐世一清 奥平謙輔 有福恂允 山田頴太郎 横山俊彦 小倉信一」が「萩の変殉難者七人」である。
玉木文之進は、前原らを松下村塾で指導していたということの責任を自らとって切腹をしたということだ。
私は玉木が主導した革命行動だったのではないかと疑っている。
松陰が生きていれば、松陰は吉田稔麿を総理大臣にして、玉木の望む世の中にしたはずだ。
それができなくなったから、もう一度起死回生を図ったのであろう。
「松陰神社ホームページ」に石碑の紹介があった。
石碑の左側面に「昭和五十一年歳次丙辰十月 前原一誠萩の変百年祭顕彰会建之」と刻まれていて、この碑は七烈士が処刑された萩市恵美須町にあったという。
萩の変130年祭にあわせて松陰神社へ入ることができたのはつい最近のことだった。(平成18年)
松陰も幕府によって罪人とされ、2年半もの長い間南千住の回向院の罪人墓に埋められていた。
晋作が名誉回復して世田谷の楓の木の根元に回葬している。
前原の遺骸も師匠と同じ運命を辿ったが、130年目の回葬とはずいぶん遠回りしたことである。
エミシの国の女神~長州(118) [萩の吉田松陰]
SH3B0477左手前が松門神社、右奥が松陰神社
松陰が始めて江戸留学を許可されたときのことである。
毛利の殿様の参勤交代に同行して江戸へ上ることになった。
松陰は踊る気持ちを抑え切れなかった。
司馬遼太郎著「世に棲む日々(1)」(P97~P98)より司馬氏の小説の中の描写を抜粋する。
『「熊旗(ゆうばん)東ヘユク」
と、松陰の好む表現でいえば、こうなる。
大毛利侯の旗が東へゆく。
藩主出府の行列のことである。
松陰はその行列より数時間分だけ先行する。
そういう役目の役人がいる。
行列の宿割をあらかじめしてゆく先発役の役人で、松陰はその役人に同行するという名目をもらっていたが、宿割の仕事はしなくていい。
中略。
泊りをかさねながら、九州遊歴のときと同様、見聞日記をつけてゆく。
江戸の遠さはどうであろう。
萩を出てから35日という日数を重ね、六郷川を渡ったのは4月9日である。
泉岳寺の門前で夜があけ、江戸桜田の藩邸についた時刻はこの朝8時であり、2時間ばかりして殿様の行列も御門の中に入った。
「熊藩(ゆうばん)、厳然トシテ邸ニイタル」
と松陰は書き、その行列の藩邸入りをもって彼の東遊日記しめくくりにしている。』
(司馬遼太郎著「世に棲む日々(1)」より引用)
司馬氏は「大毛利侯の旗」のことを熊藩(ゆうばん)と呼ぶと書いている。
あるいは大名家の旗の共通呼称なのだろうか。
山鹿流兵学者の松陰の誇らしい書き方からすれば、毛利氏独特の旗印を指しているように思われる。
毛利氏は神奈川県厚木市付近の「毛利庄」をその姓の出自とする。
『家系は鎌倉幕府の名臣大江広元の四男・大江季光を祖とする一族、したがって大江広元の子孫ではあるが嫡流ではない。
名字の「毛利」は、季光が父・広元から受け継いだ所領の相模国愛甲郡毛利庄(もりのしょう、現在の神奈川県厚木市周辺)を本貫とする。中世を通して「毛利」は「もり」と読まれたが、後に「もうり」と読まれるようになった。』
(毛利氏(Wikipedia)より)
毛(利)と熊(旗)から連想する地名に「熊毛」がある。
光市のある工場での思い出である。
光市は、伊藤博文の生家の山裏に当たる。
最近は母子殺人事件の裁判ニュースで有名になった町である。
その工場の若い事務員の女性を私の先輩がからかっていた。
「熊毛郡熊毛町熊毛町立熊毛高校の卒業生だってね。○○ちゃん!」
うら若き乙女の出身高校名が熊の名で連なるため、そのことを冷やかして言ったのだった。
今ではそういう言動はセクハラ行為と認定される。
「熊の旗」が「毛利の旗」だとはどういう意味か。
萩城内にあった宮崎八幡宮の拝殿が、松陰神社の本殿前に移設されたという。
その宮崎八幡宮は総本社の宇佐八幡宮から勧請したものであり、岩清水や鎌倉鶴ヶ岡と同様分祀である。
しかし、宇佐八幡宮の本殿中央に祀ってある卑弥呼と思われる比売神(ひめがみ)は宮崎へ連れてこなかった。
その代わりにということで実在性の薄い天皇を真ん中に置いている。
筑紫に熊襲退治に行ったとき、「神懸りした神功皇后から住吉大神のお告げ」を受けた。
それは朝鮮半島の新羅を授(たす)けよとの神託だった。
しかし、そのお告げを信じなかった仲哀天皇は翌年急死したという。
どうやら熊襲退治に行って、熊襲の矢が当たって亡くなった人のようだ。
熊の矢は熊旗から飛んできたのか、熊旗を狙って飛んだものか。
つまり、熊旗は熊襲の側に立っていたのか、あるいは仲哀天皇のいる大和族側だったのだろうか。
それとも、仲哀天皇の仇討ちとして毛利の祖先が熊襲退治をしたという意味なのだろうか。
それとは反対に、毛利氏は7世紀前後に大和族に征服された熊襲の末裔なのか。
日記に熊旗のはためく様を書いている松陰は、「その理由」を良く知っているように見える。
『仲哀天皇架空説
仲哀天皇は実在性の低い天皇の一人に挙げられているが、その最大の根拠は、彼が実在性の低い父(日本武尊)と妻(神功皇后)を持っている人物であり、この二人の存在および彼らにまつわる物語を史実として語るために創造され、記紀に挿入されたのが仲哀天皇であるというのが、仲哀天皇架空説である。
また、仲哀天皇の「タラシナカツヒコ(足仲彦・帯中日子)」という和風諡号から尊称の「タラシ」「ヒコ」を除くと、ナカツという名が残るが、これは抽象名詞であって固有名詞とは考えづらい(中大兄皇子のように、通常は普通名詞的な別名に使われる)。
つまり、仲哀天皇の和風諡号は実名を元にした物ではなく、抽象的な普通名詞と言う事になる。
さらに前述の通り、『日本書紀』では父の日本武尊の死後36年も経ってから生まれたことになる不自然さもあり、仲哀天皇架空説を支持する意見は少なくない。
以下略。』(仲哀天皇(Wikipedia)より)
その不自然さに従えば、応神天皇は日本武尊の子孫ではなくなってしまう。
仲哀天皇は架空人物であっても、この際一向にかまわない。
問題は、八幡神を勧請する際に、なぜ卑弥呼と思われる比売神(ひめがみ)を大分・宇佐から宮崎へなぜ連れてこなかったのかということだ。
地元の人の意見を見よう。
『宮崎市内の地図を見ていますと、橘・小戸・阿波岐原といった地名が目につきます。
これらの地名は、『古事記』が記すところの伊邪那岐命の禊祓のシーン、つまり「竺紫[つくし]の日向の橘の小門[をど]の阿波岐原に到り坐[ま]して、禊ぎ祓ひたまひき」を典拠としていることは明らかです。
『日本書紀』は、同箇所を「筑紫の日向の小戸の橘の檍原[あはきはら]」と記していて、小戸(小門)、橘、檍原(阿波岐原)は、イザナギの禊祓におけるキーワード的地名といってよいかとおもいます。
これら三地名には、それぞれ所縁の神社がまつられています。
小戸(小門)については、その名も小戸神社、橘については、橘大神をまつる宮崎八幡宮、檍原(阿波岐原)については、阿波岐原町鎮座の延喜式内社・江田神社です。
これら三社の由緒等を先にみておきます。
宮崎市鶴島町に鎮座するのが小戸神社(祭神:伊奘諾大神)です(写真1・2)。
同社の縁起書「日向国之小戸神社由緒略記」には、「第十二代景行天皇の勅により創建と伝える」と記され、古くは「旧宮崎市街地全域を小戸と称し」たと書かれています。
また、「太古伊奘諾大神が禊祓をされた“祓の神事”由縁の地」、「古くより大淀川河口の沖合小戸の瀬は、小戸神社御鎮座の清浄地」だったが、「寛文二年の西海大地震」によって、「上別府の大渡の上」への移転を余儀なくされ、その後また変遷あるも、「昭和九年橘通り拡張により御由縁深き大淀川の辺りの現社地へ遷座し現在に至る」と、その変遷経緯を記しています。
小戸神社の最初の鎮座地は「大淀川河口の沖合小戸の瀬」だったようです。
ここは埋め立てがなされるも、現在は宮崎市小戸町という名で、由緒深い地名ということだからなのでしょう、その名(小戸)を町名として残しています。
「橘の小門」あるいは「小戸の橘」と記される「橘」ですが、宮崎市内を南北に走る幹線通りとして「橘通」の名がみられます。
また、小戸神社の戦前の鎮座地は「橘通二丁目」でした。
この橘ゆかりの「大神」をまつるのが宮崎八幡宮です(写真3・4)。
宮崎八幡宮の由緒記によれば、祭神は、次のように記されています。
誉田別尊(応神天皇)・足仲彦尊(仲哀天皇)・息長帯姫尊(神功皇后)
伊邪那岐命・伊邪那美命
橘大神
創建由緒については、「宮崎八幡宮は今より九百年前の永承年中(西暦一〇五〇)頃にこの地方の開拓にあたった海為隆が、昔しよりお祀りしていた橘大神と共に、宇佐八幡大神をこの地に勧請し、開拓にあたったと言われています」と書かれています。
橘大神の祭祀がすでにあったところへ「宇佐八幡大神」が勧請されたわけですが、ここに「宇佐八幡大神」の大元神(御許神)である比売大神の名がないという不思議を指摘できそうです(後述)。
また、「この地方」の地主神ともいえる「橘大神」の名がありますが、では、この「橘大神」とはどんな神様かという関心が湧いてくるのはわたしだけでないでしょう。
しかし、社務所からの応答は、古い神様であるものの詳細は不明とのことです。
この謎の橘大神ですが、戦前の神社記録を集めた『宮崎県神社誌』をみますと、主祭神は現行表示の五柱神と同じですが、表示最後の「橘大神」の名はなく、その代わりというべきか、相殿の項に、次のように書かれています。
相殿 荒御魂神 和御魂神直日ノ神
この相殿神は、現行の表示にはみられませんので、これが現在「橘大神」と表示されている神の内実ということがわかります。
「和御魂神直日ノ神」と対偶関係をもつ「荒御魂神」とは、『古事記』の禊祓の伝でいえば「八十禍津日神・大禍津日神」、『日本書紀』の伝でいえば「八十枉津日神」となります。
この「禍(枉)津日神」とは、瀬織津姫神の貶称神名「八十禍津日神」と同体である「天照大御神荒御魂神」(内宮第一別宮・荒祭宮の神)のことで、この「天照大御神荒御魂神」から「天照大御神」を削除して、ただ「荒御魂神」と表示していたのが宮崎八幡宮の戦前表記でした。
橘大神には、少なくとも「荒御魂神」こと瀬織津姫神が秘められていることになります。
ところで、『宮崎県神社誌』の表紙には、その題字について「宮崎県知事木下義介閣下御染筆」とあり、この県知事・木下義介の赴任時期は昭和六年(一九三一)から昭和八年(一九三三)ですから、この時期の「神社誌」ということがわかります。
もう少し添えておくなら、昭和天皇の「御大典」(天皇即位の大典)があった昭和三年(一九二八)に向けて神社祭神・由緒の再洗い出し(祭神の再変更を含む)が全国的になされていましたから、その結果をまとめたのが、この『宮崎県神社誌』とおもわれます(ちなみに、遠野の早池峰神社の由緒書が、明治維新時に継ぐ二度目の没収をなされたのもこのときです…『エミシの国の女神』)。
