松陰を萩に生ましめた村田清風~長州(138) [萩の吉田松陰]

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石船温泉露天風呂
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石船温泉の地図
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SH3B0543早朝の鹿野の渋川
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SH3B0544上流
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SH3B0545下流

萩から瀬戸内海へ出ようと走っていて、山中で夜を迎えた。
夕べはとにかくコンビニで下半身に浴びた冷やし中華の汁を洗い落としたくて慌てて温泉へ飛び込んだ。
料金は市外の人は 600円だった。

露天風呂は山の緑が広がっていて、なかなか落ち着いた静かないい風呂だった。

ここは山口県周南市鹿野上1667-4である。
ここの漢陽寺は大内氏16代弘世が創建したというから、大内氏ゆかりの地である。

ザビエルも遊びに来たことがあるだろう。

「中国自動車道の鹿野インター最寄」と言った方が都会の方にはわかりやすいだろう。

山陰と山陽の真ん中あたりである。

露天風呂の中で萩の記憶を辿り、翌朝渋川を散歩しながら松陰と村田清風の関係を整理しようとした。

二人には短くも濃い接触があった。
およそ20年後に、持病の通風が悪化して村田清風は逝った。

松陰は詩を書いてその死を嘆いた。

「今日訃ヲキイテタダ錯愕ス。満窓ノ風雨、夢茫々タリ」

松陰26歳のとき、清風73歳のときであった。

村田清風の自宅があった萩市三隅町の方の寄稿文に、私が探していた二人の関係を取り上げたものがあった。

二人が接触したほんの10年間の出来事を総括してくれていた。

これが私が萩へ探しにいったものであったように思う。

両者ともにキリシタン人脈を持っていたと私は推測している。
信者であったかどうかは不明であるが、西洋情報の仕入先として隠れキリシタンが宣教師を通じて入手する海外情報は諜報作戦上最高級に属するものであろう。

兵学者松陰がそれを見逃すはずがない。

『触れ合い響き合(松陰と清風)
                        三隅町  平川 喜敬
 
昔から帝王や為政者の在り方を説き、またその輔佐の道をも説く帝王学と呼ばれる学問があった。

わが国には、古く中国から移入され、歴代の天皇はじめ藩政期の藩主や、輔佐の任にあたる政経家学者らの治世のよりどころとされてきた。
 
「貞観政要」や「資治通鑑」などは、松陰や清風の時代に心ある指導者必読の書とされたものである。

これらの書には、昔から中国の優れた統治下に於いては、諌議太夫という職制を置き、お上にある者は求諫の手をさしのべる責任があり、下に仕える者は納諫の義務があると説いたのである。
 
身分統制という縦の系列厳しい封建体制の中で、お上に意見苦言を訴え、政治のやり方まで改めさせようということは、命をはってかかる程の重大事であった。

この小文では、松陰と清風をその角度からのみ取り上げてみたいと思う。
 
天保元年松陰誕生のとき48歳、すでに清風は財政に通じたやりての政治家であった。
13代藩主敬親が襲封し、財政改革の御前会議あった。

清風は七箇条の精魂こもる建白をした。

松陰は、厳しい政局の中で清風に面識を持ち、漸くその意見を傾聴しようかとするころであった。
 
老志士清風が、確信の風雲児松陰に大きい期待をかけ、あつい眼差しで声をかけていくのは、清風没前の10年間ばかりのことである。
 
嘉永元年、松陰最初のオリジナルは明倫館学制の大改革についての意見書であった。

清風は勿論その時、国老益田元宣とともに明倫館再興学校惣奉行の要職にあった。

清風自身も積極意見の士であり、藩主敬親とのコンビによる「言路洞開」重視の構えは、松陰の力説する「聴政」の構えと全く揆を一にする、実践帝王学の発想であった。
 
この二人の触れ合いの10年間は、長州藩の明るい明日への命運を開くべく、共に命をはってかかる言論文筆活動の時代でもあったのである。
 
清風は恐れを知らぬ辣腕(らつわん)の老志士、松陰は利鎌の如き情熱の志士。

維新から維新後まで響く如く長州藩の政局を切り開き、その基本姿勢づくりに与えた影響は、危機意識に燃えて実践帝王学の具現化に挺身したこの二人に負う所大なるものがあった。
 