さて、三社め──。宮崎市阿波岐原町産母[やぼ]に鎮座するのが江田神社です(写真5)。「江田神社由緒記」によれば、同社祭神は「伊邪那岐尊・伊邪那美尊」とのことですが、「但し伊邪那美尊は安徳天皇寿永二年正月配祀」と注記されていて、主祭神は伊邪那岐尊ということになります。同社の由緒を読んでみます(適宜句読点を補足して引用)。
中略。
最後に、宮崎八幡宮が「宇佐八幡大神」を勧請したとき、当地に比売大神のみを勧請しなかった理由についてですが、ここに興味深い記録があります。
生野常喜『日向の古代史』(私家版)は、東大阪市の枚岡神社および奈良市の春日大社の祭神の一神「比売神」についての疑問を抱き、次のような聞き取りを収録しています。
比売神は宇佐神宮を始め県内(宮崎県内…引用者)でも数社見られるので、宮崎県神社庁参事の黒岩竜彦氏に照会したところ、早速奈良の春日神社まで問い合せて下さり、比売神は、宗像神社の祭神で天児屋根命の妻となられた方だとご返事をいただいた。
春日神社(春日大社)の認識では、同社の「比売神」は、「宗像神社の祭神」と同体とのことです。
また、「天児屋根命の妻」という対偶関係ですが、これは、神武天皇東遷時に宇佐(表記は「菟狭」)へ寄ったとき、「勅[みことのり]をもて、菟狭津媛[うさつひめ]を以て、侍臣[おもとまへつきみ]天種子命に賜妻[あは]せたまふ。天種子命は、是中臣臣の遠祖[とほつおや]なり」という『日本書紀』の記述が反映したものです。
勅命によって中臣氏の遠祖神の「妻」とされたとあるように、この記述は、中臣=藤原氏の意向を受けた書紀編纂・創作者の露骨な作為が読める箇所の一つです。
宇佐神宮(宇佐八幡)の比売大神は宗像三女神と同体とされます。
春日大社の「比売神」が、瀬織津姫神を秘した抽象神名であったことは、すでに複数の記録があり、また考証されていることでした(本ブログおよび『円空と瀬織津姫』上・下巻)。
宮崎八幡宮が、橘大神(荒御魂神)、つまり、瀬織津姫神の既祭祀地に「宇佐八幡神」の比売大神のみを勧請しなかった理由は、当地に、すでに宇佐の比売大神と同体神が先行してまつられていたからです。したがって、比売大神を「勧請しなかった」のは、「勧請する必要がなかった」というのがありていのところなのでしょう。
「日向の橘の小門(小戸)の阿波岐原」の地主神「橘大神」の祭祀にも、日向姫(天照大御神荒御魂神=撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)の祭祀が根底にあったことはとても重要です。(資料提供・写真:日向の白龍)』
(「瀬織津姫祭祀 宮崎県歴史」より)
http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/18624534.html
宮崎八幡宮は橘大神をまつる八幡宮だった。
「宮崎八幡宮が、比売大神のみを勧請しなかった理由は、当地に、すでに宇佐の比売大神と同体神が先行してまつられていたからです。」
ということは、宮崎はもともと卑弥呼がいた町だったということを指す。
もともと卑弥呼がいた町だったから、わざわざ宇佐から呼んでくる必要がなかった。
宮崎に棲んでいたのは橘大神(荒御魂神)、つまり、瀬織津姫神だという。
それは比売大神と同体神である。
同一神と同体神とはどう違うのか。同じなのか。
1050年頃、宮崎の地を開拓した海為隆は、「昔しよりお祀りしていた橘大神」があったから敢えて比売大神は要らないと考えたのが、2神勧請の理由だったようだ。
その意味は、「邪馬台国はひむか(日向)の国、宮崎だった」ということではないだろうか。
「エミシの国の女神」とは、「熊襲族を束ねる女王卑弥呼」ではないだろうか。
松陰が始めて江戸留学を許可されたときのことである。
毛利の殿様の参勤交代に同行して江戸へ上ることになった。
松陰は踊る気持ちを抑え切れなかった。
司馬遼太郎著「世に棲む日々(1)」(P97~P98)より司馬氏の小説の中の描写を抜粋する。
『「熊旗(ゆうばん)東ヘユク」
と、松陰の好む表現でいえば、こうなる。
大毛利侯の旗が東へゆく。
藩主出府の行列のことである。
松陰はその行列より数時間分だけ先行する。
そういう役目の役人がいる。
行列の宿割をあらかじめしてゆく先発役の役人で、松陰はその役人に同行するという名目をもらっていたが、宿割の仕事はしなくていい。
中略。
泊りをかさねながら、九州遊歴のときと同様、見聞日記をつけてゆく。
江戸の遠さはどうであろう。
萩を出てから35日という日数を重ね、六郷川を渡ったのは4月9日である。
泉岳寺の門前で夜があけ、江戸桜田の藩邸についた時刻はこの朝8時であり、2時間ばかりして殿様の行列も御門の中に入った。
「熊藩(ゆうばん)、厳然トシテ邸ニイタル」
と松陰は書き、その行列の藩邸入りをもって彼の東遊日記しめくくりにしている。』
(司馬遼太郎著「世に棲む日々(1)」より引用)
司馬氏は「大毛利侯の旗」のことを熊藩(ゆうばん)と呼ぶと書いている。
あるいは大名家の旗の共通呼称なのだろうか。
山鹿流兵学者の松陰の誇らしい書き方からすれば、毛利氏独特の旗印を指しているように思われる。
毛利氏は神奈川県厚木市付近の「毛利庄」をその姓の出自とする。
『家系は鎌倉幕府の名臣大江広元の四男・大江季光を祖とする一族、したがって大江広元の子孫ではあるが嫡流ではない。
名字の「毛利」は、季光が父・広元から受け継いだ所領の相模国愛甲郡毛利庄(もりのしょう、現在の神奈川県厚木市周辺)を本貫とする。中世を通して「毛利」は「もり」と読まれたが、後に「もうり」と読まれるようになった。』
(毛利氏(Wikipedia)より)
毛(利)と熊(旗)から連想する地名に「熊毛」がある。
光市のある工場での思い出である。
光市は、伊藤博文の生家の山裏に当たる。
最近は母子殺人事件の裁判ニュースで有名になった町である。
その工場の若い事務員の女性を私の先輩がからかっていた。
「熊毛郡熊毛町熊毛町立熊毛高校の卒業生だってね。○○ちゃん!」
うら若き乙女の出身高校名が熊の名で連なるため、そのことを冷やかして言ったのだった。
今ではそういう言動はセクハラ行為と認定される。
「熊の旗」が「毛利の旗」だとはどういう意味か。
萩城内にあった宮崎八幡宮の拝殿が、松陰神社の本殿前に移設されたという。
その宮崎八幡宮は総本社の宇佐八幡宮から勧請したものであり、岩清水や鎌倉鶴ヶ岡と同様分祀である。
しかし、宇佐八幡宮の本殿中央に祀ってある卑弥呼と思われる比売神(ひめがみ)は宮崎へ連れてこなかった。
その代わりにということで実在性の薄い天皇を真ん中に置いている。
筑紫に熊襲退治に行ったとき、「神懸りした神功皇后から住吉大神のお告げ」を受けた。
それは朝鮮半島の新羅を授(たす)けよとの神託だった。
しかし、そのお告げを信じなかった仲哀天皇は翌年急死したという。
どうやら熊襲退治に行って、熊襲の矢が当たって亡くなった人のようだ。
熊の矢は熊旗から飛んできたのか、熊旗を狙って飛んだものか。
つまり、熊旗は熊襲の側に立っていたのか、あるいは仲哀天皇のいる大和族側だったのだろうか。
それとも、仲哀天皇の仇討ちとして毛利の祖先が熊襲退治をしたという意味なのだろうか。
それとは反対に、毛利氏は7世紀前後に大和族に征服された熊襲の末裔なのか。
日記に熊旗のはためく様を書いている松陰は、「その理由」を良く知っているように見える。
『仲哀天皇架空説
仲哀天皇は実在性の低い天皇の一人に挙げられているが、その最大の根拠は、彼が実在性の低い父(日本武尊)と妻(神功皇后)を持っている人物であり、この二人の存在および彼らにまつわる物語を史実として語るために創造され、記紀に挿入されたのが仲哀天皇であるというのが、仲哀天皇架空説である。
また、仲哀天皇の「タラシナカツヒコ(足仲彦・帯中日子)」という和風諡号から尊称の「タラシ」「ヒコ」を除くと、ナカツという名が残るが、これは抽象名詞であって固有名詞とは考えづらい(中大兄皇子のように、通常は普通名詞的な別名に使われる)。
つまり、仲哀天皇の和風諡号は実名を元にした物ではなく、抽象的な普通名詞と言う事になる。
さらに前述の通り、『日本書紀』では父の日本武尊の死後36年も経ってから生まれたことになる不自然さもあり、仲哀天皇架空説を支持する意見は少なくない。
以下略。』(仲哀天皇(Wikipedia)より)
その不自然さに従えば、応神天皇は日本武尊の子孫ではなくなってしまう。
仲哀天皇は架空人物であっても、この際一向にかまわない。
問題は、八幡神を勧請する際に、なぜ卑弥呼と思われる比売神(ひめがみ)を大分・宇佐から宮崎へなぜ連れてこなかったのかということだ。
地元の人の意見を見よう。
『宮崎市内の地図を見ていますと、橘・小戸・阿波岐原といった地名が目につきます。
これらの地名は、『古事記』が記すところの伊邪那岐命の禊祓のシーン、つまり「竺紫[つくし]の日向の橘の小門[をど]の阿波岐原に到り坐[ま]して、禊ぎ祓ひたまひき」を典拠としていることは明らかです。
『日本書紀』は、同箇所を「筑紫の日向の小戸の橘の檍原[あはきはら]」と記していて、小戸(小門)、橘、檍原(阿波岐原)は、イザナギの禊祓におけるキーワード的地名といってよいかとおもいます。
これら三地名には、それぞれ所縁の神社がまつられています。
小戸(小門)については、その名も小戸神社、橘については、橘大神をまつる宮崎八幡宮、檍原(阿波岐原)については、阿波岐原町鎮座の延喜式内社・江田神社です。
これら三社の由緒等を先にみておきます。
宮崎市鶴島町に鎮座するのが小戸神社(祭神:伊奘諾大神)です(写真1・2)。
同社の縁起書「日向国之小戸神社由緒略記」には、「第十二代景行天皇の勅により創建と伝える」と記され、古くは「旧宮崎市街地全域を小戸と称し」たと書かれています。
また、「太古伊奘諾大神が禊祓をされた“祓の神事”由縁の地」、「古くより大淀川河口の沖合小戸の瀬は、小戸神社御鎮座の清浄地」だったが、「寛文二年の西海大地震」によって、「上別府の大渡の上」への移転を余儀なくされ、その後また変遷あるも、「昭和九年橘通り拡張により御由縁深き大淀川の辺りの現社地へ遷座し現在に至る」と、その変遷経緯を記しています。
小戸神社の最初の鎮座地は「大淀川河口の沖合小戸の瀬」だったようです。
ここは埋め立てがなされるも、現在は宮崎市小戸町という名で、由緒深い地名ということだからなのでしょう、その名(小戸)を町名として残しています。
「橘の小門」あるいは「小戸の橘」と記される「橘」ですが、宮崎市内を南北に走る幹線通りとして「橘通」の名がみられます。
また、小戸神社の戦前の鎮座地は「橘通二丁目」でした。
この橘ゆかりの「大神」をまつるのが宮崎八幡宮です(写真3・4)。
宮崎八幡宮の由緒記によれば、祭神は、次のように記されています。
誉田別尊(応神天皇)・足仲彦尊(仲哀天皇)・息長帯姫尊(神功皇后)
伊邪那岐命・伊邪那美命
橘大神
創建由緒については、「宮崎八幡宮は今より九百年前の永承年中(西暦一〇五〇)頃にこの地方の開拓にあたった海為隆が、昔しよりお祀りしていた橘大神と共に、宇佐八幡大神をこの地に勧請し、開拓にあたったと言われています」と書かれています。
橘大神の祭祀がすでにあったところへ「宇佐八幡大神」が勧請されたわけですが、ここに「宇佐八幡大神」の大元神(御許神)である比売大神の名がないという不思議を指摘できそうです(後述)。
また、「この地方」の地主神ともいえる「橘大神」の名がありますが、では、この「橘大神」とはどんな神様かという関心が湧いてくるのはわたしだけでないでしょう。
しかし、社務所からの応答は、古い神様であるものの詳細は不明とのことです。
この謎の橘大神ですが、戦前の神社記録を集めた『宮崎県神社誌』をみますと、主祭神は現行表示の五柱神と同じですが、表示最後の「橘大神」の名はなく、その代わりというべきか、相殿の項に、次のように書かれています。
相殿 荒御魂神 和御魂神直日ノ神
この相殿神は、現行の表示にはみられませんので、これが現在「橘大神」と表示されている神の内実ということがわかります。
「和御魂神直日ノ神」と対偶関係をもつ「荒御魂神」とは、『古事記』の禊祓の伝でいえば「八十禍津日神・大禍津日神」、『日本書紀』の伝でいえば「八十枉津日神」となります。
この「禍(枉)津日神」とは、瀬織津姫神の貶称神名「八十禍津日神」と同体である「天照大御神荒御魂神」(内宮第一別宮・荒祭宮の神)のことで、この「天照大御神荒御魂神」から「天照大御神」を削除して、ただ「荒御魂神」と表示していたのが宮崎八幡宮の戦前表記でした。
橘大神には、少なくとも「荒御魂神」こと瀬織津姫神が秘められていることになります。
ところで、『宮崎県神社誌』の表紙には、その題字について「宮崎県知事木下義介閣下御染筆」とあり、この県知事・木下義介の赴任時期は昭和六年(一九三一)から昭和八年(一九三三)ですから、この時期の「神社誌」ということがわかります。
もう少し添えておくなら、昭和天皇の「御大典」(天皇即位の大典)があった昭和三年(一九二八)に向けて神社祭神・由緒の再洗い出し(祭神の再変更を含む)が全国的になされていましたから、その結果をまとめたのが、この『宮崎県神社誌』とおもわれます(ちなみに、遠野の早池峰神社の由緒書が、明治維新時に継ぐ二度目の没収をなされたのもこのときです…『エミシの国の女神』)。
さて、三社め──。宮崎市阿波岐原町産母[やぼ]に鎮座するのが江田神社です(写真5)。「江田神社由緒記」によれば、同社祭神は「伊邪那岐尊・伊邪那美尊」とのことですが、「但し伊邪那美尊は安徳天皇寿永二年正月配祀」と注記されていて、主祭神は伊邪那岐尊ということになります。同社の由緒を読んでみます(適宜句読点を補足して引用)。
中略。
最後に、宮崎八幡宮が「宇佐八幡大神」を勧請したとき、当地に比売大神のみを勧請しなかった理由についてですが、ここに興味深い記録があります。
生野常喜『日向の古代史』(私家版)は、東大阪市の枚岡神社および奈良市の春日大社の祭神の一神「比売神」についての疑問を抱き、次のような聞き取りを収録しています。
比売神は宇佐神宮を始め県内(宮崎県内…引用者)でも数社見られるので、宮崎県神社庁参事の黒岩竜彦氏に照会したところ、早速奈良の春日神社まで問い合せて下さり、比売神は、宗像神社の祭神で天児屋根命の妻となられた方だとご返事をいただいた。
春日神社(春日大社)の認識では、同社の「比売神」は、「宗像神社の祭神」と同体とのことです。
また、「天児屋根命の妻」という対偶関係ですが、これは、神武天皇東遷時に宇佐(表記は「菟狭」)へ寄ったとき、「勅[みことのり]をもて、菟狭津媛[うさつひめ]を以て、侍臣[おもとまへつきみ]天種子命に賜妻[あは]せたまふ。天種子命は、是中臣臣の遠祖[とほつおや]なり」という『日本書紀』の記述が反映したものです。
勅命によって中臣氏の遠祖神の「妻」とされたとあるように、この記述は、中臣=藤原氏の意向を受けた書紀編纂・創作者の露骨な作為が読める箇所の一つです。
宇佐神宮(宇佐八幡)の比売大神は宗像三女神と同体とされます。
春日大社の「比売神」が、瀬織津姫神を秘した抽象神名であったことは、すでに複数の記録があり、また考証されていることでした(本ブログおよび『円空と瀬織津姫』上・下巻)。
宮崎八幡宮が、橘大神(荒御魂神)、つまり、瀬織津姫神の既祭祀地に「宇佐八幡神」の比売大神のみを勧請しなかった理由は、当地に、すでに宇佐の比売大神と同体神が先行してまつられていたからです。したがって、比売大神を「勧請しなかった」のは、「勧請する必要がなかった」というのがありていのところなのでしょう。
「日向の橘の小門(小戸)の阿波岐原」の地主神「橘大神」の祭祀にも、日向姫(天照大御神荒御魂神=撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)の祭祀が根底にあったことはとても重要です。(資料提供・写真:日向の白龍)』
(「瀬織津姫祭祀 宮崎県歴史」より)
http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/18624534.html
宮崎八幡宮は橘大神をまつる八幡宮だった。
「宮崎八幡宮が、比売大神のみを勧請しなかった理由は、当地に、すでに宇佐の比売大神と同体神が先行してまつられていたからです。」
ということは、宮崎はもともと卑弥呼がいた町だったということを指す。
もともと卑弥呼がいた町だったから、わざわざ宇佐から呼んでくる必要がなかった。
宮崎に棲んでいたのは橘大神(荒御魂神)、つまり、瀬織津姫神だという。
それは比売大神と同体神である。
同一神と同体神とはどう違うのか。同じなのか。
1050年頃、宮崎の地を開拓した海為隆は、「昔しよりお祀りしていた橘大神」があったから敢えて比売大神は要らないと考えたのが、2神勧請の理由だったようだ。
その意味は、「邪馬台国はひむか(日向)の国、宮崎だった」ということではないだろうか。
「エミシの国の女神」とは、「熊襲族を束ねる女王卑弥呼」ではないだろうか。
卑弥呼と熊襲~長州(117) [萩の吉田松陰]
SH3B0475松陰神社本殿
SH3B0476これが末社の松門神社(萩城内にあった宮崎八幡の拝殿)
吉田松陰を祀る松陰神社本殿と松下村塾門下生たちを祀る松門神社である。
松陰神社に参詣したのだが、松門神社が境内にあることは始めて気づいた。
5~6回この境内に入ったことがあるのに、である。
「松陰.com」というずばりのサイトに詳しく紹介されていた。
硯と書簡がご神体である。
生身の遺体は白骨化してから晋作が世田谷の松陰神社横の楓の木の根もとの墓所へ埋葬した。
私は萩の松陰の墓を訪ねてみて、その前に晋作の草庵があること、松陰の遺骨回葬をして数ヵ月後に帰国して草庵に入っていることなどから、晋作は遺骨の一部を父母に渡し、萩の墓に分骨したのではないかと推測している。
物的証拠はないのだが、状況証拠からそう考えている。
松陰神社は国の宗教儀式であり、穢れを嫌う古い国の慣習からすれば、あえて遺骨は入れていないのだろう。
硯と書籍とは、学問の神様らしい。
『明治23年、松陰の実家・杉家の邸内に松陰の実兄杉民治が土蔵造りの小祠を建て、
松陰の愛用していた硯と松陰の書簡をご神体として祀ったのが萩・松陰神社の始まり。
明治40年、共に松下村塾出身の伊藤博文と野村靖が中心となって神社創建を請願し、萩城内にあった宮崎八幡の拝殿を移築して土蔵造りの本殿に付し、同時に県社に列格した。
現在の社殿は昭和30年に新しく建てられたもの。
創建当時の土蔵造りの旧社殿は、現在、高杉晋作や久坂玄瑞など松下村塾の門人たちを祭る末社・松門神社となっている。
学問の神として萩で最も崇敬を集める神社であり、正月には多くの初詣客が訪れる。』
(吉田松陰の史跡を巡る旅 松陰.com)より)
http://www.yoshida-shoin.com/monka/shiseki-hagi.html
「松陰の実兄杉民治が創った土蔵造りの小祠」が現在は門弟を祭る松門神社となっているそうだが、民治が自ら作った小祠はもっと素朴で小さいものだっただろう。
やがて寄付などを集めて徐々に現在の立派な土蔵造りになったものと推測する。
松陰神社本殿については、ちょっと理解しづらい表現があった。
日露戦争が1904年(明治37年)2月8日~1905年(明治38年)9月5日だったので、本殿改装は戦勝祝いの目的もあったのであろう。
『明治40年、共に松下村塾出身の伊藤博文と野村靖が中心となって神社創建を請願し、萩城内にあった宮崎八幡の拝殿を移築して土蔵造りの本殿に付し、同時に県社に列格した。
現在の社殿は昭和30年に新しく建てられたもの。』
萩城内にあった宮崎八幡の拝殿を民治の造った土蔵造りの本殿に付け足したようである。
しかし、その拝殿も昭和30年には新しく創建されというから、今見ている拝殿がそれである。
しかもその奥にあった本殿は、松門神社になっているのだから、本殿社屋もこのときに新築されてご神体だけそこに「残った」ということになる。
民治の松陰を祀る素朴な心は、今は弟たちを祀っていることになる。
「ちょっと違うのではないか?」と、私は思うのであるが、国家とはそういう個人的なセンチメンタルを排除するものなのだろう。
私ならあくまで奥の院の配置する本殿は粗末であっても民治の手作りの土蔵造りの小祠とする。
朽ちてくれば、外周を建造物で覆えばよい。
椎原の貧しい家屋で育ち、日本国独立のために命を投じた志士が、いかに貧しい生活の中にいたかということを残しておくべきだ。
西陣織のきらびやかな衣装を着て飽食しつつ扇で歯を隠して笑う人々から見れば、想像もつかないほどの貧困の中で『松陰』は生まれた。
それを忘れさせるべきではない。
上の記事では宮崎八幡の拝殿がいったいどこへいったのかと気になっていたが、松門神社本殿がそれであると書いた記事を見つけた。
『松門神社
所在地:山口県萩市椿東松本(松陰神社境内)
松陰神社の新社殿が昭和30年10月26日に完成したため、旧社殿及び鳥居を松陰神社の北隣に移築し、翌31年に、吉田松陰の門人を祭神とする末社・松門神社が創建されました。
この社殿は、もともとは萩城内にあった宮崎八幡宮の拝殿だったものです。
祭神四十二柱は以下の人々です。
高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一、金子重輔、伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎、前原一誠、松浦松洞、玉木彦介、馬島甫仙、野村靖、山田顕義、木戸孝允、寺島忠三郎、時山直八、杉山松助、松本鼎、飯田正伯、増野徳民、尾寺新之丞、阿座上正蔵、渡辺蒿蔵、天野御民、有吉熊次郎、飯田吉次郎、境二郎、河北義次郎、久保断三、国司仙吉、駒井政五郎、諫早生二、井関美清、岡部富太郎、滝弥太郎、妻木寿之進、中谷正亮、弘勝之助、堀潜太郎、正木退蔵、横山幾太』
(「松門神社 幕末史跡探訪・山口県」より)
http://blog.goo.ne.jp/hayate0723/e/fa38a6a8ec79fb20d734dbf8cdba636a