ペリー来日をその目で鋭く観察して、その足で長州藩江戸屋敷にとって帰し、火の玉の如き危機感を込めて提出したのが、有名な松陰の「将及私言」と「急務條議」であった。

その中で松陰は、国家の政治体制根幹に触れることを言ってのける。

迷運を吹っ切る如き「天下ハ天朝ノ天下ニシテ乃天下ノ天下也幕府ノ私有ニ非ズ」というのがそれである。
 
そして、「憎ム可キ俗論」として、「江戸ハ幕府ノ地ナレハ御旗本及ビ御譜代御家門ノ諸藩コソ力ヲ盡サルヘシ国主ノ列藩ハ各其ノ本国ヲ重ンスヘキコトナレハ必ズシモ力ヲ江戸ニ盡サスシテ可ナリ」を指摘するのである。

それは、愚蒙頑迷に対する痛烈なる批判と藩政庁の腰の入れ方についての怒りの声であった。
 
さらに、松陰は「聴政」の段にて、政務の非能率とマンネリをつき「宵衣?食」を訴える。

宵?(しょうかん)とて、君主政堂は旦夕政務に精励すべきことを堂々と発言し、「直諫」の段にては、近来直諫の風儀が地を払うが如く衰微して来たことは世も末である。

急ぎ内外に言路を開き、上言したき者に対しては、深夜と雖も出座してその言を傾聴すべきであるという。
 
お上こそ率先謙譲の美徳を発揮し、先ず何より「賢人を求める」姿勢に徹すべきである。面従腹背の徒は「口を箝(かん)して」語らざらしむるところに生じる現象であると痛感する。

さらに大事なことは道徳に於いても正義に於いても東洋は優れているが、科学技術においては、素直にそのおくれを認め西洋に学ぶべきとして、「砲銃」「船艦」「馬法」について改革の急務を説く。

なお「将及私言」に併せ「急務條議」として、具体的な政局の打開策、防備の改善点を説いたのであった。
 
これと前後し、清風は「遼東の以農古」「海防」「物頭心得」と矢継ぎ早に上書する。

清風はその中で、「扶桑開国以来ノ大変也」として、智力勇力財力等各々持てる力を発揮して外夷防禦の国用に供すべしと老志士の心胸を吐露し、「時乎(ときか)今なり、勢いは在上よりすべし、千言万句も身親ら行うにあり」と喝破する。

さらに「某氏意見書」に於いては、条理を尽くして善政の在り方を説くのである。
 
ついで、「野に遺賢無く、言路開けて嘉言伏す」ことなく、「天下国家の善言佳猷皆上に達し、天下諸侯の賢智謀議の助けとなり、遍く四聴を達」し得てはじめて国家繁栄安寧であるともいうのである。
 
松陰と10年間に及ぶ思想内容の中には、藩を大切にしながらも、藩を超えて、「統一国家の形成」を目指さねば「扶桑以米大変」のこの危局は乗り切れないとする危機意識と、具体的な政局の打開策に於いて、多分に揆を一にして響き合う点の濃厚なるものあるを感じざるを得ない。
 
清風の訃報に「大恩師逝きたり、嗚呼」と名山獄に悲憤慷慨の涙をのんだだけ、松陰の危機意識と難局打開についての論法は老志士清風の其れより更に一層深刻であることを思わないわけにはいかない。 』(「触れ合い響き合(松陰と清風)」より)
http://www9.ocn.ne.jp/~shohukai/syoumon/4gou.htm#hureaihibikiai

松陰がいた名山極は、野山極の間違いであろうが、地元の方は別の言い方があったのかも知れない。

「大恩師逝(ゆ)きたり、嗚呼(ああ)」

これほどに、松陰は村田清風の恩を受けて育っていたのだった。

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