高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿の松門三秀を神とすることに私は異論はない。
彼らそれぞれが一体ずつの神になってもいいほどである。
松陰の存在があまりにも大きすぎたために、42柱とごっちゃに祀られてしまったようだ。
金子重輔もここの神となっているが、もし私の推理が正しかったならば、一神教
の場合はややこしくなる。
幸い日本の神々は八百万だから、いくら重複してもかまわない。
松陰と竹院の肖像画を書いた松浦松洞も神になっているのは驚きである。
芸術家も英雄の自画像を書くことで、この国では神になれるのだ。
そう思っていたら、そうではなかった。
この絵描きは、松陰の密航挫折を受け、自ら米国密航を企てている。
なぜそれほどのアメリカへ行きたかったのだろうか。
松陰の遺志を盲目的に承継したということならありえるが、松陰斬首後に敢えてアメリカに日本人青年を送り込みたい社会の動機が見えてこない。
隠れキリシタンたちの画策という話なら、動機ははっきり見える。
日本国内では信仰も布教もままならないから、宗教同盟者としての救援を求めるためである。
宗教革命支援の要請として、銃や火器を求めるということもあっただろう。
現実に江戸時代の天草ではそれが行われていた。
天草郡に苓北町都呂々松浦河内という地名がある。
江戸期の町人には苗字はなかった。
萩の町人出身の青年亀太郎は、「松浦の姓」を一体どこから持ってきたものだろうか。
『(松浦松洞)天保8年(1837)~文久2年(1862)
尊攘派志士、画家。町人正之助の次男。
萩松本村船津出身。通称亀太郎。
少年期、京都の小田海僊に画法を学ぶ。
のち寄組士根来主馬の家来となる。
安政3年(1856)、20歳で村塾に入る。
同5年江戸に遊学、渡米を図り失敗する。
文久2年(1862)京都に上り、長井雅楽の公武合体論に反対して同志と暗殺を試みたが、京都藩邸の穴戸九郎兵衛に遮られ、粟田山の山中で割腹自殺した。
松陰肖像画の作者。』
(「松浦松洞(まつうら しょうどう)」より)
http://www.city.hagi.lg.jp/hagihaku/hikidashi/jinbutu/hito/new/matsuura.htm
松陰門下生ではないが、松陰の遺志を継いで米国渡航を企てている。
松陰は叔父の竹院や佐久間象山から渡米することに同意もしくは応援を得ていた。
松陰以外にどうしてもアメリカへ青年を送りたがっている個人か集団がいて、松陰なきあとに亀太郎を送ろうとしたとも考えられる。
萩の絵描き亀太郎のことをよく知っているものは、萩出身で松陰のおじである鎌倉の竹院和尚である。
しかも、松陰は亀太郎を鎌倉へ送り、竹院の自画像を描かせようとしていた。
それは松陰自身の発案によるもののようだ。
どうやら、亀太郎にアメリカへ行けと薦めたのは竹院和尚のようである。
藩校明倫館の兵学教授であった松陰神社の拝殿には、当初萩城内にあった八幡神社のものが移築されていた。
それは源氏の戦勝祈願神社であるから、松陰の生前の役職に相応しい。
なぜ萩城内にあった八幡神社が宮崎八幡なのかはわからない。
八幡宮と呼ばれる神社には応神天皇がまつられている。
神仏習合時代には八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と「菩薩名」が与えられた。
『八幡宮:誉田別命(八幡大神と称せられる第十五代応神天皇のこと)を祀る神社。
源氏の氏神様として、また武勇の神として崇められた。
総本社は大分県の宇佐見神社。
京都の石清水八幡宮・鎌倉の鶴岡八幡宮が著名。
信州では更埴市の武水別神社。佐久八幡神社がある。』
(「くすなみ木Yoga Studio Shanti Room」より)
http://kusunamikiyogastudio.miyachan.cc/e106700.html
総本社は大分県の宇佐見神社という。
「宇佐八幡宮」と通常は呼ぶが、「宇佐美神社」という名は間違いである。
正式名は「宇佐神宮」である。
正式名の最後に「宮」がつく神社は、「天皇または皇族を祭神とする神社」を指す。
総本社は大分にあるのに、南隣の宮崎の名を冠する八幡宮を毛利はなぜ祀ったのだろうか。
「宮崎八幡宮(留魂録 道楽日記)」というサイトに宮崎八幡宮のことが紹介されていた。
「留魂録」とは次の斬首前に松陰が詠んだ歌であるから、地元居住の著者の方は松陰と宮崎八幡宮の関係を思っていたのであろう。
『身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂 (松蔭)』
『宮崎の自宅から歩いて5分の場所だが、近すぎて逆に中々参拝できなかった。
今日、理容室へ行く前に図らずも参拝。
さすが15日だけあって七五三の参拝者が多くいた。
勿論、八幡宮なので、ご祭神は、誉田別尊(ほんだわけのみこと:応仁天皇)足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと:仲哀天皇)息長帯姫尊(おきながたらしひめのみこと:神功皇后)である。
このように、比売大神のかわりに、仲哀天皇を祀っている八幡宮もけっこうあるので覚えておきたい。
そして、唯一この神社に祀られているのが「橘大神」である。
祝詞の言霊を思い出していただきたい。・・・・筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原にに御禊祓ひ給ひし時に生れ坐る・・・・。
ここに登場する「橘」を大神として祀る。
ちなみに、小戸に・・・小戸神社、阿波岐原に江田神社。
そして、宮崎の橘通りの近くにあるこの八幡宮があり、「橘大神」が祀られているのだ。
しかし、その正体は不明らしい。
禊に登場する橘で、小戸(小門)から海へ通じることから推察すると、もろもろの禍事・罪・穢れを川(この場合大淀川)から海へ流す「祓戸の神」のお一人瀬織津比売神ではないだろうか。
ご神紋は、八幡宮なので、「三つ巴」だが、ちゃんと一緒に「丸に橘紋」(2つ目の神紋)も配されていた。
ちなみに小戸神社も「丸に橘」がご神紋である。』
(「宮崎八幡宮(留魂録 道楽日記)」より)
http://granpartita.cocolog-nifty.com/blog/cat39860791/index.html
井沢元彦著「逆説の日本史」では、比売神(ひめがみ)とは殺された卑弥呼ではないかという推理をしている。
宇佐八幡宮本殿には、応神と神功皇后に挟まれて、真ん中に比売神(卑弥呼)が配置されているという。
その推理によれば、応神と神功皇后に征服された怨霊という祀り方であり、滅亡した出雲族の神「大国主命」の祀り方に似ている。
怨霊鎮撫の目的の祭祀となろう。
Wikipedia記事は、「卑弥呼をはじめとして諸説ある。」とぼかして記述している。
『比売神(ひめがみ)は、神道の神である。
神社の祭神を示すときに、主祭神と並んで比売神(比売大神)、比咩神などと書かれる。
これは特定の神の名前ではなく、神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神を指すものである。
最も有名な比売神は八幡社の比売大神である。
宇佐神宮ほかではこれは宗像三神のことであるとしているが、八幡社の比売大神の正体については卑弥呼をはじめとして諸説ある。
春日大社に祀られる比売神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)の妻の天美津玉照比売命(あめのみつたまてるひめのみこと)である。
大日孁貴尊(アマテラス)を比売神としている神社もある。』
(比売神(Wikipedia)より)
宮崎八幡宮は、総本社宇佐八幡宮から分祀しているはずであるが、祭神から比売神(ひめがみ)を放り出して、正体不明の応神の父と言われる仲哀天皇を祀っている。
もし母神功と応神が何らかの理由で九州へ亡命してきたとすれば、王だった父は亡くなっており母子家庭として上陸したことになる。
九州博多周辺には北九州説によれば、これまた女帝卑弥呼が国を支配していた。
シャーマニズムの古代政治の形態だったのだろう。
神功と応神が、卑弥呼を殺して国を乗っ取ったと仮定すると、卑弥呼の怨霊を鎮める必要がある。
なぜ大分の山の中の宇佐に鎮めたかというと、そこが日本民族の先祖となる渡来人が最初に上陸した場所だったからだ。
宇佐八幡宮の本殿は今は神社境内にあるが、実は本当の本尊というか神は裏の小高い山の上にある岩である。
これもアジアで流行したシャーマニズムの信仰形態である。
宇佐八幡の神祇だったと記憶しているが、由来を示す書簡には、「我は渡来の神である」とはっきり書いてあるという。
ただ宮崎八幡宮を勧請した国生みの宮崎の人々は、比売神(ひめがみ)を放り出して、仲哀天皇を祀ったということになる。
毛利氏はそっちの八幡神の方が好きだったし、吉田松陰もそちらが好きだったということになろう。
熊襲退治に行ったといわれる仲哀天皇については次の記事で述べる。
毛利氏は「熊旗」という旗を掲げたと松陰は日記に書いていた。
SH3B0476これが末社の松門神社(萩城内にあった宮崎八幡の拝殿)
吉田松陰を祀る松陰神社本殿と松下村塾門下生たちを祀る松門神社である。
松陰神社に参詣したのだが、松門神社が境内にあることは始めて気づいた。
5~6回この境内に入ったことがあるのに、である。
「松陰.com」というずばりのサイトに詳しく紹介されていた。
硯と書簡がご神体である。
生身の遺体は白骨化してから晋作が世田谷の松陰神社横の楓の木の根もとの墓所へ埋葬した。
私は萩の松陰の墓を訪ねてみて、その前に晋作の草庵があること、松陰の遺骨回葬をして数ヵ月後に帰国して草庵に入っていることなどから、晋作は遺骨の一部を父母に渡し、萩の墓に分骨したのではないかと推測している。
物的証拠はないのだが、状況証拠からそう考えている。
松陰神社は国の宗教儀式であり、穢れを嫌う古い国の慣習からすれば、あえて遺骨は入れていないのだろう。
硯と書籍とは、学問の神様らしい。
『明治23年、松陰の実家・杉家の邸内に松陰の実兄杉民治が土蔵造りの小祠を建て、
松陰の愛用していた硯と松陰の書簡をご神体として祀ったのが萩・松陰神社の始まり。
明治40年、共に松下村塾出身の伊藤博文と野村靖が中心となって神社創建を請願し、萩城内にあった宮崎八幡の拝殿を移築して土蔵造りの本殿に付し、同時に県社に列格した。
現在の社殿は昭和30年に新しく建てられたもの。
創建当時の土蔵造りの旧社殿は、現在、高杉晋作や久坂玄瑞など松下村塾の門人たちを祭る末社・松門神社となっている。
学問の神として萩で最も崇敬を集める神社であり、正月には多くの初詣客が訪れる。』
(吉田松陰の史跡を巡る旅 松陰.com)より)
http://www.yoshida-shoin.com/monka/shiseki-hagi.html
「松陰の実兄杉民治が創った土蔵造りの小祠」が現在は門弟を祭る松門神社となっているそうだが、民治が自ら作った小祠はもっと素朴で小さいものだっただろう。
やがて寄付などを集めて徐々に現在の立派な土蔵造りになったものと推測する。
松陰神社本殿については、ちょっと理解しづらい表現があった。
日露戦争が1904年(明治37年)2月8日~1905年(明治38年)9月5日だったので、本殿改装は戦勝祝いの目的もあったのであろう。
『明治40年、共に松下村塾出身の伊藤博文と野村靖が中心となって神社創建を請願し、萩城内にあった宮崎八幡の拝殿を移築して土蔵造りの本殿に付し、同時に県社に列格した。
現在の社殿は昭和30年に新しく建てられたもの。』
萩城内にあった宮崎八幡の拝殿を民治の造った土蔵造りの本殿に付け足したようである。
しかし、その拝殿も昭和30年には新しく創建されというから、今見ている拝殿がそれである。
しかもその奥にあった本殿は、松門神社になっているのだから、本殿社屋もこのときに新築されてご神体だけそこに「残った」ということになる。
民治の松陰を祀る素朴な心は、今は弟たちを祀っていることになる。
「ちょっと違うのではないか?」と、私は思うのであるが、国家とはそういう個人的なセンチメンタルを排除するものなのだろう。
私ならあくまで奥の院の配置する本殿は粗末であっても民治の手作りの土蔵造りの小祠とする。
朽ちてくれば、外周を建造物で覆えばよい。
椎原の貧しい家屋で育ち、日本国独立のために命を投じた志士が、いかに貧しい生活の中にいたかということを残しておくべきだ。
西陣織のきらびやかな衣装を着て飽食しつつ扇で歯を隠して笑う人々から見れば、想像もつかないほどの貧困の中で『松陰』は生まれた。
それを忘れさせるべきではない。
上の記事では宮崎八幡の拝殿がいったいどこへいったのかと気になっていたが、松門神社本殿がそれであると書いた記事を見つけた。
『松門神社
所在地:山口県萩市椿東松本(松陰神社境内)
松陰神社の新社殿が昭和30年10月26日に完成したため、旧社殿及び鳥居を松陰神社の北隣に移築し、翌31年に、吉田松陰の門人を祭神とする末社・松門神社が創建されました。
この社殿は、もともとは萩城内にあった宮崎八幡宮の拝殿だったものです。
祭神四十二柱は以下の人々です。
高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一、金子重輔、伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎、前原一誠、松浦松洞、玉木彦介、馬島甫仙、野村靖、山田顕義、木戸孝允、寺島忠三郎、時山直八、杉山松助、松本鼎、飯田正伯、増野徳民、尾寺新之丞、阿座上正蔵、渡辺蒿蔵、天野御民、有吉熊次郎、飯田吉次郎、境二郎、河北義次郎、久保断三、国司仙吉、駒井政五郎、諫早生二、井関美清、岡部富太郎、滝弥太郎、妻木寿之進、中谷正亮、弘勝之助、堀潜太郎、正木退蔵、横山幾太』
(「松門神社 幕末史跡探訪・山口県」より)
http://blog.goo.ne.jp/hayate0723/e/fa38a6a8ec79fb20d734dbf8cdba636a
高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿の松門三秀を神とすることに私は異論はない。
彼らそれぞれが一体ずつの神になってもいいほどである。
松陰の存在があまりにも大きすぎたために、42柱とごっちゃに祀られてしまったようだ。
金子重輔もここの神となっているが、もし私の推理が正しかったならば、一神教
の場合はややこしくなる。
幸い日本の神々は八百万だから、いくら重複してもかまわない。
松陰と竹院の肖像画を書いた松浦松洞も神になっているのは驚きである。
芸術家も英雄の自画像を書くことで、この国では神になれるのだ。
そう思っていたら、そうではなかった。
この絵描きは、松陰の密航挫折を受け、自ら米国密航を企てている。
なぜそれほどのアメリカへ行きたかったのだろうか。
松陰の遺志を盲目的に承継したということならありえるが、松陰斬首後に敢えてアメリカに日本人青年を送り込みたい社会の動機が見えてこない。
隠れキリシタンたちの画策という話なら、動機ははっきり見える。
日本国内では信仰も布教もままならないから、宗教同盟者としての救援を求めるためである。
宗教革命支援の要請として、銃や火器を求めるということもあっただろう。
現実に江戸時代の天草ではそれが行われていた。
天草郡に苓北町都呂々松浦河内という地名がある。
江戸期の町人には苗字はなかった。
萩の町人出身の青年亀太郎は、「松浦の姓」を一体どこから持ってきたものだろうか。
『(松浦松洞)天保8年(1837)~文久2年(1862)
尊攘派志士、画家。町人正之助の次男。
萩松本村船津出身。通称亀太郎。
少年期、京都の小田海僊に画法を学ぶ。
のち寄組士根来主馬の家来となる。
安政3年(1856)、20歳で村塾に入る。
同5年江戸に遊学、渡米を図り失敗する。
文久2年(1862)京都に上り、長井雅楽の公武合体論に反対して同志と暗殺を試みたが、京都藩邸の穴戸九郎兵衛に遮られ、粟田山の山中で割腹自殺した。
松陰肖像画の作者。』
(「松浦松洞(まつうら しょうどう)」より)
http://www.city.hagi.lg.jp/hagihaku/hikidashi/jinbutu/hito/new/matsuura.htm
松陰門下生ではないが、松陰の遺志を継いで米国渡航を企てている。
松陰は叔父の竹院や佐久間象山から渡米することに同意もしくは応援を得ていた。
松陰以外にどうしてもアメリカへ青年を送りたがっている個人か集団がいて、松陰なきあとに亀太郎を送ろうとしたとも考えられる。
萩の絵描き亀太郎のことをよく知っているものは、萩出身で松陰のおじである鎌倉の竹院和尚である。
しかも、松陰は亀太郎を鎌倉へ送り、竹院の自画像を描かせようとしていた。
それは松陰自身の発案によるもののようだ。
どうやら、亀太郎にアメリカへ行けと薦めたのは竹院和尚のようである。
藩校明倫館の兵学教授であった松陰神社の拝殿には、当初萩城内にあった八幡神社のものが移築されていた。
それは源氏の戦勝祈願神社であるから、松陰の生前の役職に相応しい。
なぜ萩城内にあった八幡神社が宮崎八幡なのかはわからない。
八幡宮と呼ばれる神社には応神天皇がまつられている。
神仏習合時代には八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と「菩薩名」が与えられた。
『八幡宮:誉田別命(八幡大神と称せられる第十五代応神天皇のこと)を祀る神社。
源氏の氏神様として、また武勇の神として崇められた。
総本社は大分県の宇佐見神社。
京都の石清水八幡宮・鎌倉の鶴岡八幡宮が著名。
信州では更埴市の武水別神社。佐久八幡神社がある。』
(「くすなみ木Yoga Studio Shanti Room」より)
http://kusunamikiyogastudio.miyachan.cc/e106700.html
総本社は大分県の宇佐見神社という。
「宇佐八幡宮」と通常は呼ぶが、「宇佐美神社」という名は間違いである。
正式名は「宇佐神宮」である。
正式名の最後に「宮」がつく神社は、「天皇または皇族を祭神とする神社」を指す。
総本社は大分にあるのに、南隣の宮崎の名を冠する八幡宮を毛利はなぜ祀ったのだろうか。
「宮崎八幡宮(留魂録 道楽日記)」というサイトに宮崎八幡宮のことが紹介されていた。
「留魂録」とは次の斬首前に松陰が詠んだ歌であるから、地元居住の著者の方は松陰と宮崎八幡宮の関係を思っていたのであろう。
『身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂 (松蔭)』
『宮崎の自宅から歩いて5分の場所だが、近すぎて逆に中々参拝できなかった。
今日、理容室へ行く前に図らずも参拝。
さすが15日だけあって七五三の参拝者が多くいた。
勿論、八幡宮なので、ご祭神は、誉田別尊(ほんだわけのみこと:応仁天皇)足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと:仲哀天皇)息長帯姫尊(おきながたらしひめのみこと:神功皇后)である。
このように、比売大神のかわりに、仲哀天皇を祀っている八幡宮もけっこうあるので覚えておきたい。
そして、唯一この神社に祀られているのが「橘大神」である。
祝詞の言霊を思い出していただきたい。・・・・筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原にに御禊祓ひ給ひし時に生れ坐る・・・・。
ここに登場する「橘」を大神として祀る。
ちなみに、小戸に・・・小戸神社、阿波岐原に江田神社。
そして、宮崎の橘通りの近くにあるこの八幡宮があり、「橘大神」が祀られているのだ。
しかし、その正体は不明らしい。
禊に登場する橘で、小戸(小門)から海へ通じることから推察すると、もろもろの禍事・罪・穢れを川(この場合大淀川)から海へ流す「祓戸の神」のお一人瀬織津比売神ではないだろうか。
ご神紋は、八幡宮なので、「三つ巴」だが、ちゃんと一緒に「丸に橘紋」(2つ目の神紋)も配されていた。
ちなみに小戸神社も「丸に橘」がご神紋である。』
(「宮崎八幡宮(留魂録 道楽日記)」より)
http://granpartita.cocolog-nifty.com/blog/cat39860791/index.html
井沢元彦著「逆説の日本史」では、比売神(ひめがみ)とは殺された卑弥呼ではないかという推理をしている。
宇佐八幡宮本殿には、応神と神功皇后に挟まれて、真ん中に比売神(卑弥呼)が配置されているという。
その推理によれば、応神と神功皇后に征服された怨霊という祀り方であり、滅亡した出雲族の神「大国主命」の祀り方に似ている。
怨霊鎮撫の目的の祭祀となろう。
Wikipedia記事は、「卑弥呼をはじめとして諸説ある。」とぼかして記述している。
『比売神(ひめがみ)は、神道の神である。
神社の祭神を示すときに、主祭神と並んで比売神(比売大神)、比咩神などと書かれる。
これは特定の神の名前ではなく、神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神を指すものである。
最も有名な比売神は八幡社の比売大神である。
宇佐神宮ほかではこれは宗像三神のことであるとしているが、八幡社の比売大神の正体については卑弥呼をはじめとして諸説ある。
春日大社に祀られる比売神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)の妻の天美津玉照比売命(あめのみつたまてるひめのみこと)である。
大日孁貴尊(アマテラス)を比売神としている神社もある。』
(比売神(Wikipedia)より)
宮崎八幡宮は、総本社宇佐八幡宮から分祀しているはずであるが、祭神から比売神(ひめがみ)を放り出して、正体不明の応神の父と言われる仲哀天皇を祀っている。
もし母神功と応神が何らかの理由で九州へ亡命してきたとすれば、王だった父は亡くなっており母子家庭として上陸したことになる。
九州博多周辺には北九州説によれば、これまた女帝卑弥呼が国を支配していた。
シャーマニズムの古代政治の形態だったのだろう。
神功と応神が、卑弥呼を殺して国を乗っ取ったと仮定すると、卑弥呼の怨霊を鎮める必要がある。
なぜ大分の山の中の宇佐に鎮めたかというと、そこが日本民族の先祖となる渡来人が最初に上陸した場所だったからだ。
宇佐八幡宮の本殿は今は神社境内にあるが、実は本当の本尊というか神は裏の小高い山の上にある岩である。
これもアジアで流行したシャーマニズムの信仰形態である。
宇佐八幡の神祇だったと記憶しているが、由来を示す書簡には、「我は渡来の神である」とはっきり書いてあるという。
ただ宮崎八幡宮を勧請した国生みの宮崎の人々は、比売神(ひめがみ)を放り出して、仲哀天皇を祀ったということになる。
毛利氏はそっちの八幡神の方が好きだったし、吉田松陰もそちらが好きだったということになろう。
熊襲退治に行ったといわれる仲哀天皇については次の記事で述べる。
毛利氏は「熊旗」という旗を掲げたと松陰は日記に書いていた。
稔丸と出会った幽囚室~長州(116) [萩の吉田松陰]
SH3B0472元は4畳半だった幽囚室
『幽囚室
幽囚室は現在三畳半であるが、もともと四畳半あったものに神棚が作られてこのようになった。
但し、仏壇は後世のものである。
松陰は伊豆(静岡県)下田でアメリカ軍艦による海外渡航に失敗して江戸の牢に入れられ、ついで萩に送られて一年余の間藩牢野山獄に投じられた。
安政二年(一八五五)十二月十五日に釈放されて父杉百合之助預けとなり、この一室に謹慎して読書と著述に専念した。
その間一年半ばかり講義も行った。
出獄の翌々日から父兄と伯父久保五郎左衛門の申出により「孟子」の講義を始めた。
「孟子」は松陰がすでに獄中で講じていたもので、これを続けることにより講義を完成せしめるためもあって、のちに、講義録「講孟余話」は松陰の主著の一つとなった。
五郎左衛門に請われてその主宰する松下村塾(久保塾)のために「松下村塾記」を作り、自分の教育理想をその中に盛り込んだが、まもなく久保塾の年長者や近所の者もしだいに松陰の許に来て学ぶようになり、やがて松陰は事実上松下村塾を主宰するに至るのである。
安政四年十一月五日松下村塾の建物に移るが、翌年十一月二十九日再びここに「厳囚」された。
幕府の老中間部詮勝の要撃を企てたため「学術不純にして人心を動揺せしむ」という理由であって、のち野山獄に再投獄、ついで江戸に移送されて、刑死したのは数え年三十歳であった。』
(「吉田松陰幽囚の旧宅(杉家旧宅)」より)
http://blog.goo.ne.jp/hayate0723/e/6c8b0347baf3fa17ca989e7d8134a430
松陰が幽囚されていた頃は、おそらく四畳半だったようだ。
神棚と仏壇に1畳取られてしまい、今は3畳半として衆目に晒されている。
実家預かりの身となった翌々日、父、兄、叔父の「申出」に応えて「孟子」の講義をこの部屋で行ったのが、松下村塾の始まりとなる。
やがて、近所の身分の低い子等が学びにやってきた。
吉田稔麿こと「稔丸」も、ここにやってきた苗字を持たない足軽の子だった。
稔丸は久保五郎左衛門の主催する松下村塾に通っていた16歳の少年だった。
松陰が野山獄から出て実家預かりとなったことが、少年稔丸の人生を大きく変えることになる。
久坂玄瑞といい、ともかく松陰という青年と出会ったまじめな人間たちは、ほとんどが命を捨てる羽目に陥っている。
安政元年の野山獄投獄によって、松下村塾から人知れず遠ざかった少年もいたようだ。
おそらく世間体を重んじる親がその子を塾にいかせなくしたのであろう。
学生運動は全部が赤軍になると恐れ、わが子に学生運動だけはしないように懇願していた1970年代の日本の親たちに似た親が幕末にもいたのだ。
その親の判断はある意味では間違っていなかった。
そのまま子が松下村塾に通っていたら、どん大罪人に仕立てあげられたかわからない。
そしておそらくは悲惨な死に目にあうだろう。
しかし、伊藤博文のように足軽の子が総理大臣になってしまうことも起きたのだから、塾から逃げたのが本当によかったかどうかはわからない。
稔丸は池田屋事件で殺害され、もしくは負傷し自刃したが、その名は後世に語り継がれることになった。
吉田稔麿の最後については諸説ある。
なぜ諸説残ったのだろうか。
大方の志士の最後は記録されているが、不思議にこの子の最後はあいまいである。
明治以降の人々が、はっきりと言いたくないような最後だったのだろうか。
松陰は門弟の稔丸を「高等の人物」と評している。
『1841年(天保12年)閏1月24日、長州藩下級武士(足軽)の吉田清内の嫡子として萩松本新道に生まれる。
吉田姓は自称(正式な姓となったのは文久年間)。幼名は栄太郎。
久保五郎左衛門の松下村塾に学んだ後、江戸藩邸に小者として仕え、安政3年2月に帰郷。同年11月、16歳で幽室にあった吉田松陰に師事する。
真摯な態度で学問を求める姿勢は松陰を喜ばせ、深く愛されたという。
『実甫の才は縦横無尽なり。暢夫は陽頑、無逸は陰頑にして皆人の駕馭を受けざる高等の人物なり (途中略) 常にこの三人を推すべし』
上記は、師である吉田松陰による久坂玄瑞(実甫)、高杉晋作(暢夫)、吉田稔麿(無逸)の三人を比較しながらの人物評。
この三人を『松陰門下の三秀』、入江九一を加えて『松門四天王』と呼ぶ。
また、松浦松洞(無窮)、増野徳民(無咎)と共に『松門三無生』とも言われる。
安政4年9月末には藩命で江戸に出て、久坂玄瑞・松浦松洞らと共に江戸における最新の情報を萩に送る傍ら、桂小五郎とも親交を結び、斎藤弥九郎の道場・練兵館で剣を学んだ(神道無念流)。
安政の大獄に連座して松陰が江戸で刑死した後、万延元年10月に突如脱藩して江戸へ。旗本・妻木田宮の用人となり、幕閣の情報収集に携わる。
この半ば公然たる脱藩は、幕府の内情を探れとの藩命があったといわれる。
文久2年夏、長州藩に禁闕守護の役が下ると同時に帰藩。
その後の志士としての活動はめざましく、本格的に尊皇攘夷運動の渦中に身を投じる。
文久3年6月6日、奇兵隊に参加。
翌月には士籍に加えられ、藩から屠勇取建方引受に任ぜられる。
8月18日に京都朝廷内で起こった政変で失脚した長州藩と幕府との調停工作の為、江戸・京都を奔走するが、元治元年6月5日、京都三条小橋の池田屋にて他の志士たちと談合中、新選組の襲撃を受けてしまう。
包囲網を突破、池田屋から逃れることに成功するが、河原町の長州藩邸の門が閉ざされていた為、その場で自刃したという。
または、包囲網を切り抜けて長州藩邸に注進に走り、手槍を持って再び池田屋に向かう途中、加賀藩邸前で多数の敵に出くわして闘死したとする説もある。
また、最近では、これまで殆ど取り上げられる事のなかった池田屋事件直後に認められた稔麿の周辺人物の書簡史料等より導き出された新説として、新選組襲撃時には稔麿は池田屋にはおらず一旦藩邸に戻っており、事件の報せを受けて長州藩邸を飛び出し、池田屋に向かう途中で会津藩兵等に遭遇して討死したとする説もある。
享年24歳。明治24年、贈従四位。
松下村塾から徒歩3分。
現在は石碑しか残されておらず、幼馴染みの伊藤博文が遊びに来て登っていたことから「大臣松」と呼ばれた有名な松の木(当時は吉田家の庭にあった)もなくなっているが、来栖守衛著『松陰先生と吉田稔麿』にて昭和初期に存在した旧家の写真を見ることが出来る。
石碑は「吉田稔丸誕生地」となっているが、麿と丸は当時よく混同された為、間違いという訳ではない。』
(「吉田稔麿誕生地」より)
http://www.fan.hi-ho.ne.jp/gary/toshimaro_s.htm
苗字を持たなかった足軽の子稔丸は、松陰の通知表によれば久坂玄瑞、高杉晋作と並んで松門三秀人の中に入っている。
久坂玄瑞や高杉晋作は生まれから士分である。
稔丸は生まれながらの足軽の子で苗字を持たない。
苗字を持つことを藩から許されたのは松陰の死後、文久3年のことである。
つまり、松陰が稔丸と士分の二人と並べて誉めていた時分の稔丸は苗字を持たない足軽の子のままであった。
それだけ頭脳がずば抜けて優秀だった少年だと言えよう。
松陰の刑死後、稔丸は「公然たる脱藩により、幕府の内情を探れとの藩命があった」ようで、毛利のスパイとして江戸で幕府要人調査に当たっている。
師の仇を討とうと稔丸の血が踊る様子や旅立ちの日の彼の胸の動悸まで聞こえてくるようである。
幼馴染みの伊藤博文が遊びに来て登っていた松が稔丸の家にあったそうだが、もし稔丸が生存していれば間違いなく初代総理大臣になっていただろう。
伊藤は斡旋上手だったから、今でいう経済産業大臣か外務大臣が似合っていたと思われる。
それが優秀な松門人材があれよあれよと死んでいくので、伊藤の遊んだ松が「総理大臣松」になってしまうのだから、運命とは面白い。
伊藤にしてみれば、気がついたらいつのまにか自分だけしかその松に残っていなかったということだ。
稔丸にしても利助(伊藤博文)にしても足軽の子だった。
松陰は足軽を総理大臣にすることを既に決めていたのではないだろうか。
稔丸が初代総理大臣になっただろうという予想は大方当たっている。
しかし、稔丸が死んだから萩藩から利助しか総理大臣候補がいなくなったとは考えにくい。
なんらかの松陰による強引な遺言が存在していたのではないか。
松門の足軽出身者にせよと。
万民が誰でも大統領になれるアメリカの政治力学を佐久間象山や平戸藩などから見聞して松陰は知っていたはずだ。
これだけは譲れないと木戸孝允に伝えていたのであろうか。
足軽総理大臣によって、ともかく独立国日本国は誕生した。
『幽囚室
幽囚室は現在三畳半であるが、もともと四畳半あったものに神棚が作られてこのようになった。
但し、仏壇は後世のものである。
松陰は伊豆(静岡県)下田でアメリカ軍艦による海外渡航に失敗して江戸の牢に入れられ、ついで萩に送られて一年余の間藩牢野山獄に投じられた。
安政二年(一八五五)十二月十五日に釈放されて父杉百合之助預けとなり、この一室に謹慎して読書と著述に専念した。
その間一年半ばかり講義も行った。
出獄の翌々日から父兄と伯父久保五郎左衛門の申出により「孟子」の講義を始めた。
「孟子」は松陰がすでに獄中で講じていたもので、これを続けることにより講義を完成せしめるためもあって、のちに、講義録「講孟余話」は松陰の主著の一つとなった。
五郎左衛門に請われてその主宰する松下村塾(久保塾)のために「松下村塾記」を作り、自分の教育理想をその中に盛り込んだが、まもなく久保塾の年長者や近所の者もしだいに松陰の許に来て学ぶようになり、やがて松陰は事実上松下村塾を主宰するに至るのである。
安政四年十一月五日松下村塾の建物に移るが、翌年十一月二十九日再びここに「厳囚」された。
幕府の老中間部詮勝の要撃を企てたため「学術不純にして人心を動揺せしむ」という理由であって、のち野山獄に再投獄、ついで江戸に移送されて、刑死したのは数え年三十歳であった。』
(「吉田松陰幽囚の旧宅(杉家旧宅)」より)
http://blog.goo.ne.jp/hayate0723/e/6c8b0347baf3fa17ca989e7d8134a430
松陰が幽囚されていた頃は、おそらく四畳半だったようだ。
神棚と仏壇に1畳取られてしまい、今は3畳半として衆目に晒されている。
実家預かりの身となった翌々日、父、兄、叔父の「申出」に応えて「孟子」の講義をこの部屋で行ったのが、松下村塾の始まりとなる。
やがて、近所の身分の低い子等が学びにやってきた。
吉田稔麿こと「稔丸」も、ここにやってきた苗字を持たない足軽の子だった。
稔丸は久保五郎左衛門の主催する松下村塾に通っていた16歳の少年だった。
松陰が野山獄から出て実家預かりとなったことが、少年稔丸の人生を大きく変えることになる。
久坂玄瑞といい、ともかく松陰という青年と出会ったまじめな人間たちは、ほとんどが命を捨てる羽目に陥っている。
安政元年の野山獄投獄によって、松下村塾から人知れず遠ざかった少年もいたようだ。
おそらく世間体を重んじる親がその子を塾にいかせなくしたのであろう。
学生運動は全部が赤軍になると恐れ、わが子に学生運動だけはしないように懇願していた1970年代の日本の親たちに似た親が幕末にもいたのだ。
その親の判断はある意味では間違っていなかった。
そのまま子が松下村塾に通っていたら、どん大罪人に仕立てあげられたかわからない。
そしておそらくは悲惨な死に目にあうだろう。
しかし、伊藤博文のように足軽の子が総理大臣になってしまうことも起きたのだから、塾から逃げたのが本当によかったかどうかはわからない。
稔丸は池田屋事件で殺害され、もしくは負傷し自刃したが、その名は後世に語り継がれることになった。
吉田稔麿の最後については諸説ある。
なぜ諸説残ったのだろうか。
大方の志士の最後は記録されているが、不思議にこの子の最後はあいまいである。
明治以降の人々が、はっきりと言いたくないような最後だったのだろうか。
松陰は門弟の稔丸を「高等の人物」と評している。
『1841年(天保12年)閏1月24日、長州藩下級武士(足軽)の吉田清内の嫡子として萩松本新道に生まれる。
吉田姓は自称(正式な姓となったのは文久年間)。幼名は栄太郎。
久保五郎左衛門の松下村塾に学んだ後、江戸藩邸に小者として仕え、安政3年2月に帰郷。同年11月、16歳で幽室にあった吉田松陰に師事する。
真摯な態度で学問を求める姿勢は松陰を喜ばせ、深く愛されたという。
『実甫の才は縦横無尽なり。暢夫は陽頑、無逸は陰頑にして皆人の駕馭を受けざる高等の人物なり (途中略) 常にこの三人を推すべし』
上記は、師である吉田松陰による久坂玄瑞(実甫)、高杉晋作(暢夫)、吉田稔麿(無逸)の三人を比較しながらの人物評。
この三人を『松陰門下の三秀』、入江九一を加えて『松門四天王』と呼ぶ。
また、松浦松洞(無窮)、増野徳民(無咎)と共に『松門三無生』とも言われる。
安政4年9月末には藩命で江戸に出て、久坂玄瑞・松浦松洞らと共に江戸における最新の情報を萩に送る傍ら、桂小五郎とも親交を結び、斎藤弥九郎の道場・練兵館で剣を学んだ(神道無念流)。
安政の大獄に連座して松陰が江戸で刑死した後、万延元年10月に突如脱藩して江戸へ。旗本・妻木田宮の用人となり、幕閣の情報収集に携わる。
この半ば公然たる脱藩は、幕府の内情を探れとの藩命があったといわれる。
文久2年夏、長州藩に禁闕守護の役が下ると同時に帰藩。
その後の志士としての活動はめざましく、本格的に尊皇攘夷運動の渦中に身を投じる。
文久3年6月6日、奇兵隊に参加。
翌月には士籍に加えられ、藩から屠勇取建方引受に任ぜられる。
8月18日に京都朝廷内で起こった政変で失脚した長州藩と幕府との調停工作の為、江戸・京都を奔走するが、元治元年6月5日、京都三条小橋の池田屋にて他の志士たちと談合中、新選組の襲撃を受けてしまう。
包囲網を突破、池田屋から逃れることに成功するが、河原町の長州藩邸の門が閉ざされていた為、その場で自刃したという。
または、包囲網を切り抜けて長州藩邸に注進に走り、手槍を持って再び池田屋に向かう途中、加賀藩邸前で多数の敵に出くわして闘死したとする説もある。
また、最近では、これまで殆ど取り上げられる事のなかった池田屋事件直後に認められた稔麿の周辺人物の書簡史料等より導き出された新説として、新選組襲撃時には稔麿は池田屋にはおらず一旦藩邸に戻っており、事件の報せを受けて長州藩邸を飛び出し、池田屋に向かう途中で会津藩兵等に遭遇して討死したとする説もある。
享年24歳。明治24年、贈従四位。
松下村塾から徒歩3分。
現在は石碑しか残されておらず、幼馴染みの伊藤博文が遊びに来て登っていたことから「大臣松」と呼ばれた有名な松の木(当時は吉田家の庭にあった)もなくなっているが、来栖守衛著『松陰先生と吉田稔麿』にて昭和初期に存在した旧家の写真を見ることが出来る。
石碑は「吉田稔丸誕生地」となっているが、麿と丸は当時よく混同された為、間違いという訳ではない。』
(「吉田稔麿誕生地」より)
http://www.fan.hi-ho.ne.jp/gary/toshimaro_s.htm
苗字を持たなかった足軽の子稔丸は、松陰の通知表によれば久坂玄瑞、高杉晋作と並んで松門三秀人の中に入っている。
久坂玄瑞や高杉晋作は生まれから士分である。
稔丸は生まれながらの足軽の子で苗字を持たない。
苗字を持つことを藩から許されたのは松陰の死後、文久3年のことである。
つまり、松陰が稔丸と士分の二人と並べて誉めていた時分の稔丸は苗字を持たない足軽の子のままであった。
それだけ頭脳がずば抜けて優秀だった少年だと言えよう。
松陰の刑死後、稔丸は「公然たる脱藩により、幕府の内情を探れとの藩命があった」ようで、毛利のスパイとして江戸で幕府要人調査に当たっている。
師の仇を討とうと稔丸の血が踊る様子や旅立ちの日の彼の胸の動悸まで聞こえてくるようである。
幼馴染みの伊藤博文が遊びに来て登っていた松が稔丸の家にあったそうだが、もし稔丸が生存していれば間違いなく初代総理大臣になっていただろう。
伊藤は斡旋上手だったから、今でいう経済産業大臣か外務大臣が似合っていたと思われる。
それが優秀な松門人材があれよあれよと死んでいくので、伊藤の遊んだ松が「総理大臣松」になってしまうのだから、運命とは面白い。
伊藤にしてみれば、気がついたらいつのまにか自分だけしかその松に残っていなかったということだ。
稔丸にしても利助(伊藤博文)にしても足軽の子だった。
松陰は足軽を総理大臣にすることを既に決めていたのではないだろうか。
稔丸が初代総理大臣になっただろうという予想は大方当たっている。
しかし、稔丸が死んだから萩藩から利助しか総理大臣候補がいなくなったとは考えにくい。
なんらかの松陰による強引な遺言が存在していたのではないか。
松門の足軽出身者にせよと。
万民が誰でも大統領になれるアメリカの政治力学を佐久間象山や平戸藩などから見聞して松陰は知っていたはずだ。
これだけは譲れないと木戸孝允に伝えていたのであろうか。
足軽総理大臣によって、ともかく独立国日本国は誕生した。
意外と広い椿東(ちんとう)~長州(115) [萩の吉田松陰]
SH3B0462もうひとつの「吉田松陰幽囚旧宅」の説明板
SH3B0464庭の灯篭
SH3B0468落ち着いた座敷と庭
椿東(〒)
もうひとつの「吉田松陰幽囚旧宅」の説明板があった。
これは旧宅の縁側においてあったもので、文言も先のものより多い。
重複はあるものの、敢えてここに抜粋する。
『吉田松陰幽囚旧宅
この建物は吉田松陰の父杉百合之助(無給士、家禄26石)の旧宅である。
初め親族の瀬能吉次郎(無給士、家禄49石余)の所有であったのでかなり大きい建物であって、畳の間11室の他板の間、物置、土間がある。
茶室は明治時代の増築であるが、その他は原形をよくとどめている。
松陰は天保元年(1830)近くの東光寺山のふもと団子岩に百合之助の二男として生まれ、一家は嘉永元年(1848)松本清水口の親族高洲家に同居し、さらに嘉永6年松本新道のこの借家に移った。
百合之助は天保14年(1843)以来、百人中間兼盗賊改方という役(現在の警察署長に相当)に任せられていたが、松陰刑死後の万延元年(1860)松陰に対する監督不行届きの故を持て逼塞に処せられ、次いで退隠を命じられたので、長男梅太郎(民治)が杉家を継いだ。
松陰は安政元年(1845)野山獄で「二十一回猛士説」を書いてから、「二十一回猛士」の別号を用い、また「二十一回叢書」をまとめている。
「団子岩の杉家墓地にある墓には遺言により表に「松陰二十一回猛士墓」と刻まれ、生前四猛を実践した、すなわち脱藩東北遊歴は杉家の清水水口時代、外防建白書提出、海外渡航計画、老中間部詮勝要撃策はいづれも杉家の新道時代のことであった。』(抜粋終わり)
「四猛を実践」の意味はわからないが、孟子の教えの実践を指すのかと思ったが、その場合は「四孟」である。
「猛々しいことの4点」とは何のことだろうか。
文脈から見ると、「野山獄に入ってから四猛を実践した」と読める。
すでに述べたことだが、二十一回は「吉田」の文字を筆毎にばらして組み合わせ直したものである。
松陰自身を指す。
萩の地名で私の中に大きな混乱が生じている。
それは「椿東」という地名が指す場所が3~4km離れたところに2箇所あるからだ。
ひとつは、松陰神社境内にある松陰幽囚旧宅の所在地を萩市大字椿東と表記している。
もうひとつは地図にもはっきりと書いているが、椿東という地名が松陰神社の北方3~4kmのところ、笠山入口の半島のくびれにある。
ここも萩市椿東という。
私は松陰神社境内にある杉家旧宅というのが、笠山入口にあったものを神社境内へ移築したものと思っていた。
その前は、神社の東の山の中腹にある椎原の生誕地の家屋を下へ降ろして移築したものとばかり思っていた。
ところが、神社内にある旧宅説明を読むと旧宅は「松本新道」にあったと書いてある。
「嘉永元年(1848)松本清水口の親族高洲家に同居し、さらに嘉永6年松本新道のこの借家に移った。」とあるから、一時期は借家住まい、後に神社境内のこの借家に入ってそこで幽囚されたということになる。
前の記事に抜粋した説明文には、旧宅住所を「所在地 萩市大字椿東字新道」と書いてあるから、松本新道が椿東の中にあることになる。
ならば、笠山入口の椿東と神社周辺の椿東は同じ地区名なのであろうか。
いずれも松本川東岸になるが、南北に4kmほどの広がりを持つ広い地域を指す地名ということになる。
萩市椿東の〒は758-0011である。
これでgoogle mapを見ると、笠山入口の椿東地区と松陰神社のちょうど中間点を指している。やはり、南北に長い地名だったようだ。
萩で「椿東」といっても、いささか広うござんすということなのだろう。
文久年間に苗字を藩から許されるまでは吉田稔麿は「吉田稔丸」と称していたそうだ。
彼の紹介文の中に「松本新道」について詳しく出ていた。
『松陰神社を出て左に曲がり、そのまま神社の壁沿いを歩いて行くと、道はやや上り坂な、 くねくねとした道になります。
江戸時代には、この道を松本新道と呼んでいました。
この松本新道を少し歩くと、一般住宅の前に、石碑があります。
石碑には、吉田稔丸誕生地と書いてありますが、古い書き方では吉田稔麿と書きます。
吉田稔麿(よしだとしまる)は、 1841年(天保十二年)に生まれました。
吉田松陰とは親戚関係ではありません。
幼い頃から、近くの寺に遊びに行くと、お経を覚えるくらいの神童だったそうです。
しかし、父親は、「又書物を見るか、学問すると役目の妨げになる、止めろ」と 書物を取り上げていたそうです。
父親は、足軽の身分でした。
江戸時代の身分制度では、 いくら神童でも、士(さむらい)の家に 養子に行かない限り、藩校明倫館で学ぶことはできません。
学問が好きだった稔麿は松下村塾に入り、松陰に学びます。
吉田松陰は、もともと、身分の違いに疑問を感じていた人でした。
ですから、学びたい人は誰でも松下村塾に入れます。
稔麿の優秀さは、松下村塾門下生の中でも群を抜き、 高杉晋作・ 久坂玄瑞と、松下村塾の 三秀(さんしゅう)と言われていました。
萩藩では、幕末になると、足軽や中間の身分でも 優秀な者は士(さむらい)に昇進することができました。ただし一代限りです。
稔麿も萩藩の士(さむらい)となりましたが、 1864年(文久四年六月五日)、京都の池田屋という旅館で新選組に襲われた傷がもとで、 二十四歳の若さで亡くなりました。
息子を亡くした母親は、「稔麿は私にやさしくしてくれました。
『母様が下駄の緒をしっかり結んで下さったから、大変歩きやすくて、長旅にも少しも疲れませんでした。』と、手紙に書いてありました。」と語っていたそうです。』
(「吉田稔丸(よしだとしまる)誕生地」より)
http://www.hagi.ne.jp/kanko/shouin_03.html
椿東地区は親孝行の子が多かった。
SH3B0464庭の灯篭
SH3B0468落ち着いた座敷と庭
椿東(〒)
もうひとつの「吉田松陰幽囚旧宅」の説明板があった。
これは旧宅の縁側においてあったもので、文言も先のものより多い。
重複はあるものの、敢えてここに抜粋する。
『吉田松陰幽囚旧宅
この建物は吉田松陰の父杉百合之助(無給士、家禄26石)の旧宅である。
初め親族の瀬能吉次郎(無給士、家禄49石余)の所有であったのでかなり大きい建物であって、畳の間11室の他板の間、物置、土間がある。
茶室は明治時代の増築であるが、その他は原形をよくとどめている。
松陰は天保元年(1830)近くの東光寺山のふもと団子岩に百合之助の二男として生まれ、一家は嘉永元年(1848)松本清水口の親族高洲家に同居し、さらに嘉永6年松本新道のこの借家に移った。
百合之助は天保14年(1843)以来、百人中間兼盗賊改方という役(現在の警察署長に相当)に任せられていたが、松陰刑死後の万延元年(1860)松陰に対する監督不行届きの故を持て逼塞に処せられ、次いで退隠を命じられたので、長男梅太郎(民治)が杉家を継いだ。
松陰は安政元年(1845)野山獄で「二十一回猛士説」を書いてから、「二十一回猛士」の別号を用い、また「二十一回叢書」をまとめている。
「団子岩の杉家墓地にある墓には遺言により表に「松陰二十一回猛士墓」と刻まれ、生前四猛を実践した、すなわち脱藩東北遊歴は杉家の清水水口時代、外防建白書提出、海外渡航計画、老中間部詮勝要撃策はいづれも杉家の新道時代のことであった。』(抜粋終わり)
「四猛を実践」の意味はわからないが、孟子の教えの実践を指すのかと思ったが、その場合は「四孟」である。
「猛々しいことの4点」とは何のことだろうか。
文脈から見ると、「野山獄に入ってから四猛を実践した」と読める。
すでに述べたことだが、二十一回は「吉田」の文字を筆毎にばらして組み合わせ直したものである。
松陰自身を指す。
萩の地名で私の中に大きな混乱が生じている。
それは「椿東」という地名が指す場所が3~4km離れたところに2箇所あるからだ。
ひとつは、松陰神社境内にある松陰幽囚旧宅の所在地を萩市大字椿東と表記している。
もうひとつは地図にもはっきりと書いているが、椿東という地名が松陰神社の北方3~4kmのところ、笠山入口の半島のくびれにある。
ここも萩市椿東という。
私は松陰神社境内にある杉家旧宅というのが、笠山入口にあったものを神社境内へ移築したものと思っていた。
その前は、神社の東の山の中腹にある椎原の生誕地の家屋を下へ降ろして移築したものとばかり思っていた。
ところが、神社内にある旧宅説明を読むと旧宅は「松本新道」にあったと書いてある。
「嘉永元年(1848)松本清水口の親族高洲家に同居し、さらに嘉永6年松本新道のこの借家に移った。」とあるから、一時期は借家住まい、後に神社境内のこの借家に入ってそこで幽囚されたということになる。
前の記事に抜粋した説明文には、旧宅住所を「所在地 萩市大字椿東字新道」と書いてあるから、松本新道が椿東の中にあることになる。
ならば、笠山入口の椿東と神社周辺の椿東は同じ地区名なのであろうか。
いずれも松本川東岸になるが、南北に4kmほどの広がりを持つ広い地域を指す地名ということになる。
萩市椿東の〒は758-0011である。
これでgoogle mapを見ると、笠山入口の椿東地区と松陰神社のちょうど中間点を指している。やはり、南北に長い地名だったようだ。
萩で「椿東」といっても、いささか広うござんすということなのだろう。
文久年間に苗字を藩から許されるまでは吉田稔麿は「吉田稔丸」と称していたそうだ。
彼の紹介文の中に「松本新道」について詳しく出ていた。
『松陰神社を出て左に曲がり、そのまま神社の壁沿いを歩いて行くと、道はやや上り坂な、 くねくねとした道になります。
江戸時代には、この道を松本新道と呼んでいました。
この松本新道を少し歩くと、一般住宅の前に、石碑があります。
石碑には、吉田稔丸誕生地と書いてありますが、古い書き方では吉田稔麿と書きます。
吉田稔麿(よしだとしまる)は、 1841年(天保十二年)に生まれました。
吉田松陰とは親戚関係ではありません。
幼い頃から、近くの寺に遊びに行くと、お経を覚えるくらいの神童だったそうです。
しかし、父親は、「又書物を見るか、学問すると役目の妨げになる、止めろ」と 書物を取り上げていたそうです。
父親は、足軽の身分でした。
江戸時代の身分制度では、 いくら神童でも、士(さむらい)の家に 養子に行かない限り、藩校明倫館で学ぶことはできません。
学問が好きだった稔麿は松下村塾に入り、松陰に学びます。
吉田松陰は、もともと、身分の違いに疑問を感じていた人でした。
ですから、学びたい人は誰でも松下村塾に入れます。
稔麿の優秀さは、松下村塾門下生の中でも群を抜き、 高杉晋作・ 久坂玄瑞と、松下村塾の 三秀(さんしゅう)と言われていました。
萩藩では、幕末になると、足軽や中間の身分でも 優秀な者は士(さむらい)に昇進することができました。ただし一代限りです。
稔麿も萩藩の士(さむらい)となりましたが、 1864年(文久四年六月五日)、京都の池田屋という旅館で新選組に襲われた傷がもとで、 二十四歳の若さで亡くなりました。
息子を亡くした母親は、「稔麿は私にやさしくしてくれました。
『母様が下駄の緒をしっかり結んで下さったから、大変歩きやすくて、長旅にも少しも疲れませんでした。』と、手紙に書いてありました。」と語っていたそうです。』
(「吉田稔丸(よしだとしまる)誕生地」より)
http://www.hagi.ne.jp/kanko/shouin_03.html
椿東地区は親孝行の子が多かった。
近親者への講義~長州(114) [萩の吉田松陰]
SH3B0459吉田松陰幽囚旧宅の説明板
SH3B0461幽囚室
旧宅の前に板に墨書した案内板があり、それを抜粋している途中で「萩市大字椿東」のところから横道へそれた。
横道といえば確かにそうだが、萩訪問の目的を達成するほどの重要な示唆を得られた。
引き続き説明文を抜粋しよう。
『国指定史跡
吉田松陰幽囚の旧宅
所在地 萩市大字椿東字新道
指定年月日 大正11年10月12日
説明
この建物は、吉田松陰の父杉百合之助の旧宅であるが、はじめ家禄49石余の親族瀬能家から借りたものでかなり広い。
松陰は伊豆下田港で海外渡航に失敗して江戸の獄につながれ、ついで萩の野山獄に移されたが、安政二年(1855)許されて実家へお預けとなり三畳半一室に幽囚されることになった。
ここで父兄や近親が松陰の講義を聞き、やがて入門者が増えて私塾の形態ができるようになった。
この講義は安政4年松下村塾に至るまで1年半ばかり続けられた。
松陰は安政5年老中間部詮勝の要撃を企てたために、野山獄に再入獄前の約1月間再びここに幽囚される身となった。 萩市教育委員会』(抜粋終わり)
安政元年 下田密航失敗、野山獄へ
安政2年 実家預かり、父兄や近親に講義
安政4年 第2期松下村塾開講
1年半もの間、この三畳半一間の幽囚室で家族と親族を相手に講義をしていたのだった。
その間、おそらく百合之助もお瀧も、松陰が目指す国家像を把握できていたのではないかと思われる。
それは後の松下村塾開講前の準備運動にも見える実家の幽囚室での講義だった。
その実家は先に述べた萩の北東郊外にある椿東地区にあったのである。
SH3B0461幽囚室
旧宅の前に板に墨書した案内板があり、それを抜粋している途中で「萩市大字椿東」のところから横道へそれた。
横道といえば確かにそうだが、萩訪問の目的を達成するほどの重要な示唆を得られた。
引き続き説明文を抜粋しよう。
『国指定史跡
吉田松陰幽囚の旧宅
所在地 萩市大字椿東字新道
指定年月日 大正11年10月12日
説明
この建物は、吉田松陰の父杉百合之助の旧宅であるが、はじめ家禄49石余の親族瀬能家から借りたものでかなり広い。
松陰は伊豆下田港で海外渡航に失敗して江戸の獄につながれ、ついで萩の野山獄に移されたが、安政二年(1855)許されて実家へお預けとなり三畳半一室に幽囚されることになった。
ここで父兄や近親が松陰の講義を聞き、やがて入門者が増えて私塾の形態ができるようになった。
この講義は安政4年松下村塾に至るまで1年半ばかり続けられた。
松陰は安政5年老中間部詮勝の要撃を企てたために、野山獄に再入獄前の約1月間再びここに幽囚される身となった。 萩市教育委員会』(抜粋終わり)
安政元年 下田密航失敗、野山獄へ
安政2年 実家預かり、父兄や近親に講義
安政4年 第2期松下村塾開講
1年半もの間、この三畳半一間の幽囚室で家族と親族を相手に講義をしていたのだった。
その間、おそらく百合之助もお瀧も、松陰が目指す国家像を把握できていたのではないかと思われる。
それは後の松下村塾開講前の準備運動にも見える実家の幽囚室での講義だった。
その実家は先に述べた萩の北東郊外にある椿東地区にあったのである